2017.2 坂戸の多和目天神社へ参ってきました。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ~♪
・天神信仰(てんじんしんこう)は、天神(雷神)に対する信仰のことである。
・特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。
・本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天神
(てんまんだいじざいてんじん)という神格で祀られ、つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に
祀られていた火雷神と結び付けて考えられ火雷天神(からいてんじん)と呼ばるようになった。
・後に火雷神は眷属として取り込まれ新たに日本太政威徳天(にほんだいじょういとくてん / にほんだじょういとくてん)
などの神号が確立することにより、さらには、実道権現(じつどうごんげん)などとも呼ばれ、『渡唐天神』『妙法天神経』
『天神経』など仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まった。
・平安時代末期から鎌倉時代にかけて、怨霊として恐れられることは少くなった。この時代では慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、
和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として信仰されるようになっていた。
また、貿易商から海難除けの神、皇族ほか歴代幕府・戦国大名などの武将達には、怨敵調伏・戦勝祈願・王城鎮護の神として信仰
された。
・江戸時代以降は、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、学問の神として寺子屋などで盛んに信仰されるようになった。
近代に入ると、天皇への忠誠心を説く為に、忠臣として教科書などでとりあげられた。
・元々の火雷神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから
農耕の神でもある。各地に火雷神と同様の伝承で天神が祀られていたが、道真が天神さま、天神さんなどとよばれるようになり、
各地で祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。
・天神(道真)を祀る神社は天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州や西日本を中心に約一万社
あって分社の数は第3位である。by wikipedia
というわけで、天神社や天満宮は学問の神様だけだと思っていたら、時代時代で様々な信仰に変化してきたわけですね。
木製そのままの鳥居が良い感じです。
拝殿
素朴で美しい拝殿は、土地神様、農耕の神様主体のように感じられました。
拝殿右側に鳥居と祠が・・・奥に巨木が・・?
カゴノキでした。
スゴイ幹の模様です。「鹿の子木」確かに鹿の模様に似ていますね。
沖縄、四国、九州の温暖な地域の樹木が何故、この地にあるのでしょう?樹齢800年!!!
関東地方第一(2011.5現在、環境省巨樹データベース)のカゴノキの巨木のようです。
まだまだ、とても元気そうです。生命力がみなぎっていました。常緑喬木。
天神社は九州、西日本を中心に多いようなので、そちらから持ち込まれたのでしょうか?
斜め後ろから・・・祠の裏に何か・・・
繭額でした。
鎌形八幡神社繭額が奉納されていましたね。この辺りでも養繭農家が多かったのでしょうね。
本殿とカゴノキ
大杉跡
どうやらスギの巨木もあったようですね。ググってみると、「この天神社には多和目の大杉と呼ばれるスギがあった。
県天然記念物で、幹周:9m、樹高35m、樹齢950年で途中で2本に分かれている姿から夫婦杉と呼ばれたが、
伊勢湾台風の時に先端10m程が折れ、その後樹勢が弱まり1981年には伐採されてしまった。」との事です。
境内の左側に変わったお堂がありました。
お堂の中には女性の像が・・・。吉祥天女様でしょうか?いろいろと調べたのですが良く分かりません。
ただ、京都の吉祥院天満宮の吉祥院に菅原清公卿、菅原是善公、伝教大師、孔子と共に吉祥天は祀られているようです。
菅原道真公の幼名の一つは吉祥丸。道真の祖父清公の遣唐使霊験譚以降、菅原家は代々吉祥天信仰になったという。by wikipedia