「・15のライフレッスンbyキューブラーロス」カテゴリーからの投稿です。
現在では地球の何処にいても、その場所の正確な時刻を知ることができますが、時
刻の計測は19世紀の半ばまで、かなりずさんなものでした。1883年、アメリ
カとカナダの鉄道が、標準時間帯システムを採用したのですが、これは当時、あま
りにも人為的なものだと考えられ、多くの人が時間帯や標準時という制度は神を冒
涜するものであると感じていました。
時間は便利なものではありますが、「一つの連続体上の二点を分ける感覚」に過ぎ
ません。誕生は始まりのように見え、死は終わりのように見えますが、実はそうで
はありません。誕生も死も一つの連続体上の一点でしかないのです。
時間の感覚は、人によって明らかに差があります。私たちは普通、変化を好みませ
ん。しかし、好むと好まざるとに関らず、物事は変化してします。変化に抵抗しよ
うとする人は、自分の人生そのものに抵抗している事になります。必要なのは変化
に乗じる事、少なくとも、変化を受け容れることです。
「お幾つですか?」と尋ねる人は、過去を利用して相手の評価基準を決めようとし
ています。私たちは、今の相手を在るがままに見ようとせず、相手を過去の総計と
して見ようとしているのです。
私たちは、なかなか現在の目で他人を見ようとはしません。それは自分に対しても
同じです。ほとんどの人は、今の真の自己を見ようとせず、過去の自分や、そうな
りたかった自分としての自己を見ています。
現在の両親をあるがままに見ている人がどれくらいいるでしょうか?子どもの頃の
両親のイメージを払拭するのは、かなり難しい事です。
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面白いですよね。人や物事が時間で縛られる・・・それが神を冒涜すると感じる時代。
人や物事がコントロールされるとしたら、権力者や神が表現する天変地異しかなかった
時代だったからなのでしょう。
誰もが安定を求めます。良い状態、状況がいつまでも続けばと願います。しかし、一箇所
とどまることはできません。歌にもでてきますね、荒波にもまれて・・・風に吹かれて・・・と。
初対面の人や、よく知らない人に近づこうとするとき、自分との共通項を探そうとします。
「どちらから来られたのですか?」などなど。「お幾つですか?」とか「お子さんは?」など
は、最近では特にプライベート(個人情報?)に配慮して、あまり聞くことはなくなりました
けれど。同性なら年齢を聞くことにさほど違和感はありませんが。
よく知っている人や長く付き合っている人のイメージは、固定されがちです。「昔はこう
だったから誘っても無駄だろう」とか、自分の親ならば、「どうせこう言うと怒るだろう、許
してもらえないだろう」とか。また、初対面の人にも、話のキャッチボールがうまくいってい
れば、その事実だけを評価、認識すればいいのに、「自分より若いかな」とか、「どんな仕
事なのかな」とか「どんな道を歩んできたのかな」とか詮索したくなります。
自分に対してもそうですね。苦手意識が固定されてしまっていて、「どうせ、できないに
決まっている」とか・・・。過去の苦い出来事や固定されている得意・不得意に照らして、
自らをその檻の中に入れてしまいます。
人に対しても自分に対しても、過去に囚われず、今そのときを生きられるようになれば、
そして、まず一番先に頭に浮かんだこと(ポジティブ方向の)にフタをせずに(これをして
みたい!と思った直後に、いや私には無理だ・・と思ったことのある人は多いでしょう)
実行・行動に移すことができれば、無限の可能性を見出すことができるのかもしれません。