学会も終了しました。文字通り終わりでした。人に説明したり、質問されたり、何だか力んだ分、適当になって行くわたし。はぁ、もういいんです。毎回、あの異様な空間と人ごみに飲まれて、漸くそう言えば、いつもこんな感じなんだよな~、と思い出すも、何も対策を考えていないので、どうしようもなく、ただ流れて行くんですよね…。クリティカルな質問でもないのに、オロオロしたりで、何だか大変でした。でも、有益な情報を貰ったり、議論したりで、今までの学会に比べると、とても有意義なものになりました。ほんとうにいい人は、いい人です(日本語変ですけど)。
さて、読書ですが、ロダーリの「猫とともに去りぬ」(光文社古典新訳文庫)を読了。広義のファンタジーと言っても、たまにSFもありの、ユーモアたっぷりのお話が16篇でした。こういった作品が読めるというのも、この新訳文庫の価値ありってもんです。で続いて、ケストナーの「飛ぶ教室」(同)を読む。まだ途中なんですけど、前に読んだ時も、じわっと来る所で、涙腺が緩んでしまいました。悲しくない悲しくない。でも、第6章である生徒が言う言葉、
「教師には、とんでもない義務と責任がある。自分を変えていく力を失くしちゃダメなんだ。…ぼくらを成長させようと思うんだったら、教師のほうだって成長してもらわなきゃ。」
に思うこと少し、ありました。というのも恣意的あるいはそうではないかは別にして、最近の教育の問題に絡めて、「愛国心」や「教育に対する国の関与の明確化」といった事を盛り込むよう、教育基本法を改正するという流れになっています。確かに、古いルールを新しいものにするという意義は分かるのですが、では既存のルールを守っているかというと、決してそうではないというのに、新しいルールを作れば、それにみな従うというのでしょうか?論点として、どこか違和感を感じます。既存のものと新しいものを比べると、新しいものの方がよいという意識がどこかにあって、既存のものが悪いという風に決め付けてしまっているような気がします。果たして、既存のものが悪いのか?むしろ、既存のルールの上に、別のルールを置いているためではないのでしょうか?何かを悪者と決め付けるのは至極簡単ですが、そうすれば、見なくていいものを見ないで済むと思っているのではないでしょうか。○か×か、白黒付けて見る事が、危険です(ただし、はっきりとグレーはないと言えます)。白も黒もどちらも理解した上で、臨機応変に違った角度から色んな色で見る必要があるのではないでしょうか。それこそが、どんな変化でも受け入れるべき教師の姿や態度、立場なのでは。学校側の態度を見る限り、あまりにも頭が硬すぎる、と思えることばかりです、ほんと。「悪いことは悪い」、「良いことは良い」。それらをまず考え直して欲しいです。もちろん、それが誰にとってなのか?そしてそれが誰のためなのか?ということが肝要です。
長々と書いてしまいしたが、この問題に関しては、教育改革などと言われているのを聞く度、何か違和感を感じていたので、ついつい。(改革するべきは、他にもっとあるじゃろうがー)でも、もう一言だけ言うと、変化していく項も必要だけど、ベースになる初期値(志)の方も忘れて欲しくないです。
教師としてのわたし = 志 + ⊿/⊿t(±の経験値、知識、情報etc)
tは時間。こんな感じですかね。理想は。変わる部分も必要だけど、変わらない部分も必要だってことです。これは、別に教師に限ったことではないと思いますが…。
さて、読書ですが、ロダーリの「猫とともに去りぬ」(光文社古典新訳文庫)を読了。広義のファンタジーと言っても、たまにSFもありの、ユーモアたっぷりのお話が16篇でした。こういった作品が読めるというのも、この新訳文庫の価値ありってもんです。で続いて、ケストナーの「飛ぶ教室」(同)を読む。まだ途中なんですけど、前に読んだ時も、じわっと来る所で、涙腺が緩んでしまいました。悲しくない悲しくない。でも、第6章である生徒が言う言葉、
「教師には、とんでもない義務と責任がある。自分を変えていく力を失くしちゃダメなんだ。…ぼくらを成長させようと思うんだったら、教師のほうだって成長してもらわなきゃ。」
に思うこと少し、ありました。というのも恣意的あるいはそうではないかは別にして、最近の教育の問題に絡めて、「愛国心」や「教育に対する国の関与の明確化」といった事を盛り込むよう、教育基本法を改正するという流れになっています。確かに、古いルールを新しいものにするという意義は分かるのですが、では既存のルールを守っているかというと、決してそうではないというのに、新しいルールを作れば、それにみな従うというのでしょうか?論点として、どこか違和感を感じます。既存のものと新しいものを比べると、新しいものの方がよいという意識がどこかにあって、既存のものが悪いという風に決め付けてしまっているような気がします。果たして、既存のものが悪いのか?むしろ、既存のルールの上に、別のルールを置いているためではないのでしょうか?何かを悪者と決め付けるのは至極簡単ですが、そうすれば、見なくていいものを見ないで済むと思っているのではないでしょうか。○か×か、白黒付けて見る事が、危険です(ただし、はっきりとグレーはないと言えます)。白も黒もどちらも理解した上で、臨機応変に違った角度から色んな色で見る必要があるのではないでしょうか。それこそが、どんな変化でも受け入れるべき教師の姿や態度、立場なのでは。学校側の態度を見る限り、あまりにも頭が硬すぎる、と思えることばかりです、ほんと。「悪いことは悪い」、「良いことは良い」。それらをまず考え直して欲しいです。もちろん、それが誰にとってなのか?そしてそれが誰のためなのか?ということが肝要です。
長々と書いてしまいしたが、この問題に関しては、教育改革などと言われているのを聞く度、何か違和感を感じていたので、ついつい。(改革するべきは、他にもっとあるじゃろうがー)でも、もう一言だけ言うと、変化していく項も必要だけど、ベースになる初期値(志)の方も忘れて欲しくないです。
教師としてのわたし = 志 + ⊿/⊿t(±の経験値、知識、情報etc)
tは時間。こんな感じですかね。理想は。変わる部分も必要だけど、変わらない部分も必要だってことです。これは、別に教師に限ったことではないと思いますが…。