幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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浮生なる人生のすがた~白骨の御文章・解説3~

2014-12-15 | 

http://masaoosajima.com/wordpress/item/bereavement/hakkotu03/


今日から『白骨の御文章』の本文に入っていきたいと思います。



冒頭で、人間の生きざまを【浮生なる相】(ふしょうなるすがた)と書かれて

あります。


【原文】

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しっちゅうじゅう)、幻の如くなる一期(いちご)なり。




「浮生」とは、「浮いた生」ですから、

根っこがない、

根拠がない、

根なし草のような人生、

ということです。



あなたも感じられたことがないでしょうか。


身近なところからいきますと、



ソフトクリームを落とし、まるで白い血が飛び散ったようになってしまった

深爪した

ドアに指を挟んだ

サイフを落とした

裁縫をしていて、針を誤ってさして指からプックリ赤い血の玉が顔をのぞかせ

チクチク痛んだ

うまくいったと浮かれていたら大事な書類を忘れてしまった

素敵な恋人が出来たと思ったら、二股かけられていた


などなど


私も小学生の時あったことが忘れられません。

運動会の昼休み、ハラペコを抱えながら弁当を開きました。

母親の弁当はいつもおいしく見栄えも鮮やかだった。

「おお! 今日のもおいしそう」

弁当箱を膝の上にのせ、箸を取り出す。


その時、事件はおきた。

友人の足が私の弁当箱にコツンと当たり、

まるでスローモーションのように弁当箱が半回転して、

まともにひっくり返った形で地べたに落ちたのだ!

ベートーベンの『運命』が鳴り響く。



茫然とむざんな弁当箱のうらっかわを眺めていると

一部始終を見ていた教師は

「わざとじゃないんだから許してやれ」

と一言。

友達は

「ごめん……」

と気まずい顔で一言。


「同情するなら飯をくれ!」

と叫びたかったけれど、当時シャイだった私は、何も言い出すことができなか

った。

楽しいはずの運動会が一瞬のうちに暗黒と化し、無常の世界を垣間見た一コマ

でした(; ;)




新聞やテレビのニュースを見ても、そう実感します。


津波

噴火

極地豪雨

大寒波

通り魔

エボラ出血熱


交通事故



人災、天災の大きなものは言うまでもありません。


また、遠くの大事件より、身近な無常の方がなぜか切々と感じるもの。



ペットが死んでしまった。

ファンだった芸能人が亡くなった。

大好きだったお爺ちゃん、お婆ちゃんが亡くなった。




考えてみれば、色あせることも失われることも絶対にないものなどあるでしょ

うか?



 人生はちょうど、水平線しか見えない大海原を、あてどもなくさまよってい

るようなもの。


 何かにすがらずは生きていけない様は、浪間に浮かぶ、丸太や板切れにすが

りつくのと同じ。

丸太や板切れとは、健康やお金、地位や名誉など。

すがるとは、それらをあて頼りにすることです。


常に何かをあて力にしなければ、私たちは生きてはいけません。

 妻は夫を、夫は妻を力とし、親は子供を頼りにし、子供は親をあて力にして

生きています。

その他、自分の体や命、財産や金銭、家や名誉や社会的地位など、何かをあて

力にして人は生きているのです。

丸太や板切れはすがった時には、一時、ヤレヤレとほっとしますが、やがて波

にのまれ、くるっと回って裏切ります。

いつまでも安心、満足を与えてはくれません。浮いているからです。

金や名誉や地位も、手に入れた時は、つかの間、私たちに安心満足を与えてく

れますが、長くは続きません。やがて色あせ、私たちのもとから離れていくあ

て頼りにならなくなります。

 例えば、医者にかかったことがないという健康自慢の人が、たまたま受けた

健康診断で末期ガンにかかっていたという話は珍しくありません。

健康も丸太だったのです。

妻や子を不慮の事故や病で亡くし、泣いている人は家族という丸太につかまっ

ていたのに、波にのまれてしまった人でしょう。

 ○○会社の課長だ、部長だと言っていても、突然のリストラにあって苦しん

でいる人は、枚挙にいとまがありません。定年まで勤め上げても、退職と同時

に見向きもされなくなる。これは地位という丸太に裏切られたのです。

 浮いたものにすがっては、裏切られる。そこでまた、別の丸太を求めてすが

る。どこまでいっても苦しみ続けて、死んでいく。そんな姿を、蓮如上人は、

「浮生なる相」とおっしゃっているのです。


こんな苦しみの人生の海を、蓮如上人の先生である、親鸞聖人は主著『教行信証』の冒頭に「難度海(なんどかい)」と著されています。


渡ることが難しい、苦しみの海のようなところが人生だ、ということです。


その難度海を明るく楽しく渡しきる大きな船を教えたのが仏教であり、『教行信証』には、「難度海を度する大船」と表現されています。

このことはまた後からお話ししたいと思います。

長くなりましたので、今日はここまでとし、続きは次回に致します。


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