幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


自著『第3の幸せ』【60ページ無料プレゼント中】         

お釈迦さまに学ぶ【こころの終活】幸せになれる終活と不幸になる終活

2018-01-02 | 

「終活」といいますと、


イメージするのが


・お墓を探す

・エンディングノート(もともと「遺言ノート」といわれていた)を書く

・お葬式の形式を決める

・財産や相続について考えておく

・身の回りの身辺整理



といったものでしょう。

たしかに、「相続」が「争族」になったりするのは嫌ですから、

このようなことも大事ですよね。


でも、もっと本質的なところに踏み込んでこそ真の『終活』ではないでしょうか?


つまり【こころの終活】です。

ちょっと難しい言葉でいえば、「死生観」を養うことであり、

別の言葉でいえば「死考力(しこうりょく)」をつける、ということです。



日本人の国民性調査によりますと、死後の世界について次のような結果が出ています。


死後の世界を信じる人

1958年……20%


2008年……38%


2013年……40%



と、死後の世界を信じる人が確実に増えており、55年で倍になっています。


死んだらどうなるのか、そもそも「死」とは何なのか、

かなり哲学・思想レベルになりますが、このようなことを学んでおくことが必要です。


現時点では、あまりに死についてちゃんと学ぶ機会が少ないため、

インチキ新興宗教に騙される人が後を断ちません。

最近広がてきた「死生学」もほとんどがキリスト教を元にしており、

いまだかつてクリスチャンが人口の1%を超えたことがない日本(これを1%の壁と言われている)においては、

ちょっとどうかと思います。



もともとは無常観を説く仏教が根づいており、

武士道においてでも死生観は非常に重視されていますから、もともと日本人は死生観が深いはずなのです。

そういうことも含めて今一度、死を通して人生を見つめなおすことが大切でしょう。


実際、身辺整理をし墓を用意したからといって、死の不安がなくなるわけでもなければ、

死の問題が直接解決するわけでもありません。


大事なのは、死の根本問題に取り組むこと。


仏教が教える死の一大事の解決は、

気が小さいとか、臆病だということは全く関係ありません。

問題はまったく別の部分にあったのです。


想像してみて下さい…あなたが死の克服をした姿を

最大の問題を解決すれば、あとはすべて小事です。


ここで一つプレゼント。


「生と死」をテーマに描いた物語、

『フライザイン~真に自由な心を求めた僕と彼女と妹の物語~』

です。


150以上の哲学・思想の中から大事な部分だけが分かりやすく理解できます。


余命一カ月の愛する人を助けたい天才哲学女子大生と

自殺未遂の妹を助けたい男がキャンパスで出会いドラマは急展開していきます。

ストーリーラインに乗せているので、難解な哲学・思想も理解しやすいですし、

最後まで読み通すことができると好評です。





ではまた。


死生学でよく知られる「代表的な9つの死への恐怖」とは?

2015-01-24 | 

死への準備教育」(デス・エデュケーション death educatio)なるものがあります。

この教育を通して、「死」、「限りある命」、を見つめ、「生の尊厳」「命の尊さ」などを考えることが多いようです。

ドイツのアルフォンス・デーケン教授(Alfons Deeken)は、
「生と死を考える会」を作り、1982年頃から、この「死への準備教育」を提唱し始めました。

「死を見つめることは、生を最後までどう大切に生き抜くか、自分の生き方を問い直すことだ」と、デーケン教授は提唱し、特に、余命を宣告された人の心のケアの重要性を訴えています。

また、「死のタブー化」により、人生最大の問題である「死」と前向きに取り組む道を閉ざしてしまうことを危惧し、「死」を学ぶ大切さを訴えています。
アルフォンス・デーケン氏があげた、

「代表的な9つの死への恐怖」は、死生学の分野では有名です。


9つの死への恐怖

①苦痛への恐怖

死を前にした人の4通りの苦痛

1.身体的苦痛・・・・・・・痛みや呼吸困難などの体で感じる苦痛

2.精神的苦痛・・・・・・・体が思うようにならない苛立ちや、人への不信感などから来る苦痛

3.社会的苦痛・・・・・・・残される家族への心配や、社会的な役割の喪失にかかわる苦痛

4.霊的苦痛・・・・・・・・・今までの人生の意味や、死の意味を考える事から来る苦痛

身体的苦痛だけにとらわれない、総合的な苦痛の緩和を目指す事が重要といわれています。

特に、「4.霊的苦痛」は重要です。

このことは別の機会にお話ししたいと思います。

 


②孤独への恐怖

人々に見捨てられて、独りぼっちで死を迎えることへの恐れ。
「独生独死(どくしょうどくし)」と仏典に説かれています。
このことも別の機会にお話ししたいと思います。

 


③尊厳を失う事への恐怖(不愉快な体験への恐れ)

まるで物質のように治療され、尊厳を失うことを怖れ、拒否します。
人間として扱われていないことへのいらだち、最後まで尊厳を失いたくないという心です。
キュ―ブラ・ロス氏も、患者を一人の人間として接することの大切さを訴えました。

 


④家族や社会の負担になる事への恐れ

「迷惑かけたくない」という思いの強さから、治療費や看病のためにかかる負担を心配します。
日本では特にこの傾向が強いようです。

 


⑤未知なるものを前にしての不安・怖れ

人は、未知なるものを怖れます。
山奥の古びた真っ暗な館に一人で入らねばならないことを想像すればお分かりになると思います。

「死んだらどうなるか分からない不安・恐怖」の根っこは非常に深く、
この問題は、慰めでは解決つかない問題です。

このことも別の機会に詳しくお話ししたいと思います。



⑥人生に対する不安と結びついた死への不安

社会的に適応できていなかったり、挫折を重ねると、人生自体を否定し、
自分の環境に恨みや恐れを持つようになる事があります。

このような場合、死に対しても強い否定的感情を抱くケースがあります。

 


⑦人生を不完全なまま終わる事への不安

「もっとやりたいことがあったのに」
と、やり残したまま人生を終えることへの不安・怖れです。
「もっと優しく接していればよかった」
「自分の人生を生きてこなかった」
などの後悔が不安や恐れの引き金となるようです。

 


⑧自己消滅への不安

死によって自分が「無」になることへの不安・恐怖です。
かなり個人差があります。

先にあげた四通りの苦痛「4.霊的苦痛」の問題が深くかかわっています。

 


⑨死後の審判や罰・報いに関する不安

キリスト教徒ならば最後の審判(『聖書』によると、この時、今まで死んだ人は一度全員生き返って地獄(煉獄)か天国かの裁きがあるそうです!?)
に対する不安、恐れ。

造ってきた罪から、死後の報いを恐れるなど、「4.霊的苦痛」に関する問題です。



この中で、特に「4.霊的苦痛」と関連が強い

⑤未知なるものを前にしての不安・怖れ

は、慰めや、ごまかしでは解決できない問題であり、

想像以上に深い問題をはらんでいます。

ブログではとてもまとめきれませんので、一冊の小冊子にしました。

現在、無料で提供しておりますので、参考になさってください。

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http://masaoosajima.com/wordpress/item/9/より)


死を語るパンダ!? 「汝自身を知れ」グノーティ・セアウトン(gnothi seauton)

2015-01-13 | 

◆ 死を語るパンダ・ぱんたん のディープ・レクチャー ◆






こんにちは! 死を語るパンダ、ぱんたんです。

今日は、

【「汝自身を知れ」~あなたのすべての行動に共通したものを知る重要性~】

というテーマでお話ししましょう。
古代ギリシャの時代から、

「汝自身を知れ」

グノーティ・セアウトン(gnothi seauton)(ギリシャ語)

といわれます。

※映画『マトリックス』でドアの上の飾り額にも書かれてありました(^^)
インフォメーション
有名な孫子の兵法でも

「敵を知り、己を知らば、百戦して危うからず」

といわれますし、

就活も、「自分自身を知るところから始まる」と教えられますから、

時代を超え、国レベルから個人レベルに至るまで、大事なことは

「自分自身を知ること」

なのです。

それは裏返せば

「分かっているようで分からないのが自分自身」

ということ。
そういう観点で、死に対して自由な心を描いた希有な物語『フライザイン』一章の

47ページ(横書き)を見てみましょう。

※『フライザイン』については、こちら。
 http://masaoosajima.com/gift/miogoo/index.html




「人間だれ一人として幸福を求めないものはない。

幸福を求めるということ以上に、あらゆる人に共通した考えはない」

ヒルティ『幸福論』下7

確かに人は、不幸を厭い、幸せを求めるものだ。
すべての行為はここに行き着く。

だが、そのことをハッキリ意識する人は多くはないようだ。

実際、チグハグな生き方をしていることが少なくない。

金の奴隷になる者。

恋人に振り回され、苦しみの日々を嘗める者。

名声の魅力にとりつかれ破綻する者……。

本当は、金や恋人などが欲しいのではない。

それらを通して「幸せ」が欲しいのだ。

安心、満足、充実といった、喜びを手に入れたいのだ。

(中略)

すべてがこのように、
「なぜ欲しいのか」
「どうして手に入れたいのか」
と尋ねていけば、

最後必ず「幸せになりたいから」にたどり着く。

このことをプラトンは、著書『饗宴』で、

ソクラテスと、ある女性とのやりとりを通して明らかにしている。

 




「あなたは何を求めていますか?」

と尋ねれば、様々な答えが返ってきますが、
突き詰めると「幸福」が欲しいのです。
言葉を変えれば、

「あなたのすべての行動に共通したもの」、

それは

「幸福を求めている」ということです。

(実際に幸せになれるとは限りません。
「求めているもの」が幸福ということです)
つまり、

「汝自身が欲するもの、それは常に『幸福』であることを知れ」

ということですね。

このことを踏まえて、

プラトンの著、『饗宴』を見てみましょう。




幸福になりたい人は、いったい何のためにそうなりたいのかと
さらに尋ねる必要ももはやありません、

むしろ私たちの答えはもうこれで終極に到達したように見えます。
「幸福になりたい」というこの願望とこの愛(エロス)とは
万人に共通なものであり、

またすべての人は善きものを永遠に所有することを願う。





突き詰めればすべての人は幸福、

それも「ずっと続く幸せ」を願っている、

ということですね。

ここにさらに深まった問題が出てきます。

「ずっとづつく幸せ」なんてあるのだろうか?

ということです。

心は移ろいやすく、

世界は日々変わりゆく。

そして最後には

それまでの大前提を覆しかねない
「死」という大津波が押し寄せてきます。
『フライザイン』(横書き)51ページには、こうあります。




ここで、『幸福論』にも二種類あることを把握しておかねばならぬ。

二つは、ある〝前提〟によって分かれる。

前提とは、〝『死』を考えに入れるか、否か〟。

死を考えなければ、『生活の幸福論』。

死を念頭に入れれば、『人生の幸福論』。

同じ『幸福論』でも、内容はかなり違う。
『生活の幸福論』は『よりよく生きる方法』を扱っている。

このような、『生活の幸福論』は分かりやすく、
何をすればいいかもイメージしやすい。

それに対して、『人生の幸福論』の多くは、
難解で、抽象的で、イメージしにくいものだ。

『死』という認識不可能な問題から『幸福』を
論じるのが『人生の幸福論』だから、

そうなるのは仕方がないのかも知れない。

だからといって『人生の幸福論』を無視していい訳ではない。

それどころか『人生の幸福論』こそ重要なのだ。

それは、『日常の幸福』と『人生の幸福』の関係が
分かれば自ら明らかになる。

〝命あってのモノダネ〟と言われるように、
日常の幸福はすべて、命あることが大前提だ。

その大前提となる土台が崩れたら、日常の幸福は破綻する。

つまり、家を建てるには、土台から始めるように、
真の幸福を見出すには人生の土台に着目せねばならぬ。

この土台がグラついていたら、どんな美しい
〝日常の幸福〟という建物も、根底から破綻するであろう。

その土台を論ずるもの、それが『人生の幸福論』なのだ。





「自分自身」を知れば、すべての行動が「幸福」を
求めてのことだと分かります。

しかもその「幸福」は、「続く幸福」であって欲しいというのがすべての人の願いです。

そう考えたとき、

死を無視した「生活の幸福論」以上に、
死を念頭においた「人生の幸福」が大事だと思います。
そういう視点で哲学書をはじめとした学問書を読むと、
多くのものがはじかれます。

150以上の哲学・思想を学んだ上で書かれた『フライザイン』ですが、

「何を書くか」

と同時に

「何を書かないか」

も重要です。

実は、

「知った上で、あえて書かない」

部分が非常に大切なのです。

『フライザイン』はそういう観点で、

どんな面白い話題、評価されている内容でも、

「私自身の幸せ」

と関係ないものは、割愛されています。

これらのことを踏まえて

「汝自身を知れ」

というシンプルな言葉を見つめなおすと、

その深遠さに気づかれるのではないでしょうか?



『フライザイン~死に対して自由な心を求めた僕と彼女と妹の物語』

を読まれたい方は、こちらからどうぞ

 http://masaoosajima.com/gift/miogoo/index.html



ぱんたんまたね




高倉健さんの絶筆は名言なり 死去4日前の手記が「文芸春秋」新年号に掲載

2014-12-11 | 


高倉健死去


11月10日に83歳で亡くなられた俳優・高倉健さん。

死の4日前に完成させた手記が昨日(12月10日)発売された月刊誌「文芸春秋」新年号に掲載されました。

同誌が戦後70年企画として、自身の戦後と映画人生を振り返る原稿を依頼したもので、体調を崩して入院した後も推敲(すいこう)を重ねたそうです。

手記は原稿用紙16枚分。

終戦の日に「人生が変わる一瞬。諸行無常」を初めて味わった経験から書き出し、駆けだし時代の戸惑い、僧侶との交流、映画「八甲田山」(1977年)の撮影秘話などを明かしています。

最後に自身の歩みを

「出逢った方々からの想いに応えようと、ひたすらにもがき続けてきた」

と記し、交流のあった僧侶から贈られた

「往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし」

という言葉でまとめています。



この

【往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし】

という言葉の元は、


『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』というお経にあります。


正確にはこう書かれています。

「たとい身を、もろもろの苦毒の中におわるとも、

 わが行は精進にして、忍びてついに悔いじ」


(たとえどんな苦難にあおうとも、決して後悔はしないであろう)


これは、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に、誓われたお言葉です。

(※菩薩とは、仏のさとりを求める人をいいます)



人は、苦しいことがあると、つい逃げたり避けたりしがちです。


ですが、苦しみから逃げ回っていては、いつまで経っても幸せになりません。

「人生がわかるのは、逆境のとき」

とは、ココ・シャネルの名言。


世に

「三流は逆境に、弱音を吐き、

 一流は逆境に、可能性を語る」


とも言われます。


三流は、逆境に陥ると、こう思い、口にまで出す。


「とても無理だ」

「できっこない」

「失敗したらどうしよう」

その結果、行動はどうなるか。


「やっても無駄」

と勝負を避けたり、


傷つかないよう、手を抜き、

「本気を出さなかったから出来なかっただけ」

と無意識に逃げたり、



おそるおそるやって失敗し

「やっぱりダメだった」

と落ち込む。


気持ちで早、負けているのです。



一流は、無理だと思えるような状況でも可能性を探し、

勝機を手繰り寄せ、果敢に勝負します。



「必ず出来る方法があるはずだ」

「絶対に諦めない」

「まだ勝負はついていない」

「ここからが勝負だ」


そして大きな壁を乗り越える。

たとえ倒れ伏しても、必ず次につなげるのです。

そこに、成長、向上、満足があります。



「苦悩は幸福の一里塚と思い、一層、奮起するようにしよう」

という言葉の通りです。




では、人生最大の逆境とは何でしょう。



それは「死」ではありませんか?


「たとい身を、もろもろの苦毒の中におわるとも、

 わが行は精進にして、忍びてついに悔いじ」

(たとえどんな苦難にあおうとも、決して後悔はしないであろう)


そんな人生を生き抜きたい。


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【訃報】菅原文太さん:『北の国から』の名言「誠意って何かね」と妻・菅原文子さんのコメント

2014-12-02 | 

俳優・菅原文太さんが亡くなった。

代表作は映画『仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズ、『まむしの兄弟』シリーズ。

人気マンガ『ワンピース』の「赤犬」のモデル。
2001年公開の宮崎駿監督作品・『千と千尋の神隠し』で、釜場でボイラーを担当している老人 釜じいの声を演じたことでも話題になった。

死因は、転移性肝がんによる肝不全。
81歳だった。

故郷は宮城県 仙台市。

東日本大震災によって『死生観』を根底から覆されたという。

生き、生かされることとは何か」を問い、晩年は無農薬有機農業の普及と世界平和の実現に力を尽くした。


昨日(2014年12月1日)妻・菅原文子(すがわら・ふみこ)さんが発表したコメントは次のようなものだった。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。

 「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわなのいよう、共に声を上げることでした。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


菅原文太さんの名言が色々なサイトにアップされている。

その一つが、

誠意って何かね

の一言。


これは、「北の国から '92 巣立ち」で、妊娠させられた女性の叔父役を演じ、カボチャを持参して土下座する親子(田中邦衛と吉岡秀隆)に言ったセリフ。

ちょっと音声が悪いですがこちらでその場面が見れます。


(リンク切れなどがあるかもしれません)



「誠意って何かね」

これは、色々な場面で蘇る言葉でもあります。

ただのドラマの一つのセリフではなく、人生の様々な場面で、心と心で、一人の人間として人と向き合ったとき、思い出さねばならないことだと思います。


そして、その場面の後、この父親(田中邦衛)と息子(吉岡秀隆)が店で聞いた曲が、長渕剛の『西新宿の親父の唄』(作詞・作曲 長渕剛)。

(歌詞はコチラ)http://j-lyric.net/artist/a000675/l006626.html


西新宿の飲み屋のガンコ親父が、まだ駆け出しで売れない長渕剛(当時は長髪)に説教したり、厳しくも優しく語ったりしている姿が目に浮かぶような歌。

その親父さんが「昨日死んだ」と歌われる。

まずコチラでお聞きください。

西新宿の親父の唄
(リンクが切れているかもしれません)


この歌で繰り返されるサビの部分


「やるなら今しかねえ
 やるなら今しかねえ
 66の親父の口癖は
 やるなら今しかねえ」


人生には限りがある。

朝に紅顔ありて、夕に白骨となれる身なり」(蓮如上人)

だから、モタモタしていちゃいけない。

「やるなら今しかねえ」


先に紹介した菅原文子さんのコメントの中に出てきた

朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり

という言葉。


人生の目的(人生の「道」)を果たしたなら(聞かば)

その日に死すとも悔いなし(可なり)


という意味だろう。

「無常を観ずるは菩提心(ぼだいしん)の一(はじめ)なり」


と仏教にいう。

「限りある命を自覚し、目先の欲ではなく、本当に求むべき道を進む」


東日本大震災によって死生観を根底から覆され、

<生き、生かされることとは何か>

を晩年まで探究した菅原さんを想い、そう思った。

( http://masaoosajima.com/death/  より)


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