今日は信長や秀吉の下で活躍した
蒲生氏郷(がもううじさと)にスポットを当ててみました。。
マイナーですが、感動の話がいろいろ伝えられています。
蒲生氏郷は若いときから、
「氏郷さまは部下思いの温かな方だ」
とよくいわれたそうです。
そして、
「どうしたら部下の手柄にみあった給与をあたえることが
できるだろうか」
といつも悩んでいたのです。
あるとき、大きな手柄を立てたが、給与面で十分に報いることの
できない武士がいて、氏郷は非常に気にかかっていました。
考えた末、一つのアイディアが浮かび、
「今度、休みの日におれの家に来なさい」とその武士を呼びました。
やってきた武士に、
「よくきた、酒でも飲み交わそう、だが、疲れておるだろうから、
まず、風呂にでも入りなさい」
といいました。
武士は言われたとおり、湯船に浸かっているとやがて外から
声がしました。
「湯加減はどうだ?」
武士はびっくりしました。
声にききおぼえがあったからです。
外を見ると、氏郷が一所懸命火吹竹を吹き立てて、薪を燃やしている
ではありませんか。
「殿!」
おどろいた武士が声をかけると、
氏郷は武士をみあげてニッコリ笑ってこういいました。
「すまぬな。いまのおれにはこんなことしかできぬ。
せめてゆっくり湯に浸ってくれ」
「………!」
武士は何か言おうとするのですが、言葉にならず、ただ
涙がこぼれおちるのでした。
そして、心にこう誓いました。
(この殿のためには、生命をかけてがんばろう)
このことが口から口に伝えられ、
「おれたちも、早くその風呂がもらえるようにがんばろう」
と誓い合ったそうです。
氏郷が部下にふるまう風呂は、“蒲生風呂”と呼ばれるようになり、
みな心一つになって戦い、氏郷は伊勢の松阪城に移り、
さらに会津若松城に移り、
小さかったくには、百万石ちかくにまでなったのです。
ようやく部下に十分な褒美が与えられると喜んだ蒲生氏郷は
「いままで自分の立てた手柄を書き出し、
それにみあう給与額を自己申告せよ」
と命じました。
しかし部下たちは、いままで氏郷の温かい気持に接してきたので、
過大な申告をするものは一人もなく、みんなで互いの手柄と申告額とを
検討し合ったそうです。
ちなみに、これが日本における“予算制度”のはじまりだそうです。
氏郷の愛情が、団結と部下たちの良識をも生み出したわけです。
くわしくはコチラ
←ここをクリックするだけで、
大切な問題を世界の人に届ける一歩となります!
今日もありがとう!