■いよいよ4段階です☆
※西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋に帰結する!?
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第4段階は、
「私」が幸せになるには、最低限どうならねばならないか?
ということです。
ハイデッガーの「
世界内存在」からアプローチしてみましょう。
「世界内存在」とは何か
、次の文章を読んでみてください。。
「私の見ている世界は、私の過去の思い出をすべて含んで
慣れ親しんだものとして見えています。
だから回りの世界は、決して私と離れたものではなく、
私と深いかかわりを持っているのです。
そういう世界で生きているのが人間であり、
そういう人間のありかたを、彼は「世界内存在」というのです。」
では、回りの世界が慣れ親しんで感じられる、とはどういうことか。
それらが、自分にとって「意味をもつ」ということです。
つまり人間は、自分が「意味づけ」した世界の中で生きているのです。
例えば、この机は、書き物をする、という自分の行為にとって役立つもの。
この椅子、というのは、座る、という自分の行為にとって役立つもの。
という風に、全てのものは、私にとってどういう意味をもつのか、
という見方のもとでそれなりの位置を占めているわけです。
この、書き物をする、とか、座る、とか、そういう自分の有り方を、
ハイデッガーは
「存在可能性」と呼びました。
全てのものの意味は、私の様々な存在可能性から、導かれてくるのです。
「人間とは、自らの存在可能性に関わりつつ生きている存在だ」
これが、ハイデッガーの取り出した、人間の根本的、普遍的な有り方です。
どんな人間も、基本的にはこういう有り方をしているのであり、人間で有る限り、
こういう有り方を免れることはできません。
そこで、私の存在可能性とは、書く、座る、以外にも、歩く、走る、移動する、
など様々であり、それに対応して、靴や自転車や、杖や、自動車が、
意味づけされてきます。
これは、目に見えるものだけではありません。
観念や哲学、すべての学問も、神も、自分自身で意味づけしてこそ、
知識として働くのです。
ですからハイデッガー流に言うと、人間の作った「世界内存在」の中の神は、
臨終の嵐の前に消えてしまう(!)のです。
洗脳やマインド・コントロールでつくられた神なども、死を前にしては
ひとたまりもないのわけですね。
例えば、このような話があります。
『武蔵野』『春の鳥』などで知られる明治の小説家・
国木田独歩は
熱心なクリスチャンでした。
肺病で七転八倒の病床に、かつて洗礼を受けた牧師・
植村正久を呼び、
彼は心の煩悶を訴えました。
「あなたは、かつて初めて私の心を開いてくださった人。
今、死を前に、私の心はまた閉ざされてしまった。
どうかもう一度、あなたの鍵で私の心を開いてください」
植村牧師は言います。
「鍵を持っているのは、私ではありません。神です。祈ることです」
「祈れません。私には、祈ることが出来ません」
独歩は、ベッドの上で泣きました。
キリスト教では、最後まで神に祈れ、といいます。
さすれば神は天国に救い給う、と。
しかし、かの独歩ですら、祈り続けることはできなかったのです。
人間は自分が意味づけした世界の中で
生きている。
ハイデッガー哲学によると,私の見ている世界は、
私の過去の思い出をすべて含んで慣れ親しんだものとして見えている。
だから回りの世界は、決して私と離れたものではなく、
私と深いかかわりを持っている。
そういう世界で生きているのが人間であり、
そういう人間のありかたを、彼は「世界内存在」といいます。
回りの世界が慣れ親しんで感じられる、とはどういうことか。
それらが、自分にとって意味をもつ、ということに他なりません。
つまり人間は、自分が意味づけした世界の中で生きているのです。
これは、目に見えるものだけではありません。観念や哲学、すべての学問も、
自分自身で意味づけしてこそ、知識として働くのです。
国木田独歩にとって、神の存在は、祈る、という行為の対象として
意味づけられていた。
ところが、死を目前にした時、彼はとても祈ることができなかった。
祈る心すらない自分だった。その時、彼の中の「神」は消えていった。
「祈らずとても、助くる神なきや」
こう言って、彼は息絶えました。
ハイデッガー流に言うと、人間の作った「世界内存在」の中の神は、
臨終の嵐の前に消えてしまう。洗脳やマインド・コントロールでつくられた神なども、
死を前にしてはひとたまりもないのです。
また、「存在と時間」の原文にはこういう一節もあります。
『現存在は自分があるかぎり、いつもすでに出会う「世界」を
頼りにしてきたのであって、現存在の存在には本質的に、
こうした依存性が属しています。』(「存在と時間」上巻p170)
では、
人間の究極の存在可能性とは、何か。
それは
『死ぬ』ということだとハイデッガーは言います。
ハイデッガーは、「死」という存在可能性を非常に重視しています。
そして、ハイデッガーは
「根本において死の不安につながれた世界を脱却」してこそ本当の幸せに
なれると論じています。
しかし、その為には、「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方に、
根本的な変革が起きねばなりません。
それは、単に信じる、とか、明るく生きる、とか、希望をもつ、
とか、絶望する、とかいうことではないのです。
それらのものは、単なる存在可能性の一様態であり、
存在可能性に関わりつつ生きるという有り方に根本的変革が
起こっていない限り、「死」という存在可能性に関わりつつ
生きる、という有り方にも変わりはないからです。
それならば、結局、いくら劇的な体験だとしても、根本において、
死の不安からは脱却できておらず、死の解決とは到底言えません。
一般の宗教体験といっても、結局それは、一つの特殊な存在可能性が
開かれたに止まり、存在可能性に関わりつつ生きる、という
有り方そのものには何の変革も起こっていないわけです。
それでは本当の死の解決とは言えないのですね。
それでは、「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方に、
根本的変革が起こった場合、理論的にはどのような事態が
予想されるでしょうか?
それは、今までの「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方が、
言わば根本から否定され、その後に新たな有り方が出現する、
ということでなければなりません。
この「新たな有り方」というのは、既に哲学を超えた所に位置する
もので、到底想像できるものではないでしょう。
しかし、今までの有り方が、根本から否定される、ということに
関しては、ある程度予測することが可能かもしれません。
それは、少なくとも、回りの世界の根本的変革を伴います。
なぜなら、回りの世界が、現在あるように見えているのは、
今までの「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方があるからこそ
だからです。
少なくともそれは、「回りが真っ暗になった」とか、「回りがどうだったか
覚えていない」とか、その程度のものである筈がありません。
なぜなら、そういう表現では、まだ、机は机、椅子は椅子として
見えているだろうから。
「回りの世界の根本的変革」を体験するとき、
自分が変わるだけで、回りの世界が温存されるなら、
つまり、机が机、椅子が椅子、として見えたままなら、それは真実の
根本的変革ではありません。
机が机、椅子が椅子、として見えるのは、
「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方があればこそ可能なのであり、
そういう有り方は、根本において「死への存在」だからです。
そういう有り方に根本的変革が起きるなら、少なくとも一旦は、
机が机、椅子が椅子としてもはや見えない、という瞬間を通らねば
ならない筈です。
換言すれば、己の成立の根源と回りの世界の成立の根源は同じ
ところにあり、
(それは自らの存在可能性に関わりつつ生きる、という有り方だが)
自己の変革が、その根源から行われるならば、回りの世界も、必ず同時に、
様相を一変するに違いないということです。
己のみが変わって、回りの世界が大して変わらないような体験は、
自己の非常に浅いレベルの変革に過ぎず、到底、自己の根源にある
「死」という問題を解決したことにはなっていません。
要するに、その根本的変革の体験のさなかに、回りの世界がどのように
見えるか、によって、その体験の深さをある程度推し量ることが
できるわけです。
これが、ハイデッガー哲学から導き出される結論です。
これが、「根本的変革の体験を測るための物差し」として、
今まで人類が作りえた最も正確なものだ、と言っていいでしょう。
逆にいえば「世界内存在」=私 ならば生きている時(肉体の死をとげる前)に、
生命の根本的変革が可能であり、生死の大問題の解決が可能、ということです。
言い換えると
「モノ」としての世界(私)なら、そんな変革は不可能でしょう。
しかし「コト」としての世界(私)なた可能ということです。
これはものすごいことなのです。
死ぬ前に、生きている時に「生きてよし、死んでよし」の「身」になれる。
それは、そういう心(意識レベル)になれたという段階ではなく、
実際に「生きてよし、死んでよし」の「身」になれるということです。
次回、いよいよ、最終の5段階目です!!!!!!