幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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ビートたけし 国際エミー賞

2007-11-29 | 科学・哲学(総論)

国際エミー賞、フジ「コマネチ大学数学科」は大賞逃す(サンケイスポーツ) - goo ニュース

大賞は逃してしまいましたが、選ばれただけでも

すごいものです!

竹内薫先生も同行されたようで、何よりでした☆

あと、gooでも YOU TUBE が簡単にのせられるように

なったようですね。

試してみました♪

国際エミー賞、フジ「コマネチ大学数学科」は大賞逃す

 米国を除く世界のテレビ番組に贈られる、第35回国際エミー賞の授賞式が19日(日本時間20日)ニューヨークで行われ、バラエティー部門の最終選考に残っていたフジテレビ「コマネチ大学数学科」(木曜深夜1・15)は大賞の受賞を逃した。



 (ビートたけし 国際エミー賞)

【37】西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋に帰結する!?(ラストステージⅣ)

2007-06-26 | 科学・哲学(総論)



■いよいよ4段階です☆

  ※西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋に帰結する!?
  を最初から読まれたい方は、     
コチラ①
コチラ②
コチラ③
 ※ラストステージ(総集編)をまとめて読まれたい方はコチラ



 第4段階は、

 「私」が幸せになるには、最低限どうならねばならないか? 

ということです。

ハイデッガーの「世界内存在」からアプローチしてみましょう。

  
  
「世界内存在」とは何か
、次の文章を読んでみてください。。

「私の見ている世界は、私の過去の思い出をすべて含んで

 慣れ親しんだものとして見えています。

 だから回りの世界は、決して私と離れたものではなく、

 私と深いかかわりを持っているのです。

 そういう世界で生きているのが人間であり、

 そういう人間のありかたを、彼は「世界内存在」というのです。」

では、回りの世界が慣れ親しんで感じられる、とはどういうことか。

それらが、自分にとって「意味をもつ」ということです。

つまり人間は、自分が「意味づけ」した世界の中で生きているのです。

例えば、この机は、書き物をする、という自分の行為にとって役立つもの。

この椅子、というのは、座る、という自分の行為にとって役立つもの。

という風に、全てのものは、私にとってどういう意味をもつのか、

という見方のもとでそれなりの位置を占めているわけです。

この、書き物をする、とか、座る、とか、そういう自分の有り方を、

ハイデッガーは

「存在可能性」と呼びました。


全てのものの意味は、私の様々な存在可能性から、導かれてくるのです。

「人間とは、自らの存在可能性に関わりつつ生きている存在だ」

これが、ハイデッガーの取り出した、人間の根本的、普遍的な有り方です。

どんな人間も、基本的にはこういう有り方をしているのであり、人間で有る限り、

こういう有り方を免れることはできません。

そこで、私の存在可能性とは、書く、座る、以外にも、歩く、走る、移動する、

など様々であり、それに対応して、靴や自転車や、杖や、自動車が、

意味づけされてきます。

これは、目に見えるものだけではありません。

観念や哲学、すべての学問も、神も、自分自身で意味づけしてこそ、

知識として働くのです。

ですからハイデッガー流に言うと、人間の作った「世界内存在」の中の神は、

臨終の嵐の前に消えてしまう(!)のです。

洗脳やマインド・コントロールでつくられた神なども、死を前にしては

ひとたまりもないのわけですね。

例えば、このような話があります。

『武蔵野』『春の鳥』などで知られる明治の小説家・国木田独歩

熱心なクリスチャンでした。

 
肺病で七転八倒の病床に、かつて洗礼を受けた牧師・植村正久を呼び、

彼は心の煩悶を訴えました。

 

「あなたは、かつて初めて私の心を開いてくださった人。
 今、死を前に、私の心はまた閉ざされてしまった。
 どうかもう一度、あなたの鍵で私の心を開いてください」

 植村牧師は言います。

「鍵を持っているのは、私ではありません。神です。祈ることです」


「祈れません。私には、祈ることが出来ません」

 独歩は、ベッドの上で泣きました。

キリスト教では、最後まで神に祈れ、といいます。

さすれば神は天国に救い給う、と。

しかし、かの独歩ですら、祈り続けることはできなかったのです。


人間は自分が意味づけした世界の中で

生きている。

ハイデッガー哲学によると,私の見ている世界は、

私の過去の思い出をすべて含んで慣れ親しんだものとして見えている。

だから回りの世界は、決して私と離れたものではなく、

私と深いかかわりを持っている。

そういう世界で生きているのが人間であり、

そういう人間のありかたを、彼は「世界内存在」といいます。

回りの世界が慣れ親しんで感じられる、とはどういうことか。

それらが、自分にとって意味をもつ、ということに他なりません。

つまり人間は、自分が意味づけした世界の中で生きているのです。

これは、目に見えるものだけではありません。観念や哲学、すべての学問も、

自分自身で意味づけしてこそ、知識として働くのです。

国木田独歩にとって、神の存在は、祈る、という行為の対象として

意味づけられていた。

ところが、死を目前にした時、彼はとても祈ることができなかった。

祈る心すらない自分だった。その時、彼の中の「神」は消えていった。

「祈らずとても、助くる神なきや」

こう言って、彼は息絶えました。

ハイデッガー流に言うと、人間の作った「世界内存在」の中の神は、

臨終の嵐の前に消えてしまう。洗脳やマインド・コントロールでつくられた神なども、

死を前にしてはひとたまりもないのです。

また、「存在と時間」の原文にはこういう一節もあります。

『現存在は自分があるかぎり、いつもすでに出会う「世界」を
 頼りにしてきたのであって、現存在の存在には本質的に、
こうした依存性が属しています。』(「存在と時間」上巻p170)

  
では、人間の究極の存在可能性とは、何か。

それは『死ぬ』ということだとハイデッガーは言います。

ハイデッガーは、「死」という存在可能性を非常に重視しています。

そして、ハイデッガーは

「根本において死の不安につながれた世界を脱却」してこそ本当の幸せに

なれる
と論じています。

しかし、その為には、「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方に、

根本的な変革が起きねばなりません。

それは、単に信じる、とか、明るく生きる、とか、希望をもつ、

とか、絶望する、とかいうことではないのです。

それらのものは、単なる存在可能性の一様態であり、

存在可能性に関わりつつ生きるという有り方に根本的変革が

起こっていない限り、「死」という存在可能性に関わりつつ

生きる、という有り方にも変わりはないからです。

それならば、結局、いくら劇的な体験だとしても、根本において、

死の不安からは脱却できておらず、死の解決とは到底言えません。

一般の宗教体験といっても、結局それは、一つの特殊な存在可能性が

開かれたに止まり、存在可能性に関わりつつ生きる、という

有り方そのものには何の変革も起こっていないわけです。

それでは本当の死の解決とは言えないのですね。

それでは、「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方に、

根本的変革が起こった場合、理論的にはどのような事態が

予想されるでしょうか?

それは、今までの「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方が、

言わば根本から否定され、その後に新たな有り方が出現する、

ということでなければなりません。

この「新たな有り方」というのは、既に哲学を超えた所に位置する

もので、到底想像できるものではないでしょう。

しかし、今までの有り方が、根本から否定される、ということに

関しては、ある程度予測することが可能かもしれません。

それは、少なくとも、回りの世界の根本的変革を伴います。

なぜなら、回りの世界が、現在あるように見えているのは、

今までの「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方があるからこそ

だからです。

少なくともそれは、「回りが真っ暗になった」とか、「回りがどうだったか

覚えていない」とか、その程度のものである筈がありません。

なぜなら、そういう表現では、まだ、机は机、椅子は椅子として

見えているだろうから。


「回りの世界の根本的変革」を体験するとき、

自分が変わるだけで、回りの世界が温存されるなら、

つまり、机が机、椅子が椅子、として見えたままなら、それは真実の

根本的変革ではありません。

机が机、椅子が椅子、として見えるのは、

「存在可能性に関わりつつ生きる」という有り方があればこそ可能なのであり、

そういう有り方は、根本において「死への存在」だからです。

そういう有り方に根本的変革が起きるなら、少なくとも一旦は、

机が机、椅子が椅子としてもはや見えない、という瞬間を通らねば

ならない筈です。

換言すれば、己の成立の根源と回りの世界の成立の根源は同じ

ところにあり、

(それは自らの存在可能性に関わりつつ生きる、という有り方だが)

自己の変革が、その根源から行われるならば、回りの世界も、必ず同時に、

様相を一変するに違いないということです。

己のみが変わって、回りの世界が大して変わらないような体験は、

自己の非常に浅いレベルの変革に過ぎず、到底、自己の根源にある

「死」という問題を解決したことにはなっていません。

要するに、その根本的変革の体験のさなかに、回りの世界がどのように

見えるか、によって、その体験の深さをある程度推し量ることが

できるわけです。

これが、ハイデッガー哲学から導き出される結論です。

これが、「根本的変革の体験を測るための物差し」として、

今まで人類が作りえた最も正確なものだ、と言っていいでしょう。


  逆にいえば「世界内存在」=私 ならば生きている時(肉体の死をとげる前)に、

生命の根本的変革が可能であり、生死の大問題の解決が可能、ということです。

言い換えると

「モノ」としての世界(私)なら、そんな変革は不可能でしょう。

しかし「コト」としての世界(私)なた可能ということです。


これはものすごいことなのです。

死ぬ前に、生きている時に「生きてよし、死んでよし」の「身」になれる。

それは、そういう心(意識レベル)になれたという段階ではなく、

実際に「生きてよし、死んでよし」の「身」になれるということです。

次回、いよいよ、最終の5段階目です!!!!!!

  






あわせて読みたい


【36】西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋に帰結する!?(ラストステージⅢ)

2007-06-24 | 科学・哲学(総論)




■ラストステージの第3段階へと進みましょう!

 ※西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋に帰結する!?
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第3段階は「この世界は夢のように生み出された世界だ」
ということです。


先に科学的アプローチでいきましょう。

このことについてはデビッド・ボームの「ホログラフィー宇宙モデル」で

論じてきました。


(※くわしくはコチラ


これも振り返ってみましょう。


量子力学の分野で活躍したアインシュタインの弟子


理論物理学者のデビッド・ボームが1970年代に

新しい「ホログラフィー宇宙モデル」の仮説を発表しました。

これは「相対性理論」「量子力学」をもとに、「人間」「世界」

について研究されたものであり、最新科学の「超ひも理論

M理論」などがその正しさの裏づけをしている説です。

その「ホログラフィー宇宙モデル」とは

「目に見える宇宙(明在系)は実は単独に存在するのではなく、

その背後に

「もう一つの目に見えない宇宙(暗在系)の秩序がある」

というのです。


つまり、私たちが今「世界」と思っているすべての物質、精神、時間、空間は

「暗在系」にたたみ込まれており、分離不可能というのです。

これは仏教哲学の唯識学に合致するものです。


ボームの次の言葉を聞いてみましょう。

「その昔、デカルトは『心』と『物』をはっきりと定義しました。

 『物質』は区別された事物からなる容積ある実体であり、
 
 『心』は容積がなく区別された事物から作られてもいない、
 
 思考する実体だ、というわけです。

 たしかに、『心』はさまざまな事物を表現する明晰な思考

 を含んでいますが、それは明らかに容積がある『実体』とは

 違います。

 ところが、物と心が両方とも『暗在系』の中にあるとしたら

 問題はたいへん難しくなります。

 両者(『心』と『物』)は違わなくなってしまうからです」


「相対論と量子論は、次の点で一致している。

 世界を分割不可能な全体として見なければならぬこと、

 すなわち全体の中では、観測者や観測機器まで含めた

 あらゆる部分が浸透しあい結びあって一つの総体を

 なしていることを示している。」


「物質も精神もエネルギーとして『暗在系』にたたみ込まれて

 います」

「生命は『暗在系』の『全体運動』の中に陰伏しています」


ちょーと難しいかも知れませんね。

ここで主張しているのは、この世界はホログラフィーのように

映し出された仮の世界である。

そうすると『心』も『物(世界)』も分けれない。

なるが故に「世界全体が私」「私が世界全体」なのです。

ここまでが我、ここからが彼、と分けることが出来ないのです。

(表面的にはできても、つきつめていくと分けれなくなる。
 これは一つの考え方ではなく、世界がそういう構造に
 なっている、という説) 

もっというと、

世界(すわなち私)は、「明在系」と「暗在系」

の二重構造にあるのですから、

「明在系」と「暗在系」の両方あわせたものが「私」なのです。

そして「明在系」が「暗在系」によって生み出されているので、

「明在系」を含む「暗在系」が「私」となる。

これがボームの説なわけです。

そうすると「明在系」の世界(今、私が感じている世界、

「私」)は実体がない、夢のような存在となりますね。

すべて「暗在系」が生み出した,世界であり(意識も含めた)肉体

なのですから。

少なくとも、今、私が「私」と思っているもの、

今、私が「世界」と思っている「世界」は

夢のようなものなのです。

そんなバカな!と思われるかも知れませんが、

「夢」から覚めるまでは「夢」が「現実」なのです。

「寝るときに見る夢」にも「夢の中の私」が存在して、

夢の中では、まちがいない「私」と思っているでしょう。

しかし、夢覚めると、「私」も「世界」もどこにもなくなってしまう。

映画の「マトリックス」ではありませんが、今、現実と思っている

世界も実は夢のような世界なのです。


そしてボームは次のようにも語っています。

「東洋の哲学や宗教は、全体性を強調し、世界を諸部分に

 分けて分析することの無益さを示唆している。

 東洋(とくにインド)では、全体的なものの見方が

 今なお生き続けている。」

ずばりいえば、仏教唯識学との共通点が多くみられるのです!



結論

「この世界(私)=夢」

では本当の私とは?

それこそが唯識学で説かれる「阿頼耶識(あらやしき)」

すべては阿頼耶識が生み出した世界なのです。

(阿頼耶識の説明はまたの御縁に。。。)

ではまた(^-^)/








あわせて読みたい

【35】西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋に帰結する!?(ラストステージⅡ)

2007-06-22 | 科学・哲学(総論)



ラストステージ、第二段階にうつります。
 
 次は「どこからどこまでが私なのか?」
 
 という問題です。
 
 どう思われますか?
 
 普通は頭のてっぺんから足のつま先までが「私」
 
 考えるでしょう。
 
 しかし「髪の毛」を切ったら私が「減る」のでしょうか?
 
 「爪」をきったらどうでしょうか?
 
 「盲腸」を切ったら?
 
 「腎臓」を摘出したら?
 
 義足にしたら?
 
 義手になったら?
 
 整形したら?
 
 心臓を移植したら?
 
 血液をいれかえたら?
 
 記憶喪失になったら?
 
 どうでしょうか。
 
 どこまでが私で、何を失ったら自分でなくなるのでしょうか?
 
 単純に頭のてっぺんから足のつまさきまでが「私」とは言えない
 
 ことが分かられるでしょうか?
 

 最後「私という『心』」※この心は「意識」のことではありません。
 
 にたどりつくのではないでしょうか?
 
 (このことについての理論的な説明は都合上、
 
  後にしたいと思います)
  
 以上が、2つ目の問題へのアプローチ1です。
 
 2つ目の問題へのアプローチ2
 
     
以前「モノ」と「コト」ということについて論じました。

 (詳しくは第25回のコチラ

「モノ」とは、固定的なもの。

「コト」とは

世界が変わる 現代物理学』(竹内薫著)によると

 
 「意味のネットワークの全体的な「つながり」こそが

  本質であることに気づいたときに見える世界」 p014

とあります。

すべての人に共通で、変わらない「モノ」というものはない、

すべては「つながり」「関係性」である、ということですね。


「ニュートンの世界はモノ的だった」 p22

  
「アインシュタインの相対性理論、コト始め」 p34

とも書かれてあります。


  ニュートン的世界観 = モノ

  アインシュタイン的世界観 = コト
  
まあ、こんな感じですね。
  
次の文章も読んでみましょう☆

「モノ」という概念は間違いであることが、相対論や量子論で

 明らかになっていっている。
  

「この世界の物質はすべて『粒子』と『波』の性質を

 持ち合わせている。

 物理学の世界では、この二つの特質を持ち合わせる、


 世界のすべてを構成する物質を「量子(りょうし)」と

 呼ぶことにしました。」  p063


 量子力学によってすべての物質は、固定的な「モノ」
 
 つまり「粒子」ではなく
 
 「波」の性質を持ち合わせた実体のないもの、

 とうことが分かってきたわけですね。
 

ここで頭のマッサージ

ちょっと質問をさせてもらいます。

「インターネット」ってどこにありますか??

    

目の前にある、パソコンの中ですか?

どれともケーブルですか?

そこから全世界に伸びていくケーブル全部でしょうか?

どこかで管理しているすごいコンピューターこそがネットの実体

でしょうか?


答えは、

「『ここ』という場所はない」

世界に張り巡らされている「ネットワークがインターネット」です。

まさに「関係性」「つながり」によって存在する世界ですね。


実はインターネットだけでなく、すべてが「コト」、関係性という

実体がないものなんですね。

前にも話した仏教でいう「諸法無我」です。

「固定不変の《もの》」(我)というものは無い、わけです。

すべては「因」と「縁」があわさった、関係性のものでしかない。

仮のものばかりなわけです。

すべては関わりあって存在している。

私自身も世界と関わりあって存在している。

だから独立した私自身というものは、本当はない。

インターネットのように、そのつながりを広げていくと、

どんどん、どんどん、広がっていく。

私は宇宙まで広がっていく、わけです。

「それは荒唐無稽で、非科学的な話だ!」ということ勿れ。

これは、実存主義哲学(ハイデッガーの世界内存在)にも合致し、



現代科学にも合い、

西洋の哲学、科学の両界共に熱く注目されている仏教に

すでに説かれているのです。

  
 二つのアプローチで考えました。  
  
 「私とは何か?」について。
     
 1つ目のアプローチでは、単純に頭のてっぺんから足のつま先までが
 
 「私」ではない、アレをなくしたら、コレをなくしたら、
 
 と、ドンドン極小の単位へと向かっていきました。

 すると、肉体に、私は見つからない。
 
 「心(意識ではない)」こそが「私」という仮説にたどりつく。
 
     
 2つ目のアプローチは、逆に、私をどんどん広げていったわけですが、
 
 ついには、宇宙(世界)すべてにまで広がってしまったわけです。
 

つまり量子力学的アプローチでいくと、世界と私は分ければい。

世界の中に、一つ一つの「モノ」がるのではなく、

全ては関係性である「コト」からなっている。
    
その関係性とは「私」との関係性であり、その関係の濃さ、薄さはあってでも

すべてが関わりあっていますから「私」の存在は、

「モノ」としての肉体ではなく、

「コト」的な「存在」になるのです。


このことは、ハイデッガーの「世界内存在」の概念にピッタリ

(まさにピッタリ)くるのです☆


「世界内存在」をちょっと振り返ってみましょう。

「私の見ている世界は、私の過去の思い出をすべて含んで

 慣れ親しんだものとして見えています。

 だから回りの世界は、決して私と離れたものではなく、

 私と深いかかわりを持っているのです。

 そういう世界で生きているのが人間であり、

 そういう人間のありかたを、彼は「世界内存在」というのです。」

1つ目の問題「ひとりひとりが違う世界」という命題も、より明らかに

なったことと思います。

2つ目の押さえるべき点は「私(心)=世界」ということです。

 (※「心」=「意識」ではない)

さて、ここまでついてこれていますでしょうか??

次回、3段階目に続きます☆

ではまた(^-^)/







あわせて読みたい

【34】西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋に帰結する!?(ラストステージⅠ)

2007-06-20 | 科学・哲学(総論)



いままで30回以上かけて
 
 「西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て東洋に帰結する」
 
 の記事を書いてきました。
 
 ※西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋に帰結する!?
  を最初から読まれたい方は、     
コチラ①
コチラ②
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 ※ラストステージ(総集編)をまとめて読まれたい方はコチラ



 これから5段階に分けて、いままでの記事を通して、
 
 お伝えしたかったことをまとめたいと思います☆
 
 いよいよ「ラスト・ステージ」な、わけです!!
 
 内容を予告しますと。

 ①人それぞれの世界に生きている
 
 ②私=宇宙(世界)
 
 ③世界は夢のような存在
 
 ④そんな「私」が幸せになるには、最低限どうならねば
  ならない?
 
 ⑤「私」が幸せになれる道


 の5段階です。
 
 では、スタートです☆
 
   
 
 科学の進歩は、宇宙観(世界観)を大きく変えました。

 そして、それはそのまま人間観をも大きく変えることに
 
 なったのです。
 
 人間観、すなわち「『人間とは何か』の認識」が変われば
 
 「人間はどうすれば幸せになれるのか」
 
 という最も大事な問題へのアプローチも変わってくるはずです。
 
 そういう観点で、以下、論じていきたいと思います!
 

  まず、シリーズでずっと書いてきましたが、
 
 17世紀、デカルトは物質と精神(心)は全く別物、という
 
 「物心二元論
 
 を提唱しました。
 

 時あたかも、ニュートンと同時代。
 
  物に関しては「科学」が研究し、
 
 心に関しては「西洋哲学」「キリスト教」が論ずるように
 
 なっていきました。
 
 
 ニュートンは、絶対時間絶対空間という説を唱え、多くの人達に
 
 受け入れられました。
 
 ところが!
 
 20世紀にアインシュタイン相対性理論を発表☆
 
 時間、空間は、相対的であることが分かりました。

 
 つまり、一人一人が、違う空間(世界)にいるのです。
 
 だから時間も一人一人違うのです。
 

 
 絶対的な時間、空間、つまり万人に共通した時間、空間があって、
 
 そこに人が存在するわけではないのです。
 
 
 これはカントのところでも少し説明しました。



 ちょっと復習してみましょう☆
 
 
  のどかな昼下がり、小鳥のさえずりを聞きながら、草原でゆったりと
  していたとします。静かでのどかで平和な世界です。

  ところが、そばにいる、犬のポチは落ち着きません。

  どうしてかというと、騒がしく犬笛がなっているからです。
  犬笛は人間の耳には聞こえません。
  ですから、私は「しずかなのどかな世界」と思っています。

  ところが、同じ場所に同じ時間にいるはずのポチには大変騒がしい
  世界に感じられます。

  どちらが正しいのでしょうか?
  どちらも正しいともいえますし、どちらも間違っているともいえますね。

  私にとっては、静かな世界、ポチにとっては騒がしい世界が正しいのですし、
  相手に対して「いま、静かじゃないか」「いえ、騒がしいですワン」
  と言ったら、違うようにしか思えません。

  つまり、すべての人に共通した客観的事実というものはとらえる
  ことが出来ない。
  それよりも、主観的にみたそれぞれの世界のほうが真実に近い。
  つまり「自分はこのように感じている」という見方の方が、
  より事実(?)なわけです。

  犬笛の例で分かるように、客観的な世界というのは認識できない
  からです。


犬と人と世界が違う、ということを少しはイメージできましたでしょうか?

では次に、人間同士で考えてみましょう。


 3人の登場人物がいます。
 
 A男くん、B子ちゃん、通行人、の3人です。
 
 A男くんは、3年ぶりに実家に帰りました。
 
 自分の家を見る時、感慨深いものがあるでしょう。
 
 
 B子ちゃんは、昔つきあっていた、A男くんの家の
 
 前を通りました。
 
 「懐かしいわ」と思いますが、A男くんが見ている家とは、
 
 違う見え方、見方をしているでしょう。
 
 
 通行人が、ぼんやりと歩いています。
 
 たまたま、A男くんの家を見ました。
 
 しかし、それはただ眼球に映れただけで、何の印象も
 
 ありません。
 
 この3人が、仮に同じ時間、ほとんど同じ場所でA男くんの
 
 家を見ても、見え方が違うわけです。
 
 まったく同じように見ることは、たとえ双子であっても
 
 不可能でしょう。
 
 そういう意味で、一人一人、別の世界に生きているのです。

  
何となくでもお分かりになっていただけましたか??
 
 
もう一つ例を出しましょう。

セカンドライフ」を通してのイメージです。

(詳しくは、第31回のコチラ

ネット上の架空世界、「セカンドライフ」が何かと話題に

なっています。



参加者に共通した仮想空間があるわけですが、

共通空間であり、別々の空間でもありますよね。

というのは、確かに同じ世界にアバターが動いている

わけですが、私のパソコンが壊れたり、無料お試し期間の

期限がきれると、私のアバターは実質存在しなくなり、

そこに構築されていた世界も同時になくなります。

私の世界はなくなりますが、皆の世界は残ります。

つまりこれも、別々の世界をそれぞれが持っていたわけですね。

この世も、似たような関係にあるといわれているわけです。


 
  一人一人が別の世界(仏教で業界という)だということ、
 
 これが押さえてもらいたい第一段階です。

ではまた(^-^)/

 






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