幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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復活した“脳の力”~テイラー博士からのメッセージ~ (奇跡の脳)浄土真宗親鸞会講師のブログ

2009-05-07 | 夢幻
今日、NHK総合で

「復活した“脳の力”~テイラー博士からのメッセージ~ 」

という番組があります。
これは新進気鋭の女性脳科学者として活躍していたジル・ボルティ・テイラー博士が
37歳で脳卒中に倒れ、一時、言語や思考をつかさどる左側の脳機能が停止したのですが
8年間のリハビリを経て完全復活を果たしたドキュメントのようです。

テイラー博士が書いた「奇跡の脳」は全米50万部のベストセラーとなり、
日本でも翻訳されました。(新潮社、竹内薫訳)



その翻訳者、竹内薫世界20ヶ国語に翻訳された「リング」「らせん」の作者、鈴木光司
との共著「知的思考能力の本質」の中で
こう書かれてありました。








p53

『奇跡の脳』という本を翻訳して認識を新たにしました。
この『奇跡の脳』の著者のジル・テイラー博士は脳科学者なのですが、あるとき脳卒中を起こしました。
そしてテイラー博士は脳卒中が起きた時点から自分の頭で
何が起きているかを全部記録したのです。
(中略)
左脳に支障をきたしたので、右半身が動かず、言葉もしゃべれない。
かろうじて電話をかけることができても、ちゃんとした声を
発することができないというのです。
(中略)
それだけではなく、自分の身体の境界線がなくなるとも
言います。
左脳の方向定位連合野というところが出血で侵されたため、
自分の身体の、方向・位置・境界線を認知できなくなり、
あたかも宇宙と一体化したかのように、自分の身体が流体
として流れるような感覚になった。
たとえば、目の前にあるコップを持ったとき、自分の手と
コップの境界線というのを普通は感じますが、それが
消えてしまい、全体的に混ざってしまうそうなのです。

(中略)

左脳は時系列で過去から未来までを整理していますが、
その整理係である左脳が機能しなくなると「時間」という
概念がなくなる。
すると「今」しかなくなるのです。
これはやはり仏教的ですね。
刹那しかないという感じでしょうか。


私、として思い浮かべるのは、結局“肉体”である場合が
多いようです。
しかし、肉体としての私と、私以外の境界はあいまいで、
(両手両足を失っても私は私であり続ける)
左脳の方向定位連合野を損傷するとコップと自分の肉体との
境界線がなくなる、というのは衝撃的ですね。

肉体を越え、脳を越え、心(意識レベルでなく無意識下のもの、
一般に魂といわれるようなもの、仏教でいう阿頼耶識)をイメージさせる内容です。

時間もまたしかり、時間も仏教で教えるまた夢幻なるものなのでしょうか?
これまたアインシュタインの言葉

「現代科学に足らないものを埋め合わせるものがあるとすれば
それは仏教です」

を思い出しました。


浄土真宗親鸞会で仏教を学ぶと考えが偏るとかいう人も
あるようですが、百科の学といわれる科学の根っこに
あるべき哲学、その究極である仏教の真髄を学ぶ
わけですから、これ以上、広く深い見地はないのでは
ないかと思うのです☆

知的思考能力の本質

2009-04-10 | 夢幻

世界20ヶ国語に翻訳された「リング」「らせん」の作者、鈴木光司


「たけしのコマ大数学科」にも出演し、ニュース・ゼロ、世界一受けたい授業
などにも選ばれたサイエンスライター、竹内薫の共著


知的思考能力の本質」を読みましたが、なかなか
興味深い内容でした。





ピックアップしてみますと

p16

明治時代に西周(にしあまね)が「科学」という言葉を考えたとき、百科
・・・分科されてばらばらになった学問・・・ととらえて
しまった。
「哲学から出発して枝分かれしてきた」という点では
確かに言い得ていますが、それが科学の本質ではない。
その根っこにある「哲学」が重要なのです。

明治の人たちは西洋から科学を取り入れるとき、おそらく
枝葉だけ見えて根っこが見えなかった。
そして個別の分野の集合体としてとらえたから
「百科の学=科学」という名前がついて、おそらく
いまだにそのままなんです。


科学の根底に、哲学がなければならない、ということでしょうね。
アインシュタインの有名な言葉を思い出します。

「Science without religion is lame,religion without science is blind」

「宗教無き科学は欠陥であり、科学無き宗教は盲目である」
>

を思い出しました。


p36

面白いと思うのは、キリスト教的な、絶対神という概念と
現代の量子力学は世界観が違うことです。
古典物理学は一神教的な世界観が色濃かったのですが、
両氏物理学が出てきてから、それが変わってきた。
実は、東洋的な世界観と量子論的な世界観がすごく似ている
んです。
西洋の量子物理学者はそのことに気づき始めて、
晩年になると、東洋的な宗教に傾倒する人が多いです。


・アインシュタイン
・ボーア
・ハイゼンベルグ
・シュレディンガー
・デビッド・ボーム
などなど、確かに東洋に大変な関心を持ってますね。


p53

『奇跡の脳』という本を翻訳して認識を新たにしました。
この『奇跡の脳』の著者のジル・テイラー博士は脳科学者なのですが、あるとき脳卒中を起こしました。
そしてテイラー博士は脳卒中が起きた時点から自分の頭で
何が起きているかを全部記録したのです。
(中略)
左脳に支障をきたしたので、右半身が動かず、言葉もしゃべれない。
かろうじて電話をかけることができても、ちゃんとした声を
発することができないというのです。
(中略)
それだけではなく、自分の身体の境界線がなくなるとも
言います。
左脳の方向定位連合野というところが出血で侵されたため、
自分の身体の、方向・位置・境界線を認知できなくなり、
あたかも宇宙と一体化したかのように、自分の身体が流体
として流れるような感覚になった。
たとえば、目の前にあるコップを持ったとき、自分の手と
コップの境界線というのを普通は感じますが、それが
消えてしまい、全体的に混ざってしまうそうなのです。

(中略)

左脳は時系列で過去から未来までを整理していますが、
その整理係である左脳が機能しなくなると「時間」という
概念がなくなる。
すると「今」しかなくなるのです。
これはやはり仏教的ですね。
刹那しかないという感じでしょうか。


私、として思い浮かべるのは、結局“肉体”である場合が
多いようです。
しかし、肉体としての私と、私以外の境界はあいまいで、
(両手両足を失っても私は私であり続ける)
左脳の方向定位連合野を損傷するとコップと自分の肉体との
境界線がなくなる、というのは衝撃的ですね。

肉体を越え、脳を越え、心(意識レベルでなく無意識下のもの、
一般に魂といわれるようなもの、仏教でいう阿頼耶識)をイメージさせる内容です。

時間もまたしかり、時間も仏教で教えるまた夢幻なるものなのでしょうか?
これまたアインシュタインの言葉

「現代科学に足らないものを埋め合わせるものがあるとすれば
それは仏教です」

を思い出しました。


浄土真宗親鸞会で仏教を学ぶと考えが偏るとかいう人も
あるようですが、百科の学といわれる科学の根っこに
あるべき哲学、その究極である仏教の真髄を学ぶ
わけですから、これ以上、広く深い見地はないのでは
ないかと思うのです☆

私たちは夢と同じ材料でできている(シェークスピア「あらし」)

2007-12-20 | 夢幻


 


 


こんばんは☆

寒くなってきましたね。

昨日は、後輩のO君に手作りカレーをごちそうになりましたが、

ひじょーに美味しかったです!

すごい才能だ。

さて、gooブログでも簡単に YOU TUBE が使えるように

なったので、今後は、ぱんだお気に入りの曲

(知っているひとは知っている名曲を中心に)を

記事にくっつけておきますので、

BGM変わりでもよし、じっくり聞くもよし、

無視でもよし(一応)、ご自由にご活用ください。

ということで、今日は、カーズの「ドライブ」。

バンドのカーズより、ジョジョの「カーズ」の方が

知られているかな?(時間を止めるスタンド)


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The Cars - Drive

では、今日はシェークスピアの「あらし」から。

「私たちは夢と同じ材料でできていて、
 私たちのささやかな一生は
 眠りで仕上げられる」
 


この言葉、とても好きなんです。

さすがは、世界の三大文学者に数えられるシェークスピアです。

秀吉の辞世の句は「夢の又夢」だったそうですが、

人生、ふりかえってみれば、夢ですね。

理系からのアプローチでいけば、

量子力学では「もの」に実体がない、

という答えにたどりつきます。

特にアインシュタインの弟子であり、

 
相対性理論と量子論の両方を研究した、

デビッド・ボームホログラフィー宇宙モデルでは、


私も世界も夢のようだということを、

科学的に論じて多くの科学者に影響を与え続けています。

その夢のような人生、いったい何をなすべきか!

とっても大事な問題だと思います(^-^)/ 


デヴィッド・ボーム「ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ 」

2007-10-26 | 夢幻




デヴィッド・ボーム(David Bohm)の名著

「ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ 」
が邦訳されました☆

■内容紹介

「対話の目的は、物事の分析ではなく、議論に勝つことでも
 意見を交換することでもない。
 いわば、あなたの意見を目の前に掲げて、それを見ることなのである」

対話(ダイアローグ)とは:

・情報やアイデアではなく「意味」を共有。
・明確な「目的」を定めなくてもいい。
・人を「説得」することは必要ない。
・あらゆる「想定」を保留することが重要。

「『愛があればすべてうまくいく』と言う人がいる。
 だが残念ながら、すべてを救う愛は存在しない。
 だから、もっと良い方法を考えなければならないんだ」

 偉大な物理学者にして思想家ボームが長年の思索の末に
 たどりついた「対話(ダイアローグ)」という方法。
 
 「目的を持たずに話す」
 「一切の前提を排除する」
 
 など実践的なガイドを織り交ぜながら、
 チームや組織、家庭や国家など、あらゆる共同体を協調に導く、
 奥深いコミュニケーションの技法を解き明かす。


■著者について

デヴィッド・ボーム David Bohm

 1917~1992年。物理学者。
 ペンシルバニア州立大学卒業、カリフォルニア大学バークレー校で
 理論物理学の博士号を取得。
 量子力学の世界的権威として知られるほか、
 人類と自然の調和、全人類の融和などをテーマとする哲学的思索でも名高い。
 著書に『全体性と内蔵秩序』(青土社)、『断片と全体』(工作舎)などがある。


●発刊を記念して、以前あげた記事を再掲します!

デビッド・ボーム

「ホログラフィー宇宙理論」についてです。



主著「全体性と内臓秩序」から、東洋とのつながりを見ていきたいと思います☆

ちょっーと(かなり)難しい内容です(^-^;

以下出てくる緑の字のところは原文ですが、特に必要ないと思われる方は

無理して読まれなくても結構です(表現がとても学術的なので。。)  

そして、今回は、先に要点を明記しておきましょう。

そのほうが分かりやすいと思いますので。

 ●「心」と「物」を分けた「デカルト・ニュートン近代科学思想」は
  矛盾や問題を含んでいる。
 
 ●私=世界(宇宙)
  《心(意識レベル)と身体を超えた、魂のようなモノがある》

 ●ホログラフィー宇宙論と仏教の唯識学とは共通点が多い
  (阿頼耶識・業力・業種子など)
 
 ●科学は東洋の思想へと向かっている
 
 といったところですね。
 
はじめてこのような内容に接する方には超難しい思いますが、

最初は、理屈やしくみを考えるより、

「最近の科学ではこんな研究やってるのかー!」とか
 
「何かしらんが凄そうだなー」

「科学的って言葉の認識を大きく変えないといかんのかなー」

など楽しみながら読んでみることをお勧めします☆

ではいきますよっ!!


まず知っていただきたいのは、デカルト的ニュートン的

世界観は様々な矛盾や問題を含んでおり、その世界観を

見直さねばならない、ということです。    

そのことについてボームはいいます。

「世界を分離・独立して存在する諸部分に分析するとき、

 このデカルト的秩序が相対論でも量子論でも、深刻な

 矛盾と混乱に逢着しつつあることを見出す。

 なぜならこの二つの理論からは、宇宙が分析されぬ

 全体であることこそ現実の事態であり、独立した諸部分

 への分析は実態にそぐわないことが結論されるからで

 ある。」

 
なぜおかしいかってことを納得いくまで説明するのは難しいので、

この理論の結論だけ、知ってもらえればと思います☆


次に、デカルトは物心二元論を唱え、「心」と「身体(モノ)」は

別物だ、といいました。



しかし、この考えは正しいといえません。

「物心二元論」の矛盾が大きいため、唯物論の方が現在、力が

あるわけですが、これは決して唯物論が正しいということでは

ありません。

「物心二元論」「唯物論」を超えた第三の説があるのです。

それが、「心」と「身体(モノ)」は分けれない、という説であり、

もっといえば、私=世界(宇宙)という、ちょっと聞くと、

非科学的、非理論的、SF的、誇大妄想的なイメージを受ける

ことでしょう。

しかし、この第三の説こそ、ハイデッガーの「世界内存在」や

相対性理論量子力学の行きつく世界観、宇宙観といえるのです。

その一つの説が「ホログラフィー宇宙論」であり、

後日、紹介します「超ひも理論」「M理論」「エキピロティック宇宙論

などにつながる理論なのです。

    
いきなり「私=世界(宇宙)」といわれても、ついてこれない方も

多いと思いますので、できれば「西洋哲学は2回のパラダイムスフとを経て、東洋に帰結する!?」

シリーズを通読して頂きたいのですが、

すべては境界線を持つことができない(モノとモノとを分けれない)

ということをイメージしてもらいたいと思います。

そのことを踏まえて読んでくださいね☆


「(世界は)流れの中の渦のような構造をもった波動を考えればよい。」

「相対論と量子論は、次の点で一致している。

 世界を分割不可能な全体として見なければならぬこと、

 すなわち全体の中では、観測者や観測機器まで含めた

 あらゆる部分が浸透しあい結びあって一つの総体を

 なしていることを示している。」


「流動運動する分割不可能な全体性と呼ぶのが最善であろう。

 事物より流れのほうが、ある意味で基本的存在である。

『事物』は『流れの中』で生成・消滅するものと見られる

 からである。

『流れ』においては、精神と物質は互いに分離した実体

 ではない。

 それらは、分断されぬ一つの全体をなす運動の異なる

 二側面である。

 存在のどの側面も互いに他から分割されないと考える

 ことができるようになる。」


共通して主張しているのは、この世界はホログラフィーのように

映し出された仮の世界であり、なるが故に、世界全体が私、

私が世界全体なのです。

ここまでが我、ここからが彼、と分けることが出来ないのです。

(表面的にはできても、つきつめていくと分けれなくなる。
 これは一つの考え方ではなく、世界がそういう構造に
 なっている、という説) 

また次のようにも語っています。

「東洋の哲学や宗教は、全体性を強調し、世界を諸部分に

 分けて分析することの無益さを示唆している。

 東洋(とくにインド)では、全体的なものの見方が

 今なお生き続けている。」



ずばりいえば、仏教の唯識学との共通点が多くみられるのです!

たとえば唯識学では次のようにいいます。

「この世界は阿頼耶識という心(本当の心)が生み出した世界である」
これはまさにホログラフィー宇宙論の説そのものですね。

しかも、

「阿頼耶識は滝のように、常に激しく水滴が動きつつも、滝全体という

 ものは流れながら続いている」




これに対応するかのように、ホログラフィー宇宙論では

「ホログラフィーという表現は、静的で固定的な印象を

 与えますが、「暗在系」はつねに変幻流転している、ということです。

 これをボームは「全体運動」と表現したのです。」

とあります。  

「噴水は、激しく水滴が動きながらも、一つの形をかたどっている」

と、滝とそっくりの、噴水のたとえで語られることもあります。

  

また、「阿頼耶」とは「蔵」という意味があるのですが、

(「識」は「心」という意味)

ホログラフィー宇宙モデルでは、暗在系のことを「内蔵秩序」

とも言われ「内蔵」されるというイメージはぴったりきます。


さらに、阿頼耶識には、「私たちの行為」=「業」が力となって

貯えられると教えられていますが、

ボームは、次のような言語学を展開し、固定的な

イメージを与える名詞よりも動詞(行為)を重んじています。

「動詞は、行為や運動を記述するものであるが、行為や運動

 は明晰な分離や分割をもたず、他の行為や運動の中に

 流れ込んで一体となっているからである。

 それだけではない。

 運動はつねに変化しているのが普通であり、運動の中には

 永久不変の固定的パターンないし形態は存在しない。

 したがって互いに切り離されたばらばらの事物といった

 ものは運動の中には認められない。」


また、行い(業)は、業種子となって阿頼耶識に貯えられる

とも表現されており、目に見える結果(運命)を生み出す種とも

言われています。

そのことに対応するようにボームは次のように書いています。

「種子じたいはその植物体をじっさいに構成する物質の点でも、あるいは生長

 に要するエネルギーの点でも、寄与するものをほとんど、あるいは全く

 持っていない。

 生長に要するエネルギーはほとんどがすべて土壌、水、空気、そして日光に

 由来する。

 しかし、現代の理論によれば種子はDNAという形で情報を含みこんでおり、

 この情報が何らかのしかたで環境に『指令を与え』一戸の植物体を形成する

 のである。」

「乾板(ホログラフが映し出される板)には二次的な重要性しかない。

 なぜならそれは、空間の各領域に存在する光の干渉型状を、比較的

 永続する『記録文書』として止めることが主要な役割だからである。」


ボームは「時空領域のそれぞれに、全体の秩序含み込まれている」

いうことを次のようにもいっています。


「原理的には、この構造を宇宙全体にまで、そして全過去・全未来

 にまで拡張することができる。

 例えば夜空を仰ぐときを考えて見よ。

 われわれはそこに、広大な時空の拡がりにわたって見出される多くの

 構造を識別することができる。

 だがそれらはある意味で、眼球で囲まれたちっぽけな空間内の光の

 運動中にすべて含まれている。

 ここに新しい秩序概念の萌芽がある。

 この秩序はたんなる対象や事象の規則的配列として理解することは

 できない。

 むしろ時空領域のそれぞれに、ある陰伏的な意味で、全体の秩序が

 含み込まれているのである。

 さて「陰伏的」という語は、内蔵するという動詞から出ている。

 後者の意味は「内側に包む」ことである。

 それゆえ何らかの意味で、全体の構造が各領域のうちに「包み込まれ」

 て含まれる、ということを表現する概念が求められてしかるべきで

 あろう。」

  

う~ん、難しいかもしれませんが、全体と部分の関係を少しでも

イメージできたらいいですね。

細かいところを気にするよりも。


では、今一度、今日の要点をまとめてみましょう!!
 
 ●「心」と「物」を分けた「デカルト・ニュートン近代科学思想」は
  矛盾や問題を含んでいる。
 
 ●私=世界(宇宙)
  《心(意識レベル)と身体を超えた、魂のようなモノがある》

 ●ホログラフィー宇宙論と仏教の唯識学とは共通点が多い
  (阿頼耶識・業力・業種子など)
 
 ●科学は東洋の思想へと向かっている
 

どうでしたでしょうか??

脳みそ破裂状態でしょうか?

それともこれくらいでは物足りませんか??


最初にも書きましたように、こういった内容は、理屈やしくみを考えるより、

「最近の科学ではこんな研究やってるのかー!」とか
 
「何かしらんが凄そうだなー」

「科学的って言葉の認識を大きく変えないといかんのかなー」

など楽しみながら読んで、インスピレーションするものを

発見するのがいいでしょう☆





ゴッホ「ある男の肖像画」、別人の作品と判明

2007-08-05 | 夢幻




ゴッホの「ある男の肖像画」が、別人の作品と判明しました。

現在、約20億の価値があるといわれていますが、

価値はいったいどれくらい下がるんでしょうね。。。。


ゴッホ「ある男の肖像画」、別人の作品と判明(読売新聞) - goo ニュース

 (「 ある男の肖像画 」がどんな絵か見たい人はコチラ

 以下、記事です。

オランダ生まれの印象派画家ビンセント・ファン・ゴッホ
(1853~90年)の作品とされ、オーストラリアの美術館が
所蔵していた油彩画「ある男の肖像画」が、実は別人の作品だったことが
判明した。

アムステルダムのファン・ゴッホ美術館が鑑定し、断定した。

問題の絵は、メルボルンのビクトリア州立美術館が1940年に
収集家から購入し、所蔵していたもので、現在なら約20億円の価値が
あるとされていた。

ゴッホの33歳前後の作品と見られていたが、
昨年、英国の美術館に貸し出された際に、同時代のほかの作品とは
「作風が異なる」と指摘され、アムステルダムで専門家が調査していた。
 
作品がゴッホ作とされた経緯など、詳細は明らかでない。


 そういえば、逆のケースも、ありましたよね。。
 
 1万~2万円の価値と思われていたのが、
 
 ゴッホ作と判明するや、値段は膨れ上がり
 
 6600万円で落札したのです。


以下、その時の記事です。

(元記事はコチラ

ゴッホ作と判明した油彩画、6600万円で落札
オランダの画家ゴッホ(1853~90)の修業時代の作品と判明した

油彩画「左向きの農婦の頭部」が8日、東京・銀座で競売にかけられ、
6600万円で競り落とされた。
落札したのは、広島県吉和村のウッドワン美術館(中本利夫館長)。

当初、作者不詳の「婦人像」として競売目録に掲載され、
競売会社が設定した落札予想価格も1万~2万円だった。
約170点の出品作の最後に競売にかけられた。
入札は500万円から始まり、わずか5分足らずで、
 値段は13倍に跳ね上がった。

主催会社によると、この日の参加者は約500人。
ふだん会場となっている地下のフロアでは狭すぎるため、
通りに面した1階のギャラリーにも大型テレビを置いて対応した。
それでも、通りかかった買い物客も加わって、会場から人があふれた。
参加者が「バブル以来の熱気」という盛り上がりは、
他の出品作にもおよび、ゴッホの直前に競売にかけられた
作者不詳の「男性像」も、当初の落札予想価格1~2万円に対し、
1700万円の値をつけた。

「農婦」は、洋画家で91年に死去した故中川一政さんの
コレクションの中にあった。遺族の依頼で競売にかけられることになったが、
作者不詳だった。

ゴッホの作品に似ていることから昨年12月、競売主催会社が
アムステルダムのゴッホ美術館に問い合わせたところ、
6日になって、ゴッホが修業時代に描いた真正作であるという
調査報告書が届き、一躍、オークションの目玉になった。


こんなのもあります。


ゴッホの水彩画1点が韓国にある、ということが分かり世界の美術界が
注目している。

推定される価格が1000億ウォン(約120億円)にのぼる同作品は、
ゴッホの水彩画のうち現存し所在が把握された唯一の絵。
タイトルは「馬車と汽車がある風景」で1890年6月の作品。
作品の貴重性と作家の名声のため、コレクターのソ・ビョンス氏は
関心の的になっている。
同氏は「外国人女性がプレゼントしたもの」とし
「韓国のプライドを生かしたかっただけ。価格は重要な問題じゃない」
と話した。

これに先立ち、日本の国会タイムズは(4月25日)
「世界的に貴重なゴッホの水彩画1点を東洋人が所蔵している」と報じた。
04年に鑑定の過程で日本のゴッホ専門家などに同作品が公開され、
コレクターが韓国人だとのことが分かった。
日本のゴッホ研究家は、この絵の鑑定書で「99.99%ゴッホの水彩画だ」と
確認した。


(元記事はコチラ

自らの耳を切り、最後は自殺した、情熱の画家、ゴッホ。

生涯で一つの作品〈赤い葡萄畑〉しか売れなかったゴッホの絵に

現代の人々は振り回されていると言ってもいいでしょう。


「絵そのもの」の素晴らしさというより、「ブランド」に価値がついて

しまっている。

もっといえば「どうだ、ゴッホの絵を持ってるんだぞ」という自慢に

価値がついてまわっている感じですね。

ここにも「そらごと、たわごと」の実体のない世界が浮き彫りに

なっているようです。。。。

ゴッホ「ある男の肖像画」、別人の作品と判明(読売新聞) - goo ニュース

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