昨年2月、光文社から出版された、竹内薫氏の「99.9%は仮説」
が、16刷となり、(記事はコチラ)
中国語版も出たようです。
まだ記事にしていなかったので、今日は、この内容から☆
竹内薫(たけうち かおる、1960年-)
サイエンスライター。
東京都出身。横浜市在住。
湯川薫名義で小説も書く。
愛猫家として知られている。
妻はヨガインストラクターの藤井かおり。
オフィス・トゥー・ワンに所属。
妹は翻訳・文筆家の竹内さなみ。
● 経歴
筑波大学附属高等学校卒業
1983年 東京大学教養学部教養学科卒業(科学史・科学哲学専攻)
1985年 東京大学理学部物理学科卒業
1992年 マギル大学大学院博士課程修了 理学博士(Ph.D.)(高エネルギー物理学専攻)
● 主要な著書
『頭がよみがえる算数練習帳』 筑摩書房
『99.9%は仮説 思い込みで判断しないための考え方』 光文社
●テレビ出演
たけしのコマネチ大学数学科 番組特別顧問 (フジテレビ)
NEWS ZERO 火曜日担当キャスター (日本テレビ)
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
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「99.9%は仮説」には、どういうことが書かれてあるか。
33ページ目に端的に書かれています。、
「科学は絶対的なものごとの基準ではありません。
あくまでも、ひとつの見方にすぎないのです。
よく『科学的根拠』がないものは無視されたり
しますが、それはまったくナンセンスです。
なぜなら、科学はぜんぶ『仮説にすぎない』からです」
いろんな例が出ていますが、個人的には、ガリレオの話が
面白かったです♪
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「天文学の父」ガリレオ・ガリレイ。
彼は望遠鏡を最も早くからとりいれたひとりでした。
そんなガリレオの逸話が次のように紹介されています。
1608年、オランダで望遠鏡が発明され、さっそく
試行錯誤のうえに自作の望遠鏡を作り、天体観測を
行いました。
さて、1610年の4月のこと。
ガリレオはイタリアのボローニャに24人もの大学教授を
集めて、自作の望遠鏡を披露しました。
(こいつら、俺様の大発見にビックリ仰天するにちがいないゾ)
期待にワクワクしながら、ガリレオは、まず彼らに望遠鏡で
地上の様子をみてもらいました。
すると、どうでしょう。
望遠鏡を覗きこむと、山や森や建築物など、はるか遠くに
あるものがドーンと眼の前に映し出されます。
「これはすごい!」
と教授たちはその迫力に驚き、ガリレオを称賛しました。
当時、イタリアでは、だれもまだ望遠鏡をみたことがなかった
のです。
しかし、話はこれで終わりません。
つぎに、ガリレオは教授たちに望遠鏡で天体をみせたのです。
すると、どうでしょう。
それまではボンヤリとした光る点にすぎなかった夜空の
星々が拡大され、月のクレーターまでもがはっきりみえたのです。
教授たちはまたしても驚きました。
そして、口々にこういったのです。
「こんなのデタラメだ!」
教授たちのなかには、当代きっての天文学者ケプラーの弟子、
ホーキーもいました。
彼はつぎのように語っています。
「それ(望遠鏡)は、下界においては見事に働くが、
天上にあってはわれわれを欺く」
つまり、ガリレオの望遠鏡は地上をみる分には問題なく作動
するが、天に向けるとうまく働かない代物だ、と文句を
つけているのです。
(なぜだ!なぜ、こいつらは俺様の大発見を否定するのだ?
自分たちの目でみているのに!)
どうして突然、彼らはデタラメだといいだしたのでしょうか?
当時、天上界というのは完全な法則に支配された完璧な世界
だと思われていました。
つまり、神が棲む世界です。
そこでは、すべてのものが規則的に動き、美しく、統一ある
姿をしています。
ですから、月に凸凹(クレーター)などあるはずがないんです。
凸凹というのは不完全ということですから。
星の表面は、キレイにのっぺらぼうじゃないといけなかった
わけです。
それなのに、望遠鏡でみると、ぜんぜんのっぺらぼうじゃない!
(中略)
教授たちの頭のなかには、その当時の人々が抱いていた天体の
「本当の姿」みたいなのがあって、それとちがうものがみえて
しまう。
だから、態度を豹変させて、
「この望遠鏡はおかしい、デタラメにちがいない!」と騒ぎ
だしたわけです。
(中略)
けっきょく、教授たちがだした答えは、地上はいいけど天上は
ダメ(笑)
(中略)
望遠鏡の客観的な性能よりも、自分の頭のなかにある主観的な
思いこみのほうが勝つんです。
その時代やその社会に浸透している常識のまえでは、大学教授
といえども目が曇ってしまうわけです。
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結局、科学も人間が扱うものであり、どうしても主観が入って
しまうわけですね。
そもそも、科学は「観察」「実験」「計算」「推理」が
正しいならば、という前提つきですものね。
さらに、次のような文章が出てきます☆
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「常識は仮説にすぎないのです」
「われわれの世界観は、われわれが親から教わること、
われわれが学校で教わること、そういったものは、すべて仮説に
すぎません。
常に常識を疑う癖をつけて、アタマのなかにある仮説の群れを
意識するようになれば、それは『頭が柔らかい』ということなのです」
「とにかく常識を疑え!」
「世の中に100%の客観などありえないのです。
少し哲学的になりますが、客観とは、ある意味で主観の寄せ集め
なんです。
●わたしの頭のなかは仮説だらけ
●あなたの頭のなかも仮説だらけ
この二点を理解することから、科学の第一歩ははじまるのです」
「『すべては仮説にはじまり、仮説におわる』というわたしの科学的な主張は
はたして反証可能でしょうか?」
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「科学的なら全て完全なる証明が出来る」と考えている
自称科学青年は、もっとこの本を読んで勉強しなければならないって
ことですね☆
もちろん、振り子がふれすぎて、「科学は間違い」と思ってもらっては
困ります。
科学の研究結果は大いに参考にすべきです。
大変な研究成果をあげているのも事実です。
「科学絶対主義」がダメなのです。
別の視点からいえば、科学は手段であり、目的ではないという
ことです。
最後は有名なアインシュタインの言葉でしめくくりましょう。
「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である」
「Science without religion is lame,
religion without science is blind」
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