「西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋哲学に帰結する!?」
の5回目は近代哲学の父といわれる、ルネ・デカルトについてです☆
近代哲学の父といわれるデカルト(1596年3月31日-1650年2月11日)
17世紀の哲学者。フランス人です。
なぜ近代哲学の父といわれるのかということについて
いろいろ論じられるところですが、
簡単にいうと、出発点がそれまでの哲学と違うのです。
デカルトは数学者でもあり、哲学も「間違いない真理」から
出発せねばと考えました。
ちなみに、数学は、証明するまでもなく、絶対間違いないもの、
公理から出発しています。
たとえば、「平行する二本の線は決して交わらない」などです。
こういう公理が5つあり、それを組み合わせて発達したのが
ユークリッド幾何学です。
(のちに非ユークリッド幾何学が登場しますが、この話は
またの機会にします)
それまでの哲学は「神」というまことに確実でないものが
出発点でした。
そこで、デカルトは、絶対に間違いないものは何かと考えました。
目の前にある机ですら疑わしいとひたすら疑ったデカルトは、
最後、絶対疑えないものは「疑っている私」という存在でした。
なぜなら「いや、俺は疑ってないんじゃないか」というのも
疑いであり、「疑ってないとも疑ってないのでは」とやはり
疑う。どこまでいっても疑っている。
だから「疑っている私がいるということは間違いない」
これこそ、疑いようのない真理だと思ったのです。
ここから、デカルトの『方法序説』
(原語「ディスクール・ドゥ・ラ・メトッド」)
に出てくる有名な言葉として、
「我思う、故に我あり」という言葉があるのです!
(ラテン語:Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム)
(フランス語:Je pense,donc je suis. )
(英語:I think, therefore I am.)、
(ちなみにヘレン・ケラーは、この言葉に出会ったとき、
自分の肉体的ハンディは自分の本質ではない、
本質は自分の心にある、という己の信念を力強く
支える言葉に出会ったと述懐しています。
心が大事、という点では素晴らしいのですが、
心と身体を全く別のものとして分けたことは
あとで大きな問題を生み出します。
「諸悪の根源はデカルトの物心二元論にある」
とまでいう人があるくらいです。)
こうして、神以外から出発したデカルトではありましたが、
途中で結局、神の概念を持ち出さねばならなくなります。
これは、2回目のパラダイムシフトの時に問題に
なってきます。
さて、デカルトは、精神と物質とを分けた
「物心二元論」を主張しました。
いわゆる心と肉体とは別のものだよ、という考えです。
ここから「人間は物だ」という唯物論と、
「物と心の二つ」だ、という物心二元論との論争が続くわけです。
これを心身問題(しんしんもんだい)といいます。
これは人間観を大きく左右するテーマですので、哲学では常にと
いっていいほど論じ続けられています。
さて、ギリシャ哲学にはじまった西洋哲学で一体のものと
考えられていた、心とモノを、デカルトが、
「心とモノは別なものだ!」と分けたわけです。
ここから、哲学・宗教が「心」について研究し、
科学が「モノ」について研究するという任務分担が
出来たわけです。
時あたかも17世紀、そう、科学の世界ではニュートン先生が
登場したわけです!!
サー・アイザック・ニュートン
(Sir Isaac Newton,
ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、
グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日)
イングランドのウールスソープ生まれ。
イギリスの錬金術師・自然哲学者(物理学・天文学)・
数学者。近代の大科学者の一人と評されている。
「心」については、デカルトを出発点とした近代哲学が展開し、
「モノ」についてはニュートン力学が展開していくわけです。
この17世紀、おおきなパラダイムシフトが起こったわけです!
一見、素晴らしい発展に思われた、哲学と科学ですが、
20世紀にまた大きなパラダイムシフトがおきるのです!!!
そのことについてはまた(^o^)/