幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋哲学に帰結する!?⑤デカルト

2007-06-17 | 科学・哲学




「西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋哲学に帰結する!?」

の5回目は近代哲学の父といわれる、ルネ・デカルトについてです☆


近代哲学の父といわれるデカルト(1596年3月31日-1650年2月11日)


17世紀の哲学者。フランス人です。



なぜ近代哲学の父といわれるのかということについて

いろいろ論じられるところですが、

簡単にいうと、出発点がそれまでの哲学と違うのです。

デカルトは数学者でもあり、哲学も「間違いない真理」から

出発せねばと考えました。


 ちなみに、数学は、証明するまでもなく、絶対間違いないもの、
 公理から出発しています。
 たとえば、「平行する二本の線は決して交わらない」などです。
 こういう公理が5つあり、それを組み合わせて発達したのが
 ユークリッド幾何学です。
 (のちに非ユークリッド幾何学が登場しますが、この話は
 またの機会にします)

それまでの哲学は「神」というまことに確実でないものが

出発点でした。

そこで、デカルトは、絶対に間違いないものは何かと考えました。

目の前にある机ですら疑わしいとひたすら疑ったデカルトは、

最後、絶対疑えないものは「疑っている私」という存在でした。

なぜなら「いや、俺は疑ってないんじゃないか」というのも

疑いであり、「疑ってないとも疑ってないのでは」とやはり

疑う。どこまでいっても疑っている。

だから「疑っている私がいるということは間違いない」

これこそ、疑いようのない真理だと思ったのです。

ここから、デカルトの『方法序説』
(原語「ディスクール・ドゥ・ラ・メトッド」)

に出てくる有名な言葉として、

「我思う、故に我あり」という言葉があるのです!

(ラテン語:Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム)
 (フランス語:Je pense,donc je suis. )
(英語:I think, therefore I am.)、

(ちなみにヘレン・ケラーは、この言葉に出会ったとき、
 自分の肉体的ハンディは自分の本質ではない、
 本質は自分の心にある、という己の信念を力強く
 支える言葉に出会ったと述懐しています。

 心が大事、という点では素晴らしいのですが、
 心と身体を全く別のものとして分けたことは
 あとで大きな問題を生み出します。
 「諸悪の根源はデカルトの物心二元論にある」
 とまでいう人があるくらいです。)
   
こうして、神以外から出発したデカルトではありましたが、

途中で結局、神の概念を持ち出さねばならなくなります。

これは、2回目のパラダイムシフトの時に問題に

なってきます。


さて、デカルトは、精神と物質とを分けた

「物心二元論」を主張しました。

いわゆる心と肉体とは別のものだよ、という考えです。

ここから「人間は物だ」という唯物論と、

「物と心の二つ」だ、という物心二元論との論争が続くわけです。

これを心身問題(しんしんもんだい)といいます。

これは人間観を大きく左右するテーマですので、哲学では常にと

いっていいほど論じ続けられています。


さて、ギリシャ哲学にはじまった西洋哲学で一体のものと

考えられていた、心とモノを、デカルトが、

「心とモノは別なものだ!」と分けたわけです。

ここから、哲学・宗教が「心」について研究し、

科学が「モノ」について研究するという任務分担が

出来たわけです。

時あたかも17世紀、そう、科学の世界ではニュートン先生が

登場したわけです!!



サー・アイザック・ニュートン
(Sir Isaac Newton,
 ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、
 グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日)
 イングランドのウールスソープ生まれ。
 イギリスの錬金術師・自然哲学者(物理学・天文学)・
 数学者。近代の大科学者の一人と評されている。

「心」については、デカルトを出発点とした近代哲学が展開し、

「モノ」についてはニュートン力学が展開していくわけです。

この17世紀、おおきなパラダイムシフトが起こったわけです!

一見、素晴らしい発展に思われた、哲学と科学ですが、

20世紀にまた大きなパラダイムシフトがおきるのです!!!

そのことについてはまた(^o^)/



西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋哲学に帰結する!?⑥カント

2007-06-16 | 科学・哲学


「西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋哲学に帰結する!?」

の6回目は18世紀の哲学者カントです。

18世紀に入ると大分、哲学もごちゃごちゃとしてきました。

●大陸合理主義(デカルト、スピノザ、ライプニッツ)

  →独断論(何でも分かる)

●イギリス経験論(ベーコン、ロック、バークリー、ヒューム)

  →懐疑論(何もかも疑わしい)

という両極端の状態にあった哲学界にあらわれたのが、

イマヌエル・カントでした☆



カントは、人間の理性を吟味し、

「理性で分かることと分からないことがある」

と結論づけました。

そして、独断論の人には「分からないこともあるんだよ」と言い、

懐疑論の人には「分かることもあるんだよ」と言ったのです。

(大まかにいうとね)

この人は主観と客観を逆転させ、哲学においてコペルニクス的大転換を
させた人です。

ちょっと難しい哲学ですが、この本に分かりやすく

解説されてます。



詳しくはコチラ


ちょっと頭をやわらかくするために、私たちと、この世界の関わりに
ついて考えてみたいと思います。


のどかな昼下がり、小鳥のさえずりを聞きながら、草原でゆったりと
していたとします。静かでのどかで平和な世界です。

ところが、そばにいる、犬のポチは落ち着きません。

どうしてかというと、騒がしく犬笛がなっているからです。
犬笛は人間の耳には聞こえません。
ですから、私は「しずかなのどかな世界」と思っています。

ところが、同じ場所に同じ時間にいるはずのポチには大変騒がしい
世界に感じられます。

どちらが正しいのでしょうか?
どちらも正しいともいえますし、どちらも間違っているともいえますね。

本人としては、それぞれ静かな世界、騒がしい世界が正しいのですし、
相手に対して「いま、静かじゃないか」「騒がしい」といったら、
それは相手にとっては違うようにしか思えません。

つまり、すべての人に共通した客観的事実というものはとらえる
ことが出来ない。
それよりも、主観的にみた客観の世界のほうが真実に近い。
つまり「自分はこのように感じている」という事実の方が、
より事実(?)なわけです。
犬笛の例で分かるように、客観的な世界というのは認識できない
からです。

カントの哲学はもっと深いので、今日はこれ以上くわしく話できませんが、
皆、共通と思える世界も、必ず自分の感じる「時間・空間」という
フィルターを通してしか見ることが出来ない
とカントは訴えたのです。

だから、別の生物であれば、時間と空間が同時という世界も存在しうる
ということです。
人間とはまったく違った、時間、空間を感じることが出来うるのです。

すべての時間が「いま」におさまってしまうことも可能なのです。

ちょっと難しいですね。

デカルトが言った物と心、つまり、自分と世界をまったく違うものと
分けるのは、あまりに単純すぎることが少しは分かっていただけた
でしょうか。

このカントの哲学は後に出てくる、ハイデガーにも大変影響を

与え、主著「存在と時間」にも登場します。


※この記事の関連記事はコチラ


西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋哲学に帰結する!?⑦ヘーゲル

2007-06-15 | 科学・哲学
「西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋哲学に帰結する!?」

7回目はヘーゲルです☆

このシリーズは20回くらい続きそうです(^-^)/

感想、ご意見などもお待ちしてます♪


 
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
(Georg Wilhelm Friedrich Hegel
 1770年8月27日 - 1831年11月14日)

ドイツ観念論哲学の完成者であり、近代哲学と現代哲学の分水嶺
として位置づけられることも多い。
なお、同時代人に、作家のゲーテ、音楽家のベートーヴェン、
画家のカスパー・ダーヴィト・フリードリヒがいる。
ヘーゲル死後、一時期ドイツの大学の哲学教授のポストは
ヘーゲルの弟子(ヘーゲル学派)で占められた。
1830~1840年代はヘーゲル学派の中でもヘーゲル左派が興隆したが、
ヘーゲル左派の思想はマルクスらによって批判的に受け継がれ、
次第に勢いが衰えていった。

近代哲学を完成させて(!?)ともいわれるヘーゲル

ヘーゲル哲学は、哲学の百科事典といわれています。
主著「精神現象学

ヘーゲルは汎神論者でした。

汎神論・・・「この世界は神だ」という考え方。

「神が世界を造った」のではなく「世界全体が神」という説。

「我思う故に、我あり」のデカルトも、結局、キリスト教の神を

持ち出さないと説明ができなくなり、近代哲学といえど、

キリスト教の流れ(少なくとも、神という概念からは抜け出れていない)

で続いているわけです。

(これは、あとで問題になります)


さて、ヘーゲルといえば弁証法(べんしょうほう)が有名です。

弁証法は3段階からなります。

●第一段階「肯定」(定位)(即自ともいう)

●第二段階「否定」(反定位)(対自ともいう)

●第三段階「高い段階の肯定」(即自かつ対自ともいう)


哲学用語にすると難しいですね(^-^;

こういう時は、実例を出すと分かりやすいです。

●第一段階 自分は頭がいいと勘違いして勉強してない

●第二段階 試験で「不可」の嵐で、まずいことに気づく

●第三段階 失敗を踏まえて、勉強し、成績が上がる

まあ、こんな感じです。

このように矛盾、対立を通して、パワーアップすることを

「アウフヘーバン・止揚(しよう)」と名づけました。

アウフヘーバンは「持ち上げる」「上に上げる」という意味で、

「止揚(しよう)」と訳されています(難しい言葉ですよね)

これは「破棄する」と同時に「保存する」ことだそうです。

欠点に気づき、それを破棄し、レベル高い状態になり、

それを保持する、ということですね。

ヘーゲルは

『「花」は「つぼみ」によって否定されるからこそ、

 「実」が出来る』(精神現象学)

という詩的表現で、それを説明したりもしてます。

ヘーゲルも結構、詩人?    



※この記事の関連記事はコチラ


西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋哲学に帰結する!?⑧フリードリヒ・ニーチェ

2007-06-15 | 科学・哲学


今回は、2回目のパラダイムシフトのキーパーソン、

ニーチェです☆

哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、
ドイツの哲学者です。

「その思想は100年後に理解されるだろう」
と言われて100年。

まさにニーチェの予言した「ニヒリズム」の時代と

なっているのではないでしょうか?

ニーチェの言葉で何といっても一番有名な言葉は

「神は死せり」("Got ist tot.""God is dead")でしょう。

以下、原文をみてみましょう。


「神が何処へ行ったかって?」と彼は叫んだ、
「お前たちに言ってやろう。
 我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が!
 我々はみんな神の殺害者だ。

 神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。
 世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、
 それが我々のナイフによって血を流したのだ。
 この所業は、我々には偉大過ぎはしないか?
 こんなことが出来るためには、我々自身が神々にならなければ
 ならないのではないか?」

 ここで狂気の人は口をつぐみ、改めて聴衆の顔を見た。
 聴衆もまた押し黙って、訝しげに彼を見つめた。
 ついに彼は、提灯を地面に投げつけた。提灯は壊れて消えた。
「俺は早く来すぎた」と彼は言った。
「まだその時ではなかった。この恐るべき出来事は目下進行中なのだ。
 まだ人間たちの耳には達していないのだ。
 電光と雷鳴は時を要する。実際に起こった後でやっと、
 人の目に入り耳に入る。この所業は、人間たちには最も遠い星よりも
 まだ遠いのだ。─にもかかわらず彼等はこの所業をやってのけたのだ。」

         (「悦ばしき知恵」)


「アンチクリスト」という本も出しており、

キリスト教は邪教です!」という題(なんというタイトル!!)で

翻訳されてますね。(講談社から出てるんですね~)

すごい題に訳されたものですが、もうすぐ5万部になるそうです。



しかし、西洋において「アンチクリスト」という題は、

私たちが「キリスト教は邪教です!」という題を見た以上に

衝撃的かもしれません。

  詳しくはコチラ

以下、引用してみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

適菜収訳『キリスト教は邪教です!』(講談社+α新書)より

「これから私がお話しすることは、もしかしたら少数の人たちにしか

 受け入れらないかもしれません。

 それに正直に言って、皆さんがこの本の内容を完全に理解されることは
 
 難しいのではないかと私は思っています。
 
 私はこの本を熱い気持ちを持ち続けながら書き下ろしました。
 
 それを受け止めていただくためには、皆さんには、まず「精神的」
 
 なことがらに対して、きびしく、正直であってほしいのです。
 
(中略)

 「皆さんは、くだらないものはくだらないと、
 
  はっきりと軽蔑するべきなのです。」

 (中略) 
 
「では「幸福」とは何でしょう。それは、力がみなぎっていくこと、

 勝ち抜いたということ、頂点をきわめたということ、なのです。
 
 弱い人間やできそこないの人たちは、落ちぶれていくべきだと
 
 私は考えています。こういうことを言うと、皆さんは驚かれるかも
 
 しれません。
 
 しかし、本当に人間というもの愛するのなら、落ちこぼれたちが
 
 ダメになっていくのを、むしろ背中から後押しするべきです。
 
 人間という存在が本当に素晴らしいものになっていくためには、
 
 それが必要なのです。それこそが、本当の人類愛というものです。
 
 だからダメな人間に同情することは、非常にいけないことなのですね。
 
 キリスト教という宗教がありますが、あれはその典型です。」


被告・キリスト教は有罪です。私はキリスト教に対して、

これまで告訴人が口にしたすべての告訴のうちで、

もっとも恐るべき告訴をします。

どんな腐敗でも、キリスト教以上に腐っているものは

ないからです。

キリスト教は、周囲のあらゆるものを腐らせます。

あらゆる価値から無価値を、あらゆる真理からウソを、

あらゆる正直さから卑怯な心をでっちあげます。

それでもまだ、キリスト教会の「人道主義的」な

祝福について語りたいなら、

もう勝手にしろとしか言えません。

キリスト教会は、人々の弱みにつけこんで、

生き長らえてきました。

それどころか、自分たちの組織を永遠化するために、

不幸を作ってきたのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すごいことをいいますねー、当時の西洋にてよく言えた

ものです。

ともかく、ニーチェの「神は死せり」は西洋哲学に

衝撃を与えました。

なぜなら、西洋哲学の根本に「キリスト教」が

あったからです。

もっといえば、西洋の科学も「神の心を知る為」に

発展させようとしたものでした。

「神」という大前提がゆらぎ、

2回目の大きなパラダイムシフトがおきるのです!!


では続きはまた(^o^)/


西洋哲学は2回のパラダイムシフトを経て、東洋哲学に帰結する!?⑨マルクス

2007-06-14 | 科学・哲学

「神は死せり!」

ニーチェの思想により、その根底が大きくゆらいだ

西洋哲学。

新たな思想が求められます。

西洋の価値観が大きくゆらぎつつある、そんな時代に

あらわれたのが、マルクスでした。


カール・ハインリヒ・マルクス
(Karl Heinrich Marx,
1818年5月5日 - 1883年3月14日)
ユダヤ系ドイツ人。
経済学者、哲学者、革命家。
産業革命後の資本主義経済を分析し、
フリードリヒ・エンゲルスとともに、
自らの共産主義を打ち立てた。
『共産党宣言』の結語
「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」
“Proletarier aller Lander, vereinigt Euch!”
の言葉は有名。
プロテスタントとしての洗礼を6歳で受けるが、
のちに無神論者になる。


 スタンダードなわけ方なら時代順ということで、ヘーゲルの後、
 キルケゴールとマルクスに分けるのでしょうが、時間的なものより
 大きな流れを重視して、ニーチェの後、キルケゴールとマルクスの
 流れで紹介します☆


今日は、そのマルクスについて勉強してみましょう☆

細かいところまで話できないので、

有名なマルクスの唯物史観(ゆいぶつしかん)と共産主義の骨組みを

紹介したいと思います。

(細かいところは、かなりはしょってます、当然ですが。。)

唯物史観とは、

おおざっぱにいいますと、

「物質的な発展に基づいて、

 人間の発展や変化を説明する」方法です。

マルクスは次のようにいいます。

「社会の発展は、その社会のもつ物質的条件や
 生産力の発展によって引き起こされる。」

「どんな国家でも、支配階級のための権力組織である。」

「言い換えれば、国家とは、ある一階級が自らの支配を安泰にし、
 自らの好ましい生産関係を社会に強いるための手段である。 」

「今ある生産関係の形態が生産力の発展を助けず、
 その足かせとなるとき、革命がおきる。」


大分、まとめたのですが、まだ、難しいですかね(^-^;

マルクスの主張は、最終的な結論からいうと、

「支配者階級ばっかり良い思いするな!
 みな、平等にしよう!」


といった感じ。

その理想を実現しようとして、

「能力に応じて働き、必要に応じて報酬を受ける」社会を

目指したのが共産主義です。


自由を重んじている資本主義に対して、

共産主義は、平等を重んじているともいえるでしょう。


しかし、理想と現実には大きなギャップがあったようです。

結局ソ連はご存知の通り崩壊してしまいました。

なぜか?

「能力に応じて働き、必要に応じて報酬を受ける」社会を

シンプルに考えてみましょう。

以下シンプルに数字で共産主義の仕組みをあらわしみました。

「能力に応じて働く」とは、

100の能力もつAさんは、100働きましょう。

70の能力をもつBさんは、 70働きましょう。

40の能力のCさんは、40働いてくださいね。。

ということ。

結果、全体の生産が210(100+70+40)になります。

これを必要に応じて(平等に)分配すると、

1人、70ずつになりますよね(210÷3=70)

能力40のCさんにはまさに理想の社会。

ところが、100の能力のあるAさんはどうでしょう?

「なに、あのトロいCさんと同じ給料!?」

 平等の理念はわかるが、どうも釈然としないでしょう。
 
そうすると、Aさん、手を抜きはじめる。

100の能力もつAさんは、70しか働かなくなる。

70の能力をもつBさんは、 70働く。

40の能力のCさんは、40働く。。
  
結果、全体の生産が180(70+70+40)に落ち込む。

平等に分配され、一人の取り分は、60(180÷3=60)

すると、今度は

100の能力もつAさんが、60しか働かなくなる。

70の能力をもつBさんが、60しか働かなくなる。

40の能力のCさんは、40働く。。

こうして、最後、みな40しか働かなくなり、収入はガタ落ち。。。

結局、「マルクス主義は、平等に貧しくなる思想」と皮肉られて

しまいます。

たけしは、マルクス主義をこう評しました。

「今世紀最大の新興宗教といったら、
やっぱりマルキシズムだろうな。
まったくとんでもない宗教だった」(ビートたけし)

”宗教はアヘンである”として排斥したマルクス主義が、

実は最大の新興宗教だったというのですから、

皮肉なことですね。

さらに、たけしは言います。

「マルクス教信者たちは、
人間がいかに言うことをきかねえか、
だらしねえか、ダメなものかというのが、
全然わかっていなかった」

なるほど、簡にして、明、ですね。

結局、人間の欲望というもの、自分というものが分かって

いなかったということ。

「神」の理念を失い、「共産主義」を目指しましたが、

これも失敗に終わった西洋。

西洋文明は、どこへ行くのか?

次回に続きます(^o^)/

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