・・・先月、新聞で報じられた新発見の日本地図を見ていて、思ったのですが、古代日本地図の書き方として、この地図も、図の上が九州で、下の方に、中国・四国、近畿、関東、東北と描かれている。
先月、新発見された日本地図は、新聞報道によると、鎌倉時代から、室町時代にかけて(14世紀)作成されたとみられるもので、日本の全土を描く地図で、今のところ完全な日本全土の地図では最古と云われている物です。
地図は、広島県の博物館に寄贈されたもので、国内68か国名、郡名、人口や田畑の面積などが、一緒に記入されています。
上の写真は、新聞の写真から引用したものです。(122㎝×57㎝)
此の地図の話題から、話はこの文の最初に書いた地図の書き方の話に変わるが、
私がこのニュースを聞いて、面白いと感じたのは、日本古代史で魏志倭人伝の内に書かれている、当時の中国の都から、日本国の中の邪馬台国(畿内にあった?)への行き方は、今の北九州から南へ旅行するという道程が魏志倭人伝に書かれていることになっているが、現代の地図上では、東へ行くはずなので、その方角の違いが、日本古代史上の大きな謎になっているのである。
さっきも述べたように、私が知っている昔の古い日本地図の多くは、上に載せた地図と同じように、近畿は、九州の下に書かれている。
つまり、昔は、旅のスタート地点(古代日本で栄えた北九州、又は、中国の都)を上に書き、旅の先を下に書いていたのではと思う。
ある時代(日本全土の地理認識が出来た時代)から、地図では、北を上に描くようになったのである。
現代人の常識では、上は北ですから、魏志倭人伝のなかで、邪馬台国屁の方角が南と書いているのは方向を間違えたというのが、古代史上の、邪馬台国の位置論争の大きな論点ですが、古代の日本では、この地図のように、出発点が図の上に書き、目的地が下に書くという事を踏まえれば、現代の邪馬台国の位置論争は違う論点が出てくるのではと思った。