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「極楽」は「楽を極める」とも読める。「至極極上の楽しみ」「極めつきの楽しみ」「感極まった楽土」「極上の楽土」などとも読めるかも知れない。
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サンスクリット語では極楽は「スカーヴァテイビューハ」。ここは仏界の楽土である。だからそこは「仏国土」「浄土」ともされる。
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人間の暮らしている場所は娑婆という。これは堪忍するところだから、「忍土」とも名付けられている。
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この忍土のような苦しみがなく、仏道修行をしている菩薩が受けることができる楽しみだけがあるところということになっている。
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おのれおのれおのれに振り回される世界、おのれだけを可愛がる地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道がないとも書いてある。
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人間は苦しみがないと楽しみが分からない。比較することでそれぞれが成り立っている。楽しみがあるから苦しみもある、そういうことになっている。
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が、仏界ではそうなっていないようだ。苦しみがなくとも楽しみが単独で楽しみとなっていられるようだ。
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仏界はだから、おのれの執着から解放された楽しみ=仏界の楽しみをとことん極めて行くところでもある。あくまで人間のときに味わったような種類の楽しみではない。菩薩、仏陀として受ける楽しみである。だからすべてが未経験である。
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憶測するにこれはたぶん「利生の楽しみ」であろう。衆生利益(しゅじょうりやく)を実践して行くときに受ける種類の楽しみだろう。
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だからそれで個々人が自慢をしたりすることはないかもしれない。ひとり悦に入ることもないかもしれない。仏陀を楽しくさせるような楽しみなのかもしれない。
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衆生が生きているのはこの地球上だけではない。この宇宙には三千大千の国土が犇めいている。その国土には衆生がそれぞれの暮らしをしている。彼らはまだ苦しんだり悲しんだりしているし、楽しんだり嬉しがったりもしている。
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そこへ飛んで行って救済活動をするのである。衆生に「絶対楽」を説いて回り、自分もその「絶対楽」を体験していくのである。
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断っておくけれど、これはしかし勿論さぶろうの憶測である。憶測の範囲を一歩も出ていない。午前中草取りをしながら漠然と考えていたことだ。
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楽しみというのは極まっていくのだ。そういう種類の楽しみもあるのだ。仏界に入ればそういうような未経験の楽しみが味わえるとなれば、忍土の生を死ぬのも悪くはない、そうも思えて来る。
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この地上での我利我利の楽しみなんていうのはすぐ飽きが来るし、底に当たってしまうものだ。そんなものをいつまでひっくり返して、瞬間瞬間の己にあてがっていれば気が済むのか。さぶろうは考え込んでしまった。
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娑婆世界の我利我利は一から十「おのれ可愛さ」で成り立っている。そこを抜けるところに「極楽」「楽土」の楽が広がっているに違いない。