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坐布に座った一日が、百歳の一生分に相当するとすれば、

2024年07月12日 17時31分42秒 | Weblog

徒(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり。

其の中、一日の行持(ぎょうじ)を行取(ぎょうしゅ)せば一生の百歳を行取す。

此の一日の身命は、尊ぶべき身命なり。貴(たっと)ぶべき形骸なり。

此の行持あらん身心自らも愛すべし。自らも敬うべし。

曹洞宗経典「修証義」より。

(これはわたしのなまぬるい意訳です。中心を外れているような気がします)

もしも仏になる修行をしないで、あたら、百年を使い果たしてしまうとすれば、その間の歳月は、みずからをどう思うだろうか、悔いを残しはすまいか。百歳と言わずとも、一日だって、大事にするべき身命である。仏道修行をして大事にされた一日は、一日で百年に値するだろう。だから仏の修行(=行持)を行じている我が身の一日を、この上なくよろこぶべきである。

曹洞宗の行持は、座禅の只管打坐でしょうか。

わたしの仏道修行は軽薄です。仏陀を思慕しているだけです。ふわりふわりして念仏を唱え読経し瞑想したりするだけです。ですからここに書かれている「行持を行取する」に相当していませんが、修証義の教えていることには賛同します。

一日が百歳の一生分に値するとすれば、百歳まで生きていなくともいいことになるでしょう。

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