多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

支援につながらない事のメリットその2

2018-06-17 16:29:29 | 修業について
子ども達に 診断がついた事で、医療に頼る意味がほぼ無くなった。


発達外来は いつ行っても 混んでいて


予約していても 最長3時間待ちという事があった。


たまに 受診するだけで、我が家は2人合わせて


数分で診察終了であるが、他の患者さんは 様々なお話があるらしく、


30分、時には1時間くらい診察室から出てこない時もあった。


兄ちゃんは 特に 目立つ障害ではなかったので、


診察自体あまり好まなかった。


自閉っ子も 最初の受診前の数年で、


私が「このまま育って 10年後もこのままだったら困る」と


思った事を 修行(訓練のような意味だと思ってください)で


一つ一つ消していったので、パニックも 自傷行為も消えていて、


苦手だった 乗り物にも 乗れるようになっていた。


病院に 行くのは 医師の診断書が必要な時と、


知能検査をする時がほとんどだった。


園や学校から 参考にしたいからと 言われた事もあったし、


進路の 節目節目で 学校に説明するには 「医師の診断書」は


親の説明や 考えや 目の前の子どもの様子より(!)


役に立つ場面があり、そのことに びっくりした。


私が子育てをした頃には、まだ 放課後デイなどの言葉は


聞いた事がなかった。あったとしても 受け入れるお子さんの


状態によって、何か規定があったのだろうと思う。


私は 仕事と 介護と 家事 育児をしつつ、


合い間に 子ども達と 遊ぶのを楽しみにしていた。


車で移動中に、見つけた標識や 看板の文字を教えたり、


洗濯物を 入れる時も、かごを いくつか用意して


親子で、あるいは きょうだいで競争して


かごの中に取り込んだ。


たくさん入れた人が勝ち、という日もあれば、


自分の 服を見分けて入れた人が 勝ちという日もあった。


弱視で 体が小さくハンディのある自閉っ子は、ある時


自分のシーツを必死にひっぱり、カゴに入れて「いちばん!」と


嬉しそうに笑った。シーツ一枚でカゴはいっぱいで、自分の物を見分けた事で


加点が付き、兄ちゃんを上回って 文句なしの「いちばん」である。


療育施設では 何をするのか 私には わからないが、


こうして 数分で 親子・きょうだいで できる事を


毎日 積み重ねて行く事は、子ども達の 体作りにいい影響があったと思う。


おやつを食べる時も、一個だったものが 分けた瞬間に 数では 「2」になる。


しかし 大きさは 「半分」である。これは 自閉っ子には 言葉で教えるより


生活の中で 回数を重ねるのがいいと思い、不公平な分け方になっても、


本人が 「おかしい」と気づくまで 見守っていた。


プラスチックのコップは 落としても割れないけれど、


ガラスや マグカップは 割れる事、


紙コップは 割れないけれど、つかむ力加減で


落とさなくても 中身が こぼれてしまう事、などを


日常の中で 体験させた。


大好きなチョコレートも、


包み紙にくるんだ物を 指で取り出すにはどうするのか


自分で やらせた。それができるようになったら、


丸い粒の チョコレートを 出し、指でつぶさないようにする


力加減を 覚えさせた。


積み木や ブロックなど 固さが同じもので 遊ばせていたら、


こういう事を 覚えるのには また別の時間が必要だったかもしれない。


私でしか 扱えない、手のかかる子から、まず 父親や他の家族と関われる事を


目標にし、物を見る事、見た物と自分の距離感を理解できるようにする事、


そして 見た物を きちんとつかんで持てるようにする事を


目標にした。


目と手の協調ができないままで、手に持ったクレヨンで絵を描く事は不可能だし、


鉛筆で 文字を書くことも不可能ではないか、と私は思った。


療育機関の人は 専門家には 違いないが、


わが家の子ども達が 育ってきた環境を 生で見たわけではない。


発達のどこに欠けがあるのかは わかっても、そこに到達するまでの


道のりは 説明しても 全部は理解できないだろう。


自閉症の療育で よく聞く「絵カード」は、私は 使わなかった。


カードは いくら厚いものでも、不器用なうちの子には持ちにくい。


扱いに苦労する道具を使い、他の事を教えるのは難しいだろうと思った。


何を 教えるにしても、その子に扱いやすい物を使った。


弱視の自閉っ子には、白地に 絵や文字が 描かれたカードは


判別がしにくい。


私は ペットボトルの蓋を 集めて、まずは その一つ一つの色や


書かれたデザインの違いを見せて 遊ばせた。


自閉っ子は 自分が好きな お茶や ジュースの蓋を集めて


喜んで遊んだ。神経衰弱のように、裏返しにして 二つ取り、


同じだったら 蓋をもらう。たくさん集めた方が勝ち、というのも


した。それに 飽きた頃に、蓋に丸いシールを張り、文字や


数字を書き、遊ばせた。無理に教えず、様々な形の模様があるなあ、という


段階から 出発した。


小学校入学時までに、覚えた文字は アルファベットの「H」と数字の「2」の二つである。


この「二つしか」覚えられないのか、と思う方もいるだろうが、


私は 満足していた。自閉っ子は 診断した医師に、「一生文字の読み書きはできない」と


言われていた。


しかし 二つとはいえ、文字の違いが わかるようになっていた。


しかも「H」は 線二本を 線一本出つないだ形であり、「2」は


カーブした曲線の最後が まっすぐな線で終わる形である。


「まっすぐ」と「曲線」が 完全ではないにしても 理解でき、


見分ける力がついた事で、私は自閉っ子は この先もっと多くの文字を


見分けるだろうし、時間をかければ 書くこともできるようになるだろう、という


事を 確信した。


他にも 多くの課題が 自閉っ子にも


兄ちゃんにも あったけれど、私は どちらの子の将来も


あきらめてはいなかった。


知的に高い兄ちゃんでも、自閉っ子に及ばない点があったし、


もちろん その逆もあった。


どちらの子も いい面があり、出来ない事もあったけれど、


できない部分は助けつつ伸ばしてやり、最低限の身辺自立や


家事、あいさつをはじめとする会話、公共の場でのマナー、


そうした事を マスターできたら、それぞれ自分で好きな道を選んで


生きていってくれたら、というのが 私の思いだった。


療育機関も病院の医師も、一生付き合うわけではないし、


この子たちの 行く末に責任を持ってくれるわけではない。


私が いなくなっても生きていけるようにしておきたい、というのが


私の 一番の願いだった。


私が 数日家を空けても、他の家族と 落ち着いて過ごせ、


食事をし、夜は 眠る。


子ども達の睡眠障害が 治るまでには 数年を要したけれど、


いきなり寝かせようと力まずに、心身の他の部分から


整えていったことが 結局は 早道だったと思う。

 








発達障害、治るが勝ち! 自分の生き方を自分で決めたい人たちへ
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