わが家の息子達が 発達凸凹やその他の障害、虚弱体質で
将来どうなるかを 私と夫以外の家族や親族が 心配していた頃から、
私は この子たちを「将来働ける大人にする」と決めていた。
福祉制度は どんどん変わる。将来どうなっていくのか
保証はない。
子どもは 毎日育っていく。あちこちに欠けがあっても、
それも成長と共に変わっていくかもしれない。
少子高齢化の世の中で、福祉に割ける予算だけ 確保できるか
20年、30年後は わからない。
私は 未熟児で生まれ、すぐに保育器に入った。
いつ亡くなってもおかしくない、と名医がさじを投げた。
保育器の中でさえ うまく呼吸ができなくて、
何度も 呼吸が止まり、死にかけた。
息ができないほどだから、ミルクもろくに飲めない。
鼻からチューブを通し、数CCをゆkっくりと入れる。
そんな調子で 半年以上を過ごした。
命が助かっても、体や脳のどこかに 重篤な後遺症が残るだろう、と
何人もの医師が 両親に伝えた。
私は その中で 生き延びた。
体は細く小さく、発達も発育も 遅い。
しかし その当時、私のような状態で生まれた子どもで、
大きな 後遺症を持たない子どもは稀有だった。
病院は「未熟児の研究対象にしたいから、15歳になるまで
追跡調査に協力してくれないか」と申し出た。
当時、健康保険を使っても、私の医療費の負担は 若い父の収入では
まかないきれない額だった。
研究対象者という事になれば、研究費の題目で 病院が
医療費を父の代わりに負担できる。父は承諾し、
私は 母に連れられて 何度も病院に行き、
白衣を着た大人がたくさん居る場所で
歩かされたり 積み木を摘んだり
あれこれさせられた。少し大きくなってからは、
迷路や 示された図の模写、二つの絵のまちがいさがしなどを
させられた。
たまに 他の子どもたちと一緒になり、
大人が 出す音や 声に どの子が早く反応するか、など
様々な事をした。車いすの子もいたし、歩けるけれど麻痺のある子、
その他にも 色々な子がいた事を覚えている。
どの子のお母さんも 子どものために 必死だった様子が
子どもで 場の空気が読めない私にも 伝わってきた。
母は あちこち歩き回る妹の世話の方に 気が行き、
私は 名前を呼ばれると 一人で 指示された場所に行き
言われた事をした。
私は 成人後に アスペルガーとADDと診断されたが、
当時は 私のような知能や言語に遅れがなく、
家庭や 集団生活で 大きな問題がないと
判断された子どもには 自閉症の診断はつかなかった。
私は 高校卒業後、就職し 結婚して家庭を持った。
生まれた子どもたちに 普通とは違う、そして
幼い時の私に似た面がある事に いち早く気付いたが、
やはり 診断してくれる医師はいなかった。
診断が つくのは遅かったけれど、私には子ども達の欠けが
わかっていたので、それを 補い、自力でできるように
家の中の 遊びや 日常の小さな事の繰り返しの中で
子どもがそれと気づかぬように その子その子の弱点を
補強するような生活を続けていった。
目標は、「働ける大人にする」であった。
人より ハンディがあっても、その子の持てる力の限界まで
伸ばしてやりたかった。できない事をいつまでも 誰かに
手伝ってもらていたら、できるようにはならない。
「ゆっくり待つ」のは やらせる機会を十分与えた上で、
成果が 出る事にとらわれずに待つ事だと思っていた。
作物だって早生もあれば晩生もある。今できない事を
「一生できない」と決めてかかる気持ちは私にはなかった。
私の家庭は 育児最優先ではない。高齢者の世話や介護、
病気の時の看護が最優先で、家事や その他の事が優先である。
その環境でも、積み重ねの力は大きかった。少し進歩して、
自分でできるようになると、子どもは 自分で 次の目標を見つけて
そちらに向かう。
知能がいくつだからとか、認知に問題があるから 文字の読み書きはできないと
専門家に言われても 鵜呑みにはしなかった。
「今の医学では助からない」「後遺症が残る」と 言われた私が
こうして生き延びて 親になっているのだから。
子ども達は 自分で 課題を乗り越えて行き、
最後には「働く大人」になり、「納税者」になった。
私が 生き延びるために使われた 公立病院の研究費は、
誰かが払ってくれた税金である。
私や子ども達は 公立の学校卒である。それも皆税金である。
働いた方が 納めてくれた税金のおかげで、子ども達は
自立できた。使ってきた税金のお返しはとてもできないが、
ささやかでも 働いたお金から税金を払い、それが どこかで
どなたかの役に立てばと思うし、息子達も同じ思いである。
「障害のある子を 納税者に育てようとするのは、子どもの人権侵害じゃないか」
「働けない子は 価値が無いというのか」と言った意見を頂く。
私は 自分の子どもを 「親がいなくなっても生きていけるように」したかった。
ただそれだけである。別に よその親御さんや お子さんに 私のしたことを
勧めるわけではないし、それぞれのお宅で お子さんに合うと思う教育をすればいいと思う。
私の息子達は 働くことを選んだし、それぞれ働きに見合う収入を得て、
家に食費を入れてくれ、収入のない私に小遣いをくれる。
あとは貯金したり 自分の趣味に使っている。
息子達は 自力で 生活がしていけるが、障害が重く、
福祉の手を借りないと 生活が送れない方もいる。
少子高齢化で、福祉にかかるお金は今後も増えていくと思う。
本当に 福祉の援助が必要な方に 手が行きわたる事を願うし、
息子達が ささやかでも 人の役に立つお金を払えるようになった事を
嬉しく思う。
「このままでは ろくな大人になりませんよ」
「一生 文字の読み書きはできないでしょう」
言われた言葉を鵜呑みにせず、子どもの可能性を信じてよかったと思う。
明石洋子さんの 息子さんは 自閉症で、進路を選ぶ時に
当時主治医だった 佐々木正美先生は 「無理をさせない方がいい」という事を
おっしゃったそうだが、明石さん親子は 息子さんの希望を優先し、
親子で努力され、息子さんは「働く大人」になった。
明石さんのお名前と そのエピソードしか 存知あげないが、
「自分の子の可能性を信じる」という姿勢に 共感する私である。
将来どうなるかを 私と夫以外の家族や親族が 心配していた頃から、
私は この子たちを「将来働ける大人にする」と決めていた。
福祉制度は どんどん変わる。将来どうなっていくのか
保証はない。
子どもは 毎日育っていく。あちこちに欠けがあっても、
それも成長と共に変わっていくかもしれない。
少子高齢化の世の中で、福祉に割ける予算だけ 確保できるか
20年、30年後は わからない。
私は 未熟児で生まれ、すぐに保育器に入った。
いつ亡くなってもおかしくない、と名医がさじを投げた。
保育器の中でさえ うまく呼吸ができなくて、
何度も 呼吸が止まり、死にかけた。
息ができないほどだから、ミルクもろくに飲めない。
鼻からチューブを通し、数CCをゆkっくりと入れる。
そんな調子で 半年以上を過ごした。
命が助かっても、体や脳のどこかに 重篤な後遺症が残るだろう、と
何人もの医師が 両親に伝えた。
私は その中で 生き延びた。
体は細く小さく、発達も発育も 遅い。
しかし その当時、私のような状態で生まれた子どもで、
大きな 後遺症を持たない子どもは稀有だった。
病院は「未熟児の研究対象にしたいから、15歳になるまで
追跡調査に協力してくれないか」と申し出た。
当時、健康保険を使っても、私の医療費の負担は 若い父の収入では
まかないきれない額だった。
研究対象者という事になれば、研究費の題目で 病院が
医療費を父の代わりに負担できる。父は承諾し、
私は 母に連れられて 何度も病院に行き、
白衣を着た大人がたくさん居る場所で
歩かされたり 積み木を摘んだり
あれこれさせられた。少し大きくなってからは、
迷路や 示された図の模写、二つの絵のまちがいさがしなどを
させられた。
たまに 他の子どもたちと一緒になり、
大人が 出す音や 声に どの子が早く反応するか、など
様々な事をした。車いすの子もいたし、歩けるけれど麻痺のある子、
その他にも 色々な子がいた事を覚えている。
どの子のお母さんも 子どものために 必死だった様子が
子どもで 場の空気が読めない私にも 伝わってきた。
母は あちこち歩き回る妹の世話の方に 気が行き、
私は 名前を呼ばれると 一人で 指示された場所に行き
言われた事をした。
私は 成人後に アスペルガーとADDと診断されたが、
当時は 私のような知能や言語に遅れがなく、
家庭や 集団生活で 大きな問題がないと
判断された子どもには 自閉症の診断はつかなかった。
私は 高校卒業後、就職し 結婚して家庭を持った。
生まれた子どもたちに 普通とは違う、そして
幼い時の私に似た面がある事に いち早く気付いたが、
やはり 診断してくれる医師はいなかった。
診断が つくのは遅かったけれど、私には子ども達の欠けが
わかっていたので、それを 補い、自力でできるように
家の中の 遊びや 日常の小さな事の繰り返しの中で
子どもがそれと気づかぬように その子その子の弱点を
補強するような生活を続けていった。
目標は、「働ける大人にする」であった。
人より ハンディがあっても、その子の持てる力の限界まで
伸ばしてやりたかった。できない事をいつまでも 誰かに
手伝ってもらていたら、できるようにはならない。
「ゆっくり待つ」のは やらせる機会を十分与えた上で、
成果が 出る事にとらわれずに待つ事だと思っていた。
作物だって早生もあれば晩生もある。今できない事を
「一生できない」と決めてかかる気持ちは私にはなかった。
私の家庭は 育児最優先ではない。高齢者の世話や介護、
病気の時の看護が最優先で、家事や その他の事が優先である。
その環境でも、積み重ねの力は大きかった。少し進歩して、
自分でできるようになると、子どもは 自分で 次の目標を見つけて
そちらに向かう。
知能がいくつだからとか、認知に問題があるから 文字の読み書きはできないと
専門家に言われても 鵜呑みにはしなかった。
「今の医学では助からない」「後遺症が残る」と 言われた私が
こうして生き延びて 親になっているのだから。
子ども達は 自分で 課題を乗り越えて行き、
最後には「働く大人」になり、「納税者」になった。
私が 生き延びるために使われた 公立病院の研究費は、
誰かが払ってくれた税金である。
私や子ども達は 公立の学校卒である。それも皆税金である。
働いた方が 納めてくれた税金のおかげで、子ども達は
自立できた。使ってきた税金のお返しはとてもできないが、
ささやかでも 働いたお金から税金を払い、それが どこかで
どなたかの役に立てばと思うし、息子達も同じ思いである。
「障害のある子を 納税者に育てようとするのは、子どもの人権侵害じゃないか」
「働けない子は 価値が無いというのか」と言った意見を頂く。
私は 自分の子どもを 「親がいなくなっても生きていけるように」したかった。
ただそれだけである。別に よその親御さんや お子さんに 私のしたことを
勧めるわけではないし、それぞれのお宅で お子さんに合うと思う教育をすればいいと思う。
私の息子達は 働くことを選んだし、それぞれ働きに見合う収入を得て、
家に食費を入れてくれ、収入のない私に小遣いをくれる。
あとは貯金したり 自分の趣味に使っている。
息子達は 自力で 生活がしていけるが、障害が重く、
福祉の手を借りないと 生活が送れない方もいる。
少子高齢化で、福祉にかかるお金は今後も増えていくと思う。
本当に 福祉の援助が必要な方に 手が行きわたる事を願うし、
息子達が ささやかでも 人の役に立つお金を払えるようになった事を
嬉しく思う。
「このままでは ろくな大人になりませんよ」
「一生 文字の読み書きはできないでしょう」
言われた言葉を鵜呑みにせず、子どもの可能性を信じてよかったと思う。
明石洋子さんの 息子さんは 自閉症で、進路を選ぶ時に
当時主治医だった 佐々木正美先生は 「無理をさせない方がいい」という事を
おっしゃったそうだが、明石さん親子は 息子さんの希望を優先し、
親子で努力され、息子さんは「働く大人」になった。
明石さんのお名前と そのエピソードしか 存知あげないが、
「自分の子の可能性を信じる」という姿勢に 共感する私である。
お仕事がんばります―自閉症の息子と共に〈3〉 (自閉症の息子と共に (3)) | |
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