多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

働く大人を目標にして

2019-01-03 14:38:22 | 修業について
子ども達に 発達の凸凹があると気づいた日は、


遠い昔の話になってしまった。兄ちゃんの発達のヌケに気付いたのは、


寝返りしても いい体勢が取れず、キーキー泣いていた事や、


はいはいをせずに いきなり立った事からである。


自閉っ子は 生まれてすぐ、病院にいた頃、おむつや母乳へのこだわりから


「自閉症じゃないか?」と思った。


どちらの子も、健診では「異常なし」と言われ、相談しても取り合ってもらえなかった。


自閉っ子は 音に反応せず、呼んでも振り向かない。でも ちょっとした音に


体をびくつかせ、泣き出したりする。それを話したら難聴の疑い、と言われ


何度か 検査をし、「聞こえていますね」で それきり何もなかった。


数年後、どちらの子も「発達障害」の診断が下りるのだが、


診断が下りる前に、私は 自分ができる範囲で、自己流の修行を


子ども達にさせていた。


私の目には この発達の凸凹は自然に治るものに見えなかった。


これは 何かしたほうがいいでしょう、と 誰かから言われるのを


待ってはいられなかった。


私が子ども達の世話に割ける時間は 十分ではなかったし、


訓練を受ける施設など 近くにはない。


自己流で 遊びや 家事の手伝いをさせながら、毎日何かしらの


刺激を与えた。


こつこつこつこつ、その子の出来る事できない事を観察しながら、


体を使わせた。


私の目標は、「子ども達を働く大人にする事」「人に迷惑をかけない」だった。


わが家の周囲には、療育施設もなかったし、作業所もない。


考えられる進路は、「学校に通い、その後は働く」だけである。


その頃の 子ども達の様子を見たら、普通の親はそんな無謀な事はしないだろうと思う。


私は 子ども達の今の限界は無視せず関わり育てたが、


将来の可能性はここくらいだろう、と勝手な思い込みは持たなかった。


私も 発達凸凹であるが、学校を出て就職し その後は結婚して


出産育児をこなしている。私が結婚する、といったときに、


「おめでとう」という言葉は聞けなかった。皆「できっこない」


「やめておきなさい」と言った。そんな私でも 主婦として母として


何とかやっていけるようになったのに、まだ成長過程の子どもに


「これは無理」と変なブレーキはかけたくなかった。


学校生活で 本人たちは いろいろ苦労もあったろうが、


それは どんな子どもでも同じだろうと思う。


無理はしなくてもいいけれど、努力をあきらめたら終わりだと思った。


子ども達は 心身共に 成長し、どちらも「働く大人」になった。


社会のルール、職場のルールも 理解し、社会人として


生活している。


仕事を始めた時と 今とを比べたら、格段に進歩している。


まず働く事を目標にしてよかったと思うし、その仕事に行きつくまで、


本人たちが 努力してくれた事がうれしい。


兄ちゃんは 元旦から 仕事、自閉っ子は2日から 仕事である。


子育ての時期は とうに過ぎ去り、私は夫と二人で 静かなお正月を過ごす。


夫への 年賀状を書き、投函したものが 今日夫に届いた。


「今 子ども達が 頑張って働けるのも、お父さんの背中を見ていたからだと思います。


子ども達の 支えや目標として 頑張ってくれて、ありがとう」


夫は 「年賀状が来たぞ。あれ?お前からか。」と言って


文面を見ていた。


夫も 子ども達と同じように、自分の課題と向き合って努力して、


ここ数年で 様々な事ができるようになった。


新年初売りの スーパーで妻の買い物に付き合い、


外食をするなんて 以前の夫にはできなかった事である。


夫や子ども達に負けないように、私もできる事を増やしていこうと思う。









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「いい子」ではなかった私が親になって

2018-11-03 16:37:51 | 修業について
私は 子どもの頃、文字や文を書くことは 秀でていたが、


その他のことは からきしだめだった。隣のおばさんに「おはよう」と


あいさつすることもできないし、何もない道でよく転んだ。


ランドセルが 重すぎて、通学団のお姉さんに助けてもらったりもした。


そんな風だから、学校に着く頃には 疲労困憊で、頭も回らず、運動もできない。


おとなしく座っている事はできたけれど、先生の指示がわからず、ぼーっとしていた。


学校の勉強は、できるものは 先生が驚くほどできるけれど、


できないものは 全くできない。


文章題は、意味のある日本語なので 解けるけれど、


計算式だけだと、それが何を意味するのか、


わからない。やる気もでない。計算問題が手つかずや間違いで、


文章題だけ解いた私を、先生はひどく怒ったが、私はなぜ怒られたのか


さっぱりわからなかった。


給食の時間は苦行である。当時はパン給食で、牛乳が必ず出た。


牛乳でちぎったパンをなんとか流し込むのだが、それが済んだら


おかずが待っている。偏食で小食の私には、パンと牛乳だけが精一杯なのに、


先生がやってきて「食べなさい」という。食べられません、と言っても絶対に許してはくれない。


他の子ども達が 給食の片づけをして 外に遊びに行く中、私は先生の監視下である。


食べないと解放されない、とわかってから、先生の目を盗んで、パンにおかずをはさみ、


机の中のコップ袋に押し込む、という技を覚えた。


先生は 「遅いけど、食べたからいいわ。給食室に食器持っていきなさい」と


開放してくれた。しかし 帰宅後にコップ袋の事をすっかり忘れていたら、


とんでもない事が起きた。母がまさか中に給食が押し込まれているとは知らず、


洗濯を始め、洗濯機内は油やパンくずでどろどろである。


こっぴどく叱られたので、この技も使えなくなり、先生のタイムリミットまで、


ひたすら食べるふりをするしかなかった。


「こんなに残して!」と怒られた。給食室のおばさんにも「もっと早く持ってきて頂戴」と


言われ、なんでこんな物を食べなきゃならないんだろうと思った。


栄養も十分で バランスが取れているのだろうが、私は2月生まれで、未熟児である。


他の子どもと同じ量の食事は多すぎるのだが、そんな事は考えてももらえなかったし、


親も「好き嫌いはダメ」「出された物は全部食べなさい」で 終わりである。


今でも忘れられないメニューが、「おでん 牛乳 パン ミカン サラダ」である。


おでんと牛乳?牛乳とミカン? どう組み合わせても おかしな献立だと思ったが、


皆 普通に食べている。ミカンの酸味と独特の香りが周囲から流れてくる。


味覚過敏で、果物の甘味を感じられず酸味を強烈に感じる私は、教室から出ていきたかったが、


それは絶対に許されない。地獄の時間だった。


運動もできないし、歌も 縄跳びも 何もできない。他の子が遊んでいるのを見て、


「よくあんな事ができるなあ」と思ったが、仲間に入れて欲しいとは思わず、


教室で 本を読んでいた。しかし中には親切な子がいて、「おいでよ」と


手を引っ張る。入れてもらったところで、ルールがわからないし、


わかったところで 失敗だから、私の順番で遊びが中断する。


皆が 嫌な思いをするだけだから、行きたくはないのだが


一人で教室にいると目立つので、他にもいろいろ嫌な事があった。


先生からは 問題児とみられ、他の子からも「変な子」とよくいじめられた。


家に帰れば きょうだいの世話がある。母が帰宅するまでの時間は長かった。


子どものあやし方、なんて知らないのだから、当然きょうだいはぐずる。


「おかああさあああん!」と声を上げるのをなだめてみても


また その繰り返しである。


人との関わりが下手で、遊びも下手で、きょうだいとすらうまく関われなかった私だが、


結婚して生まれた子ども達を抱いたりあやしたり世話をするのは、


嫌ではなく、むしろ楽しかった。赤ん坊ってかわいいなあ、と思ったし、


夜泣きも ぐずりも 気にはならなかった。普通よりも手が掛かる子ども達だったが、


そういう性分なんだなあ、と思ったので 発達の偏りや遅れがあるのに気付いても、


悲観はしなかった。あー、私と同じタイプかなあ、と思っただけで、


ショックはなかった。よく発達障害の子は育てにくい、と聞くが、


子ども達は 昼も夜も泣くし 寝ないし あれこれ手はかかったが、


まあ こんなものだろうと思っていた。


発達障害だろうなあ、と思い、健診や小児科で相談しても


「大丈夫です」「気にしすぎ」で片づけられて、腹が立ったが、


その後 何年も後に「どちらのお子さんも発達障害ですね」と


言われた時は、内心(今頃わかったのお?遅すぎるよ。鈍いなあ)と思ったが、


「ありがとうございます」と頭を下げて、診断書などをお願いした。


言葉のなんたらだの あおいそらなんとかと 書いたパンフレットを見せられ、


(言葉の教室や 療育だな)と 中を見なくてもピンときて、


「またにします」と 断って帰った。


私は 子ども時代に 誰からも「いい子」とは思われずに育ったが、


逆に 育てる側になった時には、「いい子にしよう」「頑張って育てよう」という


気負いが無くてよかったのかもしれない。


どっちの子も 私にないいいものを持っていたし、とにかく愛しかった。


よそのお母さんのように 真面目な子育てはできないけれど、


案外そういう事がよかったのかとも思う。


育児書は 活字中毒の私には、読み物としては面白かったけれど


それを実践しようとは 思わず、すべてが 子どもの様子を見て、


まあいいか、というやり方で 離乳食も 断乳も 皆適当だった。


子ども達は それでも 育ったし、途中であれこれ寄り道もあったけれど、


私は 子どもの様子だけ見て 自分がいいと感じたままに育ててきた。


子ども達の様子を見て、「こんな風では 将来碌な子になりませんよ」とか


「知的に問題があるから、一生文字の読み書きはできないでしょう」など


悲観的な言葉や 罵倒も受けたけれど、子ども達は 想像以上に伸びて、


「普通では 考えられない」と言われるようになった。


医学上のデータとか、O歳時にこうだと 将来はOOしかできないとか、


私も 本や 論文を読んで知ってはいたけれど、うちの子が産まれる前のデータが


うちの子にも 必ず当てはまるとは 思わなかった。


「まず 疑ってかかれ」である。50数年前に 最先端の医療が受けられる病院の、


名医達が「まず助からない」と匙を投げた私が 生き延びて こうして親になっているのだから。


医師や教師や 専門家であっても、私の子どもに関しては 私の方が詳しい。


だから 何を言われても揺るがずに 気ままに 子育てができたのだと思う。


子どもの頃に「いい子」ではなく、褒められもせずに 育った事も、


私の場合は 良い方に向いたように思う。


私は 今でも 人に褒められる事はないが、息子達が


職場や 地域やいろんな場所で 頑張り、仕事で成果をあげたり、


仲間を作って楽しんでいるのを見て、不出来な親からでも


自分で学んでくれてよかった、としみじみ思う。





 




自閉っ子のための道徳入門
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親も子も「卒母」目標で

2018-06-24 07:37:51 | 修業について
「猫本」や「自閉っ子のための道徳入門」を読んでいただいた方は


ご存知だろうが、わが家の育児目標は


「親は子の自立」をめざし、「子は親からの自立」である。


親子で 同じ家に住んではいるが、お互い「大人同士」であるから、


気楽なお付き合いである。


むしろ 年齢を重ね、「老いては子に従え」世代になった私達親を、


子ども達が 支えてくれている状態である。


親にできる事は、固定電話に掛かってきた電話の取り次ぎや、


子ども宛ての郵便や荷物の受け取り、各種支払や振り込みの代行、



「明日は ポークビーンズ作るから トマトの熟したのか、


トマト缶買っとけ」という お使い位である。


夫は おやじタクシーとして 当てにされ、子ども達は


「おやじ運転手」さんには、それなりの代価を払っているようである。


先日 とある方が 私のうわさを聞いて、


他の方を通じて ちょっとお話をしたが、


「発達障害の子の自立は難しい」と思っていらした方で、


実際その方の周囲には 自立や「卒母」ということは無縁の状態のケースが


多いという。


自閉っ子が社会人として また成人男性として 仕事も余暇も楽しんでいる事や、


不登校経験のある兄ちゃんが、その後自分で活動し、


バイトから 正社員になり、職場でそれなりのポジションにいる事も


大きな驚きだったらしい。


「知的障害のある子=家族や専門家・支援者のサポートが必要」


「不登校やひきこもり経験のある子=カウンセラーや医師のサポートが不可欠」


という公式(?)にあてはまらない事が 信じられなかったらしい。


知的障害のある自閉症の子は なかなか社会参加が難しいし、


知的問題がなくとも 発達障害の子、しかも不登校経験のある子は


また難しいケースだと おっしゃっていて、


「知的障害があると難しい、知的障害がなくても難しい、って結局


全部難しいのか~」と


自分の子を自分の思いの向くまま


「がさつ、ぐうたら、ずぼら」をモットーに過ごしてきた私には


よくわからない世界であった。


今日も 自閉っ子は 出勤。日曜は人が足りないので、


自閉っ子は 「シフト入れる?」と 当てにされると


喜々としてでかけていく。夫は「あいつは仕事か~」と


つまらなさそうである。


兄ちゃんも 忙しく、今日は休みだが


正社員になってからは 週休1日の状態で、有給も滅多に取らない。


「やる事と やりたい事が 職場にはいくらでもある」そうなので、


毎日 頑張っているのがわかる。今日は兄ちゃんは休みという事で、


ゆっくり一日を 過ごし、明日また 元気に出かけていくと思う。


自閉っ子の会社は 大阪にもあり、社員役員で大阪へ行っている人も


いて、自閉っ子が会社でする仕事量も 自然と多くなっている。


いつもは 帰宅しても元気な自閉っ子も、最近は帰宅後は休息を取り、


翌日に備えている様子。一晩寝て、翌日は元気に バス停まで


ダッシュしていく姿で、「あ、疲れは残ってないな」というのがわかる。


大阪に出向いてお助けする事はできないけれど、自閉っ子や兄ちゃんは


自分達が その分働く事で、私はささやかな額でも募金や義援金という形で


ほんの少しでも お役に立ちたいと思います。







感覚過敏は治りますか?
クリエーター情報なし
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支援につながらない事のメリットその2

2018-06-17 16:29:29 | 修業について
子ども達に 診断がついた事で、医療に頼る意味がほぼ無くなった。


発達外来は いつ行っても 混んでいて


予約していても 最長3時間待ちという事があった。


たまに 受診するだけで、我が家は2人合わせて


数分で診察終了であるが、他の患者さんは 様々なお話があるらしく、


30分、時には1時間くらい診察室から出てこない時もあった。


兄ちゃんは 特に 目立つ障害ではなかったので、


診察自体あまり好まなかった。


自閉っ子も 最初の受診前の数年で、


私が「このまま育って 10年後もこのままだったら困る」と


思った事を 修行(訓練のような意味だと思ってください)で


一つ一つ消していったので、パニックも 自傷行為も消えていて、


苦手だった 乗り物にも 乗れるようになっていた。


病院に 行くのは 医師の診断書が必要な時と、


知能検査をする時がほとんどだった。


園や学校から 参考にしたいからと 言われた事もあったし、


進路の 節目節目で 学校に説明するには 「医師の診断書」は


親の説明や 考えや 目の前の子どもの様子より(!)


役に立つ場面があり、そのことに びっくりした。


私が子育てをした頃には、まだ 放課後デイなどの言葉は


聞いた事がなかった。あったとしても 受け入れるお子さんの


状態によって、何か規定があったのだろうと思う。


私は 仕事と 介護と 家事 育児をしつつ、


合い間に 子ども達と 遊ぶのを楽しみにしていた。


車で移動中に、見つけた標識や 看板の文字を教えたり、


洗濯物を 入れる時も、かごを いくつか用意して


親子で、あるいは きょうだいで競争して


かごの中に取り込んだ。


たくさん入れた人が勝ち、という日もあれば、


自分の 服を見分けて入れた人が 勝ちという日もあった。


弱視で 体が小さくハンディのある自閉っ子は、ある時


自分のシーツを必死にひっぱり、カゴに入れて「いちばん!」と


嬉しそうに笑った。シーツ一枚でカゴはいっぱいで、自分の物を見分けた事で


加点が付き、兄ちゃんを上回って 文句なしの「いちばん」である。


療育施設では 何をするのか 私には わからないが、


こうして 数分で 親子・きょうだいで できる事を


毎日 積み重ねて行く事は、子ども達の 体作りにいい影響があったと思う。


おやつを食べる時も、一個だったものが 分けた瞬間に 数では 「2」になる。


しかし 大きさは 「半分」である。これは 自閉っ子には 言葉で教えるより


生活の中で 回数を重ねるのがいいと思い、不公平な分け方になっても、


本人が 「おかしい」と気づくまで 見守っていた。


プラスチックのコップは 落としても割れないけれど、


ガラスや マグカップは 割れる事、


紙コップは 割れないけれど、つかむ力加減で


落とさなくても 中身が こぼれてしまう事、などを


日常の中で 体験させた。


大好きなチョコレートも、


包み紙にくるんだ物を 指で取り出すにはどうするのか


自分で やらせた。それができるようになったら、


丸い粒の チョコレートを 出し、指でつぶさないようにする


力加減を 覚えさせた。


積み木や ブロックなど 固さが同じもので 遊ばせていたら、


こういう事を 覚えるのには また別の時間が必要だったかもしれない。


私でしか 扱えない、手のかかる子から、まず 父親や他の家族と関われる事を


目標にし、物を見る事、見た物と自分の距離感を理解できるようにする事、


そして 見た物を きちんとつかんで持てるようにする事を


目標にした。


目と手の協調ができないままで、手に持ったクレヨンで絵を描く事は不可能だし、


鉛筆で 文字を書くことも不可能ではないか、と私は思った。


療育機関の人は 専門家には 違いないが、


わが家の子ども達が 育ってきた環境を 生で見たわけではない。


発達のどこに欠けがあるのかは わかっても、そこに到達するまでの


道のりは 説明しても 全部は理解できないだろう。


自閉症の療育で よく聞く「絵カード」は、私は 使わなかった。


カードは いくら厚いものでも、不器用なうちの子には持ちにくい。


扱いに苦労する道具を使い、他の事を教えるのは難しいだろうと思った。


何を 教えるにしても、その子に扱いやすい物を使った。


弱視の自閉っ子には、白地に 絵や文字が 描かれたカードは


判別がしにくい。


私は ペットボトルの蓋を 集めて、まずは その一つ一つの色や


書かれたデザインの違いを見せて 遊ばせた。


自閉っ子は 自分が好きな お茶や ジュースの蓋を集めて


喜んで遊んだ。神経衰弱のように、裏返しにして 二つ取り、


同じだったら 蓋をもらう。たくさん集めた方が勝ち、というのも


した。それに 飽きた頃に、蓋に丸いシールを張り、文字や


数字を書き、遊ばせた。無理に教えず、様々な形の模様があるなあ、という


段階から 出発した。


小学校入学時までに、覚えた文字は アルファベットの「H」と数字の「2」の二つである。


この「二つしか」覚えられないのか、と思う方もいるだろうが、


私は 満足していた。自閉っ子は 診断した医師に、「一生文字の読み書きはできない」と


言われていた。


しかし 二つとはいえ、文字の違いが わかるようになっていた。


しかも「H」は 線二本を 線一本出つないだ形であり、「2」は


カーブした曲線の最後が まっすぐな線で終わる形である。


「まっすぐ」と「曲線」が 完全ではないにしても 理解でき、


見分ける力がついた事で、私は自閉っ子は この先もっと多くの文字を


見分けるだろうし、時間をかければ 書くこともできるようになるだろう、という


事を 確信した。


他にも 多くの課題が 自閉っ子にも


兄ちゃんにも あったけれど、私は どちらの子の将来も


あきらめてはいなかった。


知的に高い兄ちゃんでも、自閉っ子に及ばない点があったし、


もちろん その逆もあった。


どちらの子も いい面があり、出来ない事もあったけれど、


できない部分は助けつつ伸ばしてやり、最低限の身辺自立や


家事、あいさつをはじめとする会話、公共の場でのマナー、


そうした事を マスターできたら、それぞれ自分で好きな道を選んで


生きていってくれたら、というのが 私の思いだった。


療育機関も病院の医師も、一生付き合うわけではないし、


この子たちの 行く末に責任を持ってくれるわけではない。


私が いなくなっても生きていけるようにしておきたい、というのが


私の 一番の願いだった。


私が 数日家を空けても、他の家族と 落ち着いて過ごせ、


食事をし、夜は 眠る。


子ども達の睡眠障害が 治るまでには 数年を要したけれど、


いきなり寝かせようと力まずに、心身の他の部分から


整えていったことが 結局は 早道だったと思う。

 








発達障害、治るが勝ち! 自分の生き方を自分で決めたい人たちへ
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自閉っ子がコツコツ階段を上っていった頃の記録

2018-05-05 17:42:29 | 修業について
夫と 片付けをしていたら、自閉っ子が小学2年から3年の時の


連絡帳が出てきた。


2年生の頃は、排泄が 完全に自立し、


学校のトイレでも スーパーのトイレでも


排泄ができるようになった時期である。


食べられるものも 増えていき、


「食事と排泄」については 大きな問題が


減りつつあった時期である。


それに伴い、言葉への関心が増え、


読み書きのマスターへの努力を 自分でし始めた。


日記を 皆の前で 発表する事もあり、


以前は 先生に促されて ぽつりぽつり、で


終わっていたのが、自分で 話したい事を記憶し、


再現して 話せるようになっていった。


ただ 睡眠障害は 残っていた時期で、


「今朝は起きられず 本調子ではありません」と


先生に伝えた記録が けっこうあった。


気候の変化に弱く、遅刻や欠席があったが、


年々 頻度が少なくなり、回復への時間が短くなっていった。


突然の変化にも まだ弱く、先生の出張や


授業の時間変更などには 戸惑って固まってもいたようだ。


話言葉は割と流暢で、まとまった話ができるので、


先生方は 「これほど会話ができるのに、なぜこれはできないのだろうか?」と


疑問を持たれたようだ。


かかりつけの小児発達外来で、知能検査を受けて、報告した時の


記録もあった。ああ、この時に わざわざ知能検査を受けたのは、


私の説明だけではわからない、はっきりしたデータが欲しかったのだなと


思い出した。知能指数が 低いけれど、言語理解や 理解できる単語の数、


社会的常識は 同じ年齢の子どもに近いレベルにあった。


指示は理解できても、体がそれについていけない。


まだ目の弱さも 残っていたし、


過敏さも 残っていた。


先生方は このアンバランスな子どもに


どういう風に 教育していけばいいのか


何か データが欲しいと思ったのだろう。


その後 自閉っ子は 睡眠障害が治るとともに


心身共に 大きく伸び、様々な事に


チャレンジしていった。


小さくか細く、歩く事さえおぼつかなかった子、


なかなか眠れなくて、乳児期にはひきつけを起こすほど泣き、


呼吸困難になり、その度に 背中を叩いたり刺激を与えて


真っ青な顔が 早く元に戻るよう心配した子。


それが治ってからも、普通には眠れなくて、


夜中でも 平気で起きていた子。


おなじく 寝つきも寝起きも悪かった兄ちゃんの二人を連れて、


夜道を 歩いた事を思い出す。


田んぼのあぜ道、砂利道、川のほとりで


小石を拾って 投げて遊んだ。


夜の 道は 静かなのに、何か 不思議な雰囲気があり、


背中で眠る自閉っ子と 眠い目をこすりだした兄ちゃんと


家に帰り、そーっと布団に下した日。


それも、他の様々な事も、皆過去の「思い出」になった。


今 目の前にいるのは、二人の 「働く大人」であり、


「成人男性」である。


私の背を 越したのは 遥か昔。


そして 二人が 精神的にも 大きくなってから、


もう 何年になるだろうか。


家では 私と 夫を 支えてくれ


職場でも きちんと勤めを果たしている事を、


親として、また 同じ「発達凸凹」の仲間として、


うれしく思う。


今 子育て中の 親御さんや 支援に関わる方々に、


目の前の お子さんは 日々変化していく事と、


データや 過去の症例、診断名にとらわれず、


「この子はどういう資質を持っているのか」


「何に興味を持っているか」


「今 一番必要な事は 何なのか」を


お子さんの 様子から 導き出して、


お子さんが 毎日 イキイキ過ごし、


学びの時を しっかり持てるように、


支えてあげて欲しいと思います。


「文字の読み書きはできない」と 知能検査で判定された自閉っ子は、


読み書きをマスターし、洋画やドラマの字幕を理解して楽しみ、


電車の路線図を 読み取って 自分の行きたい所に出掛けています。


友人との待ち合わせ場所が 知らない路線であっても、


どこで乗り換えると 最短で、運賃が安くなるかも


計算しています。


不登校時代に、「お母さんが甘やかしていては、将来碌な子になりませんよ」と


先生から 断言された 兄ちゃんも、高校卒業後


アルバイトから正社員に 登用され、今は 後輩を指導する立場になり、


忙しい毎日を 送っています。


人前で 話す事ができず、学校で 忘れ物や失くし物ばかり、


先生の話も 自分に向けられたものだとは 分らず、


でくの坊だった私も、就職し 結婚し 親になり、


家族と楽しい生活を 送っています。


幼い時が どうであれ、将来の可能性を 否定しないで、


育てていってほしいと 思います。
























支援者なくとも、自閉っ子は育つ 親子でラクになる34のヒント
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