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多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

小さな子どもとタブレット

2021-11-04 10:01:00 | 子育て
乳幼児にスマホやタブレットを見せて良いものか、という論争を見かける。私が子育てしていた時代には、スマホもタブレットもまだ普及していなかった。ネット環境も整っておらず、パソコンもダイヤル回線の時代。子どもがゲームばかりして困るという声が出始めた時代に子育てをした。

小さな子どもの親ならば、今だけおとなしくしていて欲しいと思う時があるだろう。私が子どもだった時代には、教育テレビの番組が大きな助けになっていたらしい。

時代によって子育ても変わっていくのだろうし、夫婦だけで子育てしていくには、いろいろな物の助けも必要だろうなあと思う。私たち家族は田舎住まいである。子どもの声が多少響こうとも、苦情が来たことはないし、よそのお子さんが騒ぐことがあっても、元気だなあと微笑ましく思うだけである。

子育て中のお母さんと話す機会があるが、子どもがうるさい、静かにさせろ、足音を立てるな、と近隣から言われて困っているという声を聞く。防音対策をしても、子どもをおとなしくさせても、苦情はおさまらないとの事。

スマホやタブレットやゲームに頼ってでも、子どもをおとなしくしておきたい気持ちもわかるなあ、と思ってしまった。

そんなある日、通院のため名古屋に出かけた。診察が終わってから、買い物をしようと駅前のビルに寄った。何か催しがあるらしく、平日にも関わらず、結構人がいた。

エレベーターの前は人だかりで、エスカレーターで上に行こうとした。私の前は小さなお子さんの手を引いたお母さん。乗り降りを繰り返すうち、ある事に気づいた。
乗り降りにお子さんが不慣れな様子なのだが、なんとこのお子さん、タブレットを抱えて、動画を見ているのである。

乗り降りに支障が出るのも当たり前である。それに気づいてから、ゾッとした。お母さんは手を引いているものの、お子さんの方を見ていない。もしお子さんが転倒したら。そのまま転げ落ちたら。私はお子さんを受け止める事はできないし、自分も一緒に転げ落ちるかもしれない。次の階に着いたら、声を掛けようと思った時、お子さんが降り損なって、足を滑らせた。

危ない!と思った瞬間、お母さんも気づいて金切声を上げた。「何やってるの!危ないでしょ!」と。エスカレーターから離れ、お説教が始まったが、それに加わった人がいた。お母さんの前にお父さんがいたようで、二人でお子さんに注意をしていた。

買い物をする間、お子さんをおとなしくさせておきたい事情があるのだろうし、お子さんの気が進まなくて、タブレット見てもいいならついていく、という条件つきのお出かけなのかもしれない。

足元を見ないでエスカレーター乗るのは、子どもでも大人でも、危険ですよ。何もなかったのでホッとしましたが、このご家族にはタブレット見せながらのお出かけが習慣なのかもしれませんが、エスカレーターに乗る時はタブレット止めて欲しいと思います。時間がかかっても、エレベーターか階段使って欲しいです。

よその家の子育てに口を出すなと言われそうですが、事故の危険がありそうな事は、やめてほしいと思います。お子さんは3.4歳に見えました。いきなり上から転げ落ちてきても、受け止められる人は少ないでしょう。命に関わるような事故は、起きないでほしいし、できるだけ防ぎたいと思います。

子どもと過ごした楽しい夏休み

2018-07-25 21:39:46 | 子育て
自閉っ子が 学校を卒業してから、もう4年になる。


それ以来、子どもと過ごす長い休みとは 無縁である。


子ども達が 学生だったころ、お休み、それも長い夏休みは


私にとっては 至福の時だった。


その子その子に出来る事を 見つけながら、


家事を頼み、出来ない事や 一緒にした方がはかどる事は、


皆で わいわい言いながら楽しんだ。


子どもだし、得手不得手があるから うまくいかない事も


もちろんあるけれど、無理な事を一人でさせない限り、


笑ってすませられる程度の事で済む。


いつもは 私と おじいちゃんたちで囲む食卓も、


子ども達が加わると 楽しい時間になった。


洗濯物干しや、人数分のそうめんの束を用意する事、


探せば いくらでも頼む事があったし、兄弟で教え合って


新しい知恵も 浮かぶ。


机に向かっての勉強は退屈だが、問題を読んでやり、


ピンとくる たとえを出してやると、


面白がって 答えを出したりする。


お店で買うお米は キロ単位だけど、研ぐときに量るのは 5合だったり 1升である。


一升枡で 5合のお米を量るにはどうしたらいいか、も


目の前でやって見せ、そのお米を もう一度 1合枡で量り、


間違いがない事を教えた時の 自閉っ子の目の輝き。


兄ちゃんは 算数が得意だったので、教えなくともわかっていたが、


自閉っ子には 大きな発見だった。


お米が炊けるまで、と時間を限って 宿題をやらせた。


長い事 得意でない事に集中するのが難しい子には、


ちょこちょこ 合い間をみつけて誘った。


夕方には 洗濯物を入れてたたむ。


布団を干した日は、早めに入れて 風に当てないと、


こもった熱気で 寝苦しくなる。


様々な事を、子ども達は 生活の中で 学び、身に着けていったと思う。


もう 夏休みは 来ない。私は 一人で通院したり買い物に行ったりし、


夫と 子ども達が帰るまでは、一人である。


家族の お給仕をしながら、合間に流し込むように食事をした日。


いつも 誰かがいて、私を呼ぶ声が響いていた日。


家族は 一人、また一人と旅立って行き、


子どもだった息子達は、私の背を越し、大人になった。


昔、「年寄りは家の重し」と 聞いた事がある。


何も しなくとも、何もできなくとも、年長の人が そこに座っているだけで、


家の雰囲気が 落ち着くのだと。


同じように、障害のある子が産まれると、「福子(ふくご)」と呼び、


慈しんで育てる風習があったとも聞いた。


家の厄を背負って生まれ、その分人に福を分け与える子どもなのだという。


今は 老人も 障害のある子も、尊ばれる時代とは言えないように感じるけれど、


年齢や性別や人の物差しで測る能力のあるなしに関わらず、


お互い支え合って生きていけたらいいと 心底願う。


私の息子達が 結婚することがあったら、どんな人であっても、


「私の息子を選んでくれてありがとう」と 感謝の言葉を伝えたいと思う。


それが 実現するかしないかは 神様にお任せする事にして、


私は 今自分ができる事に 力を注ぎたい。


私は 複数の障害と病気があるが、命がある限り、


心残りがないように 毎日を過ごしたい。体に支障が出て


動けなくなったとしても、心は体の不自由さにとらわれずに、


それまでと同じように 楽しく過ごしていこうと思う。


子ども達も 発達の偏りやヌケがなくなり、生きやすくなり


毎日 元気に働き、誰かの役に立っているのがうれしい。


私のブログや その他の場所の書き込みを見た人が、


「働けない事が 悪だというのか!」という意見を 送ってくるけれど、


私は 誰もが自分ができる事をして生きていくのが 自然だと思うし、


働いて金銭を得る事だけが 人間の価値ではないとも思う。


生きる時代や 住む場所、周囲にどういう価値観を持つ人がいたか等で、


人は多かれ少なかれ 影響を受けるものだから、何が正しいと言い切れない。


私は 私の価値観で 夫という配偶者と家庭を持ち、息子達を育ててきたまでである。


今の私は、夫と息子の収入で やりくりする立場で、定収入はない。


医療費も かなりかかるが、健康保険のおかげで 治療を続けていけるのは


ありがたい事である。西洋医学の治療も続けつつ、コンディショニングや


養生を続けているので、たくさんの病気があっても


なんとか バランスが取れ、こうして毎日過ごせているのだろうと思い、


感謝の日々である。

























子どもを伸ばすお手伝い―家事ができる子はなんでも気づきなんでもできる
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攻撃性なるもの

2017-08-28 10:34:13 | 子育て
小さい時に、自分の中の「攻撃性」なるものを


十分 発揮なり 発散できなかった場合に、


あとから それを 補うために 親や きょうだいや


友人、あるいは物に対して 攻撃と言うか破壊行動と言うか、


そういう形ででてくるのではないかと


いうような 書き込みを見た。



わが家の 子ども達は 別に 破壊行動を 起こしたことはないように思うが、


小さい時に 攻撃性なるものを 発散させる場が あったか、と思い出してみた。


攻撃性、と言う言葉が 私にはしっくりこない。


自己能力確認の機会、というほうが しっくりくる。



たとえば この石なら 持ち上げられるが、投げる事はできない、と言う場合。


投げられる大きさの石を 水辺で投げても、大きな音は出ないし、


達成感は少ないだろう。


何回も チャレンジするうち、大きな石を 投げる事に成功すれば、



びっくりするほど 大きな水音がするし、魚も逃げる。


音が大きくなれば、向こう岸の カモも 逃げる。


砂山に 水をかける時も、少ない水では一度に崩せる砂の量は少ない。


でも、重い物が持てて、しかもそれを 加減して


砂山にかける事ができれば、見事に 砂の山が


自分の 思うように 崩れていく様子を見る事ができる。


抜こうとしても びくともしない草、やっと抜けたと思っても 根っこが残ったまま、


でも 力がついたら 草も 一本だけでなく、握れるだけ握ってそのまま


引っこ抜くことができる。


家の中でも、茹でたものを つぶす事などは、どちらの子も喜んでやった。


形があったものが、自分が すりこ木で つぶすたびにみるみる形が


崩れていく。崩れた後は、目標が小さくなるので、そこからは


難易度が高くなる。


それを 全部 つぶし終えて 次の工程に移る時には


どちらの子も なんともいえない顔になっていた。



段ボールを 崩して紐でしばる、大根や 山芋をすりおろす、



そうした事を生活の中で する事が、力や 感情のコントロールをする事の


役に立ったのではないか、と言う気がしている。



私は よく子どもを 布団蒸しにしたが、



そこから出ようと もがき、重い布団(わが家の布団は昔ながらの綿布団で重い)の


圧力を感じる事や、ようやく出られたときの 顔も、いい顔だったなあと思いだす。


どんな子どもも、人も、自分の能力を 発揮できない環境にいたら、


良くないだろうなあとは 思う。


今の 自分の 能力は このくらい、でもあそこまでは できるようになりたい、と



意識するには、やっぱり 体を動かすことが 一番いいように思う。













人間脳の根っこを育てる 進化の過程をたどる発達の近道
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