多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

発達障害が治るという事

2019-03-21 16:28:45 | 発達凸凹
発達障害が治る、というと、


「嘘だ」「でたらめを言うな」と言われる。


私は自己流で子育てをし、いわゆる療育とは無縁である。


2人の息子達は 発達障害と診断され、様々な発達のヌケや遅れがあった。


自己流の子育てを続けるうちに、息子達は発達のヌケを埋め、


睡眠障害や偏食、自傷行為などが無くなっていった。


きょうだいであっても それぞれ違う。個性を活かし、


自分達で 進路を決め、社会人として働くようになり、


休日は 家事をこなしたり、友人と出かけたり、余暇を楽しむ。


家族で 食事に出かけたりもする。


発達障害ゆえの 困り事がなくなり、行動の幅が広がった。


「治す」というと 「子どもの個性を潰すのか」と言われたりする。


わが家の息子達は、公私ともに充実した毎日を送っていて、


親が見ていても 楽しそうである。仕事の悩みももちろんあるが、


それは 働く以上当然の事である。


偏食は治ったが、味覚が鈍感になったわけではなく、


個性を潰したとは思わない。外食に行き、いいなと思った料理を、


息子達で 再現してくれたりもする。


聴覚過敏が治り、CDでしか楽しめなかった音楽も、


生のコンサートに行くようになった。


睡眠障害が治り、体力が付き、フルタイム勤務も可能になった。


息子達は 充実した日々を送っているが、


それでも 私に「無理をさせないほうがいいのでは」と言ってくる人もいる。


私は親であるが、成人した以上、問われもしない意見を息子に言うつもりはない。


でも やたらと「無理をさせないほうが」と言われるので、発達障害の界隈では、


それが当たり前なのだろう。兄ちゃんや自閉っ子の主治医であった医師でさえ、


息子達の進路については、口を出さなかったが、息子達に会った事もない人が


「一般企業で フルタイム就労なんてさせて、二次障害が起きますよ」と


言ってくるのは不思議である。


DSMー5で、発達障害は「神経発達障害(症)」となった。


神経発達障害は、生まれつきではなく、脳障害でもなく、一生治らないものでもない。


私は 医師や専門家の診断より先に、息子達の発達のヌケに気付き、


家庭で 様々な関わり方をしてきた。


「治らない」とは夢にも思わなかった。今できない事があったとしても、


子どもの未来や将来を悲観しなかった。


自閉っ子は、睡眠障害や自傷や弱視、知的障害、様々な困難を抱えていたが、


どれも治り、高等特別支援学校を卒業後、障害者枠で就労し、現在も勤務している。


IQで言えば、知的障害の範疇に入るが、日常生活では不自由はしていない。


職場でも、一般の人と同じ仕事をこなしている。


幼い頃抱えていた 困難さは、もうない。


兄ちゃんは、不登校生活の後、高校を卒業し、


一般枠で就職をした。現在は正社員として、役職にも就いている。


発達障害ゆえの特製や、そこから来る困難さがあっても、


息子達は大事な子どもであり、発達のヌケがなくなっても、それは変わらない。


大事な可愛い子どもだからこそ、他の人にも可愛がられるようになって欲しいと思った。


それを親のエゴと取る人もいるようだが、「無理をさせてはいけません」と意見を下さる人が、


私の息子達のサポートをしてくれるわけではない。


私は息子達を治す事に私の出来る範囲で取り組んだ。それが我が家での最良の選択だったから。


私が出会ってきた親御さんで、家庭でできる取り組みをしつつ、お子さんを治した方を


何人も知っている。行った方法は勿論そのご家庭ごとで違うのだが、


「一生治りません」と言われたお子さんが治り、ご本人もご家族もお幸せそうであるが、


周囲から否定的な言葉を掛けられることが何度もあったそうだ。


私自身、発達障害を始め複数の障害や持病があるが、不便さは少ない方が暮らしやすいし、


治るものは治したいと思う。



息子達に私が与えた環境が もし本人たちの望みと違ったとしても、


今 息子達は 自分の人生を自分で選んでいけるのだから、


私という不出来な親に育てられた穴埋めを自分でしていけると思う。


どんな場合でも、自分で選択した道を歩むことが一番の幸せだと思う。


それは障害のあるなしに関係がないと思う。















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横浜でのあれこれ

2019-03-07 09:20:09 | 発達凸凹
横浜で 色々な事があった。初めての事にも挑戦した。


横浜に行くと、たくさんの買い物をする。お土産だったり、


自分が欲しいものだったり。


今回、夫と長男から、「無駄な買い物はするな」と言われた。


これは 私には難しいことだったが、挑戦してみようと思った。


いつも 目的地に行く前に、買い物をしていた。


あるいは 後で買おうと品定めをしていた。


たくさんのお土産を買っていた。


今回、目的地に行く前の買い物はやめた。


荷物を増やさないためと、衝動買いを自分で抑えてみようと思った。


早めに会場に着き、他の人とのおしゃべりを楽しんだ。


買い物をしなくても、何も起きなかった。


勉強会の後、皆さんと 食事に行き、その後は ホテルに。


水を切らした事に 気付いたのは その後。


いつもなら、部屋を出て 自販機に行くか、


ホテルを出て コンビニに行くところ。


でも、「行かなくてもいいか」という気持ちになった。


洗面所の蛇口。「飲めない水」だとは 書いてない。


でも 水道水が 不味い事は知っている。


部屋を出て 買いに行くより、時間が惜しかった。


蛇口をひねって、その水を飲んだ。


不味い。でも、飲めなくはない。


翌朝、いつもはホテルで取る朝食を、別の場所で取ろうと思った。


ホテルを出て、いくつか店を見て、一つのお店に入った。


メニューを見て、注文し、いつもとは別な朝食を取った。


ホテルに戻り、荷物をまとめて、チェックアウト。


駅に向かう。新幹線の席を確保しようと思い、バッグの中を見て、


ふと「家の鍵、あったかな?」と思い探すが、鍵はなかった。


自宅に戻っても、鍵が無ければ家には入れない。


予定を変更して、自宅に着く時間を計算したら、


横浜を 午後2時ころ出ればいい事がわかった。


それまで どうするか。


浅見さん達が 「10時に千疋屋でパフェ会」と話していたのを思い出し、


千疋屋の場所を調べた。すぐそばだ。


合流できるかなあ、とうろうろしていたら、ちゅん平さんに会った。


ちゅん平さんは、お土産を買いに行くと言うので、一緒に行った。


その後 他のメンバーさんとも合流でき、飛び入りでパフェ会に参加した。


私にとっては千疋屋、というのは 小説の中に出てくるお店である。


千疋屋に入る日が来るとは思わなかった。


皆さんが 次々とイチゴパフェを頼む間に、私はチョコバナナパフェを頼むことに決めた。


イチゴだったら 食べられないと思ったからである。


イチゴの豪華なパフェが次々届く。きれい!


私の チョコバナナパフェは 彩には欠けるが、私にとっては初パフェ。


バナナを口にして、違和感。


あれ?私が知ってるバナナじゃない。


うーん。多分品種が違うんだろうなあ、あとナイフで切ってあるから、


食感が違うのかも。


考え考え、口にするうちに、皆さんは完食。


私は 半分も食べられなかった。


浅見さんが「(いつも早食いの)こよりさんが 食べるの遅い!」といい


皆さんが 私の方を見た。


「こういうの 生まれて初めてなんで」というと


「えー、そうなんだ」と浅見さんが言った。


「芋粥ですね」と私が答えた。人生初挑戦。


初めての食べ物に50過ぎて挑戦。


食べきれなくても、大満足。


子どもの時代に同じことをしたら、


「もったいない」


「もう 連れてこないよ」


「だからやめとけって言ったのに」


そういわれたかもしれない。


大人になって、自分で食べたい物選んで、楽しい時間が過ごせるっていいなあと思った。


千疋屋は、本の中の存在ではなくなりました。











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薬との付き合い方

2019-02-02 10:02:27 | 発達凸凹
私や家族の、薬との付き合い方について。


現在一番 薬を服用しているのは 当然のことながら、私である。


持病が多いので、仕方がない。


かつては 一日 34錠服用していた。


それぞれの病気の 主治医と、薬剤師が、


飲み合わせに細心の注意を払いつつ、治療に必要な最小限の処方に


抑えようと努力してくれていたが、それでも病状が悪い時は


その数を服用するしかなかった。


多くの主治医が、状態を良くして、減薬ができるよう考えてくれた。


神田橋條治先生もだが、かかりつけ医も同じ方針の医師が多かった。


私の 病状が 重かった頃、精神科の主治医から入院を勧められた。


私は 老人介護と育児を抱えていた。医師は私の心身の負担を軽くするためだと、


再三勧めてくれたが、私は 介護と育児を人に任せられる状態ではなかった。


私の通院時間を確保する事も 容易ではないのに、入院期間、


家事育児介護を 24時間任せられる人はなく、施設も近くにはなかった。


入院を渋る私に、主治医はこう言った。


「入院が一番いいんだけど、不安抱えたまま入院して、悪化しても困るしね。


強い薬だけど、精神的に落ち着かない時で、ここに来るのも難しい時、


頓服として 使って。本当は使いたくないけど、通院での治療がいい、っていうなら


これを使うしかないと思います。」


処方されたのは リスパダール。不安が強い時、イライラして物に当たりたいような時、


使うと確かに落ち着いた。


主治医は 受診の度に 私の様子を診て、「リスパダール、いくつ残ってる?どんな時に使った?」と


確認し、最小限の数を処方してくれた。


リスパダールの使用回数が減ると、「調子がいい時は、リスパダールじゃなくて


これを使って」と他の薬を出してくれた。「こちらの方が作用は弱いけど、副作用が少ないし


肝臓や腎臓にも負担がかからないから」


そうした治療を続けてくれ、リスパダールの処方は無くなった。


抗不安薬も、処方されなくなった。


てんかんの薬は 必要だけれど、他の薬は最小限しか使わない方針の医師。


血液検査を 定期的に行い、腎機能や肝機能をかならずチェックしてくれる。


「検査の結果、内科の先生や他の先生にも見せてね」と結果をプリントして渡してくれる。


先日の受診で、長く処方されている薬を、初めて減薬した。


「これ、朝夕飲んでもらってるけど、調子がいいから夕方だけでいいと思う。


次回 また判断するけど、減らして様子見ましょう」と言ってくれた。


ただ今 減薬中。大きな崩れは無い。調子が悪いかな、という日もあるけど、


減薬のせいなのか、様子を見ようと思う。沢山の科を受診しているが、


調子が良くなり、薬が減っていくのは嬉しい。


34錠の時代を思う。神田橋先生に減薬の相談に行き、


「これだけ(大量に)飲んでいると(減薬は)難しいねえ」とおっしゃりながらも、


お薬手帳に チェックを入れて下さり、漢方薬を処方して下さった。


春ウコンを勧められ、その後しばらく飲んだけれど、そのうちにいらなくなった。


漢方薬も、口にあわなくなり、止めた。難しいと言われた減薬も進み、


今は 一日16錠である。他の人に比べたら多い量だけれど、


複数の持病があるからと納得している。


34錠の時代を思えば 減らせた事がうれしい。今後も努力しようと思う。 


わが家で 今 薬を服用しているのは、夫である。


年末の病気の治療が順調で、投薬も無くなり、「何かあったら来て下さい」と


言われ、その病気の治療も一段落した。以前から かかっている病院での


投薬は続いているが、薬の量も増えていないし、病気も悪化していない。


順調である。


長男は 虚弱で、アトピーと喘息の治療が長く続いた。


喘息がひどく、大きな発作を何度も起こした。気管支が狭まり、呼吸ができなくなったら


窒息死である。調子がいい時なら 体力作りにも 体質改善にも取り組めるが、


大きな発作の時には まず呼吸ができるようにしないと 死が待っている。


強い薬も、命には代えられない。悠長な事は言っていられない。


かかりつけ医が匙を投げ、他の病院に搬送された事もある。


搬送先でも、「ここまで処置をしてて まだだめとは・・・」と医師団が首をひねった事もある。


薬を使わないのがベストだが、そんな状態ではなかった。


喘息の発作の回数が減り、発作の規模も小さくなっていった頃、発達障害の診断が下りた。


思春期でもあり、学校での様々な出来事と重なり、不登校になった。


生き生きしていた顔に陰りが出て、目に光が無くなった。


同じ時期に 診断がついた自閉っ子と二人、遠くの病院に数か月に一度通った。


学校への文書や診断書をもらいにである。


医師は それぞれの子と面談し、長男に抗うつ薬とてんかんの薬を勧めた。


その抗うつ薬は、私も使った事がある。薬を飲むかどうか、 子どもに判断を任せた。


長男は「飲む」といい、処方してもらい、支払いをして帰った。


状態は改善しなかったが、私は 長い時間長男が経験してきた出来事を思い、


「他の子どもがしなくていい嫌な経験をしたのだから、今は休息の時かも知れない」と


思った。


それからも 様々な事があったけれど、長男は元気を取戻し、自分で望んで高校に進学をした。


ブランクを取り戻すのに時間がかかるかと思ったけれど、生き生きと学んで、遅れを取り戻した。


後から わかったのだが、長男は 処方された抗うつ薬を一度も飲んでいなかった。


てんかんの薬はきちんと飲み、効果が出て、数年後脳波に異常がなくなり、


薬は必要なくなった。学校にも戻り、発達外来とも縁が切れた。と言うより


本人が 「もう必要ない」と自分で切った。


「そうなんだ。ルボックスは飲んでなかったんだね。」


「うん。全部飲まずに捨ててた。」


「わからなかった。どうやってたの?」


「薬が見えないように 色つきのポリ袋に入れたり、お菓子の空き箱に詰めたりして捨てた。」


「飲みたくないのに、なんでもらってたの?」


「先生がうるさく理由聞くだろうし、話すの嫌だったから」


「そうなんだ。知らなかった」


当時は 長男の年齢では、医療費の助成はなく、窓口での会計は我が家には大きな負担だったけれど、


最後には良い結果が出たので 良かったと思う。


それ以降、定期的に服用している薬はない。


次男は 喘息も 長男より軽く、結果として薬を使う事も少なく、


自然に 発作の回数が減り、病院に行く事もなくなった。


睡眠障害があり、睡眠導入剤を勧められた事もあったが、一度も使うことなく、


睡眠障害もパニックも自傷行為も治った。


命に関わる病気や、患者の生活レベルの維持、あるいは向上のために


薬を使う事はあっていいと思うが、薬の効能や副作用を患者や家族が把握し、


納得の上で 使う事が 一番いいと思う。


特に 小さなお子さんや 高齢者は、御家族が毎日心身の様子を見て、


薬を飲む事で マイナスの事態にならないように、気をつけて言って欲しいと思う。


自分で選んだ事ならまだしも、知らずに飲ませられて後で後悔する事がないようにと願う。









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わが家のSST

2019-01-27 21:18:56 | 発達凸凹
小さなころの 自閉っ子の課題は、「時間の把握」だった。


視覚に難のある自閉っ子には、時計やカレンダーは使えない。


数字の理解ができないから、見えたところでわからない。


それでも 「朝」や「夜」を意識させる事から


少しずつ 少しずつ始めていった。


睡眠障害の自閉っ子には、「寝て起きたら朝」という感覚はない。


朝を意識させるのに 役に立ったのは、「鳥の声」だった。


「夜」の認識は 難しかった。外の暗さは 家の中ではわからない。


時間の認識で 一番早かったのは、「曜日」だった。


曜日を教えるのに使ったのは、色を塗った紙コップ。


7つのコップの底に穴をあけ、モールを通した。


紙箱に モールを固定し、右から左に、左から右に、移動ができるようにした。


朝 自閉っ子に コップを一つ移動させ、「今日は 赤、火曜日」と


教えた。


その繰り返しで、曜日と一週間の感覚が身についた。


何月何日、というのは 理解できていなかったようだが、


TVのアナウンサーの「4月8日、水曜日です」と言う声を聞き、


「4がつ~」と 繰り返して喜んでいた。


一度に全部を理解できなくても、いつかどこかでつながればいい、と思った。


昨日、今日、明日、の区別も 苦労したが、


きのう、きょう、あしたが連続している事、に気付いた時の


自閉っ子の嬉しそうな顔も忘れられない。


でも、よその人に「明日食べなさいね」ともらったお菓子を


いつ食べたらいいのかが なかなかわからなかった。


だって、今は「きょう」なのだから、「あした食べるもの」を


食べるわけにはいかない。


自閉っ子は もらったお菓子を箱にためこんでは、


「あしたたべる」を繰り返した。


「朝」や「夜」を理解できたのだし、


曜日もわかるようになったのだから、これもいつかわかるだろう、と


私は あせらずに見守った。


「昨日、お菓子もらったよね。今日は散歩に行こう。」


「今日はお散歩したね。明日バスに乗るよ」


昨日、今日、明日、を会話に取り入れるようにして様子を見た。


いつだったろう、「きのうのあしたは、きょう!」だと 分った日は。


徐々に 時間の観念が身につき、困る事は無くなった。


あきらめずに、こつこつと 声掛けを繰り返した日々。


普通の子どもに比べて、使える感覚が少なくても、発達に遅れがあっても、


その子にわかるように繰り返し関わる事で、マスターする事ができる、という


確信が私にはあった。


今 自閉っ子に 「昔はこんなことがわからなかったんだよ」と話すと、


「え~?昔の俺って変!天然!」と言って笑う。


一緒に笑いあえるようになった事が、うれしい。


何千回も繰り返し教えた事も、全部笑い話、昔話になった。









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治らない、は嘘だった

2019-01-24 09:56:32 | 発達凸凹
DSM-5の原書と、翻訳書の内容に大きな、とてつもなく大きな差が見つかった、と


花風社の浅見さんがブログやTwitter等で 発信して下さった。


DSM-5の手引きの日本語版は 私も持っているが、原書は見たことも無い。


多くの医師が 診断の参考に用いているDSM-5が、間違った翻訳のまま


使われ、間違いを指摘する人もないまま 誤った情報が信じられてきた事に驚きである。


私は 医師の診断や 専門家の意見というのを あまり重視しないで子育てをした。


治らない障害だ、というのも 「医者がそう思うだけ」だと無視して


自分流で 子ども達に修行をさせてきた。


「治らない」に絶望し、お子さんの将来を悲観した人が どれだけいるのか、と思うと


怒りと悲しみでいっぱいである。


私は 「治らない」は医師の主観で、絶対的なものではないという確信があったから


被害を受けずに済んだが、そうでない人がどれだけ犠牲を払ったのだろうと思う。


子ども達が 働く大人になり、「なぜあんな状態だった子ども達が就労できたのか」に


疑問を持った方から、講演や相談の依頼があり、こつこつ修行の大切さを広めてきた。


何の肩書もない、学歴も資格もない「ただのお母さん」でも ここまではできる、という


話をあちこちでしてきた。その御縁で、「自閉っ子のための道徳入門」の一部を担当させて


いただけたし、その後は「支援者なくとも自閉っ子は育つ」も出版できた。


発達凸凹はもちろん、知的障害も、他の身体的不具合も治る、という事を


今後も発信していきたいと強く思う。


神経発達障害は、「治らない」というのは まちがいなのだから。


自閉っ子は 知的にも発達し、自閉症ゆえの困難もなくなり、弱視も数年前に治った。


眼球それ自体に原因がある弱視なら、家庭だけのケアでは治らなかったと思うが、


多分視神経と脳のつながりにヌケがあったのだと思う。


体を通して 神経に刺激を与えるうちに、つながりもよくなり、


弱視が治ったのだろう。


初めてメガネをかけた日の夜。自閉っ子は空を見て、


「お月様がある!」と言った。


話には聞いていたお月様。私と兄ちゃんが見上げる先に 「お月様」はあるけれど、


自分には見えず、わからない。


その「お月様」が本当にあるんだ、という驚きと喜びが伝わってきた。


あれから 17年。自閉っ子は好きな物を見、好きなところにでかけ、毎日を


楽しんでいる。「治らない」を信じずに育ててきた事が間違っていない事が


嬉しいと同時に、「治らない」を信じてしまって、苦しい時間を過ごした人の事を思う。












Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders: Dsm-5
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