多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

その人に伝わる言葉で

2019-06-27 19:42:06 | 言語・言葉
私の母国語は「日本語」である。


私は 自分の「母国語」と「母語」とは別だと意識している。


「日本語」のうち、私に一番しっくりくるのは


「書記日本語」である。書き言葉が一番使いやすい。


「口話日本語」は、使うのに手間がいる。子どもの頃は、


うまく使えなくて、慣れた関係の人としか話せなかった。


先日 同時通訳をしている人の記事の中で、


「通訳をする前の 下準備として 相手の人の言葉を聞く。


いきなりの通訳は うまくできない(大意)」とあり、


はたと膝を打った。


私が 口話日本語を 日常的に使うようになったのは18歳の時である。


かなりうまく話せるようになったし、日常で不自由を感じなくなったが、


口話日本語は私の母国語ではあるけれど、


母語ではない。


この事を 当事者として活動する中で何度か話したのだけれど、


「面白い話」「不思議な話」としか とらえてもらえなかった。


しかし ある場所で 話した後に、アンケートに答えてくれた方からのメッセージがあった。


言葉に関して 興味も知識もある方で、


「私は 言語に関して多少知識があります。こよりさんの講演を聴き、


(書き言葉が第一言語で、話し言葉は第二言語でしかない)という事が


聞いていてよくわかりました。」という意味の事が書かれていた。


主催者から見せられた、たくさんのアンケートの中で、この方からのメッセージが


一番 心に残っている。


私の家族の中で、口話日本語を第一言語としているのは 長男である。


長男の言葉を聞いていて感じるのは、


(やっぱりネイティブの言葉は違うなあ)という事。


長男は 書記日本語は不得手なので、幼い時は 私が補っていた。


成長につれて、彼の書記日本語もうまくなり、私の補助はいらなくなった。


言葉にも 口話と書記と、動作がある。


動作といういい方が適切かどうかわからないけれど、


手話をはじめ、体から発せられる言語というのは


軽視されがちで、「話せない」「書けない」と言う人の言語が


無い物にされがちな 現状を悲しく思う。


私の口話は ネイティブではないので、


初対面の人との会話には 苦労が伴う。


その人から発せられる情報を 音以外からも読み取るので、


マスクをしていたり、表情や唇が読めなかったりすると


会話の意味がつかめなくなる時がある。


音の聞き取りだけで 会話をしようとする時は、


音を 頭の中で文字に変換し、その文字の意味をつかむ。


電話での会話は、慣れた人となら楽だけれど、


そうでない時は かなり疲弊する。


夫の 第一言語は 動作や映像なので、


書記言語を第一言語とする私とのコミュニケーションは


第二言語である口話言語である。


夫は 意識していないと思うが、私は夫の第一言語が苦手で、


夫は私の第一言語が不得手である。


お互いの第二言語でのコミュニケーションであるから、


なかなかうまく話が通じなかった。


先日も 夫が買い物に行くというので、私は


欲しいものを頼んだが、口話だったので夫にはうまくイメージが伝わらなかったらしい。


電話をかけてきて、「OOと‘‘のどっちがいいか」と聞いてくれた。


その話を聞いた人から メモを渡したらいいのではないか、と言われた。


夫がメモが欲しいというのなら 書いて渡すが、


夫にとってはメモ、書記日本語は おそらく第三の言語なので、


仕事ならともかく、買い物くらいで 不得手な手段を使おうとは思わないだろう。


自閉っ子は 口話も書記日本語も 使いこなせているけれど、


知らない人との口話では 私が抱えているのと同じようなハンディがある。


一口に「日本語」と言っても それぞれ使いやすい言語があるので、


その人に通じやすい形で 関わりを持てていけたらいいなと思う。
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父の日に思う事

2019-06-16 05:56:06 | 思い出
父の祥月命日が近づく。


亡くなってから20数年が過ぎた。


私の中の父は、まだ60歳のままだ。


私も後数年で、父の年を越す。



父の両親、私から見ると祖父母。どちらも若くして亡くなった。


私にとっての祖父母は、写真の中の人である。


父が 祖母の年を越え、祖父の年をも越した時、


親族一同で 祝いの宴があった。


父のきょうだいの中で、父が一番祖父に似ていたため、


父も 父のきょうだいも、「父が祖父のように 若死にするのでは」と思っていたらしい。


祖父母も、父も、若い姿のまま亡くなった。


白髪頭になる事も、腰が曲がる事も、耳が遠くなる事も、老眼になる事も、


何も経験しないままだった。


私にも数年前から 白髪が生え、「染めたらどう?」と


言われる事が多くなった。


父は祖父に良く似ていて、私は父によく似ている。


白髪頭の自分を鏡の中に見る時、私はそこに 父や祖父の面影を見る。


祖父母も 父も 経験した事の無い事を私が代わりにしているような気がする。


生まれたその日に「助からない」と言われた私が


生きながらえ、長じては結婚し 子どもを産むとは、


誰も 想像していなかった事で、不思議な事だなあと思う。





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主体性のある患者として

2019-06-11 15:07:30 | 減薬・断薬
私が減薬に取り組んでいる事を知った人たち。


たくさんの持病の主治医からは、


「いいことだね。また経過を知らせて」という反応がほとんど。


同じ病気の患者さんの反応は極端だった。


私は 主治医との相談の上で、経過を見ながら取り組んでいるのだけど、


「薬をやめるなんて、あとでひどいことになるよ!」と


決めつける人も多かった。


もう一つのパターンは、


「私も薬やめる!」と言う人たち。


私が 「先生と相談した方がいい」と言っても聞いてくれず、


勝手に減薬・断薬をした人が 数人いた。


副作用が怖いのもわかるけれど、治療中に勝手に減薬・断薬をするのは


デメリットが大きい。


体調が悪くなり、私に連絡をしてきた人。


・・・まず 先生に連絡した方が、と言っても聞く耳持たずだった。


説得の末、診察には行ってくれたけれど、


「薬は飲みません」の一点張りで、先生も困ったそう。


結局 薬を変えてもらったそうだが、


「今度の薬、髙いのよ!」と 不満だそうで、


相手をする先生も大変だなあと思った次第。


一人は 勝手に断薬してしまい、


調子が悪くなり また勝手に再服用し、


血中濃度が 上がり過ぎ、入院する羽目になった。


薬の副作用が怖いというけれど、治療に必要な薬を


素人判断で あれこれしないほうがいい。


私も 時間をかけて 減薬に取組み、断薬に至ったのだけれど、


そこを理解しない人も多い。減薬も心身に負担がかかるし、


医療機関との連携は不可欠なので、自分の心身の状態を踏まえつつ、


主治医との 相談を密にして取り組んでほしいと思う。


私も 離脱症状に苦しんだけれど、


「薬をやめたい」と言う気持ちがあり、それを進めるには


どういう事を乗り越えなければならないか、を


主治医と話し合いながら 納得の上で取り組めてよかったと思う。


治療に際しては、主体性を持って 医療チームと相談の上で


取り組むべきだと思う。


私の治療に真摯に取り組んでくれる複数の主治医と、


減薬の離脱症状や 病状がよくない時に


私をしっかり支えてくれる夫と息子達に感謝である。


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断薬しました

2019-06-08 06:58:07 | 減薬・断薬
初めて 抗うつ薬の処方を受けたのが 23年前。


寛解と再発を繰り返しながら過ごし、


大きな波が来たのが 12年前。


主治医からは 再三入院を勧められました。


介護と育児、家事を担っていた私は、入院を拒否し、


通院し 薬を飲み続けました。


病状は悪化し、その度に 増える薬の量。


主治医は「環境整備と休息を」と言ってくれましたが、


私には 生活を変える気持ちがなく、


夫や子ども達と離れたくないという気持ちがありました。


介護している家族をどうすればいいのかという不安、


色んな気持ちがあり、その間にも どんどん持病が増え、


服用する薬の量も増えていきました。


精神科で処方される薬だけで 一日15錠。


他の持病の薬も含めると、34錠。


何とかできないかと思った私は、


神田橋條治先生の診察を受けました。


先生は、私の服用状況をしると、


「これは・・・(減薬は)難しいねえ」と言いながら、


薬の一つ一つにチェックを入れて下さいました。


そして 漢方薬の処方。


私の 主治医は、その漢方を継続投与してくれ、


私が 減薬を考えている事を 「良い事」として受け入れてくれました。


私の多くの持病の  主治医も、それに賛成してくれました。


栗本啓司さんのコンディショニングを受け、


まず 病状が軽快したのは、糖尿病でした。


その次は リウマチ。CRPが正常になり、痛みが軽くなり、


動く事がラクになりました。


体は つながっているので、一つの病気がよくなると、


どんどんいい方向に回り出します。


精神科でも、少しずつ 減薬が始まりました。


まず 頓服の回数が減り、そのうちに 処方が打ち切りに。


一日に4回処方されていた薬も、回数が減りました。


様子を見ながら 減薬をしましたが、


長年飲んでいた薬を減らす事で、当然体にも 影響がでます。


病気自体は 軽くなっていますが、


離脱症状は やっかいでした。


時間はかかりましたが、前回の診察で、


抗不安薬、抗うつ薬のすべてが断薬になりました。



継続服用する薬もありますが、


抗うつ薬と縁が切れたのは 気持ちがいいです。


私の減薬・断薬を聞いた知人が、自己判断で いきなり断薬し、


当然ですが 状態が悪くなり、慌てて 再服用し


今度は 血中濃度が上がりすぎて 大変な状態になりました。


減薬や 断薬を 考えている方は、ご自身の主治医と ご相談の上で


お願いします。


副作用を気にして 減薬を考える方が多いようですが、


自己判断での 減薬や断薬は命とりです。


副作用が心配ならば、そのことを主治医や薬剤師に相談してください。











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子どもの頃の事

2019-06-05 20:27:38 | 思い出
私は生まれた時の状態が悪く、


子ども時代には 病院と縁が切れなかった。


病院に行くと 痛い処置をされた。


大抵の子どもは 注射が嫌いだが、


私にとっては 注射はさほど痛くない。


もっと嫌な処置が山ほどあったから、「注射しますね」と言われるとほっとした。


入院もしなくていいし、手術も無い。注射だけで帰れるんだ、と思った。


私は 幼い時に大やけどをした。


母は 私が寝ていると思い、何かに夢中になっていた。


起き出した私が はいはいをして母の方に近づき、


傍にあったポットにつかまって立とうとしたそうだ。


ポットは倒れ、熱湯は私の両足にかかった。


やけどのあとは、かなり後まで残っていたが、私が10代の頃に、消えた。


こんなこともあった。


私に下着を履かせていた母。


私が「ぎゃーっ!」と叫び声をあげた。


母は 訳がわからずにいたが、


下着を脱がせたら、大きな蜂がいたそうだ。


どちらのエピソードも、母の話は同じ言葉で締められた。


「あの時はお父さんに怒られる、と気が気じゃなかった」と。


父からは その時の話を聞いたことがない。


「寝た子であっても、目を離すな」


「子どもの衣類は、異物確認」


私が母の話から得た事は、自分の子育ての時に大いに役立った。


先日 母から電話があり、


「蜂に刺されて大変だった」と言う。


洗濯物についていた蜂に気付かなかったらしい。


洗濯物のチェックに行くわけにはいかないが、


明日にでも 母の所に寄って、何か手伝ってこようと思う。


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