平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

霊的な世界で自分は成人しつつあるか(2023.1.1 元旦聖餐式礼拝)

2023-01-02 12:14:43 | 礼拝メッセージ
2023年1月1日元旦聖餐式礼拝メッセージ
『霊的な世界で自分は成人しつつあるか』
【エペソ1:15~19】

はじめに
 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

 今年はどういう年になることを願い、どのように祈るべきかでしょうか?そのことを分かち合うために、まずは去年がどんな年であったかを振り返ってみたいと思います。

 去年の大きな出来事と言えば、世界においては何と言ってもロシアのウクライナへの軍事侵攻でしょう。多くの人々が犠牲になり、また国土が荒廃しました。未だ停戦の見通しはなく、この冬は停電によって凍えている方々も多いと報じられています。そして静岡においては台風15号による甚大な被害がありました。教会を含めて皆さんのお宅の多くが約12時間の停電の被害に遭ったと思います。でもそれは半日程度のことで済み、清水区の断水も1週間以内でほぼ復旧しました。これらももちろん大変なことでしたが、もっと大変だったのは土砂崩れの被害に遭ったお宅と河川の氾濫による浸水の被害に遭ったお宅で、浸水は床上浸水が約6千軒、床下浸水を含めると約1万軒が被害に遭ったということです。災害支援のボランティアで葵区と清水区のお宅約30軒にお邪魔しましたが、床上浸水の被害にあったお宅では1階に置いてあった家財のほとんどを失った方が多くおられました。エアコンも室外機が水没して使えなくなりました。この寒い冬に行政やNPO、ボランティアによる災害支援の手が届かず十分な暖房器具がなくて震えているお宅が、まだあるかもしれず、心配されます。

 コロナ禍も、昨年は第5波、第6波、第7波、そして現在進行中の第8波があって、いまだ収束の見通しが立ちません。

 このような、ひどい状況を見る時、神様はどうしてこのような状況を許しておられるのかなどと、つい思ってしまいそうになります。神様どうしてですか?と問いたくなる状況が続いています。でも、そう問うとしたら、たぶんそれは私たちが神様のことを分かっていないからだろうと思います。それゆえ、私たちはもっともっと神様のことを良く知る必要があると思わされます。

 そういう中で、今年はエペソ人への手紙1章17節を示されています(額の中に収まる字数にするために、少し短くしてあります)。

「どうか主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいますように。」(エペソ1:17)

 私たちは天の父に、神様を知るための知恵と啓示の御霊を祈り求めたいと思います。きょうは、このことのために今年話したいと願っていることの概略を話します。きょうの説教の構成は次の通りです(週報p.2)。
 
 ①今年の目標:パウロの信仰・成長を知ることで神様を知る
 ②関連する聖句:a) 元旦にⅠコリ2章から語った蔦田二雄師
         b) 霊的な世界で自分は成人しつつあるか?
         c) 後の者が先、先の者が後になる霊的な世界
 ③私はどうする?:子供のような素直さと好奇心で神を知る

①今年の目標:パウロの信仰・成長を知ることで神様を知る
 2019年に私が着任してからの礼拝説教では、旧約聖書と福音書を開くことが多くて、パウロの手紙を開くことは、あまり多くなかったように思います。パウロの手紙の聖句を断片的に取り上げることはよくありました。その代表は御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)に関するガラテヤ5章の引用だと思いますが、パウロの手紙について、まとまった時間を取ってじっくりと味わうことはあまりして来なかったように思います。

 しかし、「神様を知る」という観点から考えてみるなら、私たちにとってパウロほど良いお手本はないように思います。なぜならパウロは人としての肉のイエス様には会っていませんが、聖霊を通してイエス様と豊かな交わりを持ち、霊的な成長を遂げた人だからです。このパウロに私たちも倣うべきだろうと思います。霊的な成長はパウロでさえ一朝一夕にできたものではないはずです。イエス様に出会ってすぐにめざましい働きができるようになったわけではありません。バルナバがパウロの故郷のタルソに彼を捜しに行くまでの約17年間は、それほど大きな働きはしていないようです。もし、大きな働きをしていれば、ルカが使徒の働きにちゃんと書いたはずです。でもルカは、パウロがダマスコでイエス様と出会った頃のことを書いた後は、バルナバがタルソへ彼を捜しに行くまでの約17年間のことを書いていません。

 また、パウロの手紙にしても、パウロの手紙の中では一番古いとされるガラテヤ人への手紙は非常に厳しい口調で書かれていて、時に「ああ、愚かなガラテヤ人」などとパウロの激しさが直情的に書かれていたりして、柔和さが感じられません。一方、ガラテヤ書から10年以上を経て書かれたエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙などのいわゆる獄中書簡では、もっと深みのある成熟した信仰を持つ、御霊の実を多く結んだパウロの姿を見ることができます。今年の礼拝説教では、そういうパウロの成長を通して私たちも神様のことを深く知ることができるようになれば幸いである、と願っています。パウロは、彼の手紙の中で自身が書いているように、様々な困難に苦しみます。そういう苦難の中でパウロの信仰は深められて行きました。それらのことを礼拝で分かち合うことができればと思います。

②関連する聖句:
a) 元旦にⅠコリ2章から元旦に語った蔦田二雄師

 さて、きょうの聖書交読は詩篇ではなく、第一コリント2章を交代で読みました。ここは『岩から出る蜜』の蔦田二雄師が元旦に開いた箇所です(週報p.3)。週報では『岩から出る蜜』を、いつもは短く5行にまとめていますが、元旦の今日だけは特別に長く引用することにしました。

 元旦。昔の聖徒たちがこの朝、どのような語り掛けを神から受けたであろうか、と考えることは非常に興味深いことである。なぜこのような御声に触れたのかを黙想することは、私たちの霊的な交わりを深くするのに大いなる助けとなる。
 聖書のことばは常に新鮮である。神のことばは常に新しい業を続けるいのちのことばである。肉体的年齢もさることながら、霊的な世界でどのくらいの年齢に達したかを考えなければならない。自分は成人(新改訳2017年版は「成熟」)しつつあるだろうか。聖霊との干渉が深められること、これが成長の秘儀である。
 9節に「神は、神を愛する者たちに」、「人の心に浮かんだことがないものを備えてくださる」とある。神を愛する者に備えて下さるお方に目をとめ、安んじて踏み出そう。(抜粋)

 パウロは第一コリント2章の6節と7節(週報p.2)で、次のように書いています。

Ⅰコリント2:6 しかし私たちは、成熟した人たち(新改訳初版では「成人」)の間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。

 パウロは、私たちが語るのは「神の知恵」であって、「この世の知恵」ではないと書いています。今年、私たちは「神の知恵」を知ることで、神様をもっと深く知る者となりたいと思います。

 ただ、これはとても難しいことであり、パウロもコリントの人たちには3章2節と3節で次のように書いています(週報p.2)。

Ⅰコリント3:2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。

 コリントの教会の人々の霊的な状態はまだまだ赤ちゃんレベルであったので、お乳を飲ませたとパウロは書いています。そして、この手紙でパウロはコリントの教会の人々が霊的に成長するように、励まします。霊的な成長は一朝一夕に達成できるものではありませんから、私たちのこれからの一年が成長できる年であればと願います。

b) 霊的な世界で自分は成人しつつあるか?
 『岩から出る蜜』によれば、蔦田先生は元旦の日に第一コリント2章を引用しながら、「肉体的年齢もさることながら、霊的な世界でどのくらいの年齢に達したかを考えなければならない。自分は成人しつつあるだろうか。」と語りました。肉体的年齢に言及しているのは、戦前生まれの先生が数え年の年齢に親しんでいたからであろうと想像します。数え年では元旦に皆が一斉に一つ年を取ります。それが肉体的年齢です。これに対して、霊的な世界での年齢はどうですか?と蔦田先生は問います。成人に達していますか?と問います。「成人」ということばが使われているのは、新改訳の初版が使われていたからでしょう。私たちは果たして霊的に大人になれているだろうか?ということが問われています。そしてさらに、そのためには「聖霊との干渉が深められること、これが成長の秘儀である」と付け加えています。

 霊的に成長するためには、聖霊の助けが必要です。それは、いつも引用しているヨハネ14:26(週報p.2)のイエス様のことばからも分かりますね。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 なぜ聖霊の助けが必要なのか?それは、霊的な世界のことは、この世の常識によっては全く理解できないからです。

c) 後の者が先、先の者が後になる霊的な世界
 イエス様はマタイ・マルコ・ルカの福音書で、「後の者が先になり、先の者が後になります」とおっしゃいました。例えばマタイでは、「ぶどう園の主人のたとえ」の20章で言っています(週報p.2)。

マタイ20:16 後の者が先になり、先の者が後になります。

 マタイ20章では、ぶどう園で朝早くから働いた者たちが、夕方から少し働いただけの者たちと同じ1デナリしかもらえなかったので不平不満をぶどう園の主人に言いました。しかし、主人は言いました。「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。後の者が先になり、先の者が後になります。」この主人のことばは世の常識とは反していますから、朝早くから働いた者たちが不平を言うのも分かる気がします。でも、これが霊的な世界です。このたとえ話には、とても考えさせられます。

 たとえば、これはクリスチャンにも当てはめることができると思います。私たちは日頃は世俗化した世間の中で生きていますから、知らず知らずのうちに世の常識で聖書のことばを理解しようとしてしまいます。でも、それでは聖書のことばを理解できず、神様を深く知ることはできません。それゆえ、いつも新鮮な聖書のことばに触れている必要があります。蔦田先生も「聖書のことばは常に新鮮である。神のことばは常に新しい業を続けるいのちのことばである。」と言っておられます。換気をしないまま石油ストーブを使い続けると新鮮な空気が失われて、最悪の場合は命を失います。聖書のことばは心を温めるのに大いに有効ですが、換気をしないでいると、かえって信仰の妨げにもなりかねません。そうして生き生きした信仰を失うなら、後に回されて、生き生きとした信仰を持ったばかりの後の者が先に来るようになります。ですから、私たちはいつも聖霊との干渉が深められている必要があります。

③私はどうする?:子供のような素直さと好奇心で神を知る
 これらのことから、霊的な世界で成熟して成人になることとは、むしろ子供のようになり、いつも新鮮な気持ちで素直さと好奇心を持って神を知るようになることが勧められているのではないでしょうか。子供はいつも新しいことに興味を持ち、いろいろなことを知りたがります。私たちも霊的な世界で大人になるためには、子供のようにならなければならないでしょう。神様の教えの多くは逆説的ですが、これもまた、その例であると言えるでしょう。大人になるためには子供にならなければなりません。

 霊的な世界で大人になるには、私たちはこの世で身に着けた常識を一旦手放して、子供のように旺盛な好奇心で神様を知ろうとする姿勢が必要とされていると思います。これは一見すると難しいことのように思えます。でも、蔦田先生はおっしゃいました。「『神は、神を愛する者たちに』、『人の心に浮かんだことがないものを備えてくださる』とある。神を愛する者に備えて下さるお方に目をとめ、安んじて踏み出そう。」「後の者が先になり、先の者が後になる」というようなことは、「人の心に浮かんだことがないもの」の代表例でしょう。でも、神様を愛する者にはそういうものを備えて下さるとパウロは教えてくれていますから、私たちは心配せずに、すべてを神様にお委ねして、この新年、神様をもっと深く知るための新たな一歩を踏み出したいと思います。

おわりに
 これから聖餐式を行います。聖餐式は、イエス様が十字架に向かう前に弟子たちと最後の晩餐を行ったことを覚えて行います。十字架によって、すべての物事は逆転しました。死がいのちになり、弱い者が強くなり、後からの異邦人が先にいたユダヤ人の先を行くようになりました。

 このことは、イエス様がすべてを手放すことで成就しました。クリスマスの日にイエス様は神であることを手放して、人として、この世に来て下さいました。そしてさらにすべてを手放して十字架に付いて、すべての物事を逆転させるという神の御業を成就させました。このことによって重大な罪人であった私たちが、豊かに祝福されるようになりました。これもまた素晴らしい逆転です。

 ですから、私たちはイエス様に倣って、この世の常識をすべて一旦手放して、すべてを神様にお委ねしたいと思います。このことを覚えながら、聖餐式に臨みましょう。お祈りいたします。

「どうか主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいますように。」(エペソ1:17)
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