平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

契約の重さを思っていただくパンと杯(2022.10.2 礼拝)

2022-10-03 07:46:25 | 礼拝メッセージ
2022年10月2日聖餐式礼拝メッセージ
『契約の重さを思っていただくパンと杯』
【創世記17:1~14、ガラテヤ3:26~29】

はじめに
 きょうは聖餐式礼拝です。週報p.2の一番上にも載せたようにイエス様は最後の晩餐でおっしゃいました。ルカ22章19節と20節です。

ルカ 22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後(あと)これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」

 私たちは、この新しい契約によってキリストにあって一つとされ、神の子とされて永遠のいのちが与えられます。きょうは、この契約がとても重いものであることを分かち合って、その後に聖餐式に臨みたいと思います。きょうの中心聖句はガラテヤ人への手紙3章28節と29節です。

ガラテヤ3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①旧約も新約も、契約を結んで守ることを重んじる
 ②忠実なアブラハム、守られたイシュマエルとイサク
 ③神が造られた地球環境を守る管理人の雇用契約

①旧約も新約も、契約を結んで守ることを重んじる
 最初に話したように、イエス様は最後の晩餐で、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」とおっしゃいました。イエス様が「新しい契約」とおっしゃったのは、その前に旧約の時代の古い契約があったからですね。旧約の時代の契約にはノアの時代の契約、アブラハムの時代の契約、モーセの時代の契約などがありました。一般に旧約の時代の契約と言えばモーセの時代の契約を指すことが多いと思います。しかし、アブラハムの時代の契約も非常に重要であったということを、きょうはご一緒に分かち合いたいと思います。

 契約を結ぶことは現代の私たちの生活にとっても欠かせないことですね。アパートを借りる時には賃貸契約を結びます。土地や家などを購入する時には売買契約を結びます。働く時には労働契約を結びます。契約書に細かい取り決めごとを書いておくことで、もめごとになることを防ぎます。例えばアパートの賃貸契約では、多くの場合、家賃は前の月の何日までに翌月分の家賃を支払うというようなことが書いてあると思います。この支払い期日を書いておかないと、面倒なことになります。

 このように現代の私たちの生活の基盤は、契約の上に成り立っています。しかし、その割には聖書に記されている神様と人との間の「契約」については、そんなに重く捉えていないのではないか、そんな気がします。軽視しているわけではありませんが、すごく重視しているというほどではない気がします。神様を信じること、信じる信仰についてはとても重要視しますが、神様との契約については、信じることと比べると少し軽いような気がします。でも、それではいけないのだ、ということを分かち合いたいと思います。

 きょうの聖書交読ではアブラハムとイシュマエル、そしてアブラハムの家の男子が割礼を受けて契約を結んだ場面を読みました。交読した箇所の創世記17章1節から14節の間には、アブラハムへの主のことばが記されています。ここで主は「契約」ということばを何度も使っています。その数は数えると実に10回です。まず2節、

創世記17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」

4 「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。

7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

9 また神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。

10 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後(のち)の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。

11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。

13 あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。

14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」


 この1節から14節の間の短い箇所に10回も「契約」ということばが使われています。このことだけでも、「契約」がいかに重要であるかが分かると思います。そして、この時の「契約」のしるしは「割礼」でした。それゆえ、アブラハムと息子のイシュマエル、そしてアブラハムの家の者たちは割礼を受けました。23節です。

23 そこでアブラハムは、その子イシュマエル、彼の家で生まれたすべてのしもべ、また、金で買い取ったすべての者、すなわち、アブラハムの家のすべての男子を集め、神が彼に告げられたとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。

 さてしかし、創世記はこの後のページでは神様と人との間の契約のことは書いていません。人と人との契約については出て来ますが、神様と人との間の契約が次に出てくるのは出エジプト記のモーセの時代になってからです。それゆえ、見落としがちだと思いますが、実はこの「契約」が、アブラハムとイシュマエルとイサクのその後に、深く関わっているようです。それを、次のパートで見てみましょう。

②忠実なアブラハム、守られたイシュマエルとイサク
 いま祈祷会では藤本満先生の著書の『祈る人びと』をベースにして、旧約の時代の人物の信仰について分かち合っています。これまでアブラハムと女奴隷のハガルについて見て来ました。その中で、これまで分からないでいたことが「契約」ということばを手掛かりにすることで、分かるようになったと感じています。

 その一つが、アブラハムが息子のイサクを屠って全焼のささげ物として献げる一歩手前まで行った創世記22章の記事です(週報p.2)。

創世記22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、…一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。

 アブラハムはイサクを献げなさいと神様から命じられた後、3節にあるように次の朝早くには出発しました。ここにはアブラハムが悩んだ様子が書かれていません。アブラハムも悩む時は悩みます。22章の手前の21章11節には、アブラハムが妻のサラから女奴隷のハガルと息子のイシュマエルを追い出すように言われて、非常に苦しんだことが書かれています。21章11節です(週報p.2)。

創世記21:11アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。

 このように、21章のアブラハムは非常に悩み苦しんでいます。しかし22章はアブラハムが苦しんだとは書いていません。新約聖書のヘブル人への手紙は、この時のアブラハムのことを、こう書いています(週報p.3)。

ヘブル11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。

 たとえアブラハムがそのように考えたとしても、悩む時は悩むでしょう。しかし、聖書は22章のアブラハムが悩んだとは書いていません。これは一体どういうことでしょうか。

 それはやはりアブラハムが神様と契約を結んでいたからではないでしょうか。21章のアブラハムが悩んだのは、妻のサラから言われたからでした。人間のサラの言うことであれば、断ることもできましたから悩んだということではないでしょうか。しかし、神様からの命令、しかも契約を結んだ神様からの命令は決して断ることはできず、悩む余地は無かったということではないでしょうか。命令を守らないとすれば、それは契約を破棄することを意味します。契約とは、それほど重いものであるということでしょう。

 契約のしるしは割礼でした。割礼で包皮を切り落とす時には血が流れ、痛みを伴います。この血と痛みを伴う契約は簡単に破棄することはできないでしょう。

 そして、創世記22章では息子のイサクは屠られることなく、守られました。それはイサクも割礼を受けていたからでしょう。或いはまた、イシュマエルも守られました。アブラハムはサラの言う通りに女奴隷のハガルと息子のイシュマエルに出て行ってもらいました。それはサラのことばに悩み苦しんでいたアブラハムに、主がサラの言う通りにするように言われたからです。アブラハムは妻に言われたからではなく、主に言われてそうしました。アブラハムにとっては、主の命令が第一でした。それは契約があったからでしょう。そうしてハガルとイシュマエルはアブラハムの家を出て行き、荒野をさまよいます。そして飲む水がなくなった時にイシュマエルは死にそうになりました。そんなイシュマエルを主は守って下さり、ハガルを通して水を与えて下さり、イシュマエルは元気を取り戻しました。このようにイシュマエルが守られたのも、やはり契約のしるしである割礼をイシュマエルが受けていたからでしょう。

③神が造られた地球環境を守る管理人の雇用契約
 3番目のパートに進んで、きょうの聖書箇所を見ましょう。ガラテヤ人への手紙3章26節から29節です。

ガラテヤ3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 私たちはイエス様を信じるとバプテスマ、すなわち洗礼を受けて契約を結びます。そうして契約のしるしであるイエス様の血であるぶどう液を共に飲み、キリスト・イエスにあって一つにされます。この手紙の28節でパウロは「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」と書きました。

 旧約の時代には契約のしるしである割礼を受けたのは男性だけでした。しかし、イエス様が十字架で血を流した新約の時代においては、男性も女性も分け隔てなく契約の恵みに与ることができます。ユダヤ人も異邦人もありません。身分の違いも関係なく、皆が等しく神様と契約を結ぶことができます。

 しかも、旧約の時代の割礼においては人間の側に血を流す痛みがありましたが、新約の時代には神様であるイエス様が十字架で血を流し、大変な痛みと苦しみを受けました。イエス様が引き受けた苦痛は肉体的な苦痛だけでなく精神的な苦痛もすべて引き受けました。一方、人間の側の私たちは契約を結ぶ洗礼式と契約のしるしをいただく聖餐式においては苦痛の代わりに豊かな恵みをいただきます。

 このように私たちの側では苦痛を受けないから、というわけではないかもしれませんが、新約の時代の私たちは少々契約を軽く見ているかもしれません。信じる信仰は重要視しますが、契約に関してはそんなに重要視していない気がします。労働契約や賃貸契約、売買契約は大切にするのに、神様との契約をそんなに重要視していないような気がします。少なくとも私自身は、これまで「契約」ということばを、それほど意識していなかったように思います。ですから、そのことを悔い改めて神様に赦していただきたいと思います。

 労働契約においては、どんな仕事をするのか、雇う側と雇われる側とで合意した上で契約を結ぶでしょう。仕事の内容は人それぞれでしょう。

 神様との契約も、神様のためにどんな働きをするかは人それぞれでしょう。いま私の心に通っているのは、マタイの福音書20章に出て来る、ぶどう園で働く人を雇うために朝早く出掛けた主人の話です。ぶどう園の主人は朝早くと午前9時頃、昼頃、午後3時頃、そして午後5時頃に働き人を雇いました。私が主人であるイエス様に雇っていただいて洗礼を受けたのは42歳の時ですから、もう昼を過ぎた頃だと思います。そうしてイエス様はぶどう園で働くようにとおっしゃいました。

 これまで私は平和のために働くことが、このぶどう園での働きであると思っていましたが、このところ急速に温暖化の問題を中心にした環境問題に関する働きのことを示されています。それは言うまでもなく、1週間前の台風15号の通過で私たちが住むこの静岡市が停電・断水の被害に遭ったことです。特に清水区では断水が長く続くという大きな被害がありました。人的被害が少なかったことは幸いでしたが、もし停電がもう少し長引いていたら、冷房や扇風機が使えない中で熱中症で命を落とす人が出てもおかしくない状況だったと思います。私たちが住む地上をもっと良くすることが、ぶどう園で働く私の務めであることを強く思います。そうして思ったのが、3年前にアフガニスタンで命を落としたお医者さんの中村哲さんです。中村さんはクリスチャンです。

 中村さんはアフガニスタンで最初はお医者さんとして病人の診察と治療に当っていました。でも医者としての仕事をしている間に、病人を診るよりも病気の原因となっている食糧事情の悪さを改善する必要を感じるようになったということです。アフガニスタンでは砂漠化が進んで作物が獲れなくなり、栄養失調による病人がたくさんいました。そこで中村さんは井戸をたくさん掘り、その次には用水路を作って水を引き、砂漠化していた土地に潤いを取り戻し、作物が育つようにしました。そうして現地の人々の食糧事情が良くなり、病人も以前に比べれば少なくなりました。

 こういう働き方もあるのですね。大雨の被害で被災した方々を直接支援する働きが重要であることは言うまでもありませんが、大雨の原因となる二酸化炭素などの温室効果ガスの排出を少なくする働きも、とても大切だと思います。その方法は様々です。エコな生活をすることもそうですし、理工系であれば技術によって克服しようとするアプローチもあるでしょう。或いは山に植林したり植物をたくさん育てるなどして、植物に二酸化炭素を吸収してもらう方法もあり、やり方はいろいろです。

 或いは温暖化の問題だけでなく、貧困の問題、コロナなどの感染症の問題、紛争・戦争の問題もあります。これらの問題に取り組むことは皆、地上を良くする働きであり、地上が良くなれば苦しむ人々も少なくなりますから、それはイエス様が喜ばれることです。

 何年か前から若い人たちを中心にSDGsへの関心が高まっています。週報p.2の下にSDGsの説明を載せました。これは国連のユニセフのホームページからのコピーですが、それによれば、「貧困、紛争、気候変動、感染症。人類は、これまでになかったような数多くの課題に直面しています。このままでは、人類が安定してこの世界で暮らし続けることができなくなると心配されています。そんな危機感から、世界中のさまざまな立場の人々が話し合い、課題を整理し、解決方法を考え、2030年までに達成すべき具体的な目標を立てました。それが「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)」です。

 イエス様はマタイ25章で、ご自身が空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた人たちを祝福して言いました。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」この祝福された人々には、中村哲さんのように、用水路を作って作物を作る手助けをした人も当然含まれます。直接病人を診るのではなく病人が出ないようにする働きもイエス様は喜んで下さいます。

 ですから私たちも、直接的な働きが出来なかったとしても、たとえばSDGsに高い関心を持つ若者たちに、天地を造ったのは神様であること、また造られた当初は非常に良かったことを伝えて、この地上を良くする働きを励ますことも、御心に適うことでしょう。神様は天地と空の星、植物と動物を造り、人を造った後で人を祝福して仰せられました。創世記1章28節です。

創世記1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ(治めよ=聖書協会共同訳)。」

 この「支配せよ」は聖書協会共同訳では「治めよ」となっていることを先週話しました。神様はこの地上を正しく管理することを望まれています。創世記3章で人の心に罪が入ったために、今の地球環境はひどいことになっていますが、これを少しでも良くする働きは御心に適ったことです。

 最近、私自身が示されていることはSDGsに関心が高い若い人たちに、この地球は神様が造られたこと、そして造られた当初は非常に良かったことを伝えて、彼ら・彼女らが環境問題、貧困の問題、平和の問題、感染症の問題に取り組む働きを励ますことが私の重要な働きの一つではないかということです。若い人たちが元気なら私たち高齢の者も励まされます。若い人たちが元気でなければ私たちも元気になれません。

おわりに
 神様が人と結ぶ契約の細かいことは、一人一人でそれぞれだと思います。皆さんは、どんな契約を神様と結んだでしょうか?或いはこれから結ぶでしょうか?いずれにしても、この契約は決して軽いものではなく、重いものであることを覚えたいと思います。この契約の重さを思いながら、聖餐式のパンと杯をいただきましょう。一言、お祈りいたします。

ガラテヤ3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
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