平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

個人の平安と世界の平和を祈り求める教会(2017.1.4 祈り会)

2017-01-05 14:56:10 | 祈り会メッセージ
2017年1月4日祈り会メッセージ
『個人の平安と世界の平和を祈り求める教会』
【ヨハネ14:23~27】

はじめに
 2016年から2017年になろうとする時、私は微かな不安を感じていました。新しい年を迎える時間には、世界中の街で人々が大勢集まって新年を祝うからです。近年は大勢の人々が集まる場所でテロ事件が頻発していますから、この2017年の新年を迎える時に、そのようなテロ事件がまた発生するのではないかという不安を感じていました。そして、その不安は的中して、トルコのイスタンブールで男が銃を乱射して39名が死亡したというニュースが報じられました。
 今のような現状では、世界ではこれからもテロ事件は起き続けるでしょう。世界では紛争や戦争によって多くの人々が苦しんでいます。そのような中で過激な思想を持つようになった人々が起こし続けます。一人一人の個人の心に平安がないので、世界も平和になりません。個人の心の平安と世界の平和とは密接に関連しています。もし、すべての人々の心が平安であるなら、テロ事件や戦争は決して起きないでしょう。すべての人の心が平安になることなど有り得ないことなのかもしれませんが、一人でも多くの人の心に平安が与えられるなら、その分、争い事は少なくなるはずです。平和の働きとはその積み重ねだろうと私は思っています。

世が与えるのとは違う平安を与えるイエス
 このようなことを私が考えるのは、クリスチャンであってもなお、心に平安がない方が大勢いるからです。2017年の私たちの教会の年間の聖句は、「あなたがたは、世界の光です」(マタイ5:14)ですが、いま話したようなことから、今年私たちの教会は個人の平安と世界の平和を祈り求める教会でありたいと願っています。礼拝のほうでは、次の1月8日の礼拝で、もう一度、私たちが「世界の光」であるとはどういうことかについて確認し合いたいと思いますが、祈り会のほうでは、「個人の平安と世界の平和」について学び、考え、そして祈って行きたいと思います。教会は個人の救済だけではなく、世界の平和も祈り求めて行かなければならないと思います。それでこそ、地域の方々にも関心を持っていただけるようになるのではないかと私は示されています。世界の平和は誰もが願っていることです。個人の平安ももちろん、誰もが願っていることです。しかし、宗教に対する考え方は人それぞれです。単に個人の救済だけを訴えても、なかなか関心を持ってはいただけないような気がしています。一方、世界の平和の実現に関しては、世界レベルの宗教においてしか、もはや解決には至らないと私は感じています。
 世界にはクリスチャンと呼ばれる人々がたくさんいます。しかし、先ほども話したようにクリスチャンであってもイエスさまが与える深い平安を感じ取ることができている人は、あまり多くはいないようです。
 ご一緒に読んだように、イエスさまはヨハネ4章27節で、

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」

とおっしゃいました。この世が与える平安とは違う平安とは霊的な領域における平安です。この27節の前の26節でイエスさまは、

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

とおっしゃいました。この聖霊が私たちの心の奥深い霊的な領域で平安を与えて下さいます。この心の奥深い領域での平安を、クリスチャンの多くは何となく感じてはいるものの、はっきりとは感じていないのだと思います。この種の奥深い領域での平安は、目の前で起きるちょっとしたことに気を取られることで、すぐに失われてしまいます。それゆえ何かのきっかけで偶然に心の平安を感じて信仰を持つに至った人でも、すぐに信仰から離れて行ってしまいます。洗礼を受けてクリスチャンになっても、やがて教会に来なくなってしまう人がたくさんいます。それは日本の教会だけでなく、世界の教会においてもそうなのだろうと思います。だから世界にはクリスチャンが大勢いるにも関わらず戦争が絶えないのだと思います。

永遠への回線をつなぐ
 さて、心の深い平安を感じる上で最も大切なことは、「永遠」を感じることだと私は考えています。しかし、皆、目の前に次々と現れる仕事や家事や諸々のことに忙殺されて「永遠」を感じる暇が無いのだと思います。
 私も、いろいろと忙しくなるとそうなります。忙しい時は夕方、防潮堤に出てジョギングをする余裕もなくなります。しかし、これは非常に良くないことだと最近、思わされています。忙しくても海岸の防潮堤の上に行き、広い海を見るなら、心の回線が永遠につながり、心の平安を得ることができます。多くの人の場合、先ずはまだ永遠への回線がつながっていないと思いますし、一旦はつなぐことができた人でも、少し忙しくなると、すぐに回線が切れてしまいます。私の場合もそうです。しかし、私の場合は既に「明確に」つなぐことができた経験を持っていますから、再びつなぐことは、そんなに難しいことではありません。難しいのは「明確に」つないだ経験を先ずは1回持つことで、その機会が与えられる必要があります。「永遠」への回線に「明確」につながる必要があります。
 「明確に」を強調する理由は、多くの人が何となくは「永遠」を感じているのだと思います。しかしながら、そんなに「明確に」は感じていないのだと思います。ですから深い平安を感じることがなかなかできないのだと思います。
 私の場合は「永遠」への回線が最初に「明確に」つながったと意識できたのが、姫路でのインターン実習生の時でした。今思うと、この姫路でのインターン実習の機会が与えられたのは本当に幸いだったと思います。インターン実習生はまだ神学生の身分ですから、牧師に比べれば気楽な身分です。しかも会堂に一人で住んでいましたから、時間を自由に使えます。そして私に与えられた役割は、会堂の管理と、週1回の祈祷会の説教、そして会計管理をする程度のことでした。礼拝説教は牧師が行っていて、私が礼拝説教をするのは牧師が他教会での御用を行う月に1回程度のことでした。また、この教会は眼前に広々とした田んぼが広がるのどかな場所でしたから、今の沼津の海ほどではないにしても、「永遠」を感じる良い環境が整っていたと思います。そのように神学生の身分で、しかも神学校にいたわけではないので授業もテストもなく(卒論はありましたが)、奉仕内容もそれほど多くはなく、一人暮らしで時間を自由に使え、教会の眼前は田んぼという良い環境の中で、「永遠」を明確に感じる経験を持つことができたことは、本当に幸いだったと思います。

おわりに

 しかし、このような良い環境を持つ人々はごく少数です。そのような方々でも「永遠」への回線に明確につながったと意識できる手助けをしなければならないと示されています。そうでなければ、私たちは個人の平安も世界の平和も得られないと思います。ですから、今年はそのことを追求して行きたいと願っています。
 今年、「あなたがたは、世界の光です」が年間の聖句である私たちの教会は、個人の平安と世界の平和を祈り願う教会でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
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