平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

時間の柵が隔てる現代と聖書の時代

2016-06-02 06:04:37 | 祈り会メッセージ
2016年6月1日祈り会メッセージ
『時間の柵が隔てる現代と聖書の時代』
【ヨハネ10:40、21:24】

はじめに
 来週から教会の会堂の外側の修繕工事が始まります。最初に取り掛かるのが、老朽化した物置とバルコニーと十字架の撤去です。この来週早々からのバルコニー撤去を前にして、一昨日私はバルコニーに出る2階の窓の内側に柵を設ける作業をしました。柵には、古いカーテンレールを再利用しました。私が三年前にこの教会に来た時に、カーテンレールを全てシングルからダブルのものに交換しましたので、その時にはずしたシングルのカーテンレールを柵として取り付けました。この写真が部屋の内側から見た、窓の内側のカーテンレール柵と窓の外のバルコニーの柵です。バルコニーの柵のさらに外側には、今回の修繕工事で撤去する物置と十字架も見えています。



体だけでなく心もブロックしてしまう柵
 さて、きょうのメッセージのタイトルは『時間の柵が隔てる現代と聖書の時代』です。このようなタイトルのメッセージにしようと思ったのは、今回、バルコニーに出る窓にカーテンレールの柵を設けたことによって、バルコニーの柵との距離が以前より遠く感じるようになったからです。カーテンレールの柵を取り付ける前はバルコニーの柵を「こちら側」の領域と考えていたのが、カーテンレールの柵が手前に出来たことで、「あちら側」の領域に遠ざかってしまったようです。バルコニーの柵と私との実際の距離は全く変わっていないのにも関わらず、心理的には随分と遠くなったと感じています。それはつまり、新たに設置した柵が、実際には遠くにはないものを遠くにあるように心理的に思い込ませてしまっているということです。この柵は、人の体が2階の窓から落ちることのないように、人の体をブロックするための物です。その体用の柵が心の方にも働いてしまっているようです。
 このように体のことが心理面に影響するということは、私たちがヨハネの福音書を読む場合にも起きていることだと思いますので、きょうは、その話をすることにします。
 ヨハネの福音書を読む場合の妨げになっているのが、まさに人間の体です。人間の体は時間の柵を越えることができません。しかし、霊的には時間の柵を越えて御父と御子との交わりに入れていただくことができます。霊的な交わりという場合、神様の側が時間を越えて今の私たちの時代に来て下さるということだけでなく、私たちの側も霊的に時間を越えて聖書の時代に入って行くことができます。しかし、前者の神様が時間を越えるということは理解できても、後者の私たちの側も時間を越えることができるということが、なかなか理解されていないようです。それは人間の体が時間を越えることができないので、人間は霊的にも時間を越えることができないと思い込まれてしまっているようです。

自由に時間を越える霊的なイエス
 ここで、きょうの聖書箇所を見ましょう。

ヨハネ10:40「そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。」

 このヨハネ10章40節では、【旧約聖書の時代】の霊的なイエスさまが、バビロン捕囚に引かれて行ったエルサレムの人々と一緒にヨルダンを渡ったことが示されています。バビロンはユーフラテス川の流域にありますから、ヨルダン川の向こう側にあります。また、「ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所」というのは、アブラハムの時代のウルとハランの地のことです。ウルとハランの地もまたエルサレムから見てヨルダンの向こう側にありました。このウルとハランの地にアブラハムは父テラと共にいました。そして父テラが死んだ時に、神様、すなわち霊的なイエスさまがアブラハムに近づいて、ハランを出てカナンの地に行くように命じました。
 このヨハネ10章にいる人間のイエスさまは時間を越えることができませんが、霊的なイエスさまは時間を越えた存在ですから、アブラハムの時代にも、バビロン捕囚の時代にもいます。このことがなかなか理解されないのですが、それは私たち人間の体は時間の柵を越えることができませんから、それをイエスさまにまで適用してしまっているからのようです。しかし霊的なイエスさまは時間の柵を軽々と越えて行くことができます。そして私たちもまた霊的には時間の柵を越えることができます。

時間の柵を越えてイエスの隣にいる愛弟子
 次にヨハネ21章24節をご一緒に読みましょう。

ヨハネ21:24「これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。」

 このヨハネの福音書に登場する「イエスの愛した弟子」、すなわち「愛弟子」とは、霊的なイエスさまが時間を越えた存在であることを理解した読者のことです。霊的なイエスさまが【旧約聖書の時代】も【使徒の働きの時代】も自由に行き巡っていることを感じることができるなら、ヨハネの福音書の読者の私たちもまた、霊的に時間を越えて愛弟子として最後の晩餐でイエスさまのすぐ隣の席に座り、また十字架をすぐそばから見上げることができます。しかし、私たちの肉体をブロックしている時間の柵が私たちを霊的にもブロックしてしまうなら、私たちはイエスさまの愛弟子になることはできません。
 私たちの霊性は自由なのですから、時間の柵に妨げられることなく、御父と御子との交わりの中に入れていただきたいと思います。そうして私たちも証を残して行きたいと思います。

おわりに
 ヨハネ21章25節もご一緒に読みましょう。

ヨハネ21:25「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」

 私たちの全員が愛弟子になり、イエスさまとの交わりに入れていただき、それらの証しをいちいち書き記すなら、本当に世界も書かれた書物を入れることができないほどになるでしょう。しかし今は、デジタル技術が発達していますから、私たちの書いた証しもテキストファイルにしてメモリーに保存すれば、ほとんど場所を取ることもありません。ですから私たちは、どんどん証しを残して行きたいと思います。この私たちの証しがまた、他の方々がイエスさまと出会うことにつながって行きます。
 私たちの教会がそのように用いられるように、私たちは時間の柵に妨げられることなく、霊的に自由な者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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