平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

信仰の芽生えと成長と継承(2014.10.26 礼拝)

2014-10-28 08:47:14 | 礼拝メッセージ
2014年10月26日召天者記念礼拝メッセージ
『信仰の芽生えと成長と継承』
【使徒9:1~9】

はじめに
 きょうは召天者記念礼拝です。
 この世での生涯を既に終えて天に召された信仰の先輩方を偲びつつ、私たちの信仰のこと、そして、この信仰をどのように継承して行くかをも、きょうは考える機会にしたいと願っています。週報の3ページ目にお名前が書いてある方々は、この教会で信仰を育み、既にこの世での生涯を終えた方々です。
 この沼津教会は3年後の2017年に設立50周年になりますから、今年は47年目になります。この47年間に多くの方々が、この教会で信仰を育んで来ました。私自身は13年前に、別の教会で信仰を持ちました。ですから、この教会には、私より先に信仰を持った方もいますし、私より後に信仰を持った方もいます。そして、信仰の深まり方は、人それぞれです。

上のレベルに行くことの可視化の必要性
 信仰に限らず、スポーツでも、外国語の習得でも、音楽の楽器でも、ある時に急に何かコツみたいなものをつかんで、上のレベルに行く時があると思います。その上のレベルに行く経験が無いと、いくら長くやっていても、上達はしません。スポーツや楽器を長くやっている人が上手な人だとは限らないことは、皆さんもよくご存知だと思います。或いはまた、理論を良く知っていても上手になるとは限りません。いわゆる頭デッカチでは、スポーツや楽器や外国語は上手くなりません。習うより慣れろですね。
 信仰も同じです。信仰生活が長い人が信仰が深いとは限りません。そして聖書に書かれていることを隅々まで知っている聖書に詳しい人でも信仰が深いとは限りません。一方、聖書のことをそんなに知らなくても、深い信仰を持っている人もいます。信仰の場合、それらの違いは何によって生じるのでしょうか。
 私は3年前のある時を境にして、新約聖書のヨハネの福音書についての理解がグーンと深まる経験をしました。そして、ヨハネの福音書には、まだ世に知られていない深い世界が描かれていることを知りました。これを、どうしたら人々に理解していただけるか、私はこの3年間、あれこれ考え続けています。3年前の最初の頃は、私が知ったヨハネの福音書の深い世界を、私はすぐに皆さんと共有できると思っていました。すぐにわかってもらえて、聖書の未だ知られざる素晴らしい世界を分かち合うことができると思っていました。しかし、2年ぐらい奮闘努力して、それがとても難しいことであることが良~くわかって来ました。
 それは、恐らく皆が、信仰というものを、とても漠然と捉えているからだと思います。自分は信仰を持っているとか、あまり持っていないとか、ぜんぜん持っていないとか、その程度のことは皆わかっていますが、わかっているのはせいぜいその程度で、とてもフワフワした感じです。そういうフワフワした状態では、いつまで経っても聖書の奥深い領域は分かってもらえないなというのが、ここ1年ぐらい私が感じていることです。もっと、信仰を持つとはどういうことかについて、しっかりと地固めをして準備をしておかないと、聖書の奥深い世界を多くの方々と分かち合うことは難しいようです。

ハシゴのたとえ
 そこで今日は先ず、信仰を持つとはどういうことかを、ハシゴを立てて屋根に上がることに例えてみたいと思います。ハシゴを立てて屋根に上がるには、しっかりと足元を固めて入念に準備する必要があります。信仰も一段高いレベルに上がるには、しっかりとした準備が必要という点で、良く似ていると思います。
 私がこの教会の牧師になったのは、1年半前の4月のことです。そして、この教会の屋根の上に初めて上がったのが、昨年の11月でした。この教会に着任してから半年以上が経っていました。着任した当時は、すぐにでも屋根に上がって屋根の状態を確認したいと思っていました。しかし、どこにどうハシゴを立てたら、安全に上り下りが出来るか、考えあぐねていて、その間に、あっという間に半年が経ってしまいました。
 前任の廣瀬先生は2階のベランダにハシゴを立てて屋根に上がったと聞いていましたから、私も先ずはそうしようと思っていました。しかし、ベランダの床板は踏み抜いてしまいそうなぐらいに弱くなっています。私は廣瀬先生よりも体重が重いですから、廣瀬先生の体重なら大丈夫でも、私の場合は床を踏み抜いてしまう恐れがあります。それで、まずベランダの床を補強するために、カインズホームへ行って厚い板を購入しました。ベランダのサイズを巻尺で計り、一枚の板ではなくて何枚かに分けて、それを互い違いに二重に敷くように寸法を考えてカインズホームの工房でカットしてもらい、私の車で苦労して板を運び、二階のベランダに敷きました。これで床は大丈夫です。それで、今度はハシゴをベランダにどう立てるかを考え始めました。しかし、どう考えてもほぼ垂直にしかハシゴを立てられません。すると、ハシゴがひっくり返る心配があります。廣瀬先生の場合は善子先生にハシゴを抑えていてもらえば良かったかもしれませんが、私は一人ですので、ハシゴがひっくり返らないような対策を考えなければなりません。一番良いのはベランダの手すりにハシゴをくくりつけて固定することですが、手すりも相当に腐食が進行していてボロボロになっていますから、ハシゴをしっかりと固定することはできません。それで私は、2階のベランダから屋根に上がることは断念して、1階から長いハシゴを立てることにしました。それで役員会で7メートルの長いハシゴを購入することを認めてもらって購入しました。
 さて、しかし、今度は、この1階から屋根まで届く長いハシゴを、この狭い敷地の中で、どう固定して安全に上る下りができるようにするかも、難問でした。ハシゴの話が長くなりましたから、ハシゴの話はこれぐらいにしておこうと思いますが、長いハシゴの場合は横に倒れる危険性があります。その横倒れを防ぐには、しっかりとハシゴの足元の地固めをして、またハシゴは上のほうでも、しっかりと固定する必要があります。
 それらの準備をしっかりとしておかないと、決して屋根の上に上がることはできません。同様に、聖書の奥深い世界を理解するのにも、浅い理解と深い理解との間に、しっかりとしたハシゴを立てる必要があります。では、どのようにハシゴを立てたら良いでしょうか。どうやら、このことは今まで、ひどく曖昧なままにされて来たようです。それゆえ、たまたま聖書の深い真理に到達した人がいても、それに続く人がいないので、やがて忘れ去られてしまうということが繰り返されて来たのではないかと思います。

信仰レベルの8段階モデル
 きょう週報に挟ませていただいたA4の半分のサイズの紙には、このようなハシゴを立てたら良いのではないかと私が最近考えていることが書いてあります。ここには8つの表があります。これからしばらくの間、この8つの表について説明して行きます。



 8つの表のうちの8つ目が、私が皆さんと分かち合いたいと願っている奥深い信仰の世界です。いわば、屋根の上です。既に独自の方法で、この屋根の上に上がっていらっしゃる方もいると思いますが、今まではハシゴが立ててありませんでしたから、どうやって屋根の上に上がったら良いか、とまどっていた方も多いことと思います。
 ですから、この8つの表の②~⑦は、地面から屋根の上に上がるまでのハシゴの一段一段のようなものだと思っていただきたいと思います。先ほども言いましたが、このようなハシゴを使わなくても、独自の方法で既に屋根の上に上がっておられる方もいると思います。ですから、このハシゴが唯一の方法ではありません。また、②~⑦の順番も、モデル化したものですから、人によっては、この順番通りでなくてもよいと思いますし、何段かを飛ばして大股で上がることができる人もいることと思います。ですから、これはハシゴの一つのモデルとして見ていただけたらと思います。他のハシゴのモデルも多分あるのだろうと思います。
 さて、これから、この表の見方を説明して行きます。この表は、「私がいる時代」と「イエスがいる時代」との関係を示しています。「私」というのは、聖書の読者のことです。聖書の読者である私は、「現代」にいます。ここにいる私たちにとっての「現代」とは2014年のことであり、100年前の読者にとっては、100年前の1914年が「現代」になります。聖書は2千年にわたって読み継がれて来ていますから、「現代」にもいろいろありますが、私たちにとっては2014年の今が「現代」です。
 次に、この表の①から③までをまとめて説明したいと思いますが、この①~③の三つの表は、私が2014年の現代にいて聖書を読む時に、イエスがどの時代にいると感じているかを表しています。「イエスがいる時代」のうちの「イエス」というのは、二千年前のイエスがこの世にいた時代のことです。イエスは二千年前のクリスマスに母マリヤから生まれ、30歳の頃に十字架に掛かって死にました。イエスという人物が十字架に掛かって死んだことは歴史的な事実です。この表の「イエスのいる時代」の「イエス」というのは、この歴史的に実在したイエスという人物が生まれてから十字架で死ぬまでの期間のことです。そして①の表では、現代にいる私が、「イエスの時代」のイエスを感じながら聖書を読むことを表しています。これはごく一般的な普通の読み方ですね。ですから、ここにいる皆さんの全員にわかっていただけることと思います。
 さて誰でも最初は①の状態で聖書を読みますが、信仰が芽生えて来た人は、もう少し違う読み方をします。それが②の段階です。信仰が芽生えて来た人は、イエスが「イエスの時代」だけでなく、「使徒の時代」にもいることを感じながら聖書を読むようになります。「使徒」というのは、イエスの弟子のペテロやヨハネ、或いはパウロたちのことです。新約聖書は、この使徒たちとその弟子たちとによって書かれました。書かれた時代はイエスが十字架で死んで以降の紀元1世紀です。この十字架以降の新約聖書が書かれた時代が「使徒の時代」です。イエスは十字架で死にましたが、復活して使徒たちの前に現れました。そして使徒たちはイエスの教えを伝道する時、いつもイエスが共にいることを感じていました。使徒たちは、イエスが「使徒の時代」にも生きていることを感じながら伝道活動をして、また新約聖書の記事を書きました。

使徒の証言を信じるか信じないか
 きょうの聖書箇所の使徒の働き9章(新約聖書p.244)も、そのような箇所です。この使徒の働きには、イエスが十字架で死んだ後の、使徒たちの働きが書いてあります。この使徒の働き9章1節に出てくるサウロというのは、後のパウロのことです。この時、サウロはまだイエス・キリストを信じてはおらず、逆にイエスを信じる者たちを迫害していました。そうしてダマスコにいるクリスチャンを捕らえてエルサレムに引いて来ようとしていました。しかし、サウロはダマスコの近くまで来た時に、イエス・キリストと出会いました。3節から5節までをお読みします。

9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

 このようにして突然のようにイエスと出会ったサウロは、しばらく目が見えなくなってしまいましたが、イエスは今も生きているとクリスチャンが言っていたことは本当だったのだと分かりました。そしてイエスが突然サウロの前に現れたのは、イエスが自分をキリスト教の伝道者にするためであったことを悟りました。それゆえサウロは目が見えるようになってからは一転して、キリスト教の伝道に励むようになりました。
 このように使徒たちが聖書に書いていることを現代の私たちが読む時、これらの話を信じる人もいれば信じない人もいます。信じて聖書を読む人は②の段階に進み、信じない人は①にとどまっています。②の表には、「使徒の時代」に☆印がありますね。この②の段階の読者は、イエスが「使徒の時代」にもいたことを信じ、「使徒の時代」のイエスを感じながら聖書を読みます。一方、十字架で死んだイエスが「使徒の時代」にも生きていたなんて信じられないという人は、①の段階にとどまり続けて聖書を読むことになります。聖書に詳しい聖書学者でも①の段階で聖書を読んでいる人はたくさんいます。使徒たちが書いたことを信じない人々は、使徒たちは夢の中でイエスと会っていたとか、使徒たちは嘘をついていたのだ、などと考えます。イエスが十字架で死んだ後に復活したイエスに出会ったというのは作り話であって、そういう作り話をでっち上げてキリスト教を広めたのだと考えます。そう考える人は、イエスが「使徒の時代」にもいたことを感じることは決してありませんから、ずっと表の①の状態で聖書を読み続けることになります。

信じる者は次の段階に行く
 一方、使徒たちが聖書に書いたことを信じて読むようになった読者には変化が現れます。それが表の③です。聖書にはイエスが弟子たちに向かって話したことが、いろいろと書かれています。そのイエスの弟子たちへのことばが、まるで自分に向かって話しているかのように感じるようになります。それを表③の☆印で表しています。イエスは「イエスの時代」や「使徒の時代」にいただけでなく、「現代」にもいて私に向かって話掛けて下さっていると感じるようになります。
 ヨハネの福音書の1章から、一箇所だけ、例を見ることにします。あまり、あちこち聖書を見るのは大変ですから、聖書を見るのは、これで最後にします。新約聖書のp.174の39節を見て下さい。ここに、

1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」

とあります。これはイエスが弟子たちに言ったことばです。しかし、聖書に書いてあることを信じて読むようになると、「来なさい。そうすればわかります。」というイエスのことばが、まるで自分に向かって言われたことばのように感じるようになります。このようにして復活したイエス・キリストは「現代」でも生きていて、私に向かって話し掛けて下さっているのだと感じるようになると、信仰を持つようになります。
 さて、ここまでは読者である私は、すべて「現代」にいて聖書を読んでいます。しかし、イエスが現代の私に語り掛けていることを感じるようになると、「イエスの時代」のことをとても身近に感じるようになります。すると、今度は私が「イエスの時代」に入り込んでイエスを感じるようになります。それを表④の☆印で表しています。私自身が「イエスの時代」に入り込めるようになると、マリヤやペテロなどの聖書の人物を、もっと身近に感じるようになります。そうするとイエスがペテロに向かって言ったことが、もっと良く理解できるようになります。そうして私自身が「イエスの時代」だけでなく「使徒の時代」にもいることを感じるようになります。これが表⑤の段階であり、信仰が深まって行きます。
 こうして「使徒の時代」のことまでがわかって来ると、それまでは、イエスが弟子たちに向かって言ったことばの、一部だけが自分の心に響いていたのが、もっと多くのことばが心に響いて来るようになって来ます。そうすると、それまではイエスのことばの一つ一つをバラバラに聞いていたのが、それらが実は絡み合っているのだということがわかって来て、聖書全体の理解が進んで行くようになります。そしてイエスが何のために十字架に掛かったのかの理解も深まります。そして実はイエスは「旧約の時代」にいたのだということをも感じるようになります。それが表⑥の段階です。イエスは2千年前にマリヤから生まれたわけですが、実はその前の「旧約の時代」からいたのだということが分かって来ます。この「旧約の時代」にもいるイエスのことが分かって来ると、信仰は揺るぎないものになるでしょう。そして、さらに理解が深まると、表⑦のように自分が「旧約の時代」に入り込んで、「旧約の時代」のイエスを感じるようになります。こうなると信仰は磐石であると言えるでしょう。もはやそうなれば、「旧約の時代」や「イエスの時代」などの壁は取り払われ、イエスはすべての時代に同時に存在するのだということがわかり、自分自身も聖書を読む時にはイエスと共にすべての時代にいることを感じるようになります。これが⑧の段階です。

継承すべき先輩たちの信仰
 この⑧の段階を感じることができるようになると、素晴らしい心の平安を感じることができるようになります。先に天に召された信仰の先輩方が、この地上生涯にいる間に、どの段階にいたかは、お一人お一人で違うと思いますが、今では、私たちの考えの及ばない、⑧よりももっと素晴らしい所いると思います。地上にいる私たちが行ける場所は、せいぜいがこの会堂の屋根の⑧ぐらいの所ですが、天に召された方々は、私たちの想像を絶する素晴らしい世界にいることでしょう。この地上にいた時には③の段階であったとしても、天に召されれば、④~⑧の段階は軽く超えて、天の御国に行くことができます。ですから、私たちの教会の役目は、地域の方々を少なくとも③の段階にはお導きすることなのだと思います。しかし私は欲張りですから、多くの方々に⑧番まで上がっていただきたいと願っています。それは⑧番の素晴らしい平安を知っている者たちでなければ、平和を作ることができないと思うからです。逆に言えば、多くの方々が⑧番の段階の素晴らしい平安を知るなら、世界は平和に向かって行くのだと思います。
 さて、③に導くにしても、⑧まで導くにしても、教会が存続しないなら、その働きはできません。私たちは信仰を継承して伝道の働きをつないで行かなければなりません。そのためには会堂が古くなったなら、新しい会堂を建てる必要があります。
 最初に話したように昨年私は、屋根に安全に上り下りできるハシゴの立て方を半年間考えて、1年前にようやく屋根の上に上がることができました。そして、屋根の状態を見て、この教会が2017年の50周年の年に新会堂を建てることを目標にしている理由を理解しました。2017年を新会堂の目標にすることは、私が着任する前の2012年から決まっていました。それは、屋根の鋼板の腐食が進行していて、2012年の5年後の2017年がギリギリの限界であるからなのですね。廣瀬先生はそう見ており、私もそのことを1年前に確認しました。2017年が、この会堂の限界でしょう。
 その2017年に献堂式を行うためには、2015年には計画がかなり具体的になっている必要があります。ですから、2015年を前にした、この2014年はとても大切な年であることになります。それゆえ私たちは新会堂のために、もっと祈らなければなりません。それで今年は1月の総会を経て、2月から月に1回、会堂祈祷会を持つようになりました。そうして事態が段々と動いて来ました。梅雨入りを前にした今年の5月、私は半年振りで屋根にまた上がり、以前よりも屋根の状態をもう少し詳しく調べてみました。すると、屋根の鋼板の腐食が思っていた以上に深刻であることがわかりました。それで私はこのことをインマヌエルの静岡教区の先生方やブロックアドバイザーの蔦田先生、さらに教団の会堂委員会の委員長の北田先生、そして代表の藤本先生にも報告しました。そして、私たちの教会でも会堂建設委員会を開いて、新しい会堂の建設に向けて新たな一歩を踏み出すことを確認しました。それは、この会堂の屋根の葺き替えをするのではなく、新しい会堂を建てるということです。新しい会堂を建てる場所は、今のこの場所にするのか、別の場所にするのか、或いは別の場所に中古の物件を購入してそれをリフォームして会堂にするのかは、まだ未定です。しかし、ともかくも今の会堂を、屋根を葺き替えて使い続けることはしないことを決定しました。
 この会堂建設委員会の決定を経て私たちは8月から、月に1回の会堂問題勉強会を始めています。また、今月の始めに台風18号が通過した時には、2階の牧師の居室で雨漏りがありました。神様が少しずつ、私たちの背中を押して下さっているように感じます。ですから、今日この教会に来て下さっている、召天者のご遺族の方々にも、是非この教会の新会堂のために、お祈りいただきたいと思います。

おわりに
 天に召された信仰の先輩方の多くは、この沼津教会で信仰が芽生え、信仰を育んで行かれました。それは、「イエスの時代」だけではないイエス・キリスト、すなわち、現代の私たちの時代にもいて、私たちと共にいて下さるイエス・キリストに出会い、イエス・キリストと共に歩んだということです。その先輩方の信仰を、この沼津の地で途切れることなく継承して行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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