平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

すべてを逆にする十字架(2014.10.22 祈り会)

2014-10-23 10:19:30 | 祈り会メッセージ
2014年10月22日祈り会メッセージ
『すべてを逆にする十字架』
【Ⅰコリント1:18~25/イザヤ29:9~16、53:5】

1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

はじめに
 先日の聖日の礼拝説教で私は、平和とは実生活の役に立たない所にあるのではないか、という話をしました。聖書が平和の役に立っていないのは、私たちが聖書を実生活の役に立たせようとする傾向が強いからではないか、と私は最近、考えるようになりました。平和にとっては、役に立たないことが役に立つのです。役に立たないことが役に立つとは逆説的ですが、皆さんがご存知の通り、キリスト教の教えは逆説に満ちています。イエスと共に十字架に付く者が生きて命を得、弱い者こそが強い者であり、低い者は高くされ、後の者が先になります。

十字架はレンズの焦点
 イエス・キリストの十字架は、まるでレンズの焦点のようです。レンズの焦点にはレンズで屈折した光が一点に集まります。私たちが小学生の時、理科の授業で、太陽の光をレンズで集めて、焦点の所で黒く塗った紙を焦げさせる実験をしたことと思います。さて光は、もし紙があればそこで止まりますが、紙が無ければ焦点を通り過ぎて、なお進みます。その光は焦点で交差していますから、焦点の前と後ろとではレンズを通して見える像は180度逆になっています。自分の目とレンズとの距離を焦点距離よりも長くすると、レンズに映る像は、すべて逆さになって見えます。焦点はすべてを逆にしますから、イエス・キリストの十字架は、まるでレンズの焦点のようだと私は思います。
 では、どうして十字架にはそのように全てを逆転させる力があるのか、きょうは先ほど読んだ第一コリントと、後で読むイザヤ書から考えてみたいと思います。
 まず第一コリント1章ですが、私たちは先々週まで伝道者の書を学んでいましたから、19節のカッコの中が目にとまります。

1:19 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

 そして20節、

1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

 伝道者の書の伝道者の悩みも、ここにあったのだろうと思います。神のことは世の知恵によっては知り得ないことです。では、どうして神のことを世の知恵で知ることはできないのか、19節の引用元を下の脚注で見ると、イザヤ29章14節とありますから、今度はイザヤ書をご一緒に見て、さらに考えて行きたいと思います(旧約聖書p.1169)。

物をさかさに考えている私たち
 イザヤ書29章の9節から16節までを、交代で読みましょう。

29:9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。
29:10 【主】が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。
29:11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「これは、封じられているから読めない」と言い、
29:12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください」と言っても、「私は、読み書きができない」と答えよう。
29:13 そこで【主】は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。
29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」
29:15 ああ。【主】に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行い、そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう」と。
29:16 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ」と言えようか。
 
 先ず分かり易い16節から見て行きましょう。ここに、「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている」とあります。きょうの話の始めで私は、「キリストの十字架はすべてを逆にする」と言いましたが、そもそも私たちの考え方が神から見れば逆なんですね。16節にあるように、私たちは物をさかさに考えているのです。ですからキリストの十字架は、神から見れば逆さである私たちの考え方を、本来の逆さではない方向に戻す作業であると言えます。
 私たちの考え方の何が逆さなのかと言うと、私たちは神に造られた者であるのに、「神は私を造らなかった」と言い、「神はわからずやだ」と言っているのです。そのように傲慢で思い上がっている人間は、自分たちは優れた力を持っていると思い込み、自然でも何でも自分たちの力で制御できると思っています。神はそのように増長している人間を放ってはおきません。9節と10節、

29:9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。
29:10 【主】が、あなたがたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。

 こうして深く眠らされた私たちの霊を起こすために、神はイエス・キリストを十字架に付けたのですね。

十字架が平安をもたらすのは何故か
 今回、私はきょうの第一コリント1章とイザヤ29章の思い巡らしを通じて、イザヤ53章5節のことが、以前よりもわかるようになった気がします。イザヤ書の53章5節を、ご一緒に読みたいと思います。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
   私たちの咎のために砕かれた。
   彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
   彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 罪にまみれた私たちではなく、罪の無い神の子であるイエス・キリストが十字架に掛かることで、どうして私たちに平安がもたらされるのか。それは傲慢な私たちが物を逆さに考えていて(イザヤ29:16)、考え方がねじくれていたために平安が無かったのが、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架に掛かり、砕かれたためなのですね。ねじくれて逆さになっていた私たちの心が正され、本来の向きになったために、心の様々なひずみも無くなって、平安が得られると言えるでしょうか。
 弱い者が強い者であり、後の者が先になるというのも、そもそも人間が考えている弱い・強い、或いは後・先のことは、神から見れば逆さなのですね。傲慢な人間は神抜きで弱い・強いを考え、後・先を考えます。しかし、神から見れば神の助けを受け入れる者が強い者であり、先に救われるべき者たちなのですね。

おわりに
 最後にまた、第一コリントの1章に戻りたいと思います(新約聖書p.318)。23節から25節までを交代で読みましょう。25節はご一緒に読みます。

1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 神を恐れず、神が人間を造ったとは考えない人は、人間のことを賢いと思っていますが、神から見ればそれは逆さの考え方です。キリストの十字架は、人間のその逆さの考え方を本来の方向に戻し、私たちに平安を与えて下さいます。ですから私たちは、23節にあるように、十字架につけられたキリストを宣べ伝えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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