平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

主のふところで感じる神の愛と永遠(2013.12.8 礼拝)

2013-12-08 14:51:54 | 礼拝メッセージ
2013年12月8日アドベント第2礼拝メッセージ
『主のふところで感じる神の愛と永遠』
【ヨハネ1:14~18】(交読)、【ヨハネ13:23、19:25~27】(朗読)

はじめに
 教会はイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスへと向かっています。きょうはアドベントの第2礼拝です。きょうの礼拝の聖書交読では、ヨハネの福音書のプロローグの後半の、1章の14節から18節までを交代で読みました。有名な1章14節には、

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)

とあります。ご承知の通り、この14節はイエス・キリストがヨセフとマリヤの子として、この世に生まれたことを示します。神の子であるイエス・キリストがこの世に来て下さったことで私たちにもたらされた恵みには様々なことがあります。その様々な恵みの中の一つに、18節に書かれていることがあります。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

 神がどのようなお方なのか、クリスマスにイエス・キリストがこの世に生まれたからこそ、私たちはイエス・キリストを通して、神について知ることができます。イエス・キリストは神のふところにおられる神の御子ですから、神のことを良くご存知です。

1.イエスのふところにいた愛弟子
 きょうは、まず、この「ふところ」という言葉に注目します。この「ふところ」は原語のギリシャ語では「コルポス(κολποs)」で、英語ではbosomと訳されることが多いです。つまり、「胸」ですね。赤ちゃんを抱っこすると、赤ちゃんの頭がちょうど胸の所に来ます。ヨハネ1:18の「父のふところにおられるひとり子」というのは、そんなイメージでしょうか。
 この「ふところ」或いは「胸」の意味のギリシャ語の「コルポス」は、新約聖書の中では、そんなに多くは使われていません。代表的な箇所としては、ルカの福音書の16章で死んだラザロがアブラハムのふところに連れて行かれた話で使われています。ちょっと見ておきましょうか。ルカの福音書16章の22節と23節で「ふところ」が使われています。交代で、19節から25節までを読みましょう。25節はご一緒に読みます。

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 このルカ16章のラザロがいたアブラハムのふところは、ラザロが死んでから行った所です。私たちイエスを信じる者も、この世での生涯を終えたら神のふところに入ることが約束されています。しかし、実は私たちは、この世にいながらにしてイエスのふところの中に入ることができているのだ、ということが、きょうの話の要点です。
 イエスは永遠の中にいますから、そのイエスを信じて御父と御子イエスとの交わりを持つようになるなら(Ⅰヨハネ1:3)、私たちもまた永遠の中に入れられて、この世にいながらにして、イエスのふところの中に入ることができます。
 そのように私たちが、イエスのふところに入ることが示されているのが、きょうの聖書箇所の一つのヨハネの福音書13章23節です。ここには最後の晩餐の席にいた、イエスが愛しておられた弟子、すなわち「愛弟子」のことが書かれています。13章23節には、

「弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席についていた」

とあります。新改訳聖書をお持ちの方は、「右側で席についていた」という所に小さな星印(*)、アステリスクがあるのが見えると思います。これは、「下の注を見よ」という印ですから、下の注の「23」という所を見ると、*直訳「御胸のそばで、(食事のために)からだを横にしていた」とあります。この「御胸」のギリシャ語が、「ふところ」と同じ「コルポス(κολποs)」です。このように愛弟子は最後の晩餐の席でイエスの御胸のそばに座っていたのでした。

2.愛弟子は私たち
 では、この「愛弟子」とは誰か、という話になりますが、「イエスの時代」においては、このヨハネの福音書を書いた記者ですから使徒ヨハネでしょう。しかし、このヨハネの福音書は、これまで何度も語って来たように、イエスの地上生涯のみを描いた書ではありません。ヨハネの福音書は永遠の中を生きるイエスを描いた書です。そして、その永遠の中に私たち読者もまたいるのですから、このイエスが愛しておられた弟子の「愛弟子」とは私たち読者のことであるということになります。
 ヨハネは、この福音書とヨハネの手紙第一で神の愛について説いています。ヨハネは神がいかに私たちを愛しているかを福音書と手紙の中で書いています。そして、この福音書と手紙は私たちに宛てて書かれた書ですから、イエスが愛された愛弟子とは、当然、私たちのことでなければなりません。私たちは霊的にそれを感じなければなりません。有名なヨハネ3:16に書いてありますね。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 神は、これほどまでに私たちを愛して下さっています。このことをヨハネは、ヨハネの手紙第一でも、同じように書いています。ヨハネの手紙第一4章の7節から12節までを交代で読みましょう。

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 11節に、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら」とあります。私たちは、これほどまで神に愛されているとヨハネは書いているのですから、ヨハネの福音書に登場するイエスが愛しておられた者とは私たちのことであることを、しっかりと感じ取ることができなければなりません。もし、感じ取れないとしたら、それは、ヨハネの福音書のイエスを永遠の中を生きるイエスではなく、2000年前の紀元1世紀のイエスであるとしか捉えていないことになります。ヨハネの福音書は永遠の中を生きるイエスを描いていますから、イエスを信じて永遠の中に入れられている私たちは、その永遠を感じ取り、私たちがイエスの御胸のそばにいることを感じることができるようにならなければなりません。

3.平和を実現する「永遠」の時間観
 これから私はこの沼津教会での説教では、「永遠」について、しつこいぐらいに繰り返し語って行きたいと思っています。キリスト教に「十字架」が欠かせないのと同じぐらいに「永遠」も欠かせないと私は、この頃ますます感じています。それは、「永遠」を感じることが、私たちが平和を実現するための切り札であると信じるからです。私たちの世界から戦争が無くならずに平和が実現できないのは、私たちが「永遠」を感じるのが苦手であるためだと私は考えます。私たちは「永遠」を感じるのが本当に下手です。もし「永遠」を上手に感じることができていたなら、ヨハネの福音書の永遠の時間観に私たち人類はもっと早くに気付いていたはずです。そのようにして人類が、もっと早くに「永遠」の時間観に慣れ親しんでいたなら、今頃は私たちは平和な世界を実現できていたかもしれません。なぜなら、永遠の中に身を置くなら、互いに赦し合い、愛し合うことができるようになるはずだからです。
 私たちの世の中にはいろいろな争い事がありますが、私たちは全てのことにおいて一方的に被害者であるわけではありません。罪深い私たちは時には加害者の側にいることもあります。それゆえ、永遠の中に身を置くなら、私たちは皆、被害者でもあり加害者でもあります。私たちの皆が被害者でもあり加害者でもあるのだという共通の認識があるなら、互いに赦し合い、愛し合うことができるでしょう。
 しかし、時間を【過去→現在→未来】の直線的な流れとして捉えるなら、ある瞬間には自分が一方的に被害者であった時間が存在します。人はその一方的に被害者になった瞬間を心の中で肥大させ、相手を恨み、憎さのあまりに報復を行ったりするから、いつまで経っても私たちに平和が訪れないのではないでしょうか。
 この永遠の時間観については、これから私は、来週も再来週も、ずっと話して行くことにしたいと思っています。「永遠」を語ることは、それぐらい大切なことだと思います。例えば、牧師が毎週のように「十字架」の話をしても、あの牧師は「十字架」の話ばかりしているなどと言う人はいませんね。私は「永遠」は「十字架」を語ることと同じくらい毎週のように語るべきことだと考えます。そうして私たちは永遠の時間観に慣れ親しんで行かなければならないと思っています。
 そのようにして「永遠」に慣れ親しんで平和を実現して行くのでなければ、私たちは、いずれはまた戦争をすることになるでしょう。いまの日本の政府は、現行の憲法のもとでも戦争ができるように、着々と準備を進めていますから、今のままなら、そんなに遠くない将来に、日本はまた戦争をするかもしれません。ヨハネの福音書が1900年も前に永遠の時間観を示しているのに、人類は未だにこの永遠の時間観を理解していないために、互いに赦し合い、互いに愛し合うことができずにいて延々と戦争を繰り返しています。

4.十字架を間近で見上げた愛弟子
 ヨハネは既に1900年も前に、福音書の読者の私たちのためにイエスの愛弟子の座という特等席を用意してくれました。そうして私たちがイエスを間近に感じることで私たちが神の愛を知り、互いに愛し合うことができるようにしてくれました。この「愛弟子」は、13章以降の何箇所かに登場しますが、中でも格別に重要なのが、この最後の晩餐の特等席でイエスからいろいろな教えを受けたことと、イエスが十字架に掛かった時にすぐそばにいて、イエスの十字架を見上げたことでしょう。
 今日のもう一つの聖書箇所のヨハネ19章の25節から27節までを交代で読みましょう。

19:25 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

 25節に、「イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパのマリヤとマグダラのマリヤが立っていた」とあり、26節に、その母のそばに愛する弟子、すなわち「愛弟子」がいたことが記されています。こうして「愛弟子」はイエスの十字架を、すぐそばから見上げていました。
 しかし、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書によれば、女たちは、十字架を離れた所から見ていましたし、ましてイエスの弟子はそこにはいませんでした。たとえば、ルカの福音書では、イエスが十字架で死んだ時のことを、次のように記しています(ルカ23:46-49)。

23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

 このルカの福音書の記述が示すことは、群衆はイエスの十字架を間近で見ていたけれども、イエスの知人たちと女たちとは群衆よりも遠く離れた所からイエスの十字架を見ていたということです。なぜ近くから見なかったのか、近くにいれば自分たちも逮捕されるかもしれないという恐怖もあったでしょうし、十字架刑があまりに残酷なために、近くから見ることができなかったということもあったでしょう。いずれにしても、実際にあったことを伝えているのはヨハネではなく、ルカのほうでしょう。では、なぜ、ヨハネは女たちと愛弟子とがイエスの十字架のそばにいたと書いたのでしょうか。それは、私たち読者をイエスが生きる永遠の中に招き、その上で私たちがイエスの愛弟子としてイエスの十字架を間近で見ることができるようにするためでしょう。私たちはイエスの十字架を間近で見ることで初めて、神がいかに私たちを愛して下さっているのかを知ることができます。先ほどご一緒に読んだ、ヨハネの手紙第一に書いてある通りです。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 神は、私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。

5.不信仰な私たちを怒る神
 神は私たちを愛して下さっていましたが、同時にまた、不信仰な私たちを怒っていました。そのため、なだめの供え物として御子を遣わされました。この私たちの不信仰の罪については、私たち一人一人の個人の罪ももちろんありますが、国民、あるいは民族の不信仰も考える必要があるでしょう。旧約聖書の時代に北王国のイスラエルと南王国のユダが滅亡したのは、イスラエルの国民とユダの国民が不信仰であったからです。その国民の不信仰に神は怒っておられました。エレミヤ書にはエレミヤが預言した神の怒りが随所に記されています。

「なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『わたしはなんということをしたのか』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。」(エレミヤ8:5,6)

「エルサレムよ。いったい、だれがおまえをあわれもう。だれがおまえのために嘆こう…おまえがわたしを捨てたのだ ― 主の御告げ― おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。(エレミヤ15:5,6)

 私は、今の日本が再び戦争ができるように着々と準備を整えていることを、神が怒って見ておられるのではないかと感じています。今の政権は、憲法9条を改正しなくても、現行の憲法のままでも集団的自衛権が行使できるように憲法解釈を変更しようとしています。そして、戦争準備を秘密裡に整えることができるように、特定秘密保護法も成立させました。原発ゼロに否定的なのも、核兵器を製造できる技術を保つためでしょう。このようにして戦争ができる準備を着々と整えている政権を選挙で選んだのは、日本の国民ですから、平和を愛していない日本の国民のことを神は怒りの目で見ておられるのではないかと私は感じています。それもこれも、既に1900年前にヨハネが提示した永遠の時間観を私たちが理解できずにいるために、互いに赦し合えず、互いに愛し合うことができていないからです。
 ですから私は、これからは、できる限り「永遠」について語り続けたいと思います。教会で「十字架」が語られるのが当たり前のように、教会で「永遠」が語られるのが当たり前のことになるまで「永遠」について語り続けなければならないと思っています。

6.平和を実現するために
 このヨハネの福音書の永遠の時間観を多くの人に知ってもらうことができるよう、いま私は本を書いています。年内には何とか書き上げたいと思っていましたが、年末年始はただでさえ忙しい時期ですから、微妙な情勢です。しかし、いずれにしても来年の中頃までには、この本を出版することができればと思っています。とは言え、実は今のところ出版できる当ては全くありません。とにかく先ずは原稿を書き上げて、その原稿を人に見せて、出版できそうかどうかを見てもらい、アドバイスをもらって修正し、出版できるレベルにまで引き上げたいと思っています。このために、是非とも皆さんにお祈りしていただきたいと思います。
 この本が出版できたなら、永遠の時間観について理解する人々が増えて行き、100年、200年は掛かるかもしれませんが、平和が実現されるという希望があります。そしてそれはもちろん、この沼津の地における伝道の働きにも貢献することになります。
 ヨハネの永遠の時間観は、1900年もの間、気付かれずにいました。それだけに、人々に理解してもらうのは難しいことだと思います。人は、これまでの【過去→現在→未来】の直線的な時間観に強く支配されていますから、そう簡単に【過去・現在・未来】が一体のヨハネの福音書の永遠の時間観に慣れ親しむことはできないでしょう。しかし、だからこそ大きな希望があります。これまで人類は直線的な時間観に強く支配されていたために平和を実現することができませんでした。だからこそ、もし私たちの多くが永遠の時間観を身に付けることができるなら平和を実現できるのだ、という大きな希望があります。

おわりに
 そのための第一歩として、先ずは私たちの教会がヨハネの永遠の時間観に慣れ親しむ必要があります。そのために私は、できる限り「永遠」について語り続けたいと思います。聖書のどこから語るにしても、できるだけ「永遠」の時間観について語るようにできたらと思います。それは、聖書のどこから語るにしても「十字架」について語らなければならないのと同じです。平和を実現するためには、「永遠」は「十字架」と同じぐらいに語り続けなければなりません。
 ヨハネは福音書の中に「愛弟子」の座という特等席を私たちのために用意して、私たちが永遠の中を生きるイエスのすぐそばにいることができるようにしてくれました。それは、私たちが、永遠の中を生きるイエスとの交わりを持ち、永遠に親しむことができるようになるためです。
 私たちもイエス・キリストとともに、永遠の中を生きることができるよう、お祈りいたしましょう。
コメント