平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

心に留めておいたマリヤ(2013.12.4 祈り会)

2013-12-05 03:02:34 | 祈り会メッセージ
2013年12月4日祈り会メッセージ
『心に留めておいたマリヤ』
【ルカ2:41~52】

はじめに
 アドベントの期間のこの機会に、きょうはルカの福音書に記されている、12歳になったイエスの記事から学びの時を持ちたいと思います。このルカの福音書の12歳のイエスの記事は、イエスの少年時代について知ることができる唯一の記事です。イエスが30歳になるまでの過程の記事が、もっともっとあれば良かったのになと思うことですが、一つでも福音書の中に記されていたことは大きな恵みと考えるべきなのでしょう。一つも無かった時のことを考えるなら、一つでもあったことは感謝なことです。
 私たちは、この箇所からイエスについて、いろいろと思い巡らすことができますが、今日のメッセージはイエスのことではなく、イエスの両親に注目して、そこから見えてくる私たちの信仰について思いを巡らしてみたいと思います。

1.放蕩息子のような両親
 まず、この記事の、イエスを捜しまわった両親が最後に行き着いた場所が、御父の家である神殿だったことから、両親は放蕩息子に似ていることを感じます。ルカ15章の放蕩息子は自分の居場所を求めて遠い国に旅立ちましたが、自分が本来いるべき場所は父の家であることに気付いて、父の家に帰りました。ただし、放蕩息子は帰り着いた時点では、まだまだ父親のことがよくわかっていませんでした。放蕩息子は、雇い人のひとりにしてもらうつもりで父の家に戻りました(ルカ15:18)。しかし、父は「雇い人のひとりにしてください」という言葉を息子が言う前に大歓迎して、その言葉を息子に言わせませんでした。父にとって息子は我が子であり、決して雇い人ではないのです。息子は、まだまだそのことがわかっていませんでした。しかし、それでも父の愛を部分的には感じることができていましたから、遠い国から父の家まで導かれて辿り着くことができました。
 12歳のイエスを捜しまわって最後に御父の家である神殿に辿り着いたヨセフとマリヤも、似たようなところがあると思います。ヨセフとマリヤはイエスが神の子であることが良くわかっていませんでした。それでも、何か感じていることがあったから、導かれてイエスがいた神殿に辿り着くことができたのだと思います。
 このヨセフとマリヤの姿は、私たちにも似ているところがあると言えるでしょう。私たちも、イエスがどのような存在か、初めの頃は良くわかっていませんでした。しかし、何か導かれるものを感じていたと思います。教会に通うようになった経緯は人それぞれだと思いますが、イエスのことを良くわからない段階でも、何か導きを感じたという点では、共通するものがあるのではないでしょうか。

2.天の教えはなかなか理解できない
 次に、2つ目のポイントとして、天の教えは簡単には理解できないのだということを感じます。マリヤがイエスをみごもった時、ヨセフにもマリヤにもそれぞれに御使いが現れて、これから起きることを教えて行きました。また、イエスが生まれた時も、羊飼いたちや東方の博士たちが祝福に来ましたから、幼子が特別な存在であることを両親は学んでいたはずです。また、両親が幼子のイエスを主にささげるためにエルサレムに行った時も、幼子を抱いたシメオンから、この幼子が特別な子であることを聞いていました。このような、言わば天からの教えを受けていたにも関わらず、両親はイエスのことが理解できていませんでした。50節に、

「しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった」

とあります。
 これは、両親のヨセフとマリヤが鈍感であったというよりは、天の教えというのは、それだけ理解するのが難しいのだということだろうと思います。
 私自身も、教会に通い始めたばかりの頃は、いくら説教を聞いても、なかなか理解することができませんでした。しかし、通い続けるうちに、少しずつ少しずつわかるようになって来ました。皆さんも、初めの頃はそうであっただろうと思います。神に関する天の教えとは、それぐらい、なかなかわからないことです。
 ですから、私たちが伝道しても、なかなかわかってもらえないことは、ある程度は仕方がないとも言えると思います。しかし、仕方がないと言って放置していれば、状況は益々悪くなる一方です。一般の人々の霊性は今や絶滅が危惧されていると私は考えます。
 いまGoogleが開発中で、遠からず市販されるというメガネ型端末というのがありますね。どれぐらい普及するかわかりませんが、もし、このメガネ型端末が広く普及して誰もが使うようになったら、人々の霊性は絶滅するであろうと私は危惧しています。メガネを掛けることで、全く霊的でない情報が絶えず視野の中に入るようになるなら、人の霊性は死滅するしかないのではないかと私は思っています。
 そうなる前に、何とかしなければなりません。それにはヨハネの永遠の時間観を広く知ってもらうことが切り札になるだろうというのが私の考えです。

3.心に留め、思いを巡らすことでわかってくる神
 ここまで2つのポイントについて話して来ました。1つ目のポイントは、両親は放蕩息子のようであったということ、2つ目のポイントは、天の教えは簡単には理解できないということでした。
 最後の3つ目のポイントは、天の教えは理解するのが難しいけれども、それらを心に留め、思いを巡らすなら、後になってわかって来るのだということを挙げたいと思います。
 51節に、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」とあります。マリヤは、この時はイエスの言ったことの意味がよくわかりませんでしたが、心に留めておいたことで、イエスの十字架の死後にわかるようになりました。その場限りのことで忘れてしまったら、ずっとわからないままですが、心に留めておくなら、それがじわじわと心の中で発酵して、やがて豊かな恵みをもたらすようになります。
 母のマリヤはイエスが生まれて羊飼いたちが祝福に来た時も、その時のことを心に納めて思いを巡らしていました。ルカ2章の19節ですね。2章の15節から見ましょうか。ルカ2章の15節から19節までを交代で読みましょう。

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
2:17 それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
2:18 それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

 19節のように、マリヤというのは、こういう思いもよらない出来事が起こった時に、思いを巡らすことができる女性だったのですね。それは、御使いが来てマリヤに受胎告知をした時もそうでした。ルカの29節ですね。28節と29節を交代で読みましょう。

1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
1:29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 マリヤはひどくとまどった、とありますが、それでも考え込むことができる女性でした。よく使われる「頭が真っ白になる」という表現がありますね。もしマリヤがとまどってパニックになり、頭が真っ白になってしまったなら、マリヤは考え込むことはできなかったでしょう。
 ルカが福音書にマリヤが考え込んだり思いを巡らしたりした状況を書き記したのは、これらの出来事が伝承を基にしたものや、人々の曖昧な記憶を基にしたものではないことを表していると言えるでしょう。ルカはこの福音書の冒頭で書いています。1章の3節と4節をお読みします。

1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。
1:4 それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。

 ルカはすべてのことを綿密に調べて福音書に書きました。マリヤに直接取材することができたのかどうかはわかりませんが、このマリヤのこともしっかりと調べて書きました。マリヤがこのような女性だったことは、弟子たちが後にイエスを理解する上で、随分と役に立ったのではないかと思います。イエスは神の子ではなく優秀な教師だったのだという説がありますが、教師ではなく神の子であったことはマリヤの証言によってわかります。
 そんなマリヤでも、はじめは、なかなかイエスのことを理解できていませんでした。天の教えというのは、それほどまでに理解するのが難しいのだと思います。しかし、それほど難しいことであっても、心に留め、思いを巡らすならわかって来ます。

おわりに
 このように理解が難しい天の教えを私たちが伝道して行くのは本当に困難なことだと思います。しかし、それでも私たちは粘り強く伝道して行かなければなりません。この天の教えが理解できるようになった私たちは素晴らしい恵みをいただいています。そして神様は、全ての人がこの教えを理解できるようになることを望んでおられます。
 今年のクリスマスに、一人でも多くの方々が私たちの交わりに入ることができるよう、共に伝道に励んで行きたく思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント