平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

永遠に立つ神のことば(2013.11.13 祈り会)

2013-11-13 20:58:14 | 祈り会メッセージ
2013年11月13日祈り会メッセージ
『永遠に立つ神のことば』
【イザヤ40:1-8】

はじめに
 前回、この祈祷会の司会は私でした。その時、メッセージの前の前半の時間では、ヨハネの福音書の1章を開き、後半のメッセージでこのイザヤ40章を開きました。先週、当初の予定ではヨハネ1章とイザヤ40章を結び付けて語ることを考えていましたが、イザヤ40章2節の「二倍のものを主の手から受けた」について語ることに多くの時間を費やして、ヨハネと関連付けるところまで行きませんでした。きょうは、私が感じているイザヤ40章とヨハネ1章との強い関係をしっかりと中心に据えて話をします。

1.ヨハネの「永遠」が絡むイザヤ40章
 きょうのイザヤ40章の1節から8節の中には、ヨハネ1章との強い関係を私が感じる場所が2箇所あります。それは、3節の「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ』」というみことばと、8節の「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」です。特に8節はヨハネの福音書と極めて強い関係にあると私は感じています。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

 ヨハネの福音書は1章1節で「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と書いています。ヨハネは福音書の冒頭で先ずイエス・キリストは「ことば」であることを宣言して、そして永遠の中を生きるイエス・キリストを描いています。マタイ・マルコ・ルカの共観福音書はイエスの地上生涯を描いていますが、ヨハネの福音書はイエスが「旧約の時代」と「イエスの地上生涯の時代」と「使徒の時代」を同時に生きていることを示して、イエスが永遠の中を生きていることを示しています。こうして見ると、
 「私たちの神のことばは永遠に立つ」というみことばと、
 「イエスはことばである」ということ、そして、
 「イエスは永遠の中を生きている」ということの
三つは三つ編みのように絡み合っていると言えます。この三つのことばが三つ編みのように絡み合っているのなら、イザヤ40章とヨハネ1章ともまた、絡み合っていると言っても良いだろうと私は感じています。
 そして、もう1つの、イザヤ40章3節の、
 「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ』」
このみことばを、ヨハネの福音書は1章において引用しています。ここで面白いのは、ヨハネは単にイザヤのこのみことばを引用しているだけでなく、この引用の場においてもまた、「永遠」を描いているということです。
 そのことについて、きょうは少し詳しく説明したいと願っています。

2.三人の「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ者
 では、このイザヤ40:3の
  「荒野に呼ばわる者の声がする。『主の道を整えよ』」
を頭に入れておいていただいて、ヨハネの福音書の1章23節を見て下さい。このヨハネ1章23節は、先週の前半でも見ましたが、

1:23 彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。

とあります。イザヤは「主の道を整えよ」で、ヨハネは「主の道をまっすぐにせよ」となっていますが、これらは同じ意味ですね。このヨハネ1:23にも「永遠」を見ることができます。なぜなら、この「彼は言った」の「彼」が、「バプテスマのヨハネ」と「使徒ヨハネ」と「アブラハム」の三つの異なる時代の人物が重なっているからです。
 ここに登場する「彼」、すなわち「ヨハネ」は、「バプテスマのヨハネ」というよりは「使徒ヨハネ」のことである、ということは先週も話しましたが、今週もおさらいすることにします。そして、その後で、この「ヨハネ」が「アブラハム」でもあることを説明します。この「ヨハネ」が「アブラハム」でもあることも、以前話したことがあるかもしれませんが、「ヨハネ」が「アブラハム」と「バプテスマのヨハネ」と「使徒ヨハネ」の三人の異なる時代の人物が重ねられていることは、まだ話していないと思いますから、きょうは、そのような形で話させていただきます。

3.「ヨハネ」は「使徒の時代」の使徒ヨハネ
 まず先週話したことですが、19節から見ると、ユダヤ人たちが遣わした祭司とレビ人からヨハネは「あなたはどなたですか」と聞かれました。そして21節で、「あなたはエリヤですか」と聞かれました。この「あなたはエリヤですか」という質問に対して「ヨハネ」は「そうではありません」と明確に否定しています。
 エリヤではない、ということは、「ヨハネ」はバプテスマのヨハネではない、ということです。マタイの福音書(11章11~14節)でイエスは次のように言っています。

11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
11:13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。

 このように、マタイの福音書のイエスはバプテスマのヨハネがエリヤであることを言っています。そして、ヨハネの福音書の「ヨハネ」は自分はエリヤではないと言っていますから、「バプテスマのヨハネ」ではないことになります。では、誰かと言えば、まず考えなければならないのは、「使徒ヨハネ」ですね。使徒ヨハネは、このヨハネの福音書を書いて、私たち読者をイエス・キリストのもとに導いてくれました。35節を見て下さい。

「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていた」とあります。この二人のうちのひとりはアンデレであったことが40節に書いてあります。しかし、もう一人の名は書いてありません。実は、もう一人は私たち読者です。私たち読者は35節で使徒ヨハネに導かれてイエスのもとに連れて行ってもらいました。そして私たちは38節と39節でイエスから直接声を掛けてもらいました。
 「あなたがたは何を求めているのですか」
 「来なさい。そうすればわかります」
こうして、私たちはイエス・キリストに付いて行き、やがて十字架の場面を目撃することになりました。ですから、ここにいる「ヨハネ」とは、「バプテスマのヨハネ」ではなくて「使徒ヨハネ」です。しかし「バプテスマのヨハネ」が全く存在しないわけではありません。この福音書では、「バプテスマのヨハネ」を使って「使徒ヨハネ」を表していますから、「バプテスマのヨハネ」も一応は存在しています。

4.「ヨハネ」は「旧約の時代」のアブラハム
 そして、このヨハネ1章の「ヨハネ」はアブラハムでもあります。1章28節に、

「このことがあったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた」(ヨハネ1:28)

とあります。この時ヨハネはヨルダン川の向こう岸にいたとありますから、これは、「旧約の時代」に、アブラハムがまだ父テラと共にウルとハランにいた時のことを表しています。ウルの地は、ユーフラテス川の流域にありますから、エルサレムから見ればヨルダン川の向こう岸にあります。そしてアブラハムは父テラとともにハランまで来ました。ハランもまだヨルダン川の向こう側にあります。そして、ハランにいたアブラハムに対して、神からのことばがありました。これからその創世記の箇所を見ますが、その前にヨハネ1章29節を見て下さい。28節にヨハネがヨルダンの向こう岸にいたことが書いてあって、29節に、「ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て」と書いてあります。イエスがヨハネの方に近付いて行ったのですね。つまり、これは、神の側からアブラハムに近付いて行ってアブラハムに声を掛けたことを表しています。
 創世記の11章の終わりと12章を見ましょう。11章31節には次のように書いてあります。

「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。」(創世記11:31)

 アブラム(アブラハム)と父テラはウルを出てハランまで来て、そこに住みつきました。そして32節に父テラはそこで死んだとあります。そして12章1節から3節に神はアブラムに近付いて話し掛けました。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 こうして、アブラムはハランの地を出立してカナンに向かいました。アブラムが神のことばを聞き、そのことばに従った時からイスラエルの歴史が始まり、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれるようになりました。
 こうしてイスラエルの歴史が始まり、イスラエルの信仰の歴史もまたアブラハムから始まったわけですから、ヨハネ1章23節でヨハネが言ったように、アブラハムはまさに、「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声でした。

おわりに
 こうしてアブラハムは「旧約の時代」においてイスラエルの信仰の道を整えました。使徒ヨハネもまた、「使徒の時代」においてイエス・キリストを信じる信仰への道を整えました。そしてまた、バプテスマのヨハネも、「イエスの時代」においてイエス・キリストが宣教活動を始める前に人々の信仰の道を整えました。
 このように、ヨハネ1:23の「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です」は、「旧約の時代」のアブラハム、「イエスの時代」のバプテスマのヨハネと「使徒の時代」の使徒ヨハネとが重ねられています。それゆえ、ここには「永遠」があります。
 このようにイザヤ40章とヨハネ1章とは絡み合っています。ここから永遠を感じることで私たちの霊性もまた整えられます。永遠を豊かに感じられるようになるなら、私たちの霊性もまた豊かになります。
 私たちの霊性が豊かになるよう、神さまが私たちにイザヤ書とヨハネの福音書を与えて下さったことに感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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