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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

三度の「平安があなたがたにあるように」(2022.1.23 礼拝)

2022-01-24 09:00:23 | 礼拝メッセージ
2022年1月23日礼拝メッセージ
『三度の「平安があなたがたにあるように」』
【ヨハネ20:19~31】

はじめに
 私たちの教会の今年の標語聖句の引用元である歴代誌第二5章には、ダビデの子のソロモン王がエルサレムの神殿の建設の完了を祝う盛大な祝典の儀式の様子が描かれています。この祝典の儀式で歌い手たちは、まるで一人のように一致して「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美しました。ダビデの時代にはペリシテなどの周辺の民族との戦争が常にあってイスラエルには平安がありませんでした。それゆえ主はダビデに神殿の建設を許しませんでした。

 主の家である神殿とは平安の中でこそ建て上げられるべきものなのですね。そうして主は、息子のソロモンの時代に平安を与えて神殿の建設を許しました。

 この、ソロモンの神殿が平安の中で建て上げられたことを思う時、今の私たちは平安の中にあるのだろうか、ということを考えさせられます。ニュースを見ても社会全体に平安がないことを感じます。そこで今日は「平安」をテーマにして話をします。

 きょうの説教題は、『三度の「平安があなたがたにあるように」』です。「平安」のギリシャ語は「エイレーネー」で、新共同訳と聖書協会共同訳では「平和」と訳しています。英語では「peace」です。英語訳では「Peace be with you」と訳されています。直訳すれば「平和があなた方と共にありますように」です。イエス様が三度もこのようにおっしゃっているということだけで、平和・平安がいかに私たちにとって大切であるかが分かるでしょう。ここでイエス様がおっしゃっている「平和・平安」とは、心の奥底からの深い平安、つまり真(まこと)の平安です。

 日常の中で私たちはふと平安を感じることがよくあります。おいしい物を食べたり飲んだり、良い景色を眺めたり、美しい音楽を聞いたりした時などは、心の平安を感じます。でもイエス様が三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃった「平安」とは、そういうちょっとした時に感じる平安ではなく、もっともっと深い平安、真の平安でしょう。それは魂の奥深い領域での平安です。

 残念なことですが、私たちの中に真の平安が無いことは明らかです。もし私たちに真の平安があるなら、争い事などなくなる筈です。二千年前にイエス様が十字架に掛かって死に、復活した後に三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃったのに、私たちの中には、未だに真の平安がありません。では、どうすれば私たちは真の平安を得ることができるのでしょうか。聖書のことばに耳を傾けたいと思います。

 きょうの中心聖句はヨハネ20章に3度出て来る

「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19, 21, 26)

です。そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①聖書の一つの書が三度記述することの重さ
 ②信じて聖霊を受け平安を得るなら人を赦せる
 ③赦し合わなければ平和は永遠に実現しない

①聖書の一つの書が三度記述することの重さ
 言うまでもないことかもしれませんが、聖書の一つの書の中に三度も同じ記述がある場合、それは本当に大切なことです。

 たとえば、ペテロはイエス様が祭司長たちに捕らえられた時、「そんな人は知らない」と三度言いましたね。人にはそういう罪があることをペテロの三度の「そんな人は知らない」は教えています。そんなペテロに対してイエス様は、「あなたはわたしを愛していますか」と三度聞き、「わたしの羊を飼いなさい」と三度言いました。このイエス様の三度のことばによって、キリスト教は二千年もの間、引き継がれて来ました。もし、この三度の「あなたはわたしを愛していますか」と「わたしの羊を飼いなさい」が無かったなら、もしかしたらキリスト教は途絶えていたかもしれません。それぐらい、「あなたはわたしを愛していますか」と「わたしの羊を飼いなさい」は大切なみことばです。

 あるいはまた、マタイ・マルコ・ルカの福音書はイエス様ご自身が「受難と復活」の予告をされたことを三度記しています(週報p.2)。

 マタイ16:21、17:22-23、20:18-19
 マルコ 8:31、9:31、10:33-34
 ルカ  9:22、18:32-33、24:7

 たとえばマタイ16:21は、次のように記しています(週報p.2)。

マタイ16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

 この「受難と復活」の予告はイエス様ご自身によるものであること、そしてマタイ・マルコ・ルカがそれぞれ三度記しているという点から、私たちは重く受けとめる必要があります。また、このイエス様の予告は「十字架と復活」がワンセットであることをも教えています。私たちは「十字架」と「復活」を別々のものとして切り離して考えがちですが、「十字架と復活」は切り離してはならないワンセットのものであることも、このイエス様ご自身による予告は教えています。

 聖書が一つの書の中で三度同じことを繰り返す例をもう一つだけ挙げます。それは、パウロが復活したイエス様と出会ったことを使徒の働きが三度記しているということです。パウロがまだサウロだった頃、サウロはクリスチャンを迫害するためにダマスコに向かっていました。そこに復活したイエス様がサウロに現れて、サウロはイエス様を信じる者に変えられ、イエス様を宣べ伝えるようになりました。このことを使徒の働きは9章、22章、26章に三度も記しています。それだけ、この経験はパウロにとって重要であったということです。

 個人的なことですが、この記述は私にとっても重要なものとなりました。初めて高津教会を訪れた日から1週間後の次の聖日の礼拝の説教で私はこの話を聞きました。そして、パウロの人生がイエス様との出会いによって180度変わったという話を私はそのまま信じました。人の人生が180度変わるとは、よほどの体験があったということです。パウロの人生が変わったことは事実ですから、パウロが復活したイエス様と出会ったこともまた事実だろうと、そのまま信じました。つまり私はパウロの証しを通してイエス様の復活を信じました。ですから、このパウロの証しは私にとっても、とても大切なものです。使徒の働きがこのパウロの体験を三度記したのも、その重要性をよく認識していたからでしょう。

②信じて聖霊を受け平安を得るなら人を赦せる
 きょうの聖書箇所のヨハネ20章の19節から31節までを一言でまとめて言うなら、表題のように「信じて聖霊を受け平安を得るなら人を赦せる」と言えるでしょうか。

 「信じて」とは、「イエスは神の子キリストである」と信じることです。31節には、このヨハネの福音書の執筆目的が書かれていますね。

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 イエス様が神の子キリストであると信じるなら、その人は聖霊を受けて永遠の命が与えられますから、心の平安を得ます。イエス様が神の子であることは、この福音書に書いてある通り、イエス様が様々な奇跡を行ったことから分かります。イエス様は水をぶどう酒に変えたり、王室の役人の息子の病気を遠く離れた場所から癒したり、五つのパンと二匹の魚で五千人のお腹を一杯にしたりしました。このような奇跡は神の子でなければ、できないことです。また、イエス様は天の神様のことを「父」と呼んでいましたから、この「父」ということばからも、イエス様が神の子であることが分かります。

 或いはまた、イエス様が神の子であることは、きょうの聖書箇所の20章の19節の記述からも分かります。19節、

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけていました。その鍵をかけた家にイエス様は入って来ました。一体どうやってイエス様は入って来たんでしょうか。まるで電波みたいですね。ラジオの電波は閉め切った家の中にも入って来ますから、私たちはラジオを聞くことができます。携帯電話の電波も家の中に入って来ますから、私たちは携帯電話で話すことができます。イエス様はもちろん電波ではありませんが、こんなことができるのは、イエス様が神の子だからです。同じことが26節にも書かれています。

26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

 ですから、イエス様は神の子です。また、イエス様は22節で「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。聖霊は、「最後の晩餐」の時にイエス様がおっしゃったように、イエス様が父のみもとから遣わします。人は聖霊を受けることで救われますから、イエス様は救い主のキリストです。すなわちイエス様は神の子キリストです。

 このイエス様は神の子キリストと信じることで人は聖霊を受けていのちを得て救われます。31節に書いてある通りです。もう一度31節、

31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 トマスはイエス様が目の前に現れるまで信じませんでしたから、イエス様はトマスに言いました。29節です。

29 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

 これは私たちに向けられたことばでもありますね。なぜなら私たちのイエス様との交わりは聖霊を通して行われるからです。聖霊によって私たちはイエス様と出会うことができます。その聖霊はイエス様を信じなければ注がれませんから、私たちは「見ないで信じる」必要があります。

 そうして聖霊を受けて永遠のいのちを得て、イエス様と出会うなら平安が得られます。平安を得るなら、人を赦すことができるようになります。人を赦すことは簡単なことではありませんが、聖霊を受けるなら人を赦すことができます。21節から23節、

21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 聖霊を受けるとは、イエス様が私たちの内に入って下さるということです。そうして私たちはイエス様に似た者へと変えられて行きます。イエス様はご自分を十字架に付けた者でさえ、赦していました。十字架に付けられたイエス様はおっしゃいましたね。ルカ23章33節と34節です(週報p.2)

ルカ23:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。…34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 このように、イエス様はご自分を十字架に付けた者たちでさえ、お赦しになりました。このイエス様を十字架に付けた者たちとは私たちのことでもあります。私たちの罪がイエス様を十字架に付けました。そんな私たちをイエス様は赦して下さいました。そんな私たちであっても、イエス様を信じて聖霊を受けるなら、私たちも人を赦すことができる筈です。聖霊を受けてイエス様が内に入って下さり、御霊の実を結ぶなら、私たちもまた人を赦すことができるようになるはずです。

 人を赦すことは確かに難しいことです。でも御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が心の内で結ばれているなら、イエス様のように人を赦すことができる筈です。とはいえ、赦すことは難しいことです。例えば、日本が再び核兵器の攻撃を受けても、それでも核兵器の攻撃を行った者を赦すことができるだろうかと私自身に問い掛けた場合、赦すことがとても難しいことは確かです。でも赦せないとしたら、それは多分私の中に御霊の実が十分に結ばれていないからなのでしょう。核攻撃の例は極端ですが、赦しがたいことはたくさんあるでしょう。そのように赦しがたいことをした相手を赦すべきことを十字架のイエス様は説いています。赦しがたい相手であっても報復をせず、報復の連鎖を止める必要があります。

③赦し合わなければ平和は永遠に実現しない
 赦し合わなければ平和は永遠に実現しません。赦さないなら報復が延々と繰り返されるだけです。

 イエス様は弟子たちに三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。イエス様が三度もおっしゃったということは、「平安・平和」がとても大切だということです。「平安・平和」が大切なことは誰でも知っていることですが、私たちはイエス様が三度も繰り返したことの重さを、もっと受け留める必要があると思います。1番目のパートで話したように、聖書の一つの書に同じことが三度書かれていることは、それがとてもとても大切であるということです。

 日野原重明さんが95歳の時に書いた『十歳のきみへ』(冨山房インターナショナル 2006)という本があります。日野原重明さんのことは、皆さんもよくご存知のことと思います。日野原さんは100歳を越えてもなお現役の医師として働き、5年前に105歳で亡くなられました。お父様は牧師で、日野原さんも7歳の時に洗礼を受けたクリスチャンです。



 その日野原さんが亡くなる10年前の95歳の時に書いた『十歳のきみへ』という本は、タイトルの通り、十歳の子供たちに向けて書かれた本です。この本は5つの章から成り、最後の第5章の表題は「きみに託したいこと」です。この第5章の扉に日野原さんはこう書いています。

きみに託(たく)したいこと
わたしたちにはできなかった平和の実現。
きみたちならできると信じています。


 日野原さんは、戦争を体験した世代です。戦争の悲惨さを知っている自分たちが平和を実現しなければならないという責任を感じていましたが、それができませんでした。そうして平和が実現できなかったことへの無念さをにじませながら、十歳の子供たちに向かって、こう書いています。

 たがいにゆるし合っていける世界を、きみたちが実現してください。

 ゆるすということは、仕返しをしたい衝動をただおさえるということではありません。傷つけられた痛みにじっとたえるだけでもありません。もちろん、相手から逃げ出すということでもありません。

「自分もさんざん痛い思いをしたけれど、相手も痛かったろう」

と、相手の位置に立って、相手の痛みを自分の痛みのように感じとったその先に到達できる態度です。とても人間的で、積極的な行動なのです。

「わたしはきみをゆるしたのだから、きみもわたしをゆるすべきだ」

と、交換条件を強要することはできませんが、相手もいつかわたしのことをゆるせるときが来るだろうと信じて待ちましょう。

 きっとある日、相手は自分だけがこぶしをふりあげていたことに気づいてわれに返ることがあるかもしれません。自分があたえたきみの傷にようやく目がとまり、

「あいつも痛かったんだ……」

と、はっとするかもしれない。そう信じていたいと思います。

 二人がおたがいの傷の痛みを思いやることができたときに、ほんとうの意味で仲直りへの第一歩がふみ出せます。

 そうして、相手をゆるすことができたきみは、自分がようやくまた未来に向かって歩みを再開したことを実感するでしょう。けんかのあいだはずっと、相手にうばわれたものや相手から傷つけられたことだけで頭がいっぱいで、自分の未来のことを考えるよゆうなんてなくしていたときみは気づくでしょう。

 争いのなかで失ったものは、たぶんもう元どおりになって返ってくることはないでしょう。それは悲しいですが、きみは相手をゆるしたときから、失ったものにいつまでもこだわり続けるきみから、これからのことを考えようとするきみに大きく変身しているはずです。人間としての大きな成長を手に入れたのです。(p.170-172)

 このように日野原さんは十歳の子供たちに向かって、自分が仕返しをしたなら相手も痛むことになる。その相手の痛みを自分の痛みのように感じて仕返しをせず、赦すべきだと説きます。そうして、やがては相手もそのように痛みを感じる者へと変えられることを待つべきだと説きます。

 これを十字架にたとえるなら、もし私たちが自分の受けた痛みの報復として相手にも痛みを与えるなら、それは十字架のイエス様を傷めつけることだ、ということではないでしょうか。十字架のイエス様は人の罪を赦すべきだと説いています。そのイエス様のおっしゃることを聞かないで相手に報復をするなら、それは十字架のイエス様の痛みを分からずに、さらにイエス様を傷めつけるのと同じことになります。私たちはイエス様の痛みを自分の痛みとして感じるべきです。そうして「平安があなたがたにあるように」と三度おっしゃったイエス様の声に耳を傾けて、十字架のイエス様を思い、報復する罪から解き放たれたいと思います。

おわりに
 自分がとても大きな痛みを受けた場合、相手を赦すことは難しいかもしれません。でも小さな痛みのことなら赦すことは誰でもできることでしょう。そこから始めて、段々と大きな痛みも赦せるようになれば良いと思います。

 小さな赦しであっても、赦すことで自分の中に平安が与えられることは、多くの人が経験していることと思います。相手を赦さない間は自分の中に平安はありませんが、赦せない気持ちを手放して相手を赦すなら、心に平安が与えられます。これはイエス様が与えて下さる平安なのでしょうね。そうして心が平安になるなら、さらに相手を赦せるようになり、赦すなら平安がさらに得られて、さらにまた相手を赦せるようになるという、好循環が生まれて来ると思います。

 「平安があなたがたにあるように」と三度おっしゃったイエス様が私たちの内にいて下さるのですから、このイエス様のことばに耳を傾けていたいと思います。そうして、平安の中で、信仰を建て上げて行くことができる私たちでありたいと思います。
 しばらくご一緒にお祈りしましょう。

「平安があなたがたにあるように」
「平安があなたがたにあるように」
「平安があなたがたにあるように」
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衣を受ける側から着せる側へ(2022.1.16 礼拝)

2022-01-17 09:21:37 | 礼拝メッセージ
2022年1月16日礼拝メッセージ
『衣を受ける側から着せる側へ』
【ルカ15:20~32】

はじめに
 きょうの聖書箇所の「放蕩息子の帰郷」の場面は、去年のクリスマス礼拝の聖書交読でも交代で読んだ箇所で、説教の中でも引用した箇所ですが、きょうは兄息子の部分も含めて、また改めて取り上げたいと願っています。

 と言いますのは、きょうの礼拝前の教会学校の教師は私の番で、開かれる箇所がちょうど「放蕩息子の帰郷」の箇所で、この箇所について改めて思いを巡らす機会があったからです。

 きょうの中心聖句は2箇所です。

ルカ15:22-23 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。

31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。』

 そして今日は次の三つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)

 ①息子の側から父親の側へ
 ②日本人は兄息子かもしれない
 ③賛美の衣を着せる側になる

①息子の側から父親の側へ
 今回、CSで「放蕩息子の帰郷」の箇所を開くことになり、久し振りでヘンリ・ナウエンの『放蕩息子の帰郷』(片岡伸光訳、あめんどう 2003)を読み返しました。元の原書は1992年に書かれたもので、日本では2003年にこの翻訳書が出版されました。出版されてから、かなり早い段階の2003年か2004年には、この本を私は読んだように思います。と言うのは、当時、高津教会では40代前後の組会、カレブ会という会でしたが、その組会ではヘンリ・ナウエンの本の勉強会が行われていて私も参加していたからです。この『放蕩息子の帰郷』が勉強会で取り上げられることはありませんでしたが、ヘンリ・ナウエンの著書ということで私も興味を持って買って読んだんだと思います。そして、とても感銘を受けて、神学生の時も、姫路教会にいた時も、沼津教会にいた時も時折読み返していました。

 静岡教会に来てからはまだ読み返していませんでしたが、今回、ふと思い立って、久し振りで読み返しました。この本はとても霊的に恵まれる本だなと改めて思いました。

 この『放蕩息子の帰郷』には、著者のナウエンがレンブラントの『放蕩息子の帰郷』の絵を観て思いを巡らした事柄が記されています。ナウエンが初めてこの絵のことを知ったのは友人の仕事部屋に貼られていた、この絵の複製を見た時でした。とても引かれるものを感じて、その後、自分でもこの絵の複製を手に入れて自分の仕事部屋に掲げ、そして本物の絵も当時のソ連のエルミタージュ美術館でじっくりと観る機会を得ています。美術館側の特別な計らいで、何と合計4時間以上も、この絵の前に椅子を置いて鑑賞することが許されたとのことです。そうして、ナウエンはこの絵を通して、様々な語り掛けを受けます。それは内なる御霊からの語り掛けももちろんありましたが、時には友人たちを通しての語り掛けもナウエンは受けました。きょうの1番目のポイントでは、ナウエンが友人を通して受けた2つの語り掛けを紹介します。

 1つめは、ナウエンがこの絵のポスターを人に見せながら、いかに自分が弟息子のようであったかを語っていた時に、「あなたは、むしろ兄息子のほうに似ているのではないでしょうか?」(p.30)と言われたことです。そう言われるまでナウエンはそのことを意識したことはありませんでしたが、確かにその通りだ、自分は兄息子のほうだとナウエンは思ったそうです。きょうの聖書箇所の兄息子の部分を、もう一度お読みします。

ルカ15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』

 ナウエンは、友人から、「あなたはむしろ兄息子のほうではないか」、と言われた時の心境を次のように書いています。

「わたしは突然、自分をまったく新しい目で見るようになった。自分の中にある嫉妬、怒りっぽさ、強情、不機嫌、そして何よりも隠された独善を見た。自分がいかに不満でいっぱいの人間であったか、自分の思考や感情が、恨み・つらみに…いかに捕らわれていたかに気づいた。……わたしは確かに兄息子のほうだった。」(p.31)

 それ以来、ナウエンは自分は兄息子のほうであると考えるようになりました。しかし、そんな時にナウエンは友人を通して2つめの語り掛けを受けました。友人はナウエンに、こう言ったそうです。

「あなたが弟息子であろうが兄息子であろうが、父となるように召されていることに気づくべきです。」(p.32)

 ナウエンという人は、本当に良い友人たちに恵まれていたのだなと思います。ナウエンはカトリックの司祭でしたから、弟息子や兄息子よりも、むしろ父親であるべきでしたが、本人は全くそのことに気づいていませんでした。牧師の私も父の立場に身を置くように召されていますが、私自身もそのことをあまり意識したことがありませんでした。しかし、きょう皆さんと分かち合いたいことは、牧師であろうがなかろうが、イエス・キリストを信じて罪を赦されて神の子どもとされた者であるなら誰でも、父となるように召されているのではないでしょうか、ということです。

 賛美の衣を人に着せるという方法を通してなら、誰でも父になれるのではないでしょうか。このレンブラントの絵にあるような父親になるには、様々な苦労を経験して歳を重ねなければ、なれないかもしれません。しかし、賛美歌を歌うことでまだ救われていない方々に賛美の衣を着せて心を温めることなら、私たちの多くが、できることと思います。
 
②日本人は兄息子かもしれない
 ここでご一緒に考えてみたいことがあります。それは、日本人は弟息子の性質だけでなく、兄息子の性質もまた、かなり持っているかもしれないということです。ナウエンもそうだったと思いますが、人は弟息子と兄息子の両方の性質を持っていると思います。100%弟息子とか100%兄息子ということはなく、両方の成分が混じり合っているでしょう。50%ずつという人もいるかもしれません。そのように考えた時、日本人には兄息子の成分もかなり含まれているように思います。

 これまで私たちは、自分のことや周囲にいる方々のことを放蕩息子の弟息子にたとえて来たと思います。私もそのようにして来ました。日本人の多くは聖書に何が書かれているかをよくは知りませんから、父親の家にずっといた兄息子とは言えません。それゆえ弟息子である、と考えていたと思います。確かに、その通りだと思います。

 しかし、真面目に仕事に取り組んでいるという面では、兄息子のほうに近いのではないでしょうか。今は非正規で働く人が多くなりましたから、有給休暇ということがあまり言われなくなりましたが、ひと昔前には、日本人は有給休暇の消化率が欧米人と比べて非常に低いということがよく言われました。遊ぶ時間が少なくて働く時間が多いというのが大半の日本人ではないでしょうか。これなどは兄息子に近いと思います。

 電車やバスが時間通りに運行されることにおいても、日本ほどきっちりしている国はないと言われます。バスの場合は、道路状況によっては遅れることもよくありますが、逆に早すぎる場合には停留所にしばらく止まって時間調整をしますね。そうして時間通りに運行するようにバス会社は努力します。すごいことだなと思います。中町のバス停には、「何分遅れ」という表示まで出ますね。こうまでして、きっちりにこだわるのは兄息子の特徴ではないでしょうか。

 また、日本人は神社やお寺に熱心に参拝に行きます。特に新年は、神社は初詣の人で一杯になります。静岡の浅間神社でも、多くの人が参拝していました。もし日本人が弟息子であったなら、神社に初詣など行かないでしょう。神社の神なども信じないで、放蕩していることでしょう。でも日本人の多くは神仏を信じて、神社やお寺でお参りします。向いている方向が聖書の神様の方向とはずれているだけで、決して背を向けているわけではありません。

 先週、午前の新年聖会の後の午後、講師の藤本満先生を日本平に案内して、その後、静岡おでんを一緒に食べてから臨済寺にも案内しました。竹千代の時代の徳川家康が学問を学んでいた臨済寺を藤本先生に見ていただきたくなったからです。午後の3時を過ぎていて、人もほとんどおらず、とても静かでした。この寺が静寂な雰囲気に包まれていることと、寺の境内の内と外とがきれいに掃き清められていることに、藤本先生は目を留めていました。このような日本の寺の静寂さと清さもまた、放蕩息子とは対照的な兄息子の特徴を示しているように思います。

 日本人は聖書から離れているという意味では弟息子であるかもしれませんが、きちんとしているという意味では兄息子であると言えるでしょう。こういう視点を持つと、日本人への伝道にもまた、新たな希望が湧いて来るような気がします。真面目な暮らしをしている人にご自身を放蕩している罪人に当てはめていただくのは難しいかもしれませんが、もしかしたら兄息子のほうには、ご自身を当てはめていただくことができるかもしれません。

 そして、今日さらに分かち合いたいことは、父親は、弟息子も兄息子も両方とも愛しているということであり、私たちもまた父親の側に立てるようになりたいということです。ルカ15章の31節と32節をお読みします。

31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

 父は兄息子に、「子よ」と言いました。兄息子も弟息子と同じように、神の子どもなんですね。そして、兄息子は父といつも一緒にいます。

 考えてみると、私自身も41歳で教会に導かれる前から、かなり天の父に近い所にいたのかなという気がします。教会に導かれる前まで、私は浅間神社や臨済寺で熱心に参拝していました。札幌に住んでいた時には、北海道神宮へよく行って手を合わせていました。そんな私は神をぜんぜん信じないで遠い外国に行っていた弟息子というよりは、父の家の近くにいて、そこに入ろうとしない兄息子のようなものであったとも言えるかもしれません。そういう目で、神社やお寺で熱心に参拝している周囲の方々を見るなら、これまでと違って新たな希望が湧いて来るような気がします。

 ナウエンが友人のことばによって、自分が兄息子であると気付かされた時のことばを、もう一度引用します。

「わたしは突然、自分をまったく新しい目で見るようになった。自分の中にある嫉妬、怒りっぽさ、強情、不機嫌、そして何よりも隠された独善を見た。自分がいかに不満でいっぱいの人間であったか、自分の思考や感情が、恨み・つらみに…いかに捕らわれていたかに気づいた。……わたしは確かに兄息子のほうだった。」(p.31)

 私たちの周囲の人々、そして私たち自身も実は兄息子の成分をたっぷりと含んだ者たちであるかもしれません。しかし、いずれにしても、周囲の方々や私たち自身が弟息子であろうと兄息子であろうと、私たちは父親の側となって、父から離れている人々に賛美の衣を着せて心を温めることができる者たちでありたいと思います。

③賛美の衣を着せる側になる
 明日の1月17日は、27年前に阪神淡路大震災があった日です。この大震災がきっかけで教会に通うようになった方の証しを、私は高津教会で聞いたことがあります。その方は、以前は神戸に住んでいて、後に関東に来て、高津教会に来るようになった方です。この方の証しは以前も紹介したことがあると思いますが、改めて紹介させて下さい。

 神戸では、大震災で家が壊れて住めなくなった方が多くいました。それほど壊れていなくても、余震が続く中では危険な状態の家がたくさんありました。それらの家の方々の多くは学校の体育館などの避難所で生活をしていましたが、公園にテントを張ってテント生活をしていた人も多くいたそうです。

 そして、そういう公園に行っては賛美歌を歌う女性がいたそうです。証しして下さった方は、この公園の近くにいて、毎日現れるこの賛美歌の女性のことを不思議な思いで見ていたそうです。最初の頃、賛美歌を歌う女性のことを皆が無視していて、誰も近づこうとはしなかったそうです。それでも彼女は歌い続けて、翌日もまた現れて歌ったそうです。そうして少しずつ人が近づくようになり、何日かすると多くの人が賛美歌を歌う彼女の近くに行って聴くようになったそうです。

 この様子を見ていた証し者の女性は、こういう奇特なことをするクリスチャンとはどういう人種なんだろうかと興味を持って、教会を訪れてみようと思ったそうです。こういうことをしようという気持ちにどうしてなるのか、とても不思議で、その謎を知りたくなったということを証しされていました。この賛美歌を歌っていた女性とは森祐理さんであったと思われます。森祐理さんの賛美歌は賛美の衣となって、公園でテント暮らしをしていた人々の心を温かく包み、その様子を見ていた、この証し者もまた、賛美の衣を着せられました。

 きょうの礼拝で頌栄の後に歌った賛美歌「遠き国や海のはて」は、大正12年、1923年の関東大震災に遭遇した宣教師のJ.V.Martinが作った賛美歌です。「慰めもて汝がために、慰めもて我がために」賛美の衣は傷ついた人の心を慰めます。と同時に、歌う自分の心をも慰めてくれます。ルカの福音書の放蕩息子は財産を使い果たした後、友人だと思っていた人々が自分から去って行ったことに傷つき、豚のえさでさえも分けてもらえなかったことに傷ついていました。そんな傷だらけの弟息子の心を父親が与えた衣が優しく温めて癒しました。

 兄息子もまた、弟の帰郷を喜ぶ祝宴のことを知らせてもらえずに仲間外れにされたことに傷ついていました。プライドが高い人であればあるほど仲間外れにされることに傷つきやすいものだと思います。たぶん父親は弟息子が帰って来たことを喜び過ぎて、兄息子を呼びに行かせることをすっかり忘れていたんでしょう。そういうことは有り得ます。もし兄息子がそんなにプライドが高い人でなければ、お父さんはよっぽどうれしかったんだな、と思って自分に祝宴のことを知らせなかった父親を赦したことでしょう。でも、兄息子はとてもプライドが高い人でした。

 人の罪の中でプライドが最もやっかいであると言われます。私もまた、このやっかいなプライドがあることを自覚しています。神学生の1年生の時、私は日曜日には〇教会に遣わされていました。〇教会では月に1回幹事会が開かれていました。〇教会の幹事会は私たちの教会の運営委員会のようなものです。この幹事会には神学生も参加していました。ある時、たまたま幹事会の議事録を見る機会があって、その出席者欄に私の名前が載っていないのを見て、私はとても傷つきました。当時まだ神学生の1年生で神学校の生活になかなか慣れなくて苦労していた時期でしたから、しもべとして働いている神学生は出席者にもカウントされないのかと、非常に傷ついたことをよく覚えています。そんなに傷つくのは私のプライドが高すぎる罪を抱えているからでしょう。

 牧師になってから、教区会の議事録に私の名前が抜けていたこともありました。自分はそんなに存在感が無いのかと、傷つき腹を立てました。「そういうこともあるさ」と、プライドが高くなければ思えるのでしょうが、私にはそういうところがあります。もっと御霊の実を結んで、プライドが高い罪から解き放たれたいと願っています。そういうプライドの罪を抱えているという意味で、私もまた兄息子なのだろうと思います。

 日本人の多くも、和魂洋才と言って科学技術は西洋から多くを学びましたが、信仰のほうは頑なに天の父のほうを向こうとしません。魂のことは西洋より日本の方が優っているというプライドを持っているのだと思います。このプライドの高さも兄息子のものだと言えると思います。

 そんな兄息子に、父親は「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ」と言いました。私たちも、そんな風に父親の側に立てる者たちになりたいと思います。そうして、私たちの周囲の方々が弟息子であっても兄息子であっても、賛美の衣を着せることができる者たちでありたいと思います。

おわりに
 もう、しつこく何度も証ししていますが、私が最初に賛美の衣を着せられたのは、韓国人教会の聖歌隊の賛美歌によってでした。20年前に父の葬式を静岡で済ませて高津のアパートに戻ってから最初の日曜日に、韓国人の留学生に教会に連れて行ってもらい、そこで賛美歌によって慰めを得ました。賛美歌を歌っていたのはその教会の信徒の方々でした。ですから信徒の皆さんも父親になれるんですね。父親になれるのは牧師や司祭だけでなく、信徒もまた父親となって賛美の衣を息子たちに着せることができます。

 この静岡教会も、そういう伝統を持つ教会だと思います。今は教会員が高齢化して人数も減って賛美歌の合唱を歌う機会が減りましたが、もう一度、賛美の衣を着せることができる教会になれたらと思います。コロナ禍の中の今は、それが私たちにできる数少ないことの中の一つではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 私たちの周囲にいる方々が弟息子であっても兄息子であっても、それらの方々に賛美の衣を着せることができる私たちでありたいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。」
「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」
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共に食事をしよう(2022.1.9 新年聖会 藤本満牧師)

2022-01-10 17:23:58 | 礼拝メッセージ
1月9日の新年聖会での藤本満牧師の説教は、下記のYoutubeのURLで視聴できます。

「共に食事をしよう」(黙示録3:17~20)
https://www.youtube.com/watch?v=QvSIbmSm0As(クリック)
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賛美から溢れる御霊が人を救う(2022.1.2 新年礼拝)

2022-01-03 08:37:29 | 礼拝メッセージ
2022年1月2日新年礼拝メッセージ
『賛美から溢れる御霊が人を救う』
【使徒の働き16:25~34】

はじめに
 おはようございます。きょうもまた、きのうに引き続いて、御霊に似た賛美歌の恵みについて、ご一緒に思いを巡らしたいと願っています。

 きのうもお伝えした通り、今年の教会の標語聖句は、ここに掲げられている、

歌い手たちが、まるで一人のように一致して 「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美した。(歴代誌第二5章13節より)

です。

 音楽には不思議な力があります。音楽は人の心を癒し、人を励まし、生ける力を与えます。また、音楽には多くの人を一つにする力があります。そして、音楽の中でも特に賛美歌には人の心を神様の方に向けて、人を救いに導くという大きな力があると思います。きょうは使徒の働き16章を開いて、そのことを分かち合いたいと思います。

 きょうの中心聖句は使徒の働き16章25節の、

使徒16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。

です。この場面では31節にあるパウロのことばの「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」が有名ですが、きょうは賛美歌の持つ不思議な力に注目しますから、25節を中心聖句としました。

 この箇所は実は11月の祈祷会でも開いた箇所ですが、今年の標語聖句を踏まえて、改めて目を留めたいと思います。きょうのポイントは次の3つです(週報p.2)。

 ①「賛美の外套」が人を救いへと導く
 ②先行的な恵みの良心と本格的な恵みの御霊
 ③御霊が溢れ出る胎は次の新しい命を生む源

①「賛美の外套」が人を救いへと導く
 まず、きょうの聖書箇所の使徒の働き16章の状況を簡単に見ておきます。16章のパウロは第二次伝道旅行の中にありました。第一次伝道旅行ではガラテヤ地方などのアジアの地域で伝道していましたが、この第二次伝道旅行ではパウロはヨーロッパにまで足を延ばしていました。そのくだりを見ておきましょう。16章の9節と10節をお読みします。この時、パウロはまだアジアにいましたが、幻を見てヨーロッパのマケドニアに渡ることにしました。9節と10節、

使徒16:9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。

 こうしてパウロたちはアジアからヨーロッパ方面に足を延ばすことにしました。「私たち」と書いてありますから、ここには使徒の働きの記者のルカも一行に加わっていました。11節と12節、

11 私たちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。
12 そこからピリピに行った。この町はマケドニアのこの地方の主要な町で、植民都市であった。私たちはこの町に数日滞在した。

 こうしてパウロとルカの一行はヨーロッパに渡ってピリピの町に入りました。ですから、きょうの聖書箇所でパウロとシラスが入っていた牢獄はピリピの町の中にある牢獄でした。パウロとシラスが牢獄に入れられてしまったいきさつも、簡単に話しておきます。

 ピリピの町でパウロは、占いの霊に取り憑かれていた女奴隷につきまとわれて困っていました。それで困った挙句に18節にあるように言いました。

「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」

すると、霊はただちに出て行きました。しかし、19節にあるように彼女の主人たちは金儲けする望みがなくなったので腹を立ててパウロとシラスを捕らえて役人たちのところに引き立てて行きました。そうしてパウロとシラスは牢獄に入れられてしまいました。
 さて、ここから先が、きょうの聖書箇所です。16章25節、

25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。

 この25節が、きょうの中心聖句です。後でまた振り返りますが、パウロとシラスが歌っていた賛美歌が、ここではとても大きな力を持っていたと思います。この後で何が起きたかを確認しておきましょう。26節から29節、

26 すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。
27 目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
28 パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
29 看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。

 そして次の30節と31節が、とても有名な箇所ですね。

30 そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 この31節の「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」は、よく引用される、とても有名な聖句です。32節から34節も見ておきます。

32 そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。
33 看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。
34 それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。

 このようにして、看守と看守の家族が救われました。この救いには25節の賛美歌が大きな役割を果たしていたように思いますから、きょうはこのことを分かち合いたいと思います。

 もう一度25節に戻ります。25節に、囚人たちがパウロとシラスが祈りつつ歌っていた賛美歌に「聞き入っていた」とあります。このことで、パウロとシラスと囚人たちとは「一つ」にされていたのではないでしょうか。なぜなら、大きな地震があって牢獄の扉が開き、囚人たちの鎖が外れてしまったのにも関わらず、彼らは逃げなかったからです。普通なら、ラッキーと思って逃げるでしょう。しかし、なぜか囚人たちは逃げませんでした。それは、祈りと賛美、特に賛美歌によって一つにされていたからではないでしょうか。そして、囚人たちが逃げなかったことで看守は救われました。

 この賛美歌は看守も聞いていたことでしょう。地震が起きた時は寝ていたようですが、彼は子守唄のように賛美歌を聞いて眠りに就いていたんだろうと思います。そうして賛美歌によって整えられていたからこそ、看守はパウロとシラスに「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と聞くことができたのだろうと思います。

 賛美歌の歌声は、その場にいる人々を包みこみます。それは暖かい衣服のようです。きょう聖書交読でご一緒に読んだイザヤ書61章には、「賛美の外套」ということばが使われています(週報p.2)。

イザヤ61:3 シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、の植木と呼ばれる。

 この「賛美の外套」が与えられることで、人は心が温められて、神様の方を向くようになり、それが神様によって義と認められます。3節の続きに、「彼らは、義の樫の木、栄光を現す、の植木と呼ばれる。」とあります。これは、この人が神様に義と認められたことを表すと言えるでしょう。そうして義と認められた者は、「救いの衣」を着せられ、「正義の外套」がまとわせられます。10節です(週報p.2)。

61:10 私はにあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。

 使徒の働き16章には看守と看守の家族が救われたことしか書かれていません。囚人たちはどうなったんでしょうか。私は、逃げなかった囚人たちも神様に義と認められて、「救いの衣」と「正義の外套」が着せられたのではないのかなと思っています。囚人たちもまた、パウロとシラスが歌う賛美歌の「賛美の外套」を着せられていたからです。

②先行的な恵みの良心と本格的な恵みの御霊
 きのうのメッセージでは、賛美と御霊はとても良く似ているという話をしました。きょうは、このことをさらに深めて行きたいと思います。人には先行的な恵みとして良心が与えられています。その良心を賛美歌が温めて、心が開かれて行きます。そうして、本格的な恵みの御霊の注ぎへと導かれて行きます。

 救われる前の人は、暗闇の中にいます。光が届かない暗闇はとても寒くて、心は固く閉じています。閉じた心は神様の方を向くことができません。そのようにして心を閉じている人に神様は「賛美の外套」を着せて下さいます。すると、暗闇の中にいても心が少しずつ温められて、神様の光が少しずつ見えるようになります。そうして、この光の方を向いて神様の語り掛けに応答するようになるなら、その人は義と認められて「救いの衣」を着せられます。

 今回、この説教を準備していて思いましたが、この神様が着せて下さる「賛美の外套」とは、私たちが歌う賛美歌なんですね。私たちが歌う賛美歌が温かければ、それが「賛美の外套」となって人の心を温めることができます。ですから、私たちは心をこめて賛美歌を歌わなければならないと思います。上手・下手ではなくて、人の心を温めるような心のこもった賛美歌が歌えるようになりたいと思います。

 もう何度も証しをしていますが、20年前に父が死んだ時、私は留学生に韓国人の教会に連れて行ってもらいました。そして、そこで聴いた聖歌隊の賛美歌に癒されました。これが私にとっての「賛美の外套」であったのだろうと思います。そうして、この韓国人教会にしばらく通ううちに、日本人の教会へ行って日本語の説教を聞くように言われたために、自宅の近所にあった高津教会に導かれました。高津教会を訪れた最初の日にガラテヤ書の説教を聞いて興味を持ったので毎週通うようになったことは何度か話していますが、きっと礼拝で聞いた賛美歌にも大いに癒されていたのだろうなと、今回、この説教の準備をしていて思いました。

 去年の11月21日に西部生涯学習センターで開催した英和のハンドベル演奏会では、賛美歌が何曲か演奏されました。100名以上の方に「賛美の外套」が着せられましたから、その中の一人でも二人でも教会へ導かれて、「救いの衣」が着せられるように、お祈りしていたいと思います。

③御霊が溢れ出る胎は次の新しい命を生む源
 もう一度、使徒16章25節に戻ります。

25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。

 先行的な恵みの良心への働き掛けも御霊が行います。ですから、この牢獄の中は御霊で満たされていました。この御霊は、賛美歌を歌っていたパウロとシラスから溢れ出ていたのでしょう。ヨハネの福音書7章には、イエス様が御霊について、次のようにおっしゃったことが記されています。ヨハネ7章37節から39節までをお読みします(週報p.2)。

ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底([ギ]コイリア、腹・)から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。

 イエス様を信じる者は、その人の心の奥底から、御霊が流れ出るようになります。38節の「心の奥底」は、新改訳聖書の脚注には、直訳は「腹」であると記されています。この「腹」はギリシャ語では「コイリア」です。私は、この場合の「コイリア」は「腹」よりも「胎」の方が良いのではないかと感じています。なぜなら、このギリシャ語のコイリアはヨハネ3章のイエス様とニコデモとの会話の中でも使われているからです。その箇所をお読みします(週報p.2)

ヨハネ3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、 母の([ギ]コイリア)に入って生まれることなどできるでしょうか。」

 私たちは、イエス様を信じると御霊が注がれて神の子とされて新しく生まれ変わります。この、神の子として新しく生まれる時の本格的な御霊は天から注がれます。しかし、この本格的な御霊を受ける前に、先行的な恵みの良心に働き掛ける御霊を受けて、心が温められます。その御霊は、既に本格的な御霊を受けた人の胎から溢れ出るものなのですね。牢獄で賛美歌を歌っていたパウロとシラスの胎からは御霊が溢れ出ていて、賛美歌を聞いていた囚人や看守を「賛美の外套」で包んでいました。母親の胎は新しい命を育む場所ですから、ギリシャ語の「コイリア」は、「腹」と訳すよりも、「胎」と訳したほうがふさわしいように感じます。

 イエス様を信じて本格的な御霊を天から受けているなら、私たちの胎からも御霊が溢れ出ます。賛美歌を歌っていたパウロとシラスの胎から御霊が溢れ出ていたように、私たちもまた賛美歌を歌うなら、私たちの胎から御霊が溢れ出ます。赤ちゃんを産む胎を持つのは女性だけです。男性は赤ちゃんを産むことはできません。また、女性であっても幼子やご高齢の方は赤ちゃんを産むことはできません。しかし、これからイエス様を信じる人を包む御霊の胎は男性であっても、幼子であっても高齢者であっても誰にでも与えられます。イエス様を信じるなら本格的な御霊を受けて、御霊の胎が与えられます。素晴らしいことだなと思います。私たちの胎から溢れ出た御霊が人に先行的に与えられている良心を温めて、これから新しくイエス様を信じる人が生まれます。

 ただし、私たちの胎から御霊が溢れ出るようになるためには、御霊の実をある程度は結ぶ必要があるんだろうと思います。御霊の実は、いつも引用しているようにガラテヤ5章の22節と23節に記されています(週報p.2)。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。

 この御霊の実を多く結べば結ぶほど、その人の心の奥底、すなわち胎から溢れ出る御霊の川の水量が増えることでしょう。

おわりに
 もう一度、ヨハネ7章38節のイエス様のことばをお読みします。

ヨハネ7:37 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 ピリピの牢獄で賛美歌を歌っていたパウロとシラスの心の奥底からは御霊が流れ出ていて、それに聞き入っていた囚人たちと看守を包んでいました。この賛美が先行的に与えられている良心を温めて、閉じていた看守の心が開かれて神様の方を向くことができるようになりました。囚人たちの心も同じように開かれたことでしょう。心の奥底にある御霊の胎は、次の新しい命を生む源となります。

 この御霊の胎は、老若男女、老いた者にも、若い者にも、男性にも女性にも、イエス様を信じるならすべての者に与えられます。このようにしてキリストの恵みは2千年前から引き継がれて来て、これからもまた引き継がれて行きます。その役割の一端が私たちに与えられていることは光栄なことであり、素晴らしい恵みであると思います。

 私たちはピリピの牢獄で祈りつつ賛美歌を歌っていたパウロとシラスのように、御霊の実を結んで、周囲の方々に「賛美の外套」を着せることができるお互いでありたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

使徒16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。
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まるで一人のように一致した賛美歌(2022.1.1 元旦礼拝)

2022-01-03 04:35:33 | 礼拝メッセージ
2022年1月1日元旦礼拝メッセージ
『まるで一人のように一致した賛美歌』
【歴代誌第二5章1~14節】

はじめに
 あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 今年の私たちの教会の標語聖句は、ここに掲げられている通りです。

「歌い手たちが、まるで一人のように一致して「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美した。

 この標語の毛筆の担当者のご労に感謝致します。

 昨年は音楽の力の大きさを実感した年でした。クリスマス礼拝では「牧人ひつじを」の四重唱の賛美ができて、とても感謝に思いました。1月9日には「御前につどい」の四重唱を予定しています。席についたままでも結構ですから、多くの方に四つのパートでの賛美に参加していただけたらと思います。

 この音楽の力の大きさを感じる中で、音楽には霊的な働きがあると感じるようになりました。特に賛美歌にそれを感じます。それで、クリスマス礼拝のメッセージでは、ルカ2章の、御使いが羊飼いたちにイエス・キリストの誕生を告げ知らせた時に天の軍勢が神を賛美した箇所を中心聖句にしました。そうして、私たちの一人一人が救われた時にも天が大喜びして賛美歌の大合唱が行われたであろうことに思いを巡らしました。この天の賛美歌による大喜びには大いに励まされることを感じます。そして、これから救われる方々にも大きな励ましとなることでしょう。

 そこで、今年はしばらくの間、聖書から賛美歌に関係した箇所を引用しながら、賛美歌の霊的な働きに思いを巡らしてみたいと願っています。霊的な事柄は、皆一人一人で捉え方が違いますから、分かち合うのが難しいことを感じています。それに比べると、賛美歌の場合はもっと分かち合えそうだという期待感があります。もちろん、賛美歌の捉え方も人それぞれですから分かち合えない部分もあると思います。でも霊的な事柄に比べるともっとずっと分かち合いやすいだろうと思います。特に素晴らしい点は、賛美歌は御霊を受けた人も受けていない人も、共にその恵みを分かち合えるという点です。

 きょうは歴代誌第二の5章を見ながら、その賛美歌の恵みについて分かち合いたいと思います。きょうの中心聖句は歴代誌第二5章13節です。ここに「宮」ということばが出て来ますが、「宮」とは「神殿」のことです。

Ⅱ歴代5:13 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」とに向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわちの宮に満ちた。

 そして、きょうは次の三つのポイントで話をします。

 ①人々の心を一つにして一致させる賛美歌
 ②人の心を開いて主の方を向かせる賛美歌
 ③聖霊に似た役を旧約時代に担った賛美歌

①人々の心を一つにして一致させる賛美歌
 まず、歴代誌第二5章の全体と、ここに至るまでの経緯を簡単に見ておきたいと思います。

 きょうの歴代誌第二5章では、ソロモン王の下で進められていたエルサレムの神殿の建設が完了したことの、お祝いの式典が行われています。神殿の建設は、ソロモンの父ダビデの悲願でした。ダビデは息子のソロモンの時代ではなく、自分が王である間に神殿を建設したいと願っていました。しかし、それは適いませんでした。主がそれをお許しにならなかったからです。その辺りの事情をダビデは次のようにソロモンに話しています。少し長いですが、歴代誌第一22章の6節から10節までをお読みします。

Ⅰ歴代22:6 ダビデはその子ソロモンを呼び、イスラエルの神、のために宮を建てるように命じた。
7 ダビデはソロモンに言った。「わが子よ。私は、わが神、の御名のために宮を建てる志を持ち続けてきた。
8 しかし、私に次のようなのことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたがわたしの名のために家を建ててはならない。わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。
9 見よ、あなたに一人の男の子が生まれる。彼は穏やかな人となり、わたしは周りのすべての敵から守って彼に安息を与える。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与える。
10 彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしの子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王座をイスラエルの上にとこしえに堅く立てる。』」

 ソロモンという名前は、「平和・平安」を意味する「シャローム」に由来するそうです。ダビデは戦いで多くの血を流しました。しかし、主はソロモンの世には平和と平穏を与えるとおっしゃり、神殿はソロモンの平和な時代に建てられることになりました。そしてダビデの死後に神殿が建設されて、5章でそれを祝う式典が行われました。歴代誌第二5章1節から3節まで、

Ⅱ歴代5:1 こうして、ソロモンがの宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、神の宮の宝物倉に納めた。
2 それからソロモンは、イスラエルの長老たち、および、イスラエルの部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムに召集した。ダビデの町シオンからの契約の箱を運び上げるためであった。
3 イスラエルのすべての人々は、第七の新月の祭りに王のもとに集まった。

 3節にあるように、イスラエルのすべての人々が集まって式典が始まりました。きょうは聖餐式がありますから時間の関係で式典の細かいところは省略して、賛美に関係した11節に飛びます。11節と12節、

11 祭司たちが聖所から出て来たときのことである。列席したすべての祭司たちは、務めの組分けにかかわらず自らを聖別していた。
12 また、歌い手であるレビ人全員、すなわち、アサフ、ヘマン、エドトン、および彼らの子たちや兄弟たちも、亜麻布を身にまとい、シンバル、琴および竪琴を手にして祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司たちも彼らとともにラッパを吹き鳴らしていた。

 この12節から、レビ人全員が歌い手であったことが分かります。レビ人は何人ぐらいいたのでしょうか。民数記によれば、モーセの時代の終盤のカナン入りを前にした時点ではレビ人が2万3千人(民数記26:62)いたと記されています。その後、ダビデ王の晩年の時代に兵士の数の人口調査が行われて、兵士はモーセの時代の2倍ぐらいに増えていました。兵士の数を調べる調査だったので祭司の役割を担うレビ人の数は載っていませんが、もしレビ人も兵士と同様に2倍ぐらいに増えていたとすれば、ソロモンの神殿の完成を祝う式典の歌い手は4万人から5万人ぐらいということになります。だいたいプロ野球やJリーグの人気のあるチームの試合の観客数と同じぐらいだと考えると、分かりやすいかもしれません。

 そうして、きょうの中心聖句の13節、

13 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」とに向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわちの宮に満ちた。

 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、を賛美し、ほめたたえました。歌い手たちはバラバラになることなく、みんなが心を一つに合わせて主を賛美し、ほめたたえました。

②人の心を開いて主の方を向かせる賛美歌
 賛美歌には人々を一つにする力だけでなく、人の心を開いて主の方を向かせる力があります。これはとても大切なことだと思います。みんなの心が一つになっても、必ずしも主の方を向いているとは限りません。例えば、モーセの時代のイスラエルの人々は、みんなが一つになって主に背を向けていましたね。モーセがシナイ山に上って主のことばを聴いていた時、下にいたイスラエルの民は金の子牛を造って踊り、主を怒らせました。或いはまた、12人の族長たちが約束の地カナンを偵察に行って帰って来た時、ヨシュアとカレブそしてモーセを除くイスラエル人たちは一つになって「エジプトに帰ろう」と言い出しました。このように、みんなが一つになっても、必ずしも主の方を向いているとは限りません。

 歴代誌第二5章13節には、歌い手たちが「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と主に向かって賛美したとありますから、みんなが主の方を向いていました。

 きょうの礼拝から、始めに歌う「頌栄」を復活させることにしました。頌栄は、主の栄光をほめたたえる賛美歌です。インマヌエルの教会で、最初に頌栄を賛美する教会は非常に珍しいと思います。私は神学生時代にいくつもの教会に実習で遣わされましたが、静岡教会以外で最初に頌栄を賛美する教会を知りません。それゆえ、正直を言うと若干の違和感を覚えていました。頌栄は礼拝の最後にちゃんと歌いますから、最初のほうで頌栄を歌う必要があるのだろうか?と何となく思っていました。

 そんな私でしたが、昨年の後半、コロナの感染者数が増えたことで賛美歌の数を減らして最初の頌栄も省略したことで、物足りなさを感じるようになりました。使徒信条の後の2曲を1曲に減らしたことにも、もちろん物足りなさを感じるのですが、違和感を覚えていたほうの最初の頌栄も歌わないことで物足りなさを感じていました。そうして、音楽の力の大きさを感じるようになった頃から、最初に頌栄を歌うことの素晴らしさを思うようになりました。

 何よりも素晴らしいのは、最初に頌栄を歌って主の御名を崇めることが「主の祈り」と合致していることです。「主の祈り」では、まず天の父に呼び掛けた後で、「御名を崇めさせたまえ」と祈りますね。これが最初の祈りです。「主の祈り」は、イエス様が弟子たちに「祈るときには、こう言いなさい」(ルカ11:2)と教えた祈りですから、とても大切な祈りであることは言うまでもありません。その「主の祈り」では、まず「御名が崇められますように」と祈ります。

 ですから、礼拝の始めにまず「招きの詞」によって招かれた後で最初に頌栄を賛美することは素晴らしいことだと思います。頌栄は私たちみんなの心を一つにして一致させ、また私たちの心を開いて主の方を向かせる素晴らしい力を持っています。この恵みに感謝しつつ、以前のように、礼拝の賛美歌を頌栄から始めることにしたいと思います。

 私たちの主イエス様はぶどうの木で、私たちは枝です。枝である私たちは、幹であるイエス様の御名を崇めつつイエス様の方を向いて一つになりたいと思います。そうして私たちは御霊の実をたくさん結び、また伝道の実をたくさん結びたいと思います。

③聖霊に似た役を旧約時代に担った賛美歌
 最後の3番目のポイントは、賛美歌には聖霊に似た力があるということです。特に旧約の時代においては聖霊のような役割を担っていたことが、きょうの聖書箇所から分かります。神殿完成の式典で歌い手たちが一つになって主を賛美していた時、雲が主の宮に満ちました。そのことが13節の終りに書いてあります。最後の文です。

13 その時、雲がその宮、すなわちの宮に満ちた。

 雲が宮、すなわち神殿に満ちました。そして14節、

14 祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。の栄光が神の宮に満ちたからである。

 神殿に満ちた雲とは、聖霊と言っても良いのではないでしょうか。歌い手たちの賛美によって、聖霊が神殿に満ちました。その時、祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができませんでした。なぜなら、旧約の時代には聖霊は限られた数の預言者たちにしか注がれなかったからです。祭司たちですら、聖霊を受けていませんでした。聖霊を受けていない者は聖められていませんから、主の御前に立つことはできません。

 この描写を見る時、新約の時代を生きる私たちに与えられた恵みの大きさを改めて感じます。新約の時代の私たちはイエス・キリストを信じるなら誰にでも聖霊が注がれて聖められますから、主の御前に大胆に近づくことが許されています。主の栄光が満ちたこの会堂にいて、御父と御子との交わりに入れていただくことができます。

 そして、この13節と14節の描写からもう一つ分かることは、賛美歌の恵みは聖霊の恵みに限りなく近いということです。歌い手たちにも聖霊は注がれていませんでしたが、それなのに彼らはまるで一人のように一致して「主はいつくしみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美することができました。

 聖霊は人々を一つにして、人の心を開いて主の方に向かせる力があります。それと同じ力を賛美歌は持っています。しかも賛美歌の力は聖霊を受けていない人々にも及びます。旧約の時代の人々のほとんどは聖霊を受けていませんでしたが、賛美歌の力によって一つになりました。新約の時代を生きる私たちも、最初は誰も聖霊を受けていません。イエス・キリストを信じることで注がれるからです。しかし、主は私たちがまだイエス様を信じる前から私たちを愛していて下さり、賛美歌によって救いへと導いて下さいました。私たちの多くが賛美歌によって救いへと導かれました。賛美歌は私たちの救いに何らかの形で必ず関わっていると思います。このことに深く感謝したいと思います。

 これから聖餐式を行います。聖礼典である聖餐式は、十字架のイエス様の下で私たちが一つにされるための、最も重要な式典です。賛美歌によって救いへと導かれ、イエス様と共に食事をするテーブルに招かれたことに、心一杯感謝しつつ、パンとぶどう液を共にいただきたいと思います。
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互いに愛し合って、一つになる(2021.12.26 年末感謝礼拝)

2021-12-27 10:30:19 | 礼拝メッセージ
2021年12月26日礼拝メッセージ
『互いに愛し合って、一つになる』
【ヨハネの福音書17章20~26節】

はじめに
 早いもので、今年最後の礼拝となりました。今年一年、イエス様が私たちを守って下さったことを、心一杯感謝したいと思います。

 きょうはまた、「最後の晩餐」のイエス様のことばに耳を傾けます。今年の後半は無会衆礼拝をしていた期間を含めて、ほとんどの礼拝で「最後の晩餐」の場面を開きました。この「最後の晩餐」のシリーズはアドベントの前で終わらせる予定でしたが、アドベントの前は宣教聖日礼拝と英和のハンドベル演奏会がありましたから、17章の「最後の晩餐」の締めくくりの部分は、きょうの年末感謝礼拝まで取っておくことにしました。

 きょうの中心聖句は週報p.2に記したようにヨハネ17章21節と23節です。

ヨハネ17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

 この中でも、特にアンダーラインを引いた21節の「彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください」と、23節の「わたしは彼らのうちにいて」に注目したいと思います。そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①一つになるべきことを説いたイエス様
 ②互いに愛し合って、一つになる
 ③皆に、そして一人一人に語るイエス様

①一つになるべきことを説いたイエス様
 まず、きょうのヨハネ17章がヨハネの福音書全体の中でどういう位置関係にあるかを簡単に復習しておきます。1章で宣教を開始したイエス様は、弟子たちと共にガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ地方などを旅しながら、人々に教えを説きました。この間、イエス様はエルサレムに何度か出入りしていて、最後にエルサレムに入ったのが12章でした。イエス様はロバの子に乗ってエルサレムに近づいて行き、人々は熱狂的に歓迎しました。そうして13章から17章までが十字架に掛かる前の晩の「最後の晩餐」の時です。この「最後の晩餐」の後の18章でイエス様は祭司長たちに捕らえられ、19章で十字架に付けられて死に、20章で復活します。

 さて、きょうは、「最後の晩餐」の締めくくりの場面です。イエス様は17章から天の父に祈り始めます。きょうの箇所に入る前に1節だけ見ておきます。17章1節、

ヨハネ17:1 これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

 このようにイエス様は、「父よ、時が来ました。」と言って祈り始めました。「時が来ました」とは、十字架の時が来ましたということですね。そして、きょうの聖書箇所の20節で、イエス様はこうおっしゃいました。

20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

 「ただこの人々のためだけではなく」とイエス様はおっしゃいました。「この人々」とは、「最後の晩餐」のテーブルにいる弟子たちです。この弟子たちだけでなく、彼らのことばによってイエス様を信じる人々のためにも、とイエス様はおっしゃいます。それは、私たちのことですね。私たちは弟子のペテロやヨハネやマタイたちのことばによってイエス様を信じました。ですから、このイエス様の祈りは私たちのための祈りでもあります。

 そして、次の21節から23節に掛けてイエス様は「一つ」ということばを何度も使っています。まず21節、

21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

 「すべての人を一つにしてください」とイエス様はおっしゃいました。次に22節、

22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

 「わたしたち」とは、父と子ですから、父と子が一つであるように、私たちも一つになるために、イエス様は父に祈っています。

23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

 私たちが完全に一つになるために、イエス様は私たちのうちにいて、父はイエス様のうちにおられます。私たちのうちにイエス様がいて、さらにイエス様のうちに天の父がいるんだとイエス様はおっしゃっています。面白いですね。イエス様は私たちのうちにいます。でも同時にイエス様は、21節では、「彼らも私たちのうちにいるようにしてください」と祈っていますから、私たちは父と子のうちにいます。

②互いに愛し合って、一つになる
 この、神様は私たちのうちにもいるし、私たちも神様のうちにいるという表現は、きょうの聖書交読でご一緒に読んだ、ヨハネの手紙第一の4章にもありましたね。もう一度、私のほうで、第一ヨハネ4章の7節から16節までをお読みしますから、少し長いですが聞いていて下さい。

Ⅰヨハネ4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。
15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

 神は愛です。私たちはその神様の愛に包まれていると同時に、私たちのうちにも、その神様の愛がとどまっています。この神様の愛によって、私たちは互いに愛し合って、一つになることができます。

 イエス様は最後の晩餐を始めるに当たって身を低くして弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。そうして、弟子たちに様々なことを教えました。たとえばイエス様は15章で、こうおっしゃいました。

ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 この、15章5節の、「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら」という表現もまた、第一ヨハネ4章の表現とよく似ていますね。そうして、ぶどうの木であるイエス様にとどまるなら、私たちは多くの実を結びます。このヨハネ15章は、浜田耕三先生も静岡聖会の説教の中で語っておられましたね。浜田先生は、私たちが結ぶ実とは私たちが内と外に結ぶ実であるとおっしゃいました。内に結ぶ実とは御霊の実、すなわち愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。そして外に結ぶ実とは、伝道によって新たにイエス様を信じる人々のことです。

 私たちは御霊の実を結ぶことによって、愛と喜び、平安などを得ます。人に対して寛容になり、親切になることで、互いに愛し合えるようになり、一つになることができるのですね。ですから、私たちが一つになるためには、御霊が与えられることが欠かせないことになります。

 そうしてまた、互いに愛し合えるようになることでイエス様に似た者にされて行き、イエス様の証人になることで、新たにイエス様を信じる人々がおこされるのですね。このように聖められることは簡単なことではないと私自身感じているところですが、イエス様が互いに愛し合いなさいとおっしゃいますから、そのような者に変えられたいと思います。

③皆に、そして一人一人に語るイエス様
 ここで改めて、週報p.2の中心聖句の21節と23節にアンダーラインを引いた箇所のように、私たちがイエス様のうちにいると同時に、イエス様も私たちのうちにいる、とはどういうことかを考えたいと思います。実はこのことは来年の1月にも何度か繰り返し取り上げたいと願っていることです。きょうは、その予告編という感じで、段々と深めて行くことができたらと思っています。

 きょう分かち合いたいことは、次のことです。私たちがイエス様のうちにいることで、私たちの皆にイエス様の同じことばが届きます。それと同時に、イエス様が私たち一人一人のうちにいることで、その人に合った伝え方でイエス様は語って下さるということです。

 例えばイエス様は私たちの皆に、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。私たちは皆、この同じことばを聞きました。それは、私たちがイエス様のうちにいるからです。でもそれと同時に、私たちの一人一人のうちにいるイエス様はそれぞれに応じて、語り掛けて下さいます。私たちは皆、年齢も違いますし、信仰を持ってからの年数も違います。育った環境や社会経験などが皆違い、それぞれに異なる賜物が与えられています。その一人一人の違いに応じて、イエス様は語り掛けて下さいます。そうしてイエス様にあって互いに愛し合って、私たちは一つになります。

 パウロは教会員の一人一人を体の器官にたとえていますね。パウロはローマ人への手紙12章でこのように書いています(週報p.2)。4節から7節までをお読みします。

ローマ12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、…

 私たちはイエス様のうちにいますから、イエス様にあって一つにされていますが、同時に私たち一人一人にイエス様がいて、それぞれに役割を与えて下さっています。体の臓器の心臓や肺、胃や腸、みんなそれぞれに違う働きがあるように私たち一人一人にも違う働きが与えられていて、しかし全体としては一つになっています。

 サッカーやラグビー、バスケットボールやバレーボールのような球技もそうですね。メンバーのそれぞれに与えられたポジションがあって、ポジションごとに違う働きをしますが、全体として一つにまとまっていないと、動きがバラバラになってしまって、強いチームにはなりません。

 教会も同じです。私たちはそれぞれの賜物に応じて一人一人が違う役割を与えられています。違う私たちが一つになってイエス様にお仕えするためには、私たちがイエス様のうちにいて、イエス様もまた私たち一人一人のうちにいることを意識することが大切ではないでしょうか。

おわりに
 来年の標語聖句は歴代誌第二の5章13節から、

歌い手たちが、まるで一人のように一致して「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美した。

としました。実際の5章13節の聖句はもっと長いのですが、額に収まるように短くしてあります。

 フライング気味ですが、予告編的に少しだけ話します。音楽には不思議な力があります。音楽には、人の心を癒す力があります。悲しみの中にある人の心を癒す力があります。或いは、これから仕事やスポーツの試合などで力を発揮しなければならない人を奮い立たせる力があります。病人を力づけて元気にする力さえあります。

 きのうの晩、NHKのBSプレミアムで今年のショパンコンクールの日本人出場者を取材した番組を放送していました。その中の一人に、2次予選まで進んだ沢田蒼梧さんがいました。この沢田さんは何と、医学部の現役の学生なんですね。いま名古屋大学医学部の5年生だそうです。医学部の勉強だけでも相当に大変だと思いますが、その上、ショパンコンクールの1次予選を通って2次予選にまで進んだほどですから、ピアノの練習も相当にしています。ものすごく大変なことだと思いますが、これからも医学とピアノの両方に取り組んで行きたいとのことです。

 その理由の一端を番組の中で語っていましたが、医者を目指す沢田さんは、音楽には人を癒す力があることに注目していて、単に医者として医学で人の病気を癒すだけでなくて、音楽によって人を癒すことにも関わっていきたいそうです。具体的にどうするかというプランはまだこれからのようですが、医者を目指す沢田さんが音楽には人を癒す力があると語っていたのを聞いて、本当にそうだなと思いました。

 そしてまた、音楽には皆を一つにする力があります。教会で一つになるというと御霊の一致を考えますが、御霊の一致といっても、ちょっと分かりにくいですよね。教会にはまだ御霊を受けていない方々も集っています。まだ御霊を受けていない方々にとっては、余計に分かりにくいと思います。

 御霊の一致は御霊を受けた人々の間でしか得られません。しかし音楽は、受けていない人も一つにする不思議な力があります。そうして、音楽によって一つにされる中で、御霊の一致とはどういうことかが段々と分かるようになると良いなと思っています。

 きょう話した、私たちがイエス様のうちにいて、イエス様も私たち一人一人のうちにいることを感じることは、御霊の一致を知る上で大切なヒントになると思いますから、これからも度々振り返ることになるだろうと思います。そういう意味で、きょうの話は、来年の話にもつながっています。

 今年一年をイエス様が守って下さってことに、心一杯感謝したいと思います。私たちはイエス様のうちにいることで守られました。また、それぞれが違う困難の中も通りましたがイエス様が御霊を受けた者の一人一人のうちにもいて下さり、励まし、導いて下さいましたから、ここまで来ることができました。このことに心一杯感謝しながら、来年もまたイエス様と共に歩んで行きたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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天からの賛美による励まし(2021.12.19 クリスマス礼拝)

2021-12-20 09:05:55 | 礼拝メッセージ
2021年12月19日クリスマス礼拝メッセージ
『天からの賛美による励まし』
【ルカ2:8~20】

はじめに
 クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストは天から遣わされてクリスマスの日に、私たちのために生まれて下さいました。きょうはこのことをご一緒に、心一杯感謝したいと思います。

 1ヶ月前の英和のハンドベル部の演奏会では地元の田町3丁目自治会の主催、2丁目と4丁目の共催となったことで、100名以上の多くの方々が来て下さいました。このことを通して音楽の力の大きさを、強く感じています。音楽は人を癒し、励まし、多くの人々を一つにする力があります。そこで、来年の標語聖句は音楽に関係するみことばです。いま、担当の姉妹が準備して下さっていると思います。そして、きょうのクリスマス礼拝の中心聖句も、音楽に関係する箇所としました。

 きょうの中心聖句はルカ2章の13節と14節です。

ルカ2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 そして、次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①天からの賛美に励まされた羊飼いたち
 ②罪人が悔い改めると大喜びする天の御国
 ③神の子どもとされて得られる深い平安

 3番目のパートは先週の祈り会で話したことと重なりますが、礼拝に出席されている皆さんとも分かち合いたく願っていることですから、ご容赦下さい。

①天からの賛美に励まされた羊飼いたち
 きょうの聖書箇所はルカ2章8節からですが、1節から見て行きます。1節と2節、

ルカ2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。

 ルカが皇帝と総督の名を書き記したことで、イエス・キリストがお生まれになった年が何年のことだったかが、かなり正確に分かっています。ローマ帝国に関する歴史的な資料は聖書とは別に残されているからです。また、イエスという人物が十字架刑で死んだことも、聖書とは別に1世紀の歴史家のヨセフスというユダヤ人が書き残していることなどから、イエス様が歴史的に実在した人物であることは事実として広く認められています。

 さて、イエス様が生まれた年にローマ帝国で住民登録がありました。そこでヨセフは先祖のダビデの出身地のベツレヘムにマリアと共に行きました。そうして、マリアはベツレヘムでイエス様を生みました。イエス様が生まれたのは家畜小屋で、飼葉桶に寝かせられました。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とルカは書いています。もし、ヨセフがお金持ちだったなら、お金の力でどこかちゃんとした所に泊まることもできたことでしょう。でも、ヨセフは裕福では無かったようです。それは、左側のページの22節以降の箇所から分かります。イエス様が生まれた後、両親は幼子を主に献げるためにエルサレムの神殿に行きました。この時、24節によれば山鳩か家鳩が献げられたようです。神殿で献げるのは羊ですが、余裕が無ければ鳩でも良いと旧約聖書のレビ記に書いてあります。ということは、羊ではなく鳩を献げたヨセフとマリアは裕福ではなかったということです。

 でも、イエス様はそういう貧しい家庭で生まれ育ったからこそ、弱い人々の気持ちが分かり、寄り添うことができました。また、家畜小屋で生まれたことで羊飼いたちが見に行くことができました。司会者に読んでいただいた箇所は、その場面です。まず8節と9節、

8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 主の使いというのは、天使のことです。ベツレヘムで羊の群れの夜番をして野宿をしていた羊飼いたちのところに天使がやって来て、救い主が生まれたことを告げました。羊飼いは社会の底辺にいる蔑まれた人々であったと言われています。蔑まされていた理由の一つは、仕事を休むべき安息日にも彼らが働いて律法を守っていなかったからだそうです。でも、羊の世話がありますから、安息日に休めないのは、仕方のないことです。

 この羊飼いたちが飼っていた羊は、エルサレムの神殿で献げる羊だったのではないか、とも言われています。神殿で羊を献げている裕福な者たちは、羊飼いたちのおかげで律法を守ることができていました。それなのに羊飼いたちが蔑まれていたとしたら、とても理不尽ですね。でも、このような理不尽は現代においてもあります。私たちが生活する上で必要不可欠な尊い働きをして下さっている方々の多くは安い給料できつい仕事をしています。羊飼いたちの仕事も夜番で野宿しなければならないという、きつい仕事でした。主はそのような者たちに目を留めて、良い知らせを一番最初に伝えるために天使を遣わして下さいました。

 しかし、「彼らは非常に恐れた」とあります。それはそうですね。暗い夜中に突然周りが明るくなったら、誰でもビックリして恐れるでしょう。恐れる彼らに御使いは言いました。10節から12節、

10 「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 御使いは11節にあるように、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と言いました。救い主というと、当時のユダヤ人たちはローマ帝国の支配から救い出してくれるダビデのような強い王を待ち望んでいた、とよく言われます。でも考えてみると、そのような強い王を望んでいたのは律法を守って羊を献げることができた余裕のある人たちだったのですね。そうして余裕のある人々はイエス様が期待したような強い王ではなかったことにガッカリして「十字架に付けろ」と叫んでイエス様を殺してしまいました。

 しかし、本当の救い主であるイエス様は、羊飼いたちのような者たちのための救い主でした。それは、イエス様ご自身がルカ4章で言っておられる通りです。ルカ4章18節(週報p.2)、

ルカ4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」

 このように、イエス様は先ずは、羊飼いたちのような貧しくて弱い立場にいる人々に良い知らせを伝えるために遣わされました。王様が強いとか弱いとか、そういうこととは無関係な場所で、きつい仕事をしながらギリギリの生活をしている者たちに救いをもたらすために、イエス様は天から地上に来て下さいました。2章に戻ります。13節と14節、

13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 この13節と14節が、きょうの中心聖句です。羊飼いたちは、御使いのことばを聞いても、まだ半信半疑だったのではないかな、と思います。でも、この13節のおびただしい天の軍勢による賛美によって励まされて、皆が一つになったのではないでしょうか。15節、

15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」

 私たちの性格は皆それぞれ違いますから、考えることも異なります。羊飼いたちの考えもいろいろだったでしょう。好奇心が旺盛な者は「見に行こう」と思い、疑い深い者や慎重な者は「怪しい」と思い、真面目な者は「羊の番はどうするんだ」と思ったかもしれません。でも、話し合って皆で、この出来事を見届けることにしました。それは、天の軍勢による賛美があったからではないでしょうか。音楽には人の心を励まし、皆を一つにする不思議な力があります。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」この賛美に励まされて、羊飼いたちはベツレヘムに行ったのでしょう。16節から19節、

16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。
18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。
19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。

 この18節の驚いた人たちと19節のマリアとの対比は興味深いな~と思います。神様のすごい御業を見た時、大抵の人は驚きますが、驚くだけで終わってしまいます。例えば、モーセの時代にエジプトを脱出した民は、海が二つに割れるのを見た時、とても驚いたに違いありません。でも、驚いただけで、神様について深く思いを巡らすことはしなかったのでしょう。急いで逃げなければなりませんでしたから、思いを巡らす余裕は無かったと思いますから、仕方がなかったでしょう。でも神様のことは深く思いを巡らさなければ、信仰は育たないということを、モーセの時代のイスラエルの民は教えてくれています。この18節の人々も単に驚いただけだったようです。しかし、マリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていました。そして20節、

20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 羊飼いたちも賛美しながら帰って行きましたから、すぐに忘れることなく彼らの信仰は深まったことでしょう。この羊飼いたちの賛美も、天の軍勢の賛美による励ましの効果が大きかったのではないでしょうか。

②罪人が悔い改めると大喜びする天の御国
 羊飼いたちは、天の軍勢の賛美に励まされて、救い主の誕生を見届けに行ったのでしょう。そして、この天の軍勢の賛美はまた、これから多くの人々が御子によって救われること、その救いの時代がいよいよ到来したこと、そのことを喜び祝っているようにも、聞こえます。
 きょうの聖書交読では、ルカの福音書15章を開きました。ここでイエス様は、罪人が悔い改めた時には天が大喜びすると、おっしゃいました。ルカ15章をご一緒に見ましょう(新約p.148)。私のほうでお読みします。4節から7節、

ルカ15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。

 イエス様が生まれた日に羊飼いたちの上で天の軍勢が賛美したことは、イエス様がこの7節で「大きな喜びが天にあるのです」とおっしゃったことの壮大な予告編であったように感じます。続いて8節から10節、

8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

 皆さんは、ご自身が救われた時にも、こんな風に天が大喜びしたんだと想像したことがあるでしょうか?私はあります。今でもよく想像します。こんな小さな私のために、天がこれほどの大喜びをしたんだと思うと、体が熱くなります。救われることの恵みをしみじみと感じて、幸せな気分になります。

③神の子どもとされて得られる深い平安
 放蕩息子が救われた時も、天が大喜びをして祝宴を開きました。ルカ15章24節にある父の家の祝宴とは、天の祝宴のことでしょう。22節から24節までをお読みします。

22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

 放蕩息子は、父が自分のことを父の子どもとして迎え入れてくれたことで、心の底から平安を感じたであろうと思います。私たちもまた、イエス・キリストを信じて受け入れるなら、神の子どもとされます。ヨハネは1:12で書いていますね(週報p.2)。

ヨハネ1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

 このように神の子どもとされることは特権であり、素晴らしい恵みです。特権だから、天は盛大にお祝いして下さるんですね。そうして神の子どもとされることで私たちは深い平安を得られます。ここから先は先週の木曜日の祈祷会で話したことと重なりますが、皆さんと分かち合いたいと思いますから、ご容赦願います。

 救われて心の平安を得て以来私は、十字架を見るたびに、深い平安を感じるようになりました。でも、残酷な刑罰である十字架を見て、どうしてこんなにも深い平安が得られるのか、長い間不思議でいました。平安が得られるのは自分の罪が赦されたからだとよく言われます。もちろん、そうだと思います。でも、この深い平安は罪が赦されたからだけではないような気が、ずっとしていました。

 それが最近になって、神の子どもとされたから、こんなにも深い平安が得られたのだと、放蕩息子の帰郷の場面を読み直して、分かった気がしました。私も放蕩息子と同じです。神様に逆らって、強がって、いきがっていたみじめな私が神様の憐れみによって教会に導かれて、教会こそが自分が辿り着くべき場所だったのだと気付いた時、神様はおっしゃったのだと思います。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。」そうして天で祝宴を開いて下さったのだと思います。そして救われた私は、少しずつですが、きよめられる恵み、御霊の実を結ぶ恵みもいただいています。

 このところ私はSNSのツイッターで、保護された野良猫の子猫を一定期間育てるボランティアをしている方の動画を興味深く見ています。その方は、地元の保健所に持ち込まれた野良の子猫を一定期間家庭に引き取って育てるボランティアをしています。保護されたばかりの子猫は大抵の場合は警戒心が強くて人に懐きません。生まれたばかりなら別だと思いますが、2~3ヶ月を外で野良猫として過ごすと、人を警戒して牙をむき出して威嚇したり、爪で引っかいたりします。これでは、なかなか引き取る里親がいません。でも、このボランティアの方はこのような野良の子猫を人に甘える猫に変える名人なんですね。

 保健所から預かったばかりの頃の子猫は本当に牙をむき出しにしてシャーッと息を吐いて般若のお面のような恐ろしい形相をします。そんな子猫も、人が愛情を注ぎ続けると、段々と穏やかな顔になり、やがて甘えるようになります。そうして里親に引き取られて深い平安を得ます。子猫の平安に満ちた表情を見ると、放蕩息子が父の家に帰って神の子どもとされて得られた平安も、こういうものであったのだろうと思います。それは私が得た平安でもあります。

 教会に辿り着く前の私は、宗教に警戒心を持っていて、聖書の話にも拒否反応を示していました。それはまるで、子猫が般若のような形相をして牙をむき出しにして威嚇するのと同じです。それはつまり、私自身がイエス様を十字架に付けていたということです。そんな私を神様は憐れんで下さり、保護して神の子どもとして下さり、深い平安を与えて下さいました。

おわりに
 きょうご一緒に読んだルカ15章の最初のたとえ話は、いなくなった羊についてですが、私の場合は羊よりは野良猫だったんだと思います。でも、天の神様がイエス様を、地上に遣わして下さったことで神の子どもとされて深い平安を得ました。そのことに感謝して、私も神様を賛美します。

 一人の罪人が悔い改めるなら、天は大喜びして祝宴をします。イエス様がお生まれになった時に羊飼いたちの上で天の軍勢が賛美の大合唱をしたことは、私たちの一人一人が救われて天が大喜びする時の予告編であったと感じます。

 イエス様を信じると、天が大喜びして賛美歌の大合唱をして下さるとは、なんと素晴らしいことでしょうか。何と光栄なことでしょうか。このことに心一杯感謝したいと思います。そうして、イエス様がこの世に生まれて下さったクリスマスを、共にお祝いしたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

ルカ2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
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歩きはじめる言葉たち(2021.12.12 アドベント第3礼拝)

2021-12-13 05:30:00 | 礼拝メッセージ
2021年12月12日アドベント第3礼拝メッセージ
『歩きはじめる言葉たち』
【ルカの福音書4章16~22節】

はじめに
 一昨日の12月10日(金)から静岡東宝会館でドキュメンタリー映画の『歩きはじめる言葉たち』の公開が始まりました。東京では10月に公開されて、いま全国の映画館で順次上映されています。私は10月に東京の渋谷でこの映画を観ましたが、静岡の初日の一昨日も東宝会館に行って観て来ました。そうして礼拝メッセージのタイトルは、映画と同じ『歩き始める言葉たち』にすべきという強い促しを心の中に受けました。そこで、当初予定していたメッセージを変更します。



 このドキュメンタリー映画では、去年の3月31日に心臓病で突然この世を去った佐々部清監督への関係者の想いが語られ、また手紙で言葉が綴られます。サブタイトルも含めた映画のタイトルは『歩きはじめる言葉たち 漂流ポスト3.11をたずねて』です。漂流ポスト3.11というのは岩手県にある郵便ポストで、3.11の大震災で亡くなった方々に宛ててご遺族などが書いた手紙が投函されることで有名になったポストです。今では大震災以外で亡くなった方への手紙も投函されるようになっているそうです。映画では、佐々部監督と関係が深かった方々の手紙を俳優の升毅さんが預かり、最後に漂流ポストに投函しました。10通近くの手紙がありましたから、ポストの底に落ちた時にやや大きな音がしました。その音が耳に残り、私も佐々部監督に手紙を書かなければという思いが強くなりました。そこで、きょうの礼拝メッセージは、私から佐々部監督への手紙、という形で語らせていただきたいと思います。

 いまキリスト教会と映画の業界とは、似たような状況にあるように思います。映画は派手なアクション映画や刺激の強い暴力シーンがある映画、激しい戦闘のシーンがある戦争映画、或いはSF映画などには観客が大勢入りますが、愛が中心のジワーっと心が温まるような映画にはお客さんがあまり入らないという状況があるように思います。教会も神様の愛を感じて心が温まる場所ですが、教会には以前ほど人が集まらなくなっています。そんなことを佐々部監督への手紙に書きました。特に今のクリスマスの時期には、御子イエス・キリストを私たちのために遣わして下さった神様の愛を多くの方々に知っていただきたいと願っていますから、そのことを思いながら手紙を書きました。きょうの聖書箇所は、手紙の中で読みます。

佐々部清様
 佐々部監督と最後に会ったのが2020年の1月でしたから、もうすぐ2年になりますね。僕は今年の10月で62歳になりました。いま62歳と2ヶ月弱です。佐々部監督が亡くなったのが62歳と3ヶ月弱の時でしたから、あと1ヶ月で僕は佐々部監督が亡くなった歳になり、なお生き続けるなら、監督が生きた歳月を越えて行くことになります。佐々部監督が突然亡くなって以来、人間はいつ死ぬか分からない存在であり、自分もいつ死ぬか分からないということを、いつも考えさせられています。

 さて最近、プロデューサーの野村さんたちが作ったドキュメンタリー映画の『歩きはじめる言葉たち』を観ました。その映画の中で、佐々部監督が亡くなる20日前の2020年3月11日に書いたブログの記事が紹介されていました。東日本大震災を題材にした映画を監督は何本も企画して脚本を書いたけれども、いずれも資金が得られずに製作を断念したとのことでした。当時、僕もこのブログ記事を読んでいましたが、映画で改めて思い出しました。そして、映画の業界が抱えている問題とキリスト教会が抱えている問題が似ているように思いました。きょうはそのことを手紙に書きたいと思います。映画の業界については僕の推測が混じっていますから、間違っている部分もあるかもしれませんが、ご容赦下さい。

 佐々部監督の映画はどのような題材であれ、家族愛や隣人愛が中心にありましたね。僕たち佐々部映画ファンは、監督が描くしみじみと心にしみる愛にとても温かいものを感じて胸が一杯になり、熱烈に応援して来ました。でも、映画製作に必要な資金を出資する側から見ると、家族愛や隣人愛が中心の映画では観客数があまり期待できず、資金を回収する目途が立たないから出資できないということになるのでしょうか。家族愛・隣人愛にニーズが無いわけではなく、テレビでは多くのドラマが作られています。でもわざわざ映画館まで足を運んで、お金を払ってまで家族愛・隣人愛の映画を観ようという人は少ないだろうと出資者は考えるのでしょうか?

 でも映画館という日常生活とは異なる空間で鑑賞する家族愛・隣人愛は自宅で観るのと違って、もっと心の奥深くに浸み込むものであり、時には突き刺さるものです。自宅では、それほど集中して観ることはできませんし、画面も劇場より小さいですから、劇場ほどには心に響いて来ないでしょう。僕は佐々部監督作品の第2作『チルソクの夏』を最初に観た時に心を刺し貫かれました。そうして、もう一度観たくなって行った劇場で、監督と出会うことができました。もし最初に観たのが映画館でなく自宅でのDVDであったなら、『チルソクの夏』が僕の心を刺し貫くことはなかったのではないかと思います。

 この映画ではヒロインの郁子が、韓国人を差別する家族や周囲に反発していましたね。僕はこのことに心を刺し貫かれました。なぜなら、子供時代の僕は周囲に何ら反発を感じることなく、差別意識をそのまま受け入れてしまっていたからです。大人になってからは、差別意識はほとんどなくなりましたが、それでも微かに残っていることを自分でも感じていました。そうして職場の留学生センターで韓国人留学生のお世話をすることが決まった時、この問題をどうしても克服する必要を感じました。それで韓国の田舎で鳥を観察する韓国バード・ウォッチングツアーに参加しました。約1週間、韓国南部の田舎で韓国人の人情の温かさに触れる中で、薄っすらと残っていた差別意識は完全になくなり、僕は韓国が大好きになりました。

 しかし、かつて周囲の差別意識をそのまま受け入れて自分も差別意識を持っていた事実は消せません。どうして自分は『チルソクの夏』のヒロインの郁子のように、差別をおかしなことと思わなかったのか。この映画を観て僕は心を刺し貫かれて、心が痛みました。でも痛んだけれども、不思議な平安もまた、この映画で感じました。郁子が、自分の家族もまた別の痛みを抱えていることに気付き、家族を赦して父親にギターをプレゼントした場面は本当に感動的でした。これは劇場という日常とは異なる空間で鑑賞したからこそ、強く感じることができた痛みと平安だったのだと思います。

 出資する側は、家族愛・隣人愛では日常の延長であり、それでは観客が見込めないと考えているのでしょうか?ホラーやアクション、SFのように日常では有り得ない刺激が強い映画でないと観客が映画館に足を運ばず、資金の回収は難しいと考えているのでしょうか?そういう面もあるのでしょうね。でもそれは、佐々部監督も言っていたように、出資する側が作り出した状況なのだと思います。刺激の強い映画への出資が偏るようになった結果、観客側もそれに慣らされてしまって、家族愛や隣人愛はテレビドラマで十分と考えるようになってしまっているように思います。そうして監督が作りたかったような、しみじみ温かい映画にはますます資金が集まらないという悪循環に陥っているのでしょうか。

 おととし公開された韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』が話題になった時、僕も観ておかなければと思って劇場で観ました。途中までは面白く観ていましたが、終盤に凄絶な場面がありましたから、とても暗い気分になりました。家族の物語に、どうしてこんな殺人の場面が必要なんでしょうか?刺激が強くなければ観客が満足しないのでしょうか?こういう場面に観客が慣らされていくことは、とても恐ろしいことだと思います。

 去年公開された「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が大ヒットして日本の興行収入の歴代1位を記録しました。今の人々が何を求めているのかが知りたくて僕も観に行きましたが、またまた暗い気持ちになりました。刺激が強い凄絶な場面の中にちょっとだけ家族愛・隣人愛の要素が含まれている、こういう映画でないと多くの人々が劇場に足を運ばない時代になっているとしたら、かなりマズイ気がします。

 映画業界が抱えるこのような問題を、キリスト教会も似た形で抱えているように思います。教会の中の空間もまた、日常とは異なる場です。そうして、聖書の言葉を通して神様からの語り掛けを受け、神様の愛を感じる場です。「互いに愛し合いなさい」と神様に語り掛けられ、僕たちもそのような者になりたいと思わされる場です。神様の愛は心の奥底にじんわりと浸み込んで来るタイプのものです。また時には自分の罪深さを神様に指摘されて、心を刺し貫かれることもあります。これらは日常生活とは異なる空間の教会の中だからこそ敏感に感じることができるものでしょう。でも、今は教会に足を運ぶ人が少なくなってしまいました。人々が強い刺激を目と耳から受けることに慣れてしまった結果、心の目で見て、心の耳で聴くことが下手になってしまったのでしょうか?心の目で見て、心の耳で聴かなければ、神様の語り掛けはなかなか聴こえてきません。

 きょうの聖書箇所のルカの福音書4章16節から22節は、イエスが僕たちのために遣わされたことを豊かに物語っている場面ですが、現代人には伝わりにくくなっているのかもしれません。

ルカ4:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」
20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。

 この場面は、イエス・キリストがおよそ30歳で人々への宣教を始めたばかりの頃の記事です。クリスマスにヨセフとマリアの子として生まれたイエスが大人になり、いよいよ人々へ教えを説き始めました。その時、故郷のナザレでユダヤ教の会堂に入ったところ、旧約聖書のイザヤ書の巻物が渡されました。イザヤ書はイエスが生まれる数百年前に書かれた書です。この巻物を開いたイエスは18節と19節に書かれていることばに目を留めて、朗読しました。

18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」

 この言葉はイザヤ書61章に書かれています。そしてイエスは言いました。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」つまり、この神に遣わされた者とは自分のことであるとイエスは言いました。イエスが生まれる何百年も前に書かれたイザヤの言葉がこうして成就しました。そうしてイエスは貧しい人々に良い知らせを伝えました。この良い知らせは時間と空間を超えて現代の僕たちにも届けられています。

 イエスは神の子どもであり、天から遣わされてヨセフとマリアの子となり、クリスマスの日に生まれました。神様は私たちを愛して下さっていますから、私たちのために御子のイエスを地上に遣わして下さいました。イエスは家畜小屋という出産にはふさわしくない場所で生まれ、ナザレという貧しい田舎町で育ちました。22節にイエスを見た人々が「この人はヨセフの子ではないか」と言ったことから、父のヨセフはナザレの人々から低く見られていたことが分かります。しかし、それだからこそ、イエスは弱い立場の人々に寄り添うことができました。そんなイエスを弱くない立場の人々が十字架に付けて殺してしまいました。

 人は、こういう恐ろしい罪を心の中に抱えています。でも、イエスは人々の罪を赦しました。十字架に付けられたイエスは天の神様にこう言いました。

ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 僕たち人間は、本当に自分が何をしているのかが分かっていない罪深い存在だと思います。子供時代の僕は韓国人を差別していながら、それを罪とは思っていませんでした。大人になった今もきっと自分では気付いていない罪を多く抱えているのでしょう。

 人が「自分が何をしているのかが分かっていない」ことは、特に戦争でそれを感じます。僕が佐々部監督の映画に初めてエキストラで参加したのが、人間魚雷「回天」の搭乗員を描いた『出口のない海』でした。人間を魚雷に乗せて船に体当たりさせる特攻作戦は狂気の沙汰としか思えず、この人間魚雷「回天」を考案した人や搭乗員を募って攻撃を命じた人は、本当に「自分が何をしているのかが分かっていない」人々だと思います。

 それは、原爆という恐ろしい核兵器を落とした側にも言えます。原子爆弾を製造して落とした側の人々は、「自分が何をしているのかが分かっていない」人々です。こうの史代さんが原作の、原爆症で亡くなった女性とその家族を描いた『夕凪の街 桜の国』で佐々部監督は家族の愛をとても温かく表現していて、僕はこの映画にエキストラに参加することができて本当に良かったです。この映画では、原爆ドームの前に架かる相生橋をヒロインと反対方向に歩く通行人の役をさせてもらいました。佐々部監督もご存知のように、僕はこの映画の広島ロケに参加したことがきっかけの一つになって、キリスト教会の牧師になりました。監督は、自分の映画がきっかけで僕がそれまでの仕事を辞めてしまったことを、とても気にしていたと人づてに聞いていますが、牧師になった僕はイエス・キリストが弟子たちに説いた「互いに愛し合いなさい」という教えを人々に伝える働きができていることに喜びを感じていますから、どうぞ気になさらないで下さい。

 同じくエキストラで参加させてもらった佐々部監督のWOWOWドラマの『本日は、お日柄もよく』では、冒頭でヨハネの福音書1章1節の「初めにことばがあった」を引用していましたね。このヨハネ1章1節の「ことば」とは、イエス・キリストのことです。ですから、聖書の言葉を人々に伝えることは、そのままイエス・キリストを伝えることです。イエスが十字架に掛かる前の晩の最後の晩餐で弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と説いたこと、また十字架に掛けられた時に、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言ったことなどを、僕は聖書を通して人々にしっかりと伝えていくつもりです。

 いま静岡で上映されている『歩きはじめる言葉たち』のタイトルにも、「言葉」が使われています。遺された人々は亡くなった人への思いを言葉にして手紙に綴ります。そうして、少しずつ心が癒されて再び歩き始めることができる、という意味が込められているのでしょうか。言葉には、本当に不思議な力があると思います。特に聖書の言葉には力があります。聖書の言葉は人の心を癒し、励まし、新しい一歩を踏み出す力を与えてくれます。それは、聖書の言葉が神の言葉だからです。神の御子イエス・キリストはこの神の言葉を伝えるために、天から遣わされてクリスマスの日に生まれました。このクリスマスの時期に静岡で『歩きはじめる言葉たち』が上映されている偶然を、僕はうれしく思っています。

 いま佐々部監督がどこでどうしているのか、それは神様の領域のことですから、僕はすべてを神様にお委ねしています。ですから僕は、遺されたご家族のために祈ります。佐々部監督のご家族が天からの慰めと励ましを豊かに受けながら、健康も守られて、日々を歩んでいくことができますように、お祈りしています。
イルマーレ 窒素之助 

おわりに
 佐々部監督への手紙は以上です。イルマーレというのは私のネット上でのニックネームで、窒素之助というのはエキストラで映画・ドラマに参加する時の芸名です。

 皆さん、もしよろしければ、静岡東宝会館へ『歩きはじめる言葉たち』を観に行って下さい。この映画もまた、家庭でDVDで観るよりも、日常とは異なる空間の映画館で観るべき映画だと思います。そうして、悲しみの中にある人々が言葉によって癒され、励まされて行く過程について、思いを巡らしてみていただけたらと思います。



 そしてまた私たちは、教会という日常とは異なる空間にも、地域の方々が足を運んで下さるように願い、祈って行きたいと思います。次の聖日のクリスマス礼拝には、そのような方々がこの教会を訪れて下さるように、お祈りしていたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

ルカ4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、19 主の恵みの年を告げるために。」
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常識を手放した正しい人ヨセフ(2021.12.5 アドベント第2礼拝)

2021-12-06 10:43:39 | 礼拝メッセージ
2021年12月5日礼拝メッセージ
『常識を手放した正しい人ヨセフ』
【マタイ1:18~25】

はじめに
 アドベント第2礼拝のきょう開く聖書の箇所はマタイ1章のヨセフの記事です。この時期に開くおなじみの箇所ですが、きょうはこの記事を、「ヨセフは手放すことができた人だった」という観点から見てみたいと思います。きょうの中心聖句はマタイ1章18節と19節です。

マタイ1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。

 そして、次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①世の常識の一歩先を行く「正しい人」
 ②夢という方法でヨセフを励ました神様
 ③常識の中にいる平安を手放したヨセフ

①世の常識の一歩先を行く「正しい人」
 今回、この記事を読んでいて、19節の「夫のヨセフは正しい人で」という一文に目が留まりました。「正しい人」とはどういう人のことなのだろうか、ということがとても気になりました。それで、先ずこのことを考えてみたいと思います。

 「正しい人」というと、世の中で「正しいこと」と考えられている常識の中にきちんと納まっている人、世の中の正しさの基準から逸脱することのない人を思い浮かべるように思います。でも、ヨセフの場合は少し違うようです。18節から見て行きます。

マタイ1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。

 マリアがイエス・キリストを身ごもることになった経緯は、ルカの福音書1章に詳しく書かれています。御使いのガブリエルがマリアの所に来て、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」と言いました。そうして、少しのやり取りの後で、マリアはガブリエルに言いました。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」

 マリアが御使いのガブリエルのことばを受け入れたことで、マリアは聖霊によって身ごもりました。そして、このことをヨセフも知りました。どのような形でヨセフに伝わったのか、はっきりしたことは分かりませんが、彼はいいなずけのマリアが身ごもったことを知りました。そして、マタイはこのように書いています。

19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。

 当時のユダヤ人の常識に従えば、律法に従うのが「正しい人」でしょう。ですから、マリアは律法に則って裁かれなければならなかった筈です。律法には、婚約中の娘がほかの男と寝た場合の処罰の規定が書かれています。それが町中のことなのか、或いは町の外の野でのことなのか、娘は助けを求めて叫んだのか、それとも叫ばなかったのか、場合によって異なりますが、一番厳しい処罰では、その娘は石で打ち殺されなければなりませんでした。(申命記22:23~27)。マリアがそれらのどれに該当するのか調べるとしたら、彼女はさらし者になります。ヨセフはマリアがさらし者になることを望みませんでしたから、ひそかに離縁しようと思っていました。このことをマタイは、夫のヨセフは「正しい人」であったと書いているようです。繰り返しますが、当時のユダヤの常識では、律法に従うのが「正しい人」です。

 このマタイの記述は、「正しい人」とはどういう人であるかを考えさせられます。たとえば、こんな例はどうでしょうか。私が中高生の時には、運動中に水を飲むとすぐにバテるから、運動中は水を飲まないのが正しいことだと教わりました。それがスポーツ界の常識かのように言われていました。運動が終わったら飲んでも良いけれど、運動中は飲んではならないと言われていました。合間の休憩中もあまり飲まないようにと言われました。それが、今では運動中でもこまめに水分を補給することが正しいことだとされています。

 でも、昔でも運動中に水分を補給していた一流の運動選手はいただろうと思います。単に我慢できなくて水を飲むというのでなく、脱水症状にならないよう、喉が乾く前にこまめに水分を補給していた人もいただろうと思います。そのような人は、その時代の常識の一歩先を行っていた人だと言えるでしょう。そのような人たちが、新しい時代を切り開いて行きます。

 昔は、女性がマラソンを走るのは無理だと言われていました。しかし、マラソンに挑戦する女性たちがいて、彼女たちが新しい時代を切り開いて行きました。或いは昔は、日本のプロ野球選手がアメリカのメジャーリーグで活躍するのは無理だと言われていました。しかし、野茂英雄さんやイチローさんなどが果敢に挑戦して活躍し、無理ではないことを証明しました。また、プロの野球選手は投手か打者かのどちらか一方に専念するのが常識でしたが、二刀流の大谷翔平選手が投手と打者の両方で素晴らしい成績を残しました。こうして大谷選手は、それまで正しいとされていた常識を打ち破りました。

 ヨセフもまた、時代を先取りした人だったと言えるのでしょう。この約30年後にイエス様が地上での宣教を開始した時、安息日に病人を癒しました。律法では安息日は静かに過ごすべき日ですから、パリサイ人や律法学者たちは病人を癒したイエス様を批判しました。でもイエス様にとっては安息日であっても病人を癒すことが正しいことでした。そうしてイエス様が天に帰った後の使徒たちの時代には、使徒たちは律法よりも聖霊に従って生きるように人々に説きました。時代は律法の時代から聖霊の時代に移りました。その約30年前にマリアが聖霊によって身ごもった時、ヨセフが彼女を律法によって裁かないようにしたことは、まさにヨセフが聖霊の時代を先取りした「正しい人」であったということでしょう。律法ではなく、聖霊の御業に従ったヨセフをマタイは「正しい人」と書きました。

②夢という方法でヨセフを励ました神様
 神様がヨセフを用いることにしたのは、ヨセフがこのように常識にとらわれない人だったからという気がします。常識にとらわれないヨセフだったから、マリアが聖霊によって身ごもったことを受け入れることができたのでしょう。普通の人だったら、聖霊によって身ごもるということなど、とうてい信じられないことです。でもヨセフは、受け入れました。ヨセフは常識に従うよりも神様に従うことにしました。そのことのために、ヨセフは常識を手放しました。

 私たちもまた、マリアが聖霊によって身ごもったことを信じます。私たちは毎週、使徒信条を告白します。その中に、「主は聖霊によりてやどり」とあります。使徒信条を告白するということは、このことを信じているということです。私たちは「聖書は誤りなき神のことばである」という聖書信仰を持っていますから、マリアが聖霊によって身ごもったことも当然、信じます。ということは、私たちもまた常識を手放しています。神様に従う私たちは常識を手放して聖書に書いてあることをすべて信じます。

 クリスチャンにもいろいろいて、信じられることと信じられないこととを分けて考える立場のクリスチャンもいます。でも私たちは、「聖書は誤りなき神のことばである」という聖書信仰を持ちますから、聖書に書いてあることを全部信じます。そうでなければ神様中心の信仰にはなりません。自分はこの部分は信じるけれども、この部分は信じないと言って分けて考えるのであれば、それは自分中心です。神様中心であればこその信仰ですから、私たちは聖書に書かれていることをすべて信じます。このように神様中心の信仰を持つことで大きな恵みが与えられます。全部信じるのと一部しか信じないのとでは、与えられる恵みの大きさが圧倒的に違います。一部しか信じないのはまだまだ自分中心であり、全部信じることで神様中心になるからです。

 ただし全部信じると言っても、一字一句すべて字義通りに信じる必要はありません。たとえば伝道者の書には、「日は昇り、日は沈む」と書いてありますね。でも太陽が昇り、太陽が沈むのではなくて実際は地球のほうが回っているのだということを私たちは知っています。ですから、「日は昇り、日は沈む」ように見えるけれど、実際は地球が回っているのだと考えてもぜんぜん構いません。科学の進歩で明らかになったことはそれを取り入れて解釈すれば良く、昔の科学のレベルで聖書を解釈する必要はありません。聖書信仰とは、そういうものでしょう。

 さて、マリアが聖霊によって身ごもったことを神様は御使いを通してヨセフの夢の中で伝えました。20節と21節、

20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 神様はヨセフに大切なことを伝える時には、夢を使いました。2章にも、ヨセフの夢に御使いが現れた場面があります。マタイ2章の13節から15節までをお読みします。

マタイ2:13 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
14 そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、
15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。

 さらに、ヘロデが死んだ時も御使いがヨセフの夢に現れました(マタイ2:19)。

 一方、マリアの場合には御使いのガブリエルが直接、マリアの前に現れました。この違いは面白いなあと思います。どうしてなんでしょうか?想像するしかありませんが、こんなことを考えてみました。マリアの場合は神の御子を身ごもるという本当に重大な任務を負うわけですから、その覚悟があるか、御使いが直接会って確かめる必要があったというだったのかもしれません。そうして、マリアが「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言ったので、その返事を聞いて神の御子を身ごもったということなのかもしれません。

 それに対してヨセフの場合には、有無を言わさずに従わせるということなのでしょうか。と言うよりも、ヨセフが従わないはずがないという厚い信頼があったのかもしれませんね。それだけ神様はヨセフの信仰を高く評価していたのでしょうね。すごいことだなあと思います。ヨセフはモーセやエリヤのように主に用いられた偉大な器だったと言えるのでしょう。

 こうして、神の御子イエス・キリストはヨセフとマリアの子として生まれて育てられることになりました。22節と23節をお読みします。

22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 それまで天の神様は離れた所にいる遠い存在でした。でも神の御子のイエス様が地上に遣わされて私たちの間に住まわれましたから、とても近い存在になりました。まさに「神が私たちとともにおられる」ということを実感できるようになりました。24節と25節、

24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

 この記述からも、ヨセフが神を恐れる「正しい人」であったことが分かります。「正しい人」とは神を恐れる人であり、律法を恐れる人ではありません。

③常識の中にいる平安を手放したヨセフ
 ヨセフは神を恐れ、神が命じたとおりに従いました。しかし、神が命じたとおりに従うということは同時に、常識の中にいる平安を手放すということです。ヨセフ自身はマリアが身ごもったのは聖霊によることだと信じましたが、世の人々でそれを信じる人はほとんどいないでしょう。ヨセフはマリアをどのようにして守ったのでしょうか。福音書には書かれていませんが、マリアが身ごもってからイエス様を産むまでの間には、様々に大変なことがあったことと思います。神の命令に従うとは、そういう困難も引き受けるということです。

 イエス様が生まれてからは、なお一層の困難がありました。先ほど読んだように、マタイ2章にはヘロデ王から逃れてエジプトに行ったことが書かれています。また、ルカの福音書にはシメオンのことばとして、次のことが書かれています(週報p.2)。

ルカ2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 このシメオンのことばはマリアだけでなく、ヨセフをもとても不安な気持ちにさせただろうと思います。常識の範囲の中にいてマリアを離縁していれば、ヨセフはこのような不安や困難を引き受けることはありませんでした。しかし、常識を手放してマリアを受け入れたヨセフは平安な生活をも手放しました。神様に仕えるとは、こういうことなのですね。

おわりに
 最後に、私たち自身のことを考えてみたいと思います。聖書に書かれている奇跡を信じ、またお祈りの力を信じている私たちは、世間の常識から見れば変な人だと思われているかもしれません。私自身を振り返っても、まだ信仰を持つ前は今の自分のような人を変な人だと思っていました。

 話したことがあるかもしれませんが、高津教会に通い始めたばかりの頃、礼拝の中で一人の兄弟がお礼の挨拶をしていました。その兄弟は大きな病気をして、命も危ない状態だったそうですが、皆さんのお祈りのおかげで回復して無事に退院できましたと挨拶していました。その時、まだお祈りの力を信じていなかった私は心の中であざ笑いました。お祈りで病気が治るわけがないでしょう、と当時の私は思ったんですね。でも、そんな私が変えられてお祈りの力を信じる者となり、聖書の奇跡の記述も全部信じる者になりました。

 それは天の神様が御子イエス様を地上に遣わして下さり、そのイエス様に私自身も聖霊を通して出会うことができたからです。イエス様に出会うなら、その人は変えられます。日本ではまだイエス様に出会っていない人が大半ですから、世の常識とは、まだイエス様に出会っていない人の常識です。そんな中で私たちは苦労しています。世の常識に合わせていれば、もっと平安に暮らせるかもしれません。

 でも、野茂英雄さんやイチローさん、大谷翔平選手がそれまでの日本人の野球選手の常識を変えたように、キリスト教が日本では容易には受け入れられないという常識もいつか必ず変わるはずです。メジャーリーグで活躍した選手は、そのことによってしか見られない景色を見ることができたことでしょう。並の選手では見られない素晴らしい景色を見たことでしょう。

 私たちもイエス様と出会ったことでそれまで見たことがない素晴らしい景色を見ることができるようになりました。野球選手と違う点は素質がなくても誰でもイエス様を信じさえすれば、その景色を見ることができることです。スポーツの選手で一流になるには、やはり素質が大きく関係しているでしょう。努力だけで何とかなる世界ではないと思います。でもイエス様を信じることは誰にでもできることです。そうなるように天の神様は御子を地上に遣わして下さいました。

 旧約の時代の預言者たちは、やはり霊的に優れた素質を持っていたのだと思います。でも新約の時代には霊的な素質などは関係なく、誰でもイエス様を信じるなら素晴らしい景色を見ることができます。繰り返しますが、そうなるように御子のイエス様が遣わされました。

 イエス様と出会うことがどんなに素晴らしいことであるか、一人でも多くの方に伝わるクリスマスであればと願います。

 正しい人ヨセフは、当時のユダヤ人の常識にとらわれず、常識を手放すことができました。このヨセフがマリアを離縁せずに妻として受け入れたことで、イエス様が生まれて、私たちはイエス様と出会う素晴らしい恵みに与ることができるようになりました。ヨセフとマリアが私たちに素晴らしい恵みを届ける働きをしました。私たちもまたこの素晴らしい恵みをお届けする働きができたらと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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「互いに愛し合いなさい」を伝えに来た救い主(2021.11.28 アドベント第1礼拝)

2021-11-29 06:05:05 | 礼拝メッセージ
2021年11月28日アドベント第一礼拝メッセージ
『「互いに愛し合いなさい」を伝えに来た救い主』
【ヨハネの福音書1章1~18節】

はじめに
 きょうからアドベントに入ります。いま私たちは、約2年前から始まった新型コロナウイルスによる疫病の災いの中に依然として置かれています。この中にあって、クリスマスの恵みについて、改めて思いを巡らしてみたいと思います。

 きょう開いているヨハネの福音書1章には、

ヨハネ1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

ヨハネ1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

とあります。暗い闇の中にあるこの世を光で照らすために来て下さったイエス様に感謝しつつ、クリスマスの恵みに思いを巡らしたいと思います。

 きょうの中心聖句はヨハネ1章14節です。

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 そして、次の3つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①「互いに愛し合いなさい」を伝えに来たイエス様
 ②愛とは手放すことであり、命を手放した十字架
 ③二千年後も愛し合うことが下手な私たちを照らす光

①「互いに愛し合いなさい」を伝えに来たイエス様
 今年の8月から9月に掛けて静岡県にコロナの緊急事態宣言が出されたため、8月15日の礼拝から9月26日までの7回の礼拝は無会衆礼拝として、皆さんにはご自宅でYoutubeを見ながら礼拝を守っていただく形式をとりました。この間の説教は一貫して、ヨハネの福音書の「最後の晩餐」でのイエス様のことばに耳を傾けるものとしました。無会衆にする前から「最後の晩餐」の箇所を開いていたから、それをそのまま継続したという面もあります。しかし、当初は3回の予定であった無会衆の期間が5回、7回と長引くに連れて、「最後の晩餐」が聖書箇所で本当に良かったとしみじみと思うようになりました。

 私たちは無会衆礼拝になる前からイエス様に招かれてイエス様と同じ食卓に座ることを許されました。それゆえ無会衆の期間に入ってからも私たちはそれぞれの自宅にいながらも引き続きイエス様と同じ食卓に着いて、一つとなることができました。このことを本当に感謝に思っています。

 この「最後の晩餐」の席でイエス様は弟子たちに、そして私たちに向けて、「互いに愛し合いなさい」と何度も何度も繰り返し説きました。そうして今年のアドベント第一礼拝を迎えた今日、イエス様が天から私たちの住む地上に遣わされたのは、この「互いに愛し合いなさい」を私たちに伝えることもまた大きな目的の一つではなかったか、ということに思いを巡らしてみたいと示されています。地上に遣わされたイエス様は弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と教えた後で十字架に付けられて死にました。そのイエス様の十字架の死にもまた、互いに愛し合うことが下手な私たちへのメッセージがたくさん含まれていると感じます。

 まずは今日の聖書箇所の最初の方を見ておきましょう。ヨハネ1章の1節をお読みします。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 ここにある「ことば」とは、もちろんイエス・キリストのことです。イエス様はことばです。そしてことばは神とともにあり、ことばは神ご自身でした。イエス様のことば自身が聖書の神のことばである、と言っても良いでしょう。それゆえでしょう。イエス様のことばの一言一言には、とても重い響きがあります。イエス様のことばには弟子のペテロたちのそれとは比べものにならないくらい重い響きがあります。

 時々私は、「福音書にある弟子たちのことばは無視しても良いくらいだ」という極端なことを言いますね。それは、このヨハネ1章1節の「ことばは神であった」に根拠を置いています。弟子たちのことばは的外れで頓珍漢な場合が多いですから、それに振り回されないようにする必要があります。しかし、ことばであるイエス様は神様ですから、イエス様のことばの一言一言はとても重いものです。このことを、まず覚えたいと思います。続いて2節と3節、

2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

 地上に遣わされる前のイエス様は天の父とともにおられて、万物を創造しました。私たちが住む宇宙も、地球も、地球上に住む生き物も、そして私たちの命も、すべて父と御子イエス様によって造られました。私たち人間は、決して生命を創り出すことはできません。既にある細胞にいろいろ手を加えて病気の治療をする技術は随分と発達しましたが、人間は細胞そのものを創り出すことは決してできません。でも天の父とイエス様はそれを創りました。神様だから、それができるんですね。その神様が何と、人間になって下さいました。14節です。

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 イエス様が地上に来て下さる前の旧約の時代には、天の神様はとても遠い存在でした。それゆえ、モーセやエレミヤたち預言者たちが神様のことばを人々に伝えても、遠すぎるお方のことばですから、なかなか身近に感じることができませんでした。そのために人々は簡単に神様から離れてしまいました。天の神様は父であるという意識もありませんでしたから、本当にとても遠い存在でした。

 天の神様のことをお父様と呼んで私たちが心を寄せることができるのは、御子であるイエス様がこの地上に来て、神様のことを父と呼んだからです。このことで天の神様は私たちの父となり、それまでよりもずっと身近な存在になりました。ヨハネはこのことを18節でこのように記しています。18節、

18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 天の神様はいまだかつて見た者がおらず、とても遠い存在でした。イエス様はその天の神様のすぐ近くにおられるお方です。ヨハネはその近さを「ふところにおられる」と書きました。御父と御子はこれほど近い関係にあります。その御子が私たちに天の父のことを教えて下さいましたから、私たちもまた御父と御子との交わりの中に入れられて、その交わりの恵みに与ることができています。本当に素晴らしい恵みです。

 イエス様は父との関係の近さを、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とも言い表しました。あるいはまた、イエス様はご自身が「わたしはある」である、ともおっしゃっています(ヨハネ8:24, 28, 58、13:19)。

 そのように天の父と一つである神様のイエス様が「互いに愛し合いなさい」とおっしゃっているのですから、私たちはこのイエス様の戒めのことばを重く受け留める必要があります。

②愛とは手放すことであり、命を手放した十字架
 イエス様は神であることを手放して人となって、地上に来て下さいました。また、ご自身の命を手放して十字架に付いて下さいました。きょうの聖書交読で開いたピリピ人への手紙2章でも、パウロはこのように書いています。ピリピ2章6節から8節をお読みします。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 天の父が御子を手放して地上の十字架に送ったこと、またイエス様が神であることと命とを手放したことを思う時、愛とは手放すことであることを強く思わされます。御父は私たちを愛しているからこそ御子を手放して地上に遣わして十字架に付け、御子イエス様も私たちを愛しているからこそ、神であることとご自身の命とを手放しました。

 私たちも家族を愛していますから、子育てのためには自分の時間とお金を手放して子供のために使い、親の介護のためには自分の時間とお金を手放して親のために使います。ルカの福音書の良きサマリア人も、強盗に襲われた瀕死の人のために時間とお金を使いました。

 一方、金持ちの青年は自分の財産を手放すことができませんでした(マタイ19:16-22)。青年は悲しみながら立ち去ったとありますから、青年も手放せるものなら手放したいと思っていたのではないかと思います。でも財産に限らず、いったん身に着けたものを手放すことは、とても難しいことです。ですから、青年が悲しみながら立ち去ったのは、むしろ当然なんだろうと思います。それでも、手放すことが推奨されるのは、イエス様自らが神であることを手放し、命を手放したお方だからです。このイエス様の愛に感謝して私たちもまた、少しずつでも良いですから、手放すことができる者でありたいと思います。

 「狭い門から入りなさい」(マタイ7:13)とイエス様がおっしゃっているのも、いろいろと身に着けているものを手放しなさいということではないでしょうか。いろいろなものを身に着けて着ぶくれたままでは、神の国の狭い門を通ることはできません。らくだが針の穴を通るというたとえも、らくだが主人に従うように私たちもイエス様に従うなら、針の穴のような狭い門でも通ることができるようになるということなのかもしれません。

 金持ちの青年が悲しみながら立ち去った後でイエス様は弟子たちに言いました(週報p.2)。

マタイ19:23 「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。
24 もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
25 弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

 そうしてイエス様はエルサレムに入って十字架に付けられて死にました。私たちは、この十字架で死んだイエス様が神の子キリストであると信じるなら救われて永遠のいのちが与えられます。今まで神様のほうを向いていなかったことを悔い改めて方向転換をして神様の方を向いて、十字架で死んだイエス様が神の御子であり、救い主のキリストであると信じるだけで、神に背いていた罪が赦されて神の国に入ることができます。財産を手放すのは、その後のことで良いのですね。すべてを手放したイエス様にならって少しずつ手放すことができれば良いのです。

 まず財産を手放さなければ救われないのであれば、弟子たちが言ったように、「それでは、だれが救われることができるでしょう?」ということになってしまいます。でも、イエス様のほうで先ずすべてを手放して十字架に付いて下さいました。このイエス様を信じるなら、それだけで救われます。救われることで平安が得られますから、財産に固執することが段々となくなります。そうして、少しずつ手放すことができるようになります。イエス様が救われるための順番を変えて下さいましたから、罪深い私たちでも救いの恵みに与ることができるようになりました。

 でも、やっぱり多くを手放すことは、とても難しいことだと感じます。そんな時は十字架に架かって下さったイエス様の愛を思い、イエス様にならうことにしたいと思います。

③二千年後も愛し合うことが下手な私たちを照らす光
 2番目のパートで話したように、愛とは手放すことであるとイエス様は教えて下さっています。そのイエス様が「互いに愛し合いなさい」とおっしゃっているのに、二千年が経った今でも、私たちは互いに愛し合うことが下手であると感じます。それはつまり、私たちが手放すことが下手だから、と言い換えることができると思います。世の中全体が手放すことが下手であることを感じます。

 私たちの多くは経済的にあまり豊かではありません。でも一部の企業や人々は多くの富を蓄えています。私が子供の頃は、日本人は一億総中流だ、などと言われていたこともありました。しかし、今は貧しい人と富んでいる人との両極端に格差が拡大しています。皆が互いに愛し合って多くを手放すなら、貧富の差はもっと縮まるのではないでしょうか。

 戦争がなくならないのも、人々の心に平安がないという理由も大きいでしょうが、それ以上に、軍事産業が巨大な利益を上げる仕組みになっていて、そこから離れることができないからなのかもしれません。温暖化対策がなかなか進まないのも、原発が危険であることを多くの人が知りながらも減らないのも、利権によって利益を得ている人たちがそれを手放さないという理由も大きいのだろうと思います。日本では国産のワクチン開発が大幅に遅れています。またPCR検査の数もなかなか増えません。それもこれも日本人は従来の仕組みを手放して大胆に制度を改めることがとても苦手であることが根底にあるという気がします。従来の仕組みを手放せないのは、それによって利益を得ている人たちがいるからで、困っている人たちが多いのにも関わらず、互いに愛し合うことができていないからではないでしょうか。

 そういう闇の中で私たちの多くは苦しんでいます。互いに愛し合うことが下手な私たちですが、そんな私たちを神様は見離さずに光で照らして下さり、励まして下さいます。

ヨハネ1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

ヨハネ1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

 そうして、光であるイエス様を信じるなら私たちには永遠のいのちが与えられて心の平安を得ることができます。これは素晴らしい恵みです。

 でも、イエス様を信じる人がもっと増えて、イエス様の「互いに愛しなさい」ということばに耳を傾ける人がもっと増えなければ、人々の多くが苦しむ世の中は少しも変わって行かない現実も同時に覚えます。

 先週の宣教ビデオの田辺先生の説教ではマタイの福音書のイエス・キリストの大宣教命令のことばに耳を傾けました。イエス様はおっしゃいました。

マタイ20:19「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 そうして、田辺先生はこのことのために自分に何ができるか、それぞれ考えるようにおっしゃいました。私も考えてみました。そうして示されていることが今日話したことです。イエス様が「互いに愛し合いなさい」と「最後の晩餐」で何度も何度もおっしゃったことを、もっと宣べ伝えて行かなければならないと思わされています。

 イエス様を信じて救われてメデタシ・メデタシではなく、救われたなら十字架のイエス様にならって少しずつでも自分が身に着けているものを手放して、互いに愛し合えるようになるべきことを、もっと宣べ伝えるべきと示されています。そうでないと、この世は少しも良くなりません。2千年経ってもなお苦しむ人々がなかなか減りません。苦しむ人々にイエス様の光をお伝えすることは素晴らしいことですが、互いに愛し合えないなら、苦しむ人々はいつの世にも、たくさんいるままです。

おわりに
 牧師になってから感謝に思っていることの一つに、NHKの朝ドラをほとんど欠かさず見られるようになったことがあります。牧師になる前の通勤していた頃は、朝は電車の中でしたから朝ドラはBSでの夜や土曜日の再放送で見ていました。必ず見られるというわけではありませんでしたから、見逃していた回も随分とありました。

 でも今は朝の時間帯に見られますし、録画も昔のVHSテープと違ってハードディスクで気軽に録画して再生できますから、ほとんど見逃すことはありません。そうして朝ドラの多くが戦時中の過酷な時代の中を通りますから、そのことで戦争の悲惨さを何度も繰り返し見ることになります。いま放送中の『カムカムエヴリバディ』も、まさに先週の一週間はヒロインの安子が戦争によって祖母と母を失い、次いで父を失い、さらに夫をも失うという本当に悲しい一週間でした。

 私は1959年の生まれですから、戦争が終わってから14年後に生まれました。14年前はほんの少し前です。私が生まれるほんの少し前まで日本はこんな悲惨な戦争の中にあったのだなと、朝ドラを見る度に感じます。そして世界では、21世紀の今でも戦火が絶えません。イエス様が「互いに愛し合いなさい」とおっしゃってから二千年も経っているのに、世界はなかなか互いに愛し合えるようになりません。ですからイエス様が「互いに愛し合いなさい」と何度も何度もおっしゃったことが、世界でもっともっと宣べ伝えられなければならないと強く思います。

 イエス様がこの世に生まれて下さり、闇を光で照らして下さったことで私たちは救いの恵みに与りました。遠い存在であった天の神様を父と呼べる身近な方にして下さり、父のことを教えて下さったことで私たちは深い平安をいただくことができるようになりました。

 この地上に遣わされて私たちの間に住まわれたイエス様が、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃっていますから、このことばを重く受け留めたいと思います。クリスマスの恵みに与るこれからの時期、イエス様が何のためにこの世に来て下さったのかに思いを巡らし、イエス様のために自分に何ができるかを考えることができたらと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
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神様に引き寄せられやすい心(2021.11.14 礼拝)

2021-11-15 08:27:02 | 礼拝メッセージ
2021年11月14日礼拝メッセージ
『神様に引き寄せられやすい心』
【ルツ記2:1~7】

はじめに
 先週は『生まれ故郷に引き寄せられる魂』というタイトルで、私自身の証しも含めて神様が私たちの一人一人をみもとに引き寄せて下さっているという話をしました。「引き寄せる」ということばを使ったのは、イエス様ご自身がこのことばを使っているからです。

 先週の中心聖句のヨハネ6:44でイエス様は「引き寄せる」ということばを使っておっしゃいました。

ヨハネ6:44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。

 或いはまたヨハネ12章でイエス様は、このようにもおっしゃいました。

ヨハネ12:32 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。

 きょうもまた、神様が私たちを引き寄せて下さっていることに心を向けたいと思っています。神様の引き寄せに応答しやすい心、引き寄せられやすい心、とはどのような心なのかをルツ記を読みながら、ご一緒に思いを巡らしてみたいと思います。いま司会者に読んでいただいたルツ記のルツは、神様に吸い寄せられるようにして、救いに向かって引き寄せられて行きました。

 きょうの中心聖句はルツ2章3節です。

ルツ2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①神の救いへと引き寄せられて行ったルツ
 ②元旦礼拝の長血の女に似たルツの行動力
 ③委ねつつも、ここぞという時は行動する

①救いへと引き寄せられて行ったルツ
 まずは、聖書のルツ記に目を留めたいと思います。ルツ記の1章に何が書かれているか、ご存知の方も多いと思いますが、2章に入る前に簡単に話しておきます。

 ルツ記の主人公のルツはイスラエルの民ではなく、モアブで生まれ育った異邦人の女性でした。このモアブにユダのベツレヘムからエリメレクとナオミの夫妻、そして二人の息子たちが移住して来ました。カナンの地にききんが起きたので、そこから逃れて来たのでした。そして二人の息子はモアブの女性と結婚しました。その女性の一人がルツです。しかし、エリメレクと二人の息子が死んでしまったために、ナオミと二人のモアブ人の嫁だけが残されました。その後、ナオミはベツレヘムへ帰ることにしました。その時に、もう一人の嫁はモアブに残りましたが、ルツはナオミから離れずに、ベツレヘムまで一緒にやって来たのでした。

 1章の最後の22節をお読みします。

ルツ1:22 こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。

 ナオミとルツの二人がベツレヘムに着いたのが、大麦の刈り入れが始まる季節であったことが、既に神様の大いなる引き寄せの流れの中に入っていることを感じさせますね。刈り入れの季節だったから、ルツは畑に落ち穂を拾いに行くことができました。他の季節だったら、ルツがボアズの畑に落ち穂を拾いに行くことはありませんでした。

 また、ルツは外国人でしたから、落ち穂拾いをすることが許されていました。レビ記23章22節には、このようにあります(週報p.2)。

レビ 23:22 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。(新改訳第3版)

 この律法の規定のことを頭に入れておいて、ルツ記2章1節から見て行きます。1節と2節、

ルツ2:1 さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。
2 モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。

 ルツがイスラエルの律法の規定をいつ学んだのかは分かりませんが、ルツが何とかして義母のナオミの役に立とうとしている様子が分かります。続いて3節と4節、

3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。
4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「があなたを祝福されますように」と答えた。

 3節に「はからずも」とあり、4節には「ちょうどそのとき」ともあります。いかにも偶然というように聖書は書いています。ルツが出掛けて行ったのは、偶然にもボアズの畑であった、さらに偶然にもちょうどその時、ボアズが現れてルツとボアズとが出会った、というように聖書は書いています。でも、その背後には神様の引き寄せがあったのだと思います。ルツがボアズと出会うことができるように絶妙のタイミングで神様の引き寄せがあったからこそ、ルツはボアズと出会うことができたのでしょう。

②元旦礼拝の長血の女に似たルツの行動力
 来週は宣教聖日で、DVD説教を聴くことにしています。そうして再来週からはアドベントに入ります。つまり、このルツ記はアドベント前に開く今年最後の聖書箇所ということになります。

 今回、このルツ記からの説教を準備している中で、ふとルツが長血の女に似ているように感じました。すると、はからずも、ちょうど今年の始まりと締めくくりの時期に、互いに似た二人の女性に注目することになりました。これも神様の導きなのかもしれません。ルツと長血の女を比較することで、今まで見えなかったことが見えて来たように思います。この二番目のパートでは、そのことを分かち合いたいと思います。

 今年の標語聖句の、「信仰があなたを救ったのです。苦しむことなく、健やかでいなさい」は、マルコの福音書の長血の女の箇所からの引用です。長血の女は、血が漏出する病を患っていて汚れているとみなされていましたから、群衆の中に入って行くことなど、決して許されないことでした。しかし、長血の女はイエス様を目指して群衆の中に入って前進して行き、必死に手を伸ばしてイエス様の衣に触れました。

 この長血の女の大胆な行動は、彼女の自発的な行動のように見えますが、ルツと並べて考えるのなら、やはり長血の女の場合もまた、神様の引き寄せがあったのだろうなということに気付かされます。私たちは皆、罪人ですから、決して自力では神様の方に向かって行くことはできません。先行的な恵みによって神様からの引き寄せが先ずあって、そうして人間はそれに応答して神様の方に向かって行きます。

 祈りも同じだと言われていますね。私たちがまず自発的に祈るのではなく、神様に祈るように促されて、それに私たちは応答して祈ります。何事も、すべては神様からの私たちへの働きから始まります。長血の女の場合も、神様から彼女への促しがまず先にあって、そこから彼女の大胆な行動へとつながって行ったのでしょう。

 そうして長血の女とルツとを並べてみると、今度はルツが畑に出掛けて行ったことも、けっこう大胆だったのかな、という気がします。ナオミとルツはまだベツレヘムに着いたばかりでした。モアブの女のルツにとってユダのベツレヘムは初めて訪れる異国の地であったことでしょう。その、ルツにとっては異国の地に着いてすぐに畑に行って落ち穂拾いを始めるのは、かなり積極的で大胆な行動のように思います。在留異国人の身では着いたばかりの時はもう少し小さくなっているのが普通ではないかという気がしますが、ルツは積極的に畑に出掛けて行きました。

 そうしてルツはボアズと出会いました。ルツ記のボアズの場面を読むと、ボアズがクリスチャンのように見えて来ませんか?私には、ボアズの中にはイエス様が住んでいるような気がします。もう一度、2章の4節をお読みします。

ルツ2:4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「があなたを祝福されますように」と答えた。

 ここからは、ボアズが畑の働き人たちから慕われて、良い関係を築いていたことが分かります。続いて、5節から7節、

5 ボアズは、刈る人たちの世話をしている若い者に言った。「あれはだれの娘か。」
6 刈る人たちの世話をしている若い者は答えた。「あれは、ナオミと一緒にモアブの野から戻って来たモアブの娘です。
7 彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」

 イエス様は真面目に働く小さい者たちに寄り添って励まし、生きる力を与えて下さるお方です。そういうイエス様のようなところがボアズにもあると感じます。ボアズの中にはイエス様が住んでいるように感じます。聖書朗読の箇所は7節まででしたが、続いて8節と9節もお読みします。

8 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。
9 刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」

 ボアズはこのように、まるでイエス様のようにルツに優しく語り掛けました。もう少し、読みましょう。10節から12節、

10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」
11 ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。
12 があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、から、豊かな報いがあるように。」

 このようにイエス様はルツの時代にもいて、私たちが住むこの21世紀にもいて、小さな私たちを励まして下さいますから、とても感謝に思います。

③委ねつつも、ここぞという時は行動する
 きょうの説教のタイトルは『神様に引き寄せられやすい心』ですから、最後にこのことに思いを巡らしてみたいと思います。

 自分で何でもやろうとすると、自分第一になってしまって、神様のほうを向くことができなくなってしまいます。私たちは自分第一ではなくて、神様第一にして、神様の御声に耳を傾けなければなりません。そのためには、あまり動き過ぎることなく、静かにその時を待つ姿勢も大切でしょう。でも、あまり待ってばかりいると、動くべきタイミングを逃してしまうことにもなります。ですから、「委ねつつも、ここぞという時は行動する」ことは、とても難しいこと、至難の業であると言えるかもしれません。でも、ルツと長血の女はそれができたのですね。

 ルツ記を読むと、ルツという女性は全体としては、とても謙虚な女性であるという印象を受けます。でも、ここぞという時には大胆に行動しました。1章でルツはナオミにどうしても付いて行きたいと言い張ります。ルツは普段は、ナオミに対して自分の考えを押し通すような女性ではなかった筈です。そんなに自己主張ばかりしていたら、嫁としゅうとめの関係は上手く行かないでしょう。ナオミとルツの関係はとても良かったですから、ルツは普段は自分の考えを押し通すようなことは滅多にしなかったはずです。それが、ナオミがベツレヘムに帰ることを決めた時には違いました。

 また、ベツレヘムに着いた時も、ルツは自ら落ち穂拾いに行くと言って行動を起こしました。ルツは普段は謙虚に慎ましくしていたからこそ、ここぞという時には行動を促す神様の御声を聞いて大胆に行動することができたのだろうと思います。

 長血の女の場合はどうだったでしょうか?長血の女の場合は、多くの医者に診てもらったことが書かれていますから、いろいろと行動する女性だったのかもしれません。でも、彼女は医者にひどい目に遭い、持っている物をすべて使い果たして絶望的な中にありました。つまり、長血の女はすべてを手放した状態にありました。もはや神様だけが頼りでした。そんな中で、神様の引き寄せを無意識の中で感じたのかもしれません。神様の引き寄せの声は、自分で頑張っている間は聞くことができませんが、多くを手放して無力になり、頼るのは神様しかいない状態になった時に聞こえてくるものです。

 自分が無力な状態で引き寄せの声を聞いた時こそが、ここぞという時です。つまり、きょうの説教のタイトルの『神様に引き寄せられやすい心』とは、自分中心ではなく神様中心で自分からはあまり動かず、でもここぞという時にはしっかりと動く、そういう人が持つ心のことではないないでしょうか。ここぞという時には、私たちもまたルツや長血の女のように行動したいと思います。

おわりに
 1週間後には英和ハンドベルの演奏会が近所の西部生涯学習センターで行われます。福音伝道はしませんから、来週の演奏会は「ここぞという時」とは言えないかもしれません。でも私は「ここぞという時」に限りなく近いという気がしています。

 と言うのは、主催が教会ではなくて町内の自治会ということで、周囲の方々が動いて下さっているからで、これはすごいことだなと感じています。教会が主催でしたら、すべて私たち教会の者たちが自力で動かなければなりませんが、地元の自治会が主催と共催ですから、この教会の者以外の方々が動いて下さっています。

(中略)

 そんな風に、この教会以外の方々がこの演奏会のために動いていて下さっていて、不思議な力が働いていることを感じます。ですから、私たち自身も、この演奏会は「ここぞという時」なのだという気持ちで取り組むべきであろうと、思わされています。

 今年のハンドベル演奏会は、ちょうどコロナの時期だったからこそ、はからずも自治会主催という形で行われることになりました。ここに神様の力が働いているように思います。

 ルツ記2章3節と4節には、ルツが落ち穂を拾いに行った畑ははからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来たとあります。神様はこのように、「はからずも」、「ちょうど」、と偶然を装って、実は背後で働いていて下さるお方です。そのことを覚えつつ、演奏会に臨みたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。
2:4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「があなたがたとともにおられますように。」
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生まれ故郷に引き寄せられる魂(2021.11.7 礼拝)

2021-11-08 06:34:26 | 礼拝メッセージ
2021年11月7日礼拝メッセージ
『生まれ故郷に引き寄せられる魂』
【ヨハネの福音書6章44節】

はじめに
 先週の10/31は静岡聖会のDVD説教で浜田耕三先生がヨハネ15章から「聖潔と宣教」のメッセージを語って下さり、感謝でした。

 その前の10/24は、ヨハネ13章から『今は分からなくても、後で分かるようになる』というタイトルで、私たちは皆、神様に導かれてこの教会に来た者たちであることを話しました。導かれている途中の段階ではそのことに気付いていませんが、後になって、それが神様による導きであったことが分かります。

 きょうはこの、神様が私たち皆を教会に導いていることについて私自身の経験の証しも交えながら、さらに深めて行きたく願っています。神様は私たちの一人一人をみもとに引き寄せようと様々なことを試みて下さっています。その引き寄せを私たちは多くの場合にスルーしてしまいますが、それでも神様はあきらめずに次の手を使って引き寄せようとします。そうして私たちは教会に導かれました。このように神様は、いつもすべての人を導いています。きょうはこのことを分かち合って、多くの方々が教会に導かれるように、お祈りしたいと思います。

 きょうの中心聖句はヨハネ6:44です。

ヨハネ6:44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①自力では誰も主のみもとに来られない
 ②潤いを求めてあえぐ魂が神に応答する
 ③生まれ故郷に辿り着いて平安を得る魂

①自力では誰も主のみもとに来られない
 私たちは自力では決して主のみもとに行くことはできません。天の父が引き寄せて下さらない限り、誰もイエス様のみもとに来ることはできません。イエス様がヨハネ6章44節でおっしゃっている通りです。イエス様はおっしゃいました。

ヨハネ6:44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。

 旧約聖書を読むば分かるように、私たちの内には神様に背きやすい性質があります。エジプトを脱出したイスラエルの民は少しでもつらいことがあるとすぐに不平不満を言って神様に従おうとしませんでしたね。私たち自身の中にも、そのような傾向があることを私たちはよく知っています。そして、周囲にいる方々もまた同様であることを、よく知っています。

 そんな私たちがどうして教会に辿り着くことができたのでしょうか?神様から背きやすい性質があるのに、どうして神様のほうを向くことができたのでしょうか?それは神様が私たちを引き寄せて下さったからです。神様は私たちの一人一人を愛しておられますから、みもとへ引き寄せて下さいます。

 でも、その神様の引き寄せに応答しなければ、教会に辿り着くことはできません。私たちは多くの方々に、神様に応答していただきたいと願っています。先に教会に辿り着いた私たちは、どうしたら応答の手助けができるでしょうか?そのためのヒントの一つに、きょうの聖書交読で開いた詩篇42篇に書かれている、「魂の渇き」があるのではないでしょうか。

②潤いを求めてあえぐ魂が神に応答する
 詩篇42篇の1節と2節をお読みします。

詩篇42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2 私のたましいは神を、生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

 この詩篇42篇の詩人は、自分の魂が渇いていて、神の霊の潤いを求めてあえいでいることを知っていました。自分には神様の霊による癒しが必要であることがよく分かっていました。でも分かっていなくても、魂が渇けば心に変調を来たして思いわずらったり不安になったりしますから、何かがおかしいことは分かります。私の場合がまさにそうでした。魂が渇いていることが分からなくても、自分の中にはいつも漠然とした不安があることを感じていました。

 人はその不安が癒されることを求めて、癒される方法を探し求めます。その癒しを求める心が、神様の引き寄せへの応答となって表れるのだと思います。ただし、自分が何を求めているのかが分かっていませんから、教会に辿り着くまでには回り道が多くて、時間が掛かります。教会のすぐ近くまで来ていても、或いは教会の中に入ったとしても、自分が求めていた場所はここだったんだとは、すぐには気付かない場合も多いでしょう。でも、いつか気が付く時が来ます。来ると信じます。

 ここで、私が26年前の1995年に高津教会の近くのアパートに住むようになった経緯の証しを少し長くなりますが、させてください。このアパートに住まなければ、高津教会に導かれることはなかったでしょう。これは、とても不思議なことでした。

 1995年の春、35歳の時に私は東京にある大学の留学生センターに職を得て、東京で働くことになりました。この留学生センターへの採用が決定するまでにも、いろいろなことがあって、そこにも神様の導きがあったと思いますが、そこから話すと長くなりますので、きょうは東京の大学への採用が決まって以降についての証しをします。

 採用が決まったのが95年の1月で、3月から働くことになりました。それで1月に事務方の係長さんに大学の職員用の独身寮に入りたいと希望を出しました。以前、名古屋の大学に務めていた時も大学の職員用の独身寮に住んでいましたから、東京でもそうしようと思って希望を出しました。ところが、事務方の係長さんが「やめたほうが良いですよ」と言って、ぜんぜん手続きをしてくれませんでした。それでも私は寮に入りたいと粘りました。というのは、名古屋の大学をやめてから1年半、無職でいて、その間には札幌で日本語教師になるための学校へ通ったりしていたために学費やアパート代で貯金が無くなっていたからです。多少のアルバイトはしましたが、勉強もしたかったのでフルには働いておらず、もうお金がありませんでした。

 当時、アパートを借りるには敷金や礼金、保証金などで、だいたい部屋代の6ヶ月分ぐらいを事前に支払う必要がありました。首都圏はアパート代が高くて安くても月7~8万円ぐらいはして、6ヶ月分だと50万円近くが必要です。そんなお金はありませんでしたから、とにかく寮に入れて欲しいと何度も頼みましたが、結局、係長さんは寮の手続きをしてくれませんでした。それで仕方がないので親にお金を借りて、アパートを探すことにしました。これが、先ずはとても不思議なことでした。寮に入っていたら高津教会には導かれなかったからです。

 さて次に、高津教会の近くにアパートを借りることになった経緯を話します。大学の寮へ入ることをあきらめてアパートを探すことにしましたが、首都圏であれば通勤手当が全額出ますから、場所はどこでも自由に選べました。当時はまだインターネットで住宅情報を得る時代ではありませんでしたから、書店で買う住宅情報誌が頼りでした。それで、その頃は静岡の実家に戻っていましたから七間町にあった吉見書店で首都圏の賃貸情報誌を買い求めました。これもまた不思議なことでした。静岡の吉見書店に首都圏の賃貸情報誌が置いてあったんですね。そして、その情報誌に川崎市の溝の口エリアがお勧め、と書いてありました。東京は家賃が高いですが、多摩川を渡った川崎市側なら家賃が多少は安くて、しかも溝の口は交通や買い物など様々な点で便利ということでした。それで私は2月に溝の口に行って、アパートを探すことにしました(地図を載せます)。


Yahoo!地図より、東急・田園都市線の二子玉川駅~溝の口駅の区間

 アパート探しをした日のことは今でもよく覚えています。まず溝の口駅を降りてから多摩川方面まで歩いてみて、多摩川の景色が気に入ったので結局、二子新地駅前にある不動産屋さんに入って、そこで紹介されたアパートを借りました。そうして二子新地駅から電車に乗って多摩川を渡って東京の職場に通勤するようになりました。

 さてしかし、通勤を始めてから何ヶ月か経った頃、アパートからは二子新地駅よりも高津駅のほうが近いことに気付きました。二子新地駅前の不動産屋さんで紹介されたアパートだったので、そのことにぜんぜん気付いていませんでした。それで、通勤定期の区間を変えて朝は高津駅から電車に乗ることにしました。高津駅のホームからは高津教会の十字架が見えますから、もし、朝の駅を高津駅に変更していなければ、高津教会に導かれることは無かったでしょう。

 一方、夜は変わらずに二子新地駅で降りていました。スーパーや飲食店などは二子新地駅のほうが高津駅よりも多かったからです。朝はこれらのお店は関係ありませんから高津駅から電車に乗り、夜はお店を利用するために二子新地駅で降りていました。そうして、この地域で暮らすようになってから4年ほど経った1999年頃、職場の留学生センターで日韓留学プログラムの担当になって、韓国人の留学生のお世話をすることになりました。それで韓国語の勉強を始めて、夜は覚えたての拙い韓国語で、二子新地駅前のお店の韓国人アルバイトに話し掛けたりしていました。そのアルバイトの韓国人留学生に私は教会に導かれました。ですから、教会に導かれるためには、朝の高津駅と夜の二子新地駅の両方が私にとっては必要でした。吉見書店で買った賃貸情報誌には溝の口エリアがお勧めと書いてありましたが、結局私は溝の口駅の周辺ではなくて高津駅と二子新地駅の間にあるアパートに住み始めて、そのことによって教会に導かれました。このことも本当に不思議なことだと感じています。

 しかも、導かれたのはインマヌエルの教会でした。救われるためには、どこの教派の教会でも良かったはずです。ルーテルでもバプテストでもペンテコステ派でも、どの教派でも良かったはずです。それがなぜ、インマヌエルだったのか?長い間分からないでいましたが、それはウェスレーが説いた「先行的恵み」の証しをするためではないか、今はそんな気がしています。

 神様は聖書のことなど何も知らない私を先行的な恵みによって教会に引き寄せて下さいました。その頃の私の心の中には、いつも漠然とした不安がありました。何とかしてその不安を打ち消そうとして仕事や趣味に励んだり、或いはまた様々な本を読んだりしましたが、不安は消えませんでした。漠然とした不安があったのは私の魂が渇いていたからなんですね。神様は私に命を与えて下さったお方です。その神様のみもとに来なければ、心の平安は決して得られません。その心の平安を求めて、聖書を何も知らなかった私が、高津教会に引き寄せられて行きました。これは先行的な恵み以外の何ものでもないでしょう。神様から離れて過ごしていた罪深い私を神様は引き寄せて下さり、魂の平安を与えて下さいました。本当に感謝なことです。

 でも、なぜ私は神様の引き寄せに応答することができたのでしょうか?聖書の神様のことを何も知らない私が、なぜ神様の引き寄せに無意識の中とはいえ気付くことができたのでしょうか?それは、一つには名古屋にいた時に『自己愛とエゴイズム』という本と出会って、奥深い自分の声に耳を傾けることを心掛けるようになっていたことがあったと思います。名古屋にいた頃から私は自分の心の中には何かが足りないことを感じていて、そのことによって『自己愛とエゴイズム』という本と出会い、そうして「奥深い自分の声に耳を傾けること」を心掛けていたために、神様の引き寄せに応答することができたのではないかなと思います。

③生まれ故郷に辿り着いて平安を得る魂
 1995年に高津駅と二子新地駅の間のアパートに住み始めた私は2001年に高津教会に導かれました。2001年の6月に父が死んだ時、韓国人の留学生に韓国人教会に連れて行ってもらって何度か礼拝に参加していましたが、日本人の教会に行って日本語の説教を聞くように勧められたので、8月に高津教会を訪れました。そうして、心の平安を得ました。以前の証しでは、自分をこれまで守ってくれていたのが聖書の神様だったことに気付いて心の平安を得たと話していました。それももちろんありますが、もっと奥深い所での気付きが無意識の中であったのだろうと思います。神様は私に命を与えて下さったお方であること、その神様がおられる天の御国が自分の本当の生まれ故郷であること、そして教会が天の御国に最も近い場所であることに、無意識の中で気付いたのではないかと思います。

 故郷へ帰ると、とても心が落ち着きます。私は20代の最後にアメリカに1年間留学していました。2~3年は留学するつもりでいましたが、名古屋の大学に空きのポストがあって採用してもらい、日本に帰国しました。人によると思いますが、帰国して私はやっぱり日本のほうがアメリカより落ち着くなあと思いました。

 牧師になってからは先ず姫路教会に遣わされて、その次に沼津教会、そして静岡教会に遣わされました。姫路は良い所で気に入っていましたが、沼津に来た時にやっぱり静岡県は落ち着くなあと思いました。そして沼津から静岡に来た時には、やっぱり生まれ育った故郷は落ち着くなあと思いました。まして、神様は私に命を与えて下さったお方です。命を与えて下さった神様がおられる天の御国に最も近い教会に辿り着いた時に私は心の奥底から深い平安を得ることができました。

 罪のことが分かるようになったのは、平安を得た後のことです。神様から離れていること自体が罪であり、その罪が私を不安にさせていました。ですから、神様は私を引き寄せて不安を取り去って下さいました。でも、いろいろな物を握っていて手放さないでいると、その神様の引き寄せになかなか気付かないでスルーしてしまいます。

 1995年に高津教会の近くのアパートに私が引き寄せられたのは、私が無職でお金がほとんど無い状態だったからではないか、そんな気がします。教会の近くに住み始めてから教会に導かれるまでに6年も掛かってしまったのは、職を得て再びいろいろな物を握り締めるようになったからなのでしょう。しかし、2001年の6月に父が死んだ時に、自分の無力さを思い知らされました。間もなく死んで行く父の前で私は何もできませんでした。その無力感によって神様の導きの声が聞こえたのではないかと思います。そうして、それまで教会へ行くことを拒んでいた自分の頑固さを手放して、教会へ行くことができたのだと思います。

 自分が握っているものを手放して主のみもとへ来るべきことをイエス様は自らが十字架に付くことで示して下さいました。ヨハネ12章32節でイエス様はおっしゃいました。
 
ヨハネ12:32 「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」

 イエス様はご自身が神様であることを手放して人となり、さらにすべてを手放して十字架に付きました。すべてを手放すとは、何も持たないで生まれた赤ちゃんに帰るということでもあるでしょう。私たちも赤ちゃんとしてすべてを手放してイエス様のみもとに来ることで、平安を得ることができます。

 先月で終わったNHKの朝のドラマの『おかえりモネ』では、ヒロインのモネが生まれ故郷を離れるところから始まり、最後のほうではまた故郷に戻って来ました。だから『おかえりモネ』です。モネは故郷を離れている間も、いつも故郷の気仙沼のことを思っていました。故郷とは、そういう場所なのだと思います。故郷に帰る人もいれば、帰らない人もいますが、帰らない人にとっても、故郷はいつもとても気に掛かる場所です。

 私たちの故郷は私たちに命を与えて下さった神様がおられる天の御国であり、教会はその故郷に一番近い場所です。天の御国が自分の故郷であることに気付いていない人々でも、故郷から離れているなら魂の渇きを感じて、渇きの癒し場所を探し求めてさまよい、教会に辿り着いたなら平安を得る、教会とはそういう場所でしょう。

おわりに
 11月21日には英和生のハンドベル・コンサートを近所の西部生涯学習センターで地元自治会の主催で開催します。



 市の公共施設ですから伝道メッセージは語りませんが、訪れた地域の方々がハンドベルの音色を聞くことで、生まれ故郷の天の御国を少しでも感じてくれたら良いなと思います。ハンドベルは教会で生まれた楽器です。誰もが皆、魂の渇きを感じていますから、渇いた魂にハンドベルの音色が響いて、癒しを与えてくれると良いなと思います。そうして、神様が教会へ引き寄せていることを感じていただけたらと思います。私たちもまた、一人一人違う形ではありましたが、そのようにして教会に引き寄せられて来ましたから、地域の方々にも、その恵みに与っていただきたいと思います。お祈りしましょう。

ヨハネ6:44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。

ヨハネ12:32 「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」
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重荷を下ろしてイエス様に近づく(2021.11.4 祈り会)

2021-11-07 18:57:35 | 礼拝メッセージ
2021年11月4日祈り会メッセージ
『重荷を下ろしてイエス様に近づく』
【ルカ10:42】

 きょうのメッセージのタイトルは、『重荷を下ろしてイエス様に近づく』です。聖書箇所はルカの10章42節の一部ですが、2017年版ではなくて第三版の訳です。

ルカ10:42 「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(新改訳第三版)

 このルカの福音書のイエス様のことばは、先週の土曜日の朝に放送されたライフラインの中で引用されていた聖句です。この日の放送に私は深く共鳴しましたから、それを分かち合いたいと思います。ただし、この日の放送に深く共鳴したのは、最近の私が同じようなことを考えていたからでしたから、まずはそちらのほうから話したいと思います。

 運営委員会のディボーションの時にも話しましたが、先月から私はS教会で毎週金曜日の朝6時半から持たれている朝祷会に参加しています。これまでに4回参加しました。これからも参加し続けようと思っています。この朝祷会の世話人をしている兄弟姉妹方と会場のS教会の先生は、この朝祷会を続けていくための重荷を負っていて、様々な苦労があると思いますが、私はそういう重荷からは解き放たれていて、ある意味とても気楽な立場で参加できていますから、みことばと祈りに恵まれていて、とても感謝に思っています。

 ある週には、福音書の金持ちの青年の箇所が開かれました。イエス様は青年に「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい」とおっしゃいました。しかし、青年は自分の財産を手放すことができませんでした。この箇所で私はこれまでは、自分が握っている物を手放すことの難しさを専ら感じていました。でも、この時は、十字架のイエス様のことを思いました。イエス様は率先してすべてを手放して、手放すことのお手本を示して下さっていることを感じました。

 朝祷会に参加するようになってから、重荷から解き放たれて身軽になることで、一層イエス様に近づけることを学んでいます。それで、金持ちの青年の箇所から十字架のイエス様のことを思うことができたのだと思います。イエス様は神様であるのに、神様であることを手放して人となり、それだけでなく、さらにすべてを手放して自ら十字架に向かって行かれました。この十字架のイエス様のことを思うなら、自分ももう少し手放して行かなければならないことを示されています。

 それは財産を手放すというよりは、むしろ自分の心の中の強いこだわりのほうを、もっと手放すべきであろうと思わされています。でも、自分のこだわりはこれまで60年以上生きて来た中で身に着けて来たことですから、そう簡単には手放すことができません。それでも、少しずつでも良いから、イエス様は自分のこだわりを手放して行くようにと語り掛けて下さっていることを感じます。

 そんなことを思っていたので、先週の土曜日の朝に放送されたライフラインがとても心に響き、共鳴しました。これは4年前の2017年の番組の再放送でしたが、絵本作家のかめおかあきこさんと、かめおかさんの作品の絵本の『わすれものをとどけに』についての回でした。この放送がとても心に響いたので、早速この絵本の『わすれものをとどけに』を取り寄せて読みました。

 この絵本の最後にあるみことばが、新改訳第三版のルカ10章42節の「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」のイエス様のことばです。この絵本の主人公はプーラという名前の子豚で、たぶん女の子です。この物語はプーラに友だちから手紙が届いたところから始まります。

 この友だちはしばらく前から旅に出ていましたが、とても大切なものを置き忘れて旅に出てしまったので、旅先まで届けてほしいというものでした。その忘れ物とは小さな木箱で、鍵が掛かっていて、中に何が入っているのかは分かりません。子豚のプーラはさっそくリュックに、その木箱と旅に必要なものを詰めて出発します。すると、そのリュックを見たネコたちがプーラに話し掛けて来ました。

「大きなリュックだね」

 そう言われてプーラは思いました。確かにこのリュックは大きくて重い。本当はもっと軽くしたいんだけど、いろんな物を持っていないと旅が不安なんだもの。そう思うプーラの前でネコたちは歌いました。

「最後まで残るものが一番大切なものさ」

 こうして、重いリュックを背負って旅に出たプーラでしたが、春・夏・秋・冬の一年間の旅の最後には、リュックの中身は忘れ物の木箱だけになっていました。そうして、プーラは自分の心が軽くなっていることに気付きました。

 この旅の最後では、冬の終わりに咲き始めた福寿草がプーラに鍵を渡します。この鍵は、先にここに来ていた友だちが福寿草に託したものでした。この鍵で木箱を開けると、中には友だちからの手紙が入っていました。つまり、プーラはこの手紙と一緒にずっと旅をしていたんですね。

 この絵本では、友だちは最後まで姿を現しません。最初と最後に手紙という形で友だちの「ことば」は記されていますが、友だちの姿を描いた絵はありません。物語ですから、はっきりとは書いてありませんが、この友だちというのはイエス様のことなんだろうな、と思います。子豚のプーラはイエス様からの手紙を持って、ずっと旅をしていました。イエス様は姿は見えませんが、プーラとずっと一緒にいたんだろうなと思います。

 この旅の途中で、プーラはいろいろな動物たちに話し掛けられます。この動物たちのことばは、イエス様が動物たちを通してプーラに語り掛けたことばではないかと思います。なぜならプーラに話し掛ける動物たちは彼女に、旅を急がないでゆっくり行くように勧めるからです。プーラは早く友だちに追い付きたいので、先を急ごうとします。でも、動物たちは引き止めてゆっくり行かせようとします。そして、そのうちプーラ自身がゆっくりと旅することを覚えて、先を急ぐことはなくなりました。そうして、プーラは一年を掛けて旅をして荷物を減らして行き、身軽になって行きました。

 この番組の中の作者へのインタビューで作者のかめおかさんも語っていましたが、私たちは子豚のプーラのように、いろいろな不安から、ついいろいろな物を持ちすぎてしまう傾向があるようです。でも、どうしても必要なものは、わずかです。いや、一つだけですとイエス様はおっしゃっています。

 この番組の最後でかめおかさんは、こう語っています。信仰を持ってから最初に与えられた試練が、「自分が、自分が」という自我を手放すべきことだったということです。自分の力で何とかしようという思いが非常に強かったとのことです。そうではなくて、自分ではなく神様を第一にして、神様に祈り、神様に力を与えていただくことの大切さを学んで行ったとのことです。

 短い放送時間で詳しいことは分かりませんが、自分の力で乗り越えようとして挫折した経験をお持ちなのかなと思います。そういう中で、神様を第一にすべきことを教えられて行ったのでしょう。

 この絵本の主人公のプーラも、重いリュックを背負って、とにかく友だちに早く追い付こうとして先を急ごうとします。そんなプーラを動物たちは引き留めて、ゆっくり行くように諭します。この動物たちのことばは、先ほども言ったように、イエス様の彼女へのことばなのだと思います。

 ルカ10章ではマリアの姉のマルタも、いろいろな心配事を抱えながらイエス様のもてなしの準備を急いでいます。そんなに急ぐのは早くもてなしの料理を作ることでイエス様が喜んで下さると思っているからなのでしょう。でも、イエス様は人が重荷を負ったままで何かを早くできたとしても、それを喜ぶお方ではないようです。まずは重荷を下ろして、そうして、みもとに来るようにおっしゃっています。

 自分はこうしたいという思いが強いと、自分が背負っている重荷を下ろすことはなかなかできません。でもイエス様は、まずは自分が負っている重荷を下ろして、身軽になることを勧めているということを今回、かめおかさんの絵本とライフラインの放送から学ぶことができて、とても感謝でした。

 このことを学ぶことができたのは、私自身がS教会での朝祷会では重荷を下ろして解き放たれて、みことばと祈りに恵まれているからだと思います。自分のこだわりを手放すことは、とても難しいと感じています。でも、時間が掛かっても良いから、そうすべきであることを、イエス様は私に対しても語り掛けて下さっていますから、そのような者になれるよう、祈りつつイエス様と共に歩んで行きたいと思います。

 イエス様はご自身が神であることを手放して、人となって地上に来て下さり、十字架に掛かって下さいました。このイエス様に付き従って行くには、私たちも重い荷物を少しずつでも良いから、減らしていく必要があるでしょう。そうして、イエス様に近づき、イエス様に似た者にされて行きたいと思います。

 お祈りいたします。

「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」
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今は分からなくても、後で分かるようになる(2021.10.24 礼拝)

2021-10-25 09:25:43 | 礼拝メッセージ
2021年10月24日礼拝メッセージ
『今は分からなくても、後で分かるようになる』
【ヨハネの福音書13章1~7節】

はじめに
 きょうはまた、ヨハネの福音書13章の「最後の晩餐」の場面に戻ります。まだ7節のイエス様のことばの「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」は取り上げていませんでしたから、きょうはこのヨハネ13章7節を中心聖句にします。

 私たちは皆、イエス様に導かれてこの教会に来ました。誰かに連れられて、或いは誘われてこの教会に来たのなら、その人の中にイエス様がいました。チラシを見てこの教会に来たのなら、チラシを作った人やチラシを配った人の中にイエス様がいました。ギデオンの聖書を読んで教会に行ってみようと思ったのなら、聖書を配ったギデオンの兄弟姉妹の中にイエス様がいました。自分で調べてこの教会に辿り着いた場合でも、聖霊の導きがあったでしょう。それはつまり、イエス様の導きがあったということです。

 そのようにイエス様が自分を教会に導いていたことは、後で分かるようになることです。教会に来たばかりの時は分かりませんが、後になると分かります。ヨハネ13章7節の、「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」は、そういうイエス様の導きのことが含まれているだろうと思います。でも、それだけではなくて、もっと深い十字架のこともまた、含まれていることでしょう。きょうはそのこともまた、話してみたいと思います。

 きょうは、次の三つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①分かってからでも知り尽くせない十字架
 ②共にうめき、共に苦しんでいるイエス様
 ③地域に届けたい神の先行的な平安の恵み
 
①分かってからでも知り尽くせない十字架
 まず、きょうの聖書箇所を見ておきたいと思います。このヨハネ13章のイエス様が弟子たちの足を洗う箇所は、今年の6月に「最後の晩餐」のシリーズを始めた時にも開きましたし、それ以外にも開く機会の多い箇所で多くの皆さんがよくご存知だと思いますが、また改めて見てみましょう。まず1節、

ヨハネ13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。

 「この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来た」とは、イエス様の十字架の時が来たということですね。イエス様は十字架に掛かって死んでから三日目によみがえり、そのまた四十日目に天の父のみもとに帰って行かれました。2節、

2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。

 この2節もこれまでに何度か引用しました。このヨハネの福音書の背後には「神vs悪魔」の対決の構図があります。悪魔は強敵です。十字架はまた、この強敵の悪魔との対決の時でもありました。続いて3節、

3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。

 イエス様は人となって、地上に来られました。地上に来る時にイエス様はすべてのものを手放しました。神様であれば、時間も場所も超えてどこにでも自由に行き巡ることができます。しかし、人間のイエス様は1世紀の初めのユダヤ・ガリラヤ地方という限られた時間と場所の中にしかいることができません。また、イエス様はヨセフとマリアの子の赤ちゃんとして、この世に生まれました。赤ちゃんは自分では何もできません。ですから、イエス様はすべてを手放して地上に来られました。

 それでも赤ちゃんから子供、子供から大人へと成長するなら、多少のことは自分でできるようになります。しかし、十字架に付けられるなら、再びすべてを手放すことになります。十字架に付けられると手も足も動かすことができません。自分では本当にまったく何もできません。十字架に向かって行くこととは、本当にすべてを手放すことを意味します。続いて4節と5節、

4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 ここでイエス様はご自身が神であることを手放して、しもべとなりました。一般の人よりももっと身分の低い奴隷の身となって弟子たちの足を洗いました。そうして、この最後の晩餐の後で十字架に向かいました。次に6節と7節、

6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」

 ペテロたちは、この後でイエス様が十字架に向かって行くことが分かっていませんでした。でも、後で分かりました。そうして十字架の意味も分かっていきました。私たちも、教会に来たばかりの頃は、十字架のことをぜんぜん分かっていませんでした。でも、イエス様を信じて信仰生活を送る間に段々と分かるようになります。

 しかし、それでも十字架に関しては、決して知り尽くすことはできないだろうなと思います。第一私たちは神様ではありませんから、神様のイエス様がすべてを手放して十字架に付くことということが、どんなことなのか、決して分かり尽くすことはできないという思いがします。

 私たちにとって、すべてを手放すことはとても難しいことです。これだけは手放すことができないというものがあって握り締めています。「これだけは」というものが一つなら、まだマシだと思いますが、実際は「これだけは」がたくさんあるというのが実態ではないでしょうか。

 私自身も、教団の神学校の聖宣神学院に入学するに当たっては職場を辞めて、自宅のマンションも売却して、多くのものを手放したつもりでいても、依然として多くのものを握り締めていることを常々感じています。神学校で学び始めた頃、藤本先生から海外の宣教師になる気はないか尋ねられたことがありました。でも私は日本人に伝道したいという思いが強かったですから、日本で伝道したいとハッキリと言いました。ぜんぜん手放していませんね。自分の思いに強くこだわっています。或いはまた、これまでの自分の経歴を活かした伝道をしたいという思いを私は強く持っていますが、そういうものも手放したほうが良いのではないかということは、いつも探られています。今までの経歴を活かすことに多少の利点はあるかもしれませんが、伝道の妨げになる場合も少なくないことを自覚しています。ですから手放したほうが良いのかもしれません。でも、なかなか手放すことができません。

 すべてを手放すと口では言っても、実際にはすべてを手放すことはできない自分がいます。手放すことができない自分には、イエス様がどんな思いで神様であることを手放して十字架に向かったのか、とうてい分からないことです。でも、少しでも深くイエス様のことを知り、イエス様に近づきたいと願っています。

②共にうめき、共に苦しんでいるイエス様
 人となったイエス様は十字架で単に肉体的な苦痛を受けたばかりでなく、神様なのにすべてを手放すという精神的な苦痛をも受けて苦しみ、悶えました。いつも思うのですが、この苦痛に満ちた十字架がなぜ私たちに心の平安をもたらすのでしょうか?とても不思議です。

 十字架によって心の平安が得られるのは私たちの罪が、イエス様の十字架によって赦されたからだと言われます。確かにそうでしょう。罪は私たちの心を縛り、不安にさせます。神を愛さず、隣人を愛さない罪に縛られていると心は自ずと不安になります。ですから、この罪が赦されて、罪から解き放たれるなら、心は平安になります。

 この十字架による平安は、先行的に与えられているように感じます。クリスチャンではないけれど十字架のネックレスをしていたり装飾品を持っていたりする人がたくさんいますね。それらの人々はイエス様を信じて罪が赦される前から先行的に平安が与えられているような気がします。もちろんイエス様を信じて得られる深い平安とは違って、もっと浅いものだと思います。でも、それなりの平安が与えられているのだと思います。私も高津教会に導かれたのは、高津の駅のホームから見える十字架が何となく気になっていたからです。通勤で毎朝高津駅のホームに立った時には、いつもすぐ近くに高津教会の十字架が見えていました。その十字架から自分では気付かない間に平安が与えられていたのかもしれません。

 先週と先々週の礼拝では、神様からの善いものは皆、未来から来ることを話しました。神様は未来から励ましを送って下さり、その励ましに聴き従って行く時、私たちは最善の道を進んで行くことができます。その未来からの励ましと同じように、罪の赦しによる平安も、未来から先行的に与えられているように感じます。

 そしてまた、十字架を見ると平安になるのは十字架のイエス様が私と共に苦しんで下さっているから、ということもあるのでしょう。私たちは様々なことで苦しみます。時にはうめき声を上げるほどの苦痛を感じます。それは肉体的な苦痛の場合もありますし、精神的な苦痛の場合もあります。両方の場合も少なくないでしょう。でも、どんなに大きな苦痛の中に私たちがあったとしても、イエス様はもっと大きな苦痛を味わいました。十字架による肉体的な苦痛だけでなく、神様であるのにすべてを手放すという苦しみを味わいました。私の苦しみよりももっと大きな苦しみをイエス様は味わったと、イエス様の苦しみに思いを寄せる時、不思議な平安が得られます。そうして、イエス様が共に苦しんで下さっていることを感じます。

 このイエス様が共に苦しんで下さっていることで得られる平安もまた、イエス様を信じる前に与えられているのかもしれません。先行的に平安が与えられることで、人がイエス様を信じやすくするためです。私自身のことを振り返ると、そんな気がします。高津駅のホームから毎朝私の目に入っていた高津教会の十字架は無言でしたが、父が死んだ後、この十字架に導かれて高津教会の中に足を踏み入れました。そうして、どこか心に安らぐものを感じたのだと思います。証しではいつも、藤本先生のガラテヤ書の説教に興味を持ったと証ししていますが、その他にも不思議な平安を何となく感じていたこともあったように思います。まだイエス様を信じる前でしたが、もう間もなく信じる、その一歩手前の時期でした。そんな私にイエス様は先行的な聖霊の恵みによって、先行的な平安を与えて下さっていたのだと思います。 

③地域に届けたい神の先行的な平安の恵み
 イエス様からいただく恵みは、それをいただいた時にはすぐに分からなくても、後になれば分かる、そのような恵みです。何となく心が平安になる、それが何か分からなくても、その平安に導かれてイエス様を信じるようになり、後になってから、それがイエス様が与えて下さっていた先行的な恵みによる平安だったと分かります。

 私が高津教会に導かれた経緯にも、不思議な導きがありました。まず高津教会の近くに偶然にアパートを借りて住み始めたこと自体が、先行的な恵みであったと思います。これは、話すと長くなるので神学院の寮で神学生の同期生に話したことはありますが、教会で証ししたことはありません。でも、良い機会ですから11月の礼拝でお証をさせていただこうかなと思います。

 というのは、自分がどうしてインマヌエルの高津教会に導かれたのか、段々と分かって来たような気がするからです。今までは分かりませんでしたが、段々と分かって来た気がします。私が救われるためには、どこの教派の教会でも良かったわけです。それがなぜ、インマヌエルだったのか?それもインマヌエルの高津教会だったのか?それはインマヌエル教団が、先行的な恵みを説いたウェスレーから始まるメソジストの流れの教団であり、高津教会の藤本先生はウェスレーの専門家であったからではないか。今そのように感じています。それゆえ私は自分が受けた、この先行的な恵みのことをもっと証しして、且つ周囲の方々、地域の方々にこの先行的な恵みが伝わりやすくする働きが求められているように感じています。

 さて、ここから先は礼拝後の相談のための説明です。先行的な恵みを地域の方々に届けたい、そのためのご相談ですので、この説教の時間を使って説明させていただきたく思います。

(中略)

おわりに
 きょうのメッセージは、『今は分からなくても、後で分かるようになる』というタイトルで話をして来ました。神様の先行的な恵みによって、イエス様を信じる前に教会に導かれて来た私たちは、最初の間は分からないことばかりでした。でも、後で段々と分かるようになりました。一方で、後になってもなかなか分からないこともあります。特に神様であることを手放して人となり、十字架に付けられたイエス様の苦しみがどれほどのものであったかは、なかなか分からないと感じます。天の御国に行ってイエス様と直接顔を合わせて話をお聞きするなら、もっと分かるのかなと思います。その他にも、未だに分からないことがいろいろあります。そうすると、天の御国へ行ってイエス様から直接お話を聞くことが一層楽しみに感じて来ました。

 或いはまた、イエス様が私を救い出すまでの苦労話も聞いてみたいです。イエス様はこうおっしゃるかもしれません。「あなたは本当に頑固でうなじがこわくて苦労しましたよ。何度も教会に導こうとしたのに、なかなか教会に来ませんでしたからね。」でも、イエス様の苦労の甲斐があって私も教会に導かれましたから、感謝しています。

 きょうの午後は、藤枝霊園で墓前記念会を行います。私たちの教会の信仰の先輩方は、天でイエス様とお会いして、どんな話をしているのでしょうか。私たちの信仰の先輩方も皆、神様の先行的な恵みによって教会に導かれました。

 11月の礼拝では、ウェスレーが説いた先行的な恵みとはどのようなものかを、私の証しを交えつつ、もう少し詳しく話をしたいと思います。そうして、地域の方々にも神様の先行的な恵みが届きやすくするお手伝いができたらと願っています。

 イエス様はおっしゃいました。

「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」

 イエス様は私たちが気付かないでいる間にも、いろいろなことをして下さっています。この恵みに心一杯感謝したいと思います。感謝しつつ、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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未来から来る励ましと祝福(2021.10.17 礼拝)

2021-10-18 06:01:07 | 礼拝メッセージ
2021年10月17日教団創立記念礼拝メッセージ
『未来から来る励ましと祝福』
【ヨハネ7:37~39】

ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

はじめに
 きょうのメッセージのタイトルは『未来から来る励ましと祝福』です。きょうは英和の奨励日でもありますから、若い皆さんに対して神様が未来から励まして下さっていることを、是非お伝えしたいと願っています。

 きょうの中心聖句は、ヨハネの福音書7章の37節の後半から39節の前半までです。

37「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①実例がたくさんある未来からの励まし
 ②聖書は未来からの励ましに満ちている
 ③今の自分は未来に励まされつつ過去を励ます

①実例がたくさんある未来からの励まし
 最初のパートでは、未来からの励ましの実例がたくさんあることを話します。でも「未来からの励まし」ということばは、聞き慣れないことばだと思いますから、まず、この「未来からの励まし」とは何か、について話します。

 きょうは教団創立記念礼拝でもありますので、教団創立時にあった未来からの励ましから話を始めます。

 私たちのインマヌエル教団は、第二次世界大戦が終わってすぐの1945年の10月に設立されました。そして、その4年後の1949年には教団の教会の牧師を養成するための神学校の聖宣神学院が設立されました。当時はまだ戦争が終わったばかりで、敗戦国の日本は非常に貧しい状態でした。ですから、教団の教会や神学校の運営は、海外の宣教団体からの多額の献金に支えられていました。

 静岡の英和女学院も同じだと思います。英和のホームページによると、設立は1887年、明治20年とのことですね。当時、カナダから多額の献金があったことと思います。しかし、1945年、昭和20年には静岡大空襲で英和の校舎は全焼してしまったとのことです。このような困難があったにも関わらず、4年後の1949年には新しい校舎が建ったそうですね。この時も、きっとカナダから多額の献金があったのだろうと想像します。

 こういう献金は、神様に励まされて献げるものです。特に建物の建設のためには多額の献金が必要です。一人一人がかなりの金額の献金をします。でも、たくさん献金してしまったら、自分の生活が苦しくなってしまいますね。その日その日の生活はぎりぎり大丈夫だったとしても、貯金しておかないと将来が不安です。だから、できれば献金は少しだけにしておきたいなと普通の人なら誰でも思うことだと思います。そんな時、神様はその人を励まします。「大丈夫。あなたの生活はわたしが守ります。わたしがあなたを豊かにしてあげます。だから、あなたは今、献げなさい。」と、こんな風に励まします。そうして、アメリカやカナダ、ヨーロッパなどから多額の献金が日本の多くの教会や神学校、そして英和女学院などのキリスト教系の学校に送られて来ました。

 こういう海外の支援者への神様からの励ましは、大体が未来からの励ましの場合が多いのだと思います。なぜならインマヌエルにしても、他の団体にしても、祈ったら数日のうちにお金が海外から届いたという事例が多くあると聞くからです。学校を運営するには多額のお金が必要ですから、大体の場合はいつもぎりぎりで運営されています。そうして、数日後に迫った支払いの期限に間に合わなかったら、もう終りだというような危機を多くの学校や施設が経験していることでしょう。ですから、必死で祈ります。すると、不思議と献金が送られて来て必要が満たされたということが実際にあったんだそうですね。そういう実例がたくさんあったそうです。

 今なら送金もインターネットで瞬時に送金できますが、昔は小切手のようなものを手紙で郵送していたことでしょう。戦後すぐでしたら、航空便ではなくて船便です。船便だったら一ヵ月ぐらいは掛かります。祈ったらすぐに届くということは有り得ません。でも、祈った翌日、或いは数日後に届いたという実例が多くあるそうです。何が起きたのでしょうか。

 それは、日本での祈りが神様によって数か月前のアメリカ・カナダ・ヨーロッパなどに届けられたということでしょう。そうして神様によって励まされた海外の人たちが日本に船便で送金します。日本の祈りがまず数か月前の海外に神様によって届けられて、神様の励ましの声を聞いた海外の人たちが献金を1~2ヶ月間集めて、そうして送金すれば、日本には祈ってすぐに届くことになります。

 お金だけでなく、物資もこのようにして送られて来たという実例がたくさんあるそうです。日本だけでなく、アフリカのようにもっと交通事情の悪い場所でも、現地の医療スタッフが緊急に必要な医療用の物資を祈ったら、祈ってすぐに必要な物が欧米から送られて来たということがあったそうです。それらは祈る数か月前に発送されたものでした。普通では送ってもらわないような物でも祈ったら届いたということですから、それは祈りが聞かれたということになります。

 奇跡のようなことですが、実例はたくさんあるそうです。このような奇跡のようなことは、神様が介在しているから起きることです。神様が祈りを過去へ運び、過去の人が未来からの励ましによって、行動を起こします。それは神様が存在するからこそ、起きることです。神様が存在して、神様が介在していることの、良い証しと言えるのではないでしょうか。

②聖書は未来からの励ましに満ちている
 聖書の話に進む前に、アニメやテレビドラマで見られる「未来からの励まし」について話したいと思います。

 ここにいる皆さんは皆、『ドラえもん』のことをご存知だと思います。アニメやマンガを見たことがなくても、名前ぐらいは知っているでしょう。ドラえもんは22世紀の未来から来たネコ型のロボットです。22世紀の未来から来て、のび太くんを励まします。のび太は性格的に弱いところがあって勉強もサボりがちです。またジャイアンやスネ夫の言葉にすぐに傷ついたりもします。そんなのび太をドラえもんは励まし、また未来の便利な道具を使って助けます。

 またドラえもんやのび太たちは、机の引き出しからタイムマシンに乗って、過去や未来に頻繁に出掛けて行きます。このタイム・トラベルも『ドラえもん』という作品の大きな魅力ですね。テレビや映画ではタイム・トラベルやタイムスリップ関連の作品が多くあります。それだけタイム・トラベル物に人気があるということだと思います。

 少し前にNHKで放送されていた『アシガール』も面白い作品でした。『アシガール』の原作は漫画だそうですが、私はテレビドラマを面白く観ました。『アシガール』は、現代の女子高生が戦国時代にタイムスリップして、殿様の息子の若君に恋をする物語です。女子高生のヒロインは陸上の長距離走が得意なので、戦国時代では足軽になって若君を助けようとします。そうして、若君は元気いっぱいの彼女に段々と励まされるようになります。戦国の世を生きる若君にはいろいろな悩みがありましたが、元気な足軽の彼女に励まされます。ですから、『アシガール』も『ドラえもん』と同じように、未来からの励ましの物語なのですね。

 きょう聖書交読でご一緒に読んだヨハネの黙示録22章にも未来からの励ましが書かれています。この時のヨハネはパトモスという島の流刑地で捕らわれの身になっていました。黙示録1章9節には、このように書かれています(週報p.2)。

黙示録1:9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟で、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐にあずかっている者であり、神のことばとイエスの証しのゆえに、パトモスという島にいた。

 迫害によってパトモス島に流されて苦しんでいたヨハネのところに未来から御使い(天使)が来て、彼に未来の素晴らしい光景を見せて彼を励まします。黙示録22章1節と2節をお読みします。

黙示録22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 これは本当に素晴らしい未来です。1節にある「いのちの水の川」は、きょうの中心聖句のヨハネ7章38節にある「生ける水の川」とも通じます。すなわち、この「いのちの水の川」とは御霊・聖霊の川と言っても良いかもしれません。続いて3節から5節、

3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 これは御使いのヨハネへの励ましであると同時に、現代の私たちへの励ましでもあります。なぜなら、この素晴らしい未来は、21世紀の今もまだ来ていない未来のことだからです。コロナ禍や地球温暖化の異常気象で苦しむ21世紀の私たちのことをも、神様は聖書を通して、励まして下さっています。ですから聖書からの神様の私たちへの語り掛けは、過去からの語り掛けではなくて、未来からの語り掛けであると言えるでしょう。

 黙示録22章13節にあるように、神様はアルファであり、オメガであるお方です。アルファとオメガはギリシャ語のアルファベットで、英語で言えば神様はAであり、Zであるお方です。つまり最初であり、最後であるお方です。13節、

22:13 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

 神様は過去にも未来にもいるお方ですから、未来から私たちを励ますことができます。22章17節の後半でイエス様は、このようにおっしゃっています。

22:17 渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

 これは、きょうの聖書箇所のヨハネ7章でイエス様がおっしゃっていることと同じですね。ヨハネ7章のイエス様も同じように、未来から私たちを励まして下さっています。きょうの聖書箇所のヨハネの福音書7章37節から39節までを、お読みします。

ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

 イエス様は十字架で死んでから三日目によみがえりました。そして、この復活から50日目の五旬節の日、すなわちペンテコステの日に、イエス様を信じた人々に御霊が下りました。このイエス様のことば、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」は、ヨハネの福音書の読者にとっては、未来からのイエス様のことばです。ヨハネの福音書を初めて読む人の大半は、まだ御霊、聖霊を受けていません。ヨハネの福音書はそのように、まだ聖霊を受けていない人々に向けて、イエス様の言葉を通して、イエス・キリストを信じて聖霊を受けるように励まします。そうして、聖霊を受けるなら、未来からの励ましをより一層豊かに受けることができるようになります。

 またそれは、既にイエス様を信じて聖霊を受けている人に対しても同じです。イエス様は常に新しく聖霊を注いで下さり、私たちを新しくして下さいます。私たちは未来からの聖霊の注ぎによって、新しくされ続けます。ですから、イエス様のこのことばは、未来からの励ましのことばです。イエス様は既に聖霊を受けている人にも、まだ受けていない人にも、新しく聖霊を受けるように励まします。

 聖書には、この他にも未来からの励ましのことばがたくさんあります。聖書は過去の古い書物ではありません。神様は聖書を通して、いつも新しい語り掛けをしていて下さり、未来から私たちを励まして下さっています。ですから、イエス様を信じるなら、いつもこの未来からの励ましを聞きながら、日々を生きることができます。この恵みは本当に素晴らしい恵みです。

③今の自分は未来に励まされつつ過去を励ます
 ここまで話して来たように、神様はいつも未来から私たちの一人一人を励まして下さっています。これは神様からの励ましであると同時に、未来の自分からの励ましでもあります。未来で祈っている自分の祈りを、神様は今の自分に伝えて下さいます。ちょっと分かりにくいかもしれませんが、きょうは最後に、是非このことを分かち合いたいと思います。

 今日は礼拝の中で献児式を行いました。生まれてからまだ3ヵ月の幼子の将来は、無限に広がっています。幼子はほとんど何にでもなれる可能性を持っています。でも、高校生ぐらいになると、だんだんと将来自分がなりたいものがある程度は絞られて来ると思います。まだ絞られていない人も多いと思いますが、すでに絞られている人も多いと思います。プロのスポーツ選手になりたいとか、音楽家になりたいという人の場合には、かなり、目標が絞られていることでしょう。例えば、ピアノの演奏家になりたいと高校生の時に思って、神様に祈ったとします。その場合、神様は過去の自分にも、この祈りを届けて下さっていることでしょう。なぜなら、もし高校生の段階でピアノの演奏家になりたいと思ったとしたら、高校生でピアノを習い始めるのでは、もう遅いからです。遅くても小学生の低学年ぐらいまでにピアノを始めていないと遅いでしょう。ですから、高校生の段階でピアノの演奏家になりたいと思っているとしたら、その人は小さい頃からピアノを習っていることになります。その場合、ピアニストになりたい高校生の祈りは、小さい頃の自分も励ましています。神様を通して、高校生の祈りが小さい頃の自分を励まして、小さい自分がピアノの練習に励むようにします。

 と同時に、将来はピアノの演奏家になれますようにと祈る高校生は、未来の自分によって励まされています。今の自分の祈りが小さい頃の自分を励ますのですから、今の自分は、もっと大人になった自分に励まされています。大人になった自分はピアノの演奏家になっているかもしれませんし、なっていないかもしれません。それは神様だけがご存知のことです。でも、たとえピアノの演奏家になれていなかったとしても、若い間に何か一つのことに一生懸命に取り組んだという経験は、将来どんな大人になったとしても必ず役に立ちます。生きていくことは楽ではありませんから、何をしていても、将来必ずへこたれそうになることがあります。でも、若い時にいろいろな苦労をしていると、少しぐらいのことではへこたれなくなります。そうして、未来を生きている自分が、神様を通して、今の自分を励ましてくれます。

 だから、もし今何かへこたれそうなことがあったら、神様が未来から励まして下さっていることを思うと同時に、未来の自分もまた今の自分を励ましていると思うと良いと思います。そうして、いまの大変なことを乗り越えて行っていただきたいと思います。

 それも、これも、皆、神様が共にいて下さるから、受けられる励ましです。イエス様を信じていなかったとしても神様は励まして下さっていますが、信じていないと励ましが分かりにくいです。でもイエス様を信じて御霊、すなわち聖霊が下るなら、神様の励ましを強く感じるようになります。それは、きょうの中心聖句のヨハネ7章38節にあるように、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れでるように」なるからです。もう一度、きょうの中心聖句をお読みします。

37「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。

 聖書は決して古い過去の書物ではなくて、神様からの新しい励ましの声が未来から聞こえて来る書物です。

 この聖書が私たちに与えられていることを心一杯感謝したいと思います。しばらくご一緒に、お祈りする時を持ちましょう。
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