2022年1月23日礼拝メッセージ
『三度の「平安があなたがたにあるように」』
【ヨハネ20:19~31】
はじめに
私たちの教会の今年の標語聖句の引用元である歴代誌第二5章には、ダビデの子のソロモン王がエルサレムの神殿の建設の完了を祝う盛大な祝典の儀式の様子が描かれています。この祝典の儀式で歌い手たちは、まるで一人のように一致して「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美しました。ダビデの時代にはペリシテなどの周辺の民族との戦争が常にあってイスラエルには平安がありませんでした。それゆえ主はダビデに神殿の建設を許しませんでした。
主の家である神殿とは平安の中でこそ建て上げられるべきものなのですね。そうして主は、息子のソロモンの時代に平安を与えて神殿の建設を許しました。
この、ソロモンの神殿が平安の中で建て上げられたことを思う時、今の私たちは平安の中にあるのだろうか、ということを考えさせられます。ニュースを見ても社会全体に平安がないことを感じます。そこで今日は「平安」をテーマにして話をします。
きょうの説教題は、『三度の「平安があなたがたにあるように」』です。「平安」のギリシャ語は「エイレーネー」で、新共同訳と聖書協会共同訳では「平和」と訳しています。英語では「peace」です。英語訳では「Peace be with you」と訳されています。直訳すれば「平和があなた方と共にありますように」です。イエス様が三度もこのようにおっしゃっているということだけで、平和・平安がいかに私たちにとって大切であるかが分かるでしょう。ここでイエス様がおっしゃっている「平和・平安」とは、心の奥底からの深い平安、つまり真(まこと)の平安です。
日常の中で私たちはふと平安を感じることがよくあります。おいしい物を食べたり飲んだり、良い景色を眺めたり、美しい音楽を聞いたりした時などは、心の平安を感じます。でもイエス様が三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃった「平安」とは、そういうちょっとした時に感じる平安ではなく、もっともっと深い平安、真の平安でしょう。それは魂の奥深い領域での平安です。
残念なことですが、私たちの中に真の平安が無いことは明らかです。もし私たちに真の平安があるなら、争い事などなくなる筈です。二千年前にイエス様が十字架に掛かって死に、復活した後に三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃったのに、私たちの中には、未だに真の平安がありません。では、どうすれば私たちは真の平安を得ることができるのでしょうか。聖書のことばに耳を傾けたいと思います。
きょうの中心聖句はヨハネ20章に3度出て来る
です。そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。
①聖書の一つの書が三度記述することの重さ
②信じて聖霊を受け平安を得るなら人を赦せる
③赦し合わなければ平和は永遠に実現しない
①聖書の一つの書が三度記述することの重さ
言うまでもないことかもしれませんが、聖書の一つの書の中に三度も同じ記述がある場合、それは本当に大切なことです。
たとえば、ペテロはイエス様が祭司長たちに捕らえられた時、「そんな人は知らない」と三度言いましたね。人にはそういう罪があることをペテロの三度の「そんな人は知らない」は教えています。そんなペテロに対してイエス様は、「あなたはわたしを愛していますか」と三度聞き、「わたしの羊を飼いなさい」と三度言いました。このイエス様の三度のことばによって、キリスト教は二千年もの間、引き継がれて来ました。もし、この三度の「あなたはわたしを愛していますか」と「わたしの羊を飼いなさい」が無かったなら、もしかしたらキリスト教は途絶えていたかもしれません。それぐらい、「あなたはわたしを愛していますか」と「わたしの羊を飼いなさい」は大切なみことばです。
あるいはまた、マタイ・マルコ・ルカの福音書はイエス様ご自身が「受難と復活」の予告をされたことを三度記しています(週報p.2)。
マタイ16:21、17:22-23、20:18-19
マルコ 8:31、9:31、10:33-34
ルカ 9:22、18:32-33、24:7
たとえばマタイ16:21は、次のように記しています(週報p.2)。
この「受難と復活」の予告はイエス様ご自身によるものであること、そしてマタイ・マルコ・ルカがそれぞれ三度記しているという点から、私たちは重く受けとめる必要があります。また、このイエス様の予告は「十字架と復活」がワンセットであることをも教えています。私たちは「十字架」と「復活」を別々のものとして切り離して考えがちですが、「十字架と復活」は切り離してはならないワンセットのものであることも、このイエス様ご自身による予告は教えています。
聖書が一つの書の中で三度同じことを繰り返す例をもう一つだけ挙げます。それは、パウロが復活したイエス様と出会ったことを使徒の働きが三度記しているということです。パウロがまだサウロだった頃、サウロはクリスチャンを迫害するためにダマスコに向かっていました。そこに復活したイエス様がサウロに現れて、サウロはイエス様を信じる者に変えられ、イエス様を宣べ伝えるようになりました。このことを使徒の働きは9章、22章、26章に三度も記しています。それだけ、この経験はパウロにとって重要であったということです。
個人的なことですが、この記述は私にとっても重要なものとなりました。初めて高津教会を訪れた日から1週間後の次の聖日の礼拝の説教で私はこの話を聞きました。そして、パウロの人生がイエス様との出会いによって180度変わったという話を私はそのまま信じました。人の人生が180度変わるとは、よほどの体験があったということです。パウロの人生が変わったことは事実ですから、パウロが復活したイエス様と出会ったこともまた事実だろうと、そのまま信じました。つまり私はパウロの証しを通してイエス様の復活を信じました。ですから、このパウロの証しは私にとっても、とても大切なものです。使徒の働きがこのパウロの体験を三度記したのも、その重要性をよく認識していたからでしょう。
②信じて聖霊を受け平安を得るなら人を赦せる
きょうの聖書箇所のヨハネ20章の19節から31節までを一言でまとめて言うなら、表題のように「信じて聖霊を受け平安を得るなら人を赦せる」と言えるでしょうか。
「信じて」とは、「イエスは神の子キリストである」と信じることです。31節には、このヨハネの福音書の執筆目的が書かれていますね。
イエス様が神の子キリストであると信じるなら、その人は聖霊を受けて永遠の命が与えられますから、心の平安を得ます。イエス様が神の子であることは、この福音書に書いてある通り、イエス様が様々な奇跡を行ったことから分かります。イエス様は水をぶどう酒に変えたり、王室の役人の息子の病気を遠く離れた場所から癒したり、五つのパンと二匹の魚で五千人のお腹を一杯にしたりしました。このような奇跡は神の子でなければ、できないことです。また、イエス様は天の神様のことを「父」と呼んでいましたから、この「父」ということばからも、イエス様が神の子であることが分かります。
或いはまた、イエス様が神の子であることは、きょうの聖書箇所の20章の19節の記述からも分かります。19節、
弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけていました。その鍵をかけた家にイエス様は入って来ました。一体どうやってイエス様は入って来たんでしょうか。まるで電波みたいですね。ラジオの電波は閉め切った家の中にも入って来ますから、私たちはラジオを聞くことができます。携帯電話の電波も家の中に入って来ますから、私たちは携帯電話で話すことができます。イエス様はもちろん電波ではありませんが、こんなことができるのは、イエス様が神の子だからです。同じことが26節にも書かれています。
ですから、イエス様は神の子です。また、イエス様は22節で「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。聖霊は、「最後の晩餐」の時にイエス様がおっしゃったように、イエス様が父のみもとから遣わします。人は聖霊を受けることで救われますから、イエス様は救い主のキリストです。すなわちイエス様は神の子キリストです。
このイエス様は神の子キリストと信じることで人は聖霊を受けていのちを得て救われます。31節に書いてある通りです。もう一度31節、
トマスはイエス様が目の前に現れるまで信じませんでしたから、イエス様はトマスに言いました。29節です。
これは私たちに向けられたことばでもありますね。なぜなら私たちのイエス様との交わりは聖霊を通して行われるからです。聖霊によって私たちはイエス様と出会うことができます。その聖霊はイエス様を信じなければ注がれませんから、私たちは「見ないで信じる」必要があります。
そうして聖霊を受けて永遠のいのちを得て、イエス様と出会うなら平安が得られます。平安を得るなら、人を赦すことができるようになります。人を赦すことは簡単なことではありませんが、聖霊を受けるなら人を赦すことができます。21節から23節、
聖霊を受けるとは、イエス様が私たちの内に入って下さるということです。そうして私たちはイエス様に似た者へと変えられて行きます。イエス様はご自分を十字架に付けた者でさえ、赦していました。十字架に付けられたイエス様はおっしゃいましたね。ルカ23章33節と34節です(週報p.2)
このように、イエス様はご自分を十字架に付けた者たちでさえ、お赦しになりました。このイエス様を十字架に付けた者たちとは私たちのことでもあります。私たちの罪がイエス様を十字架に付けました。そんな私たちをイエス様は赦して下さいました。そんな私たちであっても、イエス様を信じて聖霊を受けるなら、私たちも人を赦すことができる筈です。聖霊を受けてイエス様が内に入って下さり、御霊の実を結ぶなら、私たちもまた人を赦すことができるようになるはずです。
人を赦すことは確かに難しいことです。でも御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が心の内で結ばれているなら、イエス様のように人を赦すことができる筈です。とはいえ、赦すことは難しいことです。例えば、日本が再び核兵器の攻撃を受けても、それでも核兵器の攻撃を行った者を赦すことができるだろうかと私自身に問い掛けた場合、赦すことがとても難しいことは確かです。でも赦せないとしたら、それは多分私の中に御霊の実が十分に結ばれていないからなのでしょう。核攻撃の例は極端ですが、赦しがたいことはたくさんあるでしょう。そのように赦しがたいことをした相手を赦すべきことを十字架のイエス様は説いています。赦しがたい相手であっても報復をせず、報復の連鎖を止める必要があります。
③赦し合わなければ平和は永遠に実現しない
赦し合わなければ平和は永遠に実現しません。赦さないなら報復が延々と繰り返されるだけです。
イエス様は弟子たちに三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。イエス様が三度もおっしゃったということは、「平安・平和」がとても大切だということです。「平安・平和」が大切なことは誰でも知っていることですが、私たちはイエス様が三度も繰り返したことの重さを、もっと受け留める必要があると思います。1番目のパートで話したように、聖書の一つの書に同じことが三度書かれていることは、それがとてもとても大切であるということです。
日野原重明さんが95歳の時に書いた『十歳のきみへ』(冨山房インターナショナル 2006)という本があります。日野原重明さんのことは、皆さんもよくご存知のことと思います。日野原さんは100歳を越えてもなお現役の医師として働き、5年前に105歳で亡くなられました。お父様は牧師で、日野原さんも7歳の時に洗礼を受けたクリスチャンです。

その日野原さんが亡くなる10年前の95歳の時に書いた『十歳のきみへ』という本は、タイトルの通り、十歳の子供たちに向けて書かれた本です。この本は5つの章から成り、最後の第5章の表題は「きみに託したいこと」です。この第5章の扉に日野原さんはこう書いています。
日野原さんは、戦争を体験した世代です。戦争の悲惨さを知っている自分たちが平和を実現しなければならないという責任を感じていましたが、それができませんでした。そうして平和が実現できなかったことへの無念さをにじませながら、十歳の子供たちに向かって、こう書いています。
このように日野原さんは十歳の子供たちに向かって、自分が仕返しをしたなら相手も痛むことになる。その相手の痛みを自分の痛みのように感じて仕返しをせず、赦すべきだと説きます。そうして、やがては相手もそのように痛みを感じる者へと変えられることを待つべきだと説きます。
これを十字架にたとえるなら、もし私たちが自分の受けた痛みの報復として相手にも痛みを与えるなら、それは十字架のイエス様を傷めつけることだ、ということではないでしょうか。十字架のイエス様は人の罪を赦すべきだと説いています。そのイエス様のおっしゃることを聞かないで相手に報復をするなら、それは十字架のイエス様の痛みを分からずに、さらにイエス様を傷めつけるのと同じことになります。私たちはイエス様の痛みを自分の痛みとして感じるべきです。そうして「平安があなたがたにあるように」と三度おっしゃったイエス様の声に耳を傾けて、十字架のイエス様を思い、報復する罪から解き放たれたいと思います。
おわりに
自分がとても大きな痛みを受けた場合、相手を赦すことは難しいかもしれません。でも小さな痛みのことなら赦すことは誰でもできることでしょう。そこから始めて、段々と大きな痛みも赦せるようになれば良いと思います。
小さな赦しであっても、赦すことで自分の中に平安が与えられることは、多くの人が経験していることと思います。相手を赦さない間は自分の中に平安はありませんが、赦せない気持ちを手放して相手を赦すなら、心に平安が与えられます。これはイエス様が与えて下さる平安なのでしょうね。そうして心が平安になるなら、さらに相手を赦せるようになり、赦すなら平安がさらに得られて、さらにまた相手を赦せるようになるという、好循環が生まれて来ると思います。
「平安があなたがたにあるように」と三度おっしゃったイエス様が私たちの内にいて下さるのですから、このイエス様のことばに耳を傾けていたいと思います。そうして、平安の中で、信仰を建て上げて行くことができる私たちでありたいと思います。
しばらくご一緒にお祈りしましょう。
『三度の「平安があなたがたにあるように」』
【ヨハネ20:19~31】
はじめに
私たちの教会の今年の標語聖句の引用元である歴代誌第二5章には、ダビデの子のソロモン王がエルサレムの神殿の建設の完了を祝う盛大な祝典の儀式の様子が描かれています。この祝典の儀式で歌い手たちは、まるで一人のように一致して「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美しました。ダビデの時代にはペリシテなどの周辺の民族との戦争が常にあってイスラエルには平安がありませんでした。それゆえ主はダビデに神殿の建設を許しませんでした。
主の家である神殿とは平安の中でこそ建て上げられるべきものなのですね。そうして主は、息子のソロモンの時代に平安を与えて神殿の建設を許しました。
この、ソロモンの神殿が平安の中で建て上げられたことを思う時、今の私たちは平安の中にあるのだろうか、ということを考えさせられます。ニュースを見ても社会全体に平安がないことを感じます。そこで今日は「平安」をテーマにして話をします。
きょうの説教題は、『三度の「平安があなたがたにあるように」』です。「平安」のギリシャ語は「エイレーネー」で、新共同訳と聖書協会共同訳では「平和」と訳しています。英語では「peace」です。英語訳では「Peace be with you」と訳されています。直訳すれば「平和があなた方と共にありますように」です。イエス様が三度もこのようにおっしゃっているということだけで、平和・平安がいかに私たちにとって大切であるかが分かるでしょう。ここでイエス様がおっしゃっている「平和・平安」とは、心の奥底からの深い平安、つまり真(まこと)の平安です。
日常の中で私たちはふと平安を感じることがよくあります。おいしい物を食べたり飲んだり、良い景色を眺めたり、美しい音楽を聞いたりした時などは、心の平安を感じます。でもイエス様が三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃった「平安」とは、そういうちょっとした時に感じる平安ではなく、もっともっと深い平安、真の平安でしょう。それは魂の奥深い領域での平安です。
残念なことですが、私たちの中に真の平安が無いことは明らかです。もし私たちに真の平安があるなら、争い事などなくなる筈です。二千年前にイエス様が十字架に掛かって死に、復活した後に三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃったのに、私たちの中には、未だに真の平安がありません。では、どうすれば私たちは真の平安を得ることができるのでしょうか。聖書のことばに耳を傾けたいと思います。
きょうの中心聖句はヨハネ20章に3度出て来る
「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19, 21, 26)
です。そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。
①聖書の一つの書が三度記述することの重さ
②信じて聖霊を受け平安を得るなら人を赦せる
③赦し合わなければ平和は永遠に実現しない
①聖書の一つの書が三度記述することの重さ
言うまでもないことかもしれませんが、聖書の一つの書の中に三度も同じ記述がある場合、それは本当に大切なことです。
たとえば、ペテロはイエス様が祭司長たちに捕らえられた時、「そんな人は知らない」と三度言いましたね。人にはそういう罪があることをペテロの三度の「そんな人は知らない」は教えています。そんなペテロに対してイエス様は、「あなたはわたしを愛していますか」と三度聞き、「わたしの羊を飼いなさい」と三度言いました。このイエス様の三度のことばによって、キリスト教は二千年もの間、引き継がれて来ました。もし、この三度の「あなたはわたしを愛していますか」と「わたしの羊を飼いなさい」が無かったなら、もしかしたらキリスト教は途絶えていたかもしれません。それぐらい、「あなたはわたしを愛していますか」と「わたしの羊を飼いなさい」は大切なみことばです。
あるいはまた、マタイ・マルコ・ルカの福音書はイエス様ご自身が「受難と復活」の予告をされたことを三度記しています(週報p.2)。
マタイ16:21、17:22-23、20:18-19
マルコ 8:31、9:31、10:33-34
ルカ 9:22、18:32-33、24:7
たとえばマタイ16:21は、次のように記しています(週報p.2)。
マタイ16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
この「受難と復活」の予告はイエス様ご自身によるものであること、そしてマタイ・マルコ・ルカがそれぞれ三度記しているという点から、私たちは重く受けとめる必要があります。また、このイエス様の予告は「十字架と復活」がワンセットであることをも教えています。私たちは「十字架」と「復活」を別々のものとして切り離して考えがちですが、「十字架と復活」は切り離してはならないワンセットのものであることも、このイエス様ご自身による予告は教えています。
聖書が一つの書の中で三度同じことを繰り返す例をもう一つだけ挙げます。それは、パウロが復活したイエス様と出会ったことを使徒の働きが三度記しているということです。パウロがまだサウロだった頃、サウロはクリスチャンを迫害するためにダマスコに向かっていました。そこに復活したイエス様がサウロに現れて、サウロはイエス様を信じる者に変えられ、イエス様を宣べ伝えるようになりました。このことを使徒の働きは9章、22章、26章に三度も記しています。それだけ、この経験はパウロにとって重要であったということです。
個人的なことですが、この記述は私にとっても重要なものとなりました。初めて高津教会を訪れた日から1週間後の次の聖日の礼拝の説教で私はこの話を聞きました。そして、パウロの人生がイエス様との出会いによって180度変わったという話を私はそのまま信じました。人の人生が180度変わるとは、よほどの体験があったということです。パウロの人生が変わったことは事実ですから、パウロが復活したイエス様と出会ったこともまた事実だろうと、そのまま信じました。つまり私はパウロの証しを通してイエス様の復活を信じました。ですから、このパウロの証しは私にとっても、とても大切なものです。使徒の働きがこのパウロの体験を三度記したのも、その重要性をよく認識していたからでしょう。
②信じて聖霊を受け平安を得るなら人を赦せる
きょうの聖書箇所のヨハネ20章の19節から31節までを一言でまとめて言うなら、表題のように「信じて聖霊を受け平安を得るなら人を赦せる」と言えるでしょうか。
「信じて」とは、「イエスは神の子キリストである」と信じることです。31節には、このヨハネの福音書の執筆目的が書かれていますね。
ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
イエス様が神の子キリストであると信じるなら、その人は聖霊を受けて永遠の命が与えられますから、心の平安を得ます。イエス様が神の子であることは、この福音書に書いてある通り、イエス様が様々な奇跡を行ったことから分かります。イエス様は水をぶどう酒に変えたり、王室の役人の息子の病気を遠く離れた場所から癒したり、五つのパンと二匹の魚で五千人のお腹を一杯にしたりしました。このような奇跡は神の子でなければ、できないことです。また、イエス様は天の神様のことを「父」と呼んでいましたから、この「父」ということばからも、イエス様が神の子であることが分かります。
或いはまた、イエス様が神の子であることは、きょうの聖書箇所の20章の19節の記述からも分かります。19節、
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけていました。その鍵をかけた家にイエス様は入って来ました。一体どうやってイエス様は入って来たんでしょうか。まるで電波みたいですね。ラジオの電波は閉め切った家の中にも入って来ますから、私たちはラジオを聞くことができます。携帯電話の電波も家の中に入って来ますから、私たちは携帯電話で話すことができます。イエス様はもちろん電波ではありませんが、こんなことができるのは、イエス様が神の子だからです。同じことが26節にも書かれています。
26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
ですから、イエス様は神の子です。また、イエス様は22節で「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。聖霊は、「最後の晩餐」の時にイエス様がおっしゃったように、イエス様が父のみもとから遣わします。人は聖霊を受けることで救われますから、イエス様は救い主のキリストです。すなわちイエス様は神の子キリストです。
このイエス様は神の子キリストと信じることで人は聖霊を受けていのちを得て救われます。31節に書いてある通りです。もう一度31節、
31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
トマスはイエス様が目の前に現れるまで信じませんでしたから、イエス様はトマスに言いました。29節です。
29 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
これは私たちに向けられたことばでもありますね。なぜなら私たちのイエス様との交わりは聖霊を通して行われるからです。聖霊によって私たちはイエス様と出会うことができます。その聖霊はイエス様を信じなければ注がれませんから、私たちは「見ないで信じる」必要があります。
そうして聖霊を受けて永遠のいのちを得て、イエス様と出会うなら平安が得られます。平安を得るなら、人を赦すことができるようになります。人を赦すことは簡単なことではありませんが、聖霊を受けるなら人を赦すことができます。21節から23節、
21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
聖霊を受けるとは、イエス様が私たちの内に入って下さるということです。そうして私たちはイエス様に似た者へと変えられて行きます。イエス様はご自分を十字架に付けた者でさえ、赦していました。十字架に付けられたイエス様はおっしゃいましたね。ルカ23章33節と34節です(週報p.2)
ルカ23:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。…34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
このように、イエス様はご自分を十字架に付けた者たちでさえ、お赦しになりました。このイエス様を十字架に付けた者たちとは私たちのことでもあります。私たちの罪がイエス様を十字架に付けました。そんな私たちをイエス様は赦して下さいました。そんな私たちであっても、イエス様を信じて聖霊を受けるなら、私たちも人を赦すことができる筈です。聖霊を受けてイエス様が内に入って下さり、御霊の実を結ぶなら、私たちもまた人を赦すことができるようになるはずです。
人を赦すことは確かに難しいことです。でも御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が心の内で結ばれているなら、イエス様のように人を赦すことができる筈です。とはいえ、赦すことは難しいことです。例えば、日本が再び核兵器の攻撃を受けても、それでも核兵器の攻撃を行った者を赦すことができるだろうかと私自身に問い掛けた場合、赦すことがとても難しいことは確かです。でも赦せないとしたら、それは多分私の中に御霊の実が十分に結ばれていないからなのでしょう。核攻撃の例は極端ですが、赦しがたいことはたくさんあるでしょう。そのように赦しがたいことをした相手を赦すべきことを十字架のイエス様は説いています。赦しがたい相手であっても報復をせず、報復の連鎖を止める必要があります。
③赦し合わなければ平和は永遠に実現しない
赦し合わなければ平和は永遠に実現しません。赦さないなら報復が延々と繰り返されるだけです。
イエス様は弟子たちに三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。イエス様が三度もおっしゃったということは、「平安・平和」がとても大切だということです。「平安・平和」が大切なことは誰でも知っていることですが、私たちはイエス様が三度も繰り返したことの重さを、もっと受け留める必要があると思います。1番目のパートで話したように、聖書の一つの書に同じことが三度書かれていることは、それがとてもとても大切であるということです。
日野原重明さんが95歳の時に書いた『十歳のきみへ』(冨山房インターナショナル 2006)という本があります。日野原重明さんのことは、皆さんもよくご存知のことと思います。日野原さんは100歳を越えてもなお現役の医師として働き、5年前に105歳で亡くなられました。お父様は牧師で、日野原さんも7歳の時に洗礼を受けたクリスチャンです。

その日野原さんが亡くなる10年前の95歳の時に書いた『十歳のきみへ』という本は、タイトルの通り、十歳の子供たちに向けて書かれた本です。この本は5つの章から成り、最後の第5章の表題は「きみに託したいこと」です。この第5章の扉に日野原さんはこう書いています。
きみに託(たく)したいこと
わたしたちにはできなかった平和の実現。
きみたちならできると信じています。
わたしたちにはできなかった平和の実現。
きみたちならできると信じています。
日野原さんは、戦争を体験した世代です。戦争の悲惨さを知っている自分たちが平和を実現しなければならないという責任を感じていましたが、それができませんでした。そうして平和が実現できなかったことへの無念さをにじませながら、十歳の子供たちに向かって、こう書いています。
たがいにゆるし合っていける世界を、きみたちが実現してください。
ゆるすということは、仕返しをしたい衝動をただおさえるということではありません。傷つけられた痛みにじっとたえるだけでもありません。もちろん、相手から逃げ出すということでもありません。
「自分もさんざん痛い思いをしたけれど、相手も痛かったろう」
と、相手の位置に立って、相手の痛みを自分の痛みのように感じとったその先に到達できる態度です。とても人間的で、積極的な行動なのです。
「わたしはきみをゆるしたのだから、きみもわたしをゆるすべきだ」
と、交換条件を強要することはできませんが、相手もいつかわたしのことをゆるせるときが来るだろうと信じて待ちましょう。
きっとある日、相手は自分だけがこぶしをふりあげていたことに気づいてわれに返ることがあるかもしれません。自分があたえたきみの傷にようやく目がとまり、
「あいつも痛かったんだ……」
と、はっとするかもしれない。そう信じていたいと思います。
二人がおたがいの傷の痛みを思いやることができたときに、ほんとうの意味で仲直りへの第一歩がふみ出せます。
そうして、相手をゆるすことができたきみは、自分がようやくまた未来に向かって歩みを再開したことを実感するでしょう。けんかのあいだはずっと、相手にうばわれたものや相手から傷つけられたことだけで頭がいっぱいで、自分の未来のことを考えるよゆうなんてなくしていたときみは気づくでしょう。
争いのなかで失ったものは、たぶんもう元どおりになって返ってくることはないでしょう。それは悲しいですが、きみは相手をゆるしたときから、失ったものにいつまでもこだわり続けるきみから、これからのことを考えようとするきみに大きく変身しているはずです。人間としての大きな成長を手に入れたのです。(p.170-172)
ゆるすということは、仕返しをしたい衝動をただおさえるということではありません。傷つけられた痛みにじっとたえるだけでもありません。もちろん、相手から逃げ出すということでもありません。
「自分もさんざん痛い思いをしたけれど、相手も痛かったろう」
と、相手の位置に立って、相手の痛みを自分の痛みのように感じとったその先に到達できる態度です。とても人間的で、積極的な行動なのです。
「わたしはきみをゆるしたのだから、きみもわたしをゆるすべきだ」
と、交換条件を強要することはできませんが、相手もいつかわたしのことをゆるせるときが来るだろうと信じて待ちましょう。
きっとある日、相手は自分だけがこぶしをふりあげていたことに気づいてわれに返ることがあるかもしれません。自分があたえたきみの傷にようやく目がとまり、
「あいつも痛かったんだ……」
と、はっとするかもしれない。そう信じていたいと思います。
二人がおたがいの傷の痛みを思いやることができたときに、ほんとうの意味で仲直りへの第一歩がふみ出せます。
そうして、相手をゆるすことができたきみは、自分がようやくまた未来に向かって歩みを再開したことを実感するでしょう。けんかのあいだはずっと、相手にうばわれたものや相手から傷つけられたことだけで頭がいっぱいで、自分の未来のことを考えるよゆうなんてなくしていたときみは気づくでしょう。
争いのなかで失ったものは、たぶんもう元どおりになって返ってくることはないでしょう。それは悲しいですが、きみは相手をゆるしたときから、失ったものにいつまでもこだわり続けるきみから、これからのことを考えようとするきみに大きく変身しているはずです。人間としての大きな成長を手に入れたのです。(p.170-172)
このように日野原さんは十歳の子供たちに向かって、自分が仕返しをしたなら相手も痛むことになる。その相手の痛みを自分の痛みのように感じて仕返しをせず、赦すべきだと説きます。そうして、やがては相手もそのように痛みを感じる者へと変えられることを待つべきだと説きます。
これを十字架にたとえるなら、もし私たちが自分の受けた痛みの報復として相手にも痛みを与えるなら、それは十字架のイエス様を傷めつけることだ、ということではないでしょうか。十字架のイエス様は人の罪を赦すべきだと説いています。そのイエス様のおっしゃることを聞かないで相手に報復をするなら、それは十字架のイエス様の痛みを分からずに、さらにイエス様を傷めつけるのと同じことになります。私たちはイエス様の痛みを自分の痛みとして感じるべきです。そうして「平安があなたがたにあるように」と三度おっしゃったイエス様の声に耳を傾けて、十字架のイエス様を思い、報復する罪から解き放たれたいと思います。
おわりに
自分がとても大きな痛みを受けた場合、相手を赦すことは難しいかもしれません。でも小さな痛みのことなら赦すことは誰でもできることでしょう。そこから始めて、段々と大きな痛みも赦せるようになれば良いと思います。
小さな赦しであっても、赦すことで自分の中に平安が与えられることは、多くの人が経験していることと思います。相手を赦さない間は自分の中に平安はありませんが、赦せない気持ちを手放して相手を赦すなら、心に平安が与えられます。これはイエス様が与えて下さる平安なのでしょうね。そうして心が平安になるなら、さらに相手を赦せるようになり、赦すなら平安がさらに得られて、さらにまた相手を赦せるようになるという、好循環が生まれて来ると思います。
「平安があなたがたにあるように」と三度おっしゃったイエス様が私たちの内にいて下さるのですから、このイエス様のことばに耳を傾けていたいと思います。そうして、平安の中で、信仰を建て上げて行くことができる私たちでありたいと思います。
しばらくご一緒にお祈りしましょう。
「平安があなたがたにあるように」
「平安があなたがたにあるように」
「平安があなたがたにあるように」
「平安があなたがたにあるように」
「平安があなたがたにあるように」