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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

母の願いに全身全霊で応える神(2022.5.8 礼拝)

2022-05-09 08:33:36 | 礼拝メッセージ
2022年5月8日礼拝メッセージ
『母の願いに全身全霊で応える神』
【列王記第二4:32~37】

はじめに
 きょうは母の日です。そこで、聖書に描かれている母の一人である、シュネムの女に注目したいと思います。

 聖書に登場する女性のことを思う時、信仰によって育まれた心の強さを持つ女性が多いという印象があります。中でもシュネムの女は特に、信仰によってしか得られない強靭な心を持つ女性であるように思います。そのシュネムの女の迫力に圧倒された神の人エリシャは全身全霊で彼女の願いに応えようとしました。このシュネムの女とエリシャの記事から、私たちと神様との関係にも思いを巡らして行くことができればと思います。

 きょうの中心聖句は、列王記第二4章33節と34節です。

Ⅱ列王4:33 エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって【主】に祈った。
34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。

 そして、次の3つのパートで話を進めます。

 ①20個のパンで百人を満腹にしたエリシャ
 ②霊的な感性が優れていたシュネムの女
 ③母親の強い願いに全身全霊で応える神様

①20個のパンで百人を満腹にしたエリシャ
 シュネムの女を見る前に、まず預言者エリシャについて、簡単に見ておきたいと思います。

 エリシャは北王国で活動していた預言者でした。エリシャはエリヤから外套を受け継ぎましたから、エリヤとエリシャは先輩と後輩のような関係と言えるかもしれません。エリシャがエリヤから外套を受け継いだ話まですると長くなりますから、きょうは省略します(次聖日のBTC創立記念礼拝で、その箇所を開くことを考えています)。

 エリシャの話で皆さんの心に強く印象に残っているのは、左側のページの5章にある、ツァラアトに冒されたナアマンとエリシャの話ではないでしょうか。5章9節にあるように、ナアマンは馬と戦車でエリシャの家の入り口までやって来ました。ナアマンは重い皮膚病のツァラアトに冒されていて、エリシャに治してもらいたいと思っていました。そうして、いろいろありましたが、ナアマンのツァラアトは治りました。

 或いはまた、4章の42節から44節までには、エリシャがイエス様の「五千人の給食」とそっくりの奇跡を行ったことが記されています。「五千人の給食」では、イエス様は五つのパンと二匹の魚で、五千人のお腹を一杯にして、なおパンが余りました。エリシャもまた、イエス様と同じような奇跡をこの42節から44節までで行っています。エリシャがイエス様に似た預言者であることを見るために、ここを読んでおきましょう。私のほうでお読みします。

Ⅱ列王4:42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」
44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。のことばのとおりであった。

 こうしてエリシャは、大麦のパン二十個と、新穀一袋で百人のお腹を一杯にして、なおパンは余りました。このようにエリシャはイエス様に似た奇跡を行った預言者でした。

②霊的な感性が優れていたシュネムの女
 では、次のパートに進んで、シュネムの女がどのような女性であったかを見ましょう。シュネムの女が登場するのは、4章の8節からです。8節、

8 ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこに一人の裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになった。

 このシュネムの女は、霊的な感性がとても優れていた女性でした。というのは、彼女はエリシャが神の人であることに気付いていたからです。9節と10節、

9 女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。
10 ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机と椅子と燭台を置きましょう。あの方が私たちのところに来られるたびに、そこを使っていただけますから。」

 このように、エリシャが神の人であることにシュネムの女は気付いていました。でも、夫は気付いていませんでしたから、エリシャは普通にしていて、神の人のオーラを特に出していた訳ではないでしょう。オーラを出さなくても自然に神の人である雰囲気がにじみ出ていたのでしょう。それを感じる優れた霊性がシュネムの女には備わっていました。

 この、オーラを出していなくても、自然ににじみ出てくるものの例えとして、何が良いか考えたのですが、例えば1953年のハリウッド映画の『ローマの休日』のアン王女はどうでしょうか。オードリー・ヘップバーンが演じたアン王女は、ローマの市中では王女のオーラを消して、一般の女性として過ごします。でも、それでも消し切れない、にじみ出て来る王家の女性の気品がありました。この『ローマの休日』という映画は、それをとても上手く表現していたと思います(今週の金曜ロードショーで『ローマの休日』が放送されるようですね)。

 エリシャも、神の人のオーラを出していたわけではないと思います。でもシュネムの女はエリヤが神の人であることに気付き、夫は気付きませんでした。気付いたシュネムの女は優れた霊的な感性を持っており、夫は持っていなかったということでしょう。

 さて、細かい経緯は後で皆さんそれぞれで読んでいただくこととして、シュネムの女は神様によって男の子を授かりました。そして、その子が大きくなった時のことです。18節から20節をお読みします。

18 その子が大きくなって、ある日、刈り入れをする者たちと一緒にいる、父のところに出て行ったとき、
19 父親に、「頭が、頭が」と言った。父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じた。
20 若者はその子を抱き、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親の膝の上に休んでいたが、ついに死んでしまった。

 シュネムの女の膝の上で、子どもは死んでしまいました。普通であれば、呆然として何もできず、ただ泣くばかりではないでしょうか。しかし、シュネムの女は違いました。ここから猛然と行動を開始します。21節と22節、

21 彼女は屋上に上がって、神の人の寝台にその子を寝かせ、戸を閉めて出て行った。
22 彼女は夫に呼びかけて言った。「どうか、若者一人と、雌ろば一頭を私のために出してください。私は急いで神の人のところに行って、すぐに戻って来ますから。」

 我が子が死んだら泣き崩れて、しばらくは何もできないのが普通だと思います。でも彼女は違いました。彼女は脇目も触れずに一目散に神の人のエリシャの所に向かいました。そうしてエリシャに言いました。28節です。

28 彼女は言った。「私がご主人様に子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」

 シュネムの女は不妊の女で、子供のことはもうあきらめていました。ですから、子供は彼女がエリシャに頼んで授かったのではなく、エリシャが彼女のもてなしへのお礼がしたくて、子が授かるようにしたものでした。ですから、彼女はエリシャに猛然と抗議しました。

 このシュネムの女の抗議には、ハッとさせられます。私たちクリスチャンは、神様がすべての物を与えて下さっていることを覚えて、その恵みに日々感謝しつつ暮らしています。そして、試練さえも、これは神様が与えて下さった試練であると考えることが多いかもしれません。でも、シュネムの女は少し違いました。「この子を授かったのは、あなたの恵みによるものです。あなたが与えて下さった恵みです。その恵みによって、いま私は悲しんでいます。あなたが与えて下さった恵みによって、どうして私はこんなにも悲しまなければならないでしょうか」と抗議しています。

 このシュネムの女の信仰に比べると、自分の信仰は生ぬるいな、ということを思わされます。苦しみや悲しみの中にある時、物わかり良く、これも神様が与えて下さる試練なのだろうと思うよりも、シュネムの女のように猛然と抗議すべきなのかもしれませんね。でも、多分それはケース・バイ・ケースでしょう。試練と考えて受け入れたほうが良い時もあれば、シュネムの女のように猛然と抗議すべき時もあるのでしょう。はっきりしていることは、生ぬるい信仰であってはならない、ということだと思います。

③母親の強い願いに全身全霊で応える神様
 再びエリシャに目を向けます。ここでは、神の人エリシャのことを、人ではなくて、神様とはこういうお方なのだという目で見たいと思います。

 私たちは神の御子イエス様を通して、神様とはこういうお方なのだということを学んでいます。神様は目に見えないお方ですから、神様のことを知るのはとても難しいことです。でも神様は私たちのために御子のイエス様を地上に遣わして下さいましたから、私たちはイエス様を通して神様を知ることができます。それは神様の姿形がイエス様のようである、というのではなくて、神様の喜怒哀楽、神様はこのようなことに喜び、怒り、哀しみ、また楽しんでおられるのだということを、イエス様を通して知ることができます。

 先ほど4章42節から44節で見たように神の人エリシャはパン二十個と新穀一袋で百人のお腹を一杯にして、イエス様と似た奇跡を行っていますから、私たちはエリシャを通しても、神様がどのようなお方であるかを知ることができると思います。

 神の人エリシャはシュネムの女が猛然と抗議するのを聞いて、母の願いにすぐに応えようとしました。先ずは付き人のゲハジを子供の所に行かせました。ゲハジは若く、エリシャよりも早くに子供の所に行くことができます。29節です。

29 そこでエリシャはゲハジに言った。「腰に帯を締め、手に私の杖を持って行きなさい。たとえだれかに会っても、あいさつしてはならない。たとえだれかがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の頭の上に置きなさい。」

 すると母親は言いました。30節、

30 その子の母親は言った。「は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。

 彼女はエリシャに対して、「あなたが行って何とかして下さい」と言っているようです。霊的な感性が優れていたシュネムの女は、ゲハジではダメだと見抜いていたのでしょうね。神の人エリシャでなければ、この大変な事態を解決することはできないと分かっていたのだと思います。31節、

31 ゲハジは二人より先に行って、その杖を子どもの頭の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかった。そこで引き返してエリシャに会い、「子どもは目を覚ましませんでした」と報告した。

 案の定、ゲハジではダメでした。そして32節と33節、

32 エリシャが家に着くと、その子は寝台の上に死んで横たわっていた。
33 エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになってに祈った。

 この33節から、エリシャが全身全霊で母の願いに応えようとしていたことが見て取れます。この部屋に母親に入ってもらっても良いのではないか、と私なら思います。でも、エリシャは全身全霊で母の願いに応えるために、気が散らないように、祈りに集中するために、母親さえ、この部屋に入れませんでした。それから34節、

34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。

 エリシャは自分の顔と上半身が子供とぴったりと重なるように身をかがめました。すると、その子の体が温かくなってきました。この場面からは、福音書の「長血の女」の記事が思い起こされます。長血の女がイエス様の衣に触れた時、イエス様は力が出て行ったことを感じました(マルコ5:30)。シュネムの女の子供の体が温かくなった時も、エリシャの体からは、きっと力が出て行ったことでしょう。

 それでエリシャはもう1回自分の体にエネルギーをチャージします。35節、

35 それからエリシャは降りて、部屋の中をあちらこちらと歩き回り、また寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開けた。

 エネルギーがチャージされるまでエリシャはしばらく部屋の中を歩き回り、もう一度子供の上に身をかがめると、子供は息を吹き返しました。そして36節と37節、

36 彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい」と言った。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこでエリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい」と言った。
37 彼女は入って来て彼の足もとにひれ伏し、地にひれ伏した。そして、子どもを抱き上げて出て行った。

 子どもをよみがえらせたのは、エリシャではなくて神様です。神様はもっと大きな存在ですから、エリシャのようにはしていないでしょう。でも、神様の霊的な姿勢はエリシャと同じです。神様は全身全霊で子供をよみがえらせるために、力を送りました。神様は同時に何億人もの人を相手にすることができるお方です。それゆえ私たちは、神様は一人一人に対しては全力で相手をしないと思いがちかもしれません。でも、エリシャの姿勢を見るなら、神様は私たちの一人一人に対して全身全霊で向き合って下さるお方だと分かります。

 しかし、神様は必ずしも私たちの願い通りにはして下さいません。むしろ願い通りではないことの方が多いですね。きょうの場面の子供の体温が温かくなった箇所を読んで、こんなことを思いました。それは、この地上にはたくさんの人が住んでいる一方で、神様が使えるエネルギーの量は一定だということです。神様はいくらでも人にエネルギーを与えることができるお方ですが、エネルギーを与えすぎると、この地上は熱くなりすぎて、人が住めなくなってしまいます。きっと、そういう事情もあって、私たちの願いのすべてに応えるわけにはいかないのでしょう。でも、神様は決して見放しているわけではなく、一人一人に全身全霊で向き合って下さっているんだと、エリシャの姿勢からは見て取れます。

 先日の祈祷会ではホセア書を開いて、神様が苦悩しておられる様子を見ました。神様はすべての人の願いを聞き入れるわけにいかないことにも、きっと苦悩しておられるのだろうと、きょうのシュネムの女の子供の体が温かくなった場面を読んで思いました。

おわりに
 きょうは母の日です。シュネムの女は強烈な方法で、子に対する母の愛を示しました。でも行動の現し方はシュネムの女のようではなくても、子への愛情の強さはどの母親も同じですね。その母親によって私たちは育てられました。シュネムの女のような母もいると思いますが、違うタイプの母もいるでしょう。シュネムの女のようでなければいけないということは、決してありません。どの母親も子に対しては強い愛情を持ち、それを示します。そうして、神様はどの母親、どの子供に対しても全身全霊で相い対して下さっています。

 でも、様々な事情で不幸なこともたくさん起こります。そういう時は、シュネムの女のように、神様に猛然と抗議しても良いのだと思います。良くないのは、神様から目を離し、神様から離れて行ってしまうことです。ですから私たちは、シュネムの女のように、いつも神様の方を真っ直ぐに見ていたいと思います。そうして神様は私たちの一人一人に対して、全身全霊で向き合って下さるお方であることを覚えたいと思います。

 お祈りしましょう。
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心が内で燃えた時代の再来を祈る(2022.5.1 礼拝)

2022-05-03 08:44:23 | 礼拝メッセージ
2022年5月1日礼拝メッセージ
『心が内で燃えた時代の再来を祈る』
【ルカ24:27~32】

はじめに
 先日、10日ちょっと前の4月19日の火曜日に、静岡教区の教区会がZoomを利用したネット会議でありました。教区の会議はこの2年間はずっとネット上での会議ばかりですが、それまでの対面での会議と同じように、最初は必ずディボーションの時が持たれます。その時のディボーションで開かれたのが実は今日の聖書箇所のルカ24章でした。

 その時、私は不思議な一致を感じました。それは、その2日前の17日のイースター礼拝で、ヨハネの福音書を開いて少し似た話をしていたからです。どう似ていたかは、この後、第一のパートの中で話すことにします。

 きょうの中心聖句はルカ24章32節です。

ルカ24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①世に希望があった時は教会も伸びた
 ②今の世には本当に希望が無いのか?
 ③心が内で燃えた時代の再来を祈る

①世に希望があった時は教会も伸びた
 まず、きょうの聖書箇所のルカ24章を見ておきたいと思います。24章の一つ手前の23章でイエス様は十字架に付けられて死に、墓に葬られました。それは金曜日のことでした。そうして安息日の土曜日を挟んで、十字架から三日目の日曜日の日の出来事が、この24章には書かれています。

 この日の朝、墓に葬られたはずのイエス様の遺体がなくなっていました。ルカ24章1節から3節までをお読みします。

ルカ24:1 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。
2 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
3 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。

 そして、13節からは弟子たちのうちの二人が、この不思議な出来事について話し合っていたことが書かれています。13節と14節、

13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。

 この出来事はエマオへの途上で起きました。エルサレムからエマオまでは60スタディオン余り、下の注には約11kmの距離とあります。そこにイエス様が近づいて来ました。15節、

15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。

 イエス様は途中から合流されました。何キロぐらいから合流したかは分かりませんが、10kmぐらいは一緒に歩いたでしょうか。歩く速度が時速4kmだったとしたら、約2時間半を弟子たちはイエス様と一緒に歩きました。ただ、弟子たちはその近づいて来た人がイエス様とは分かりませんでした。16節です。

16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

 その二人にイエス様は聖書の話をしました。途中を飛ばして、きょうの聖書箇所の27節です。

27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 このイエス様の聖書の話によって、二人の弟子の心は内で燃やされました。二人はその話をしている人がイエス様だとは気付いていませんでしたが、心が燃やされていました。それで二人は話し合いました。きょうの中心聖句の32節です。

32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 4月19日の教区会のディボーション担当の先生は、私たち説教者もまた心が内に燃やされる説教が語れる者でありたいと熱く語られました。現代の牧師の私たちもイエス様がエマオの途上で二人の弟子たちの心を燃やしたように、聴く人々の心が燃えるような説教ができる者たちであらせていただきたいと語られました。

 この説教を聞いて私の心もまた燃やされたわけですが、同時に、その2日前にこの教会でしたイースター礼拝での説教との不思議な一致もまた感じました。イースター礼拝の説教箇所はヨハネ20章で、説教題は『空っぽの私に命を吹き込む主』でした。弟子たちは、イエス様がダビデの王国のような国を築いて、自分たちは側近として高い地位に就くことを期待していました。しかし、イエス様は十字架に付けられて、みじめな死に方をしました。そのことで弟子たちの心は空っぽになっていました。イエス様の遺体が消えて空っぽになった墓は、弟子たちの空っぽの心を象徴しているように見えます。

 しかし、そんな弟子たちの前に復活したイエス様が現れて、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハネ20:22)。こうして、空っぽだった弟子たちの心にイエス様によって命が吹き込まれました。

 また、この日の説教では明治4年にアメリカから来日して静岡の学問所で若者たちに西洋の近代科学を教えたエドワード・クラーク先生の話をしました。静岡学問所は駿府城の内堀の法務局の辺りにありましたが、クラーク先生の宿舎は来日当初は沓谷の蓮永寺にありました。そして、クラーク先生はこの宿舎の蓮永寺では静岡の若者たちに聖書を教えていました。

 この明治の初期に静岡でクラーク先生から聖書と科学を学んでいた若者たちは、主に徳川の幕臣の子弟たちでした。徳川の幕臣たちは幕末に薩長が中心の新政府軍に江戸城を明け渡して心が空っぽになっていました。そうして、空っぽの状態で徳川慶喜と家達と同時期に静岡の地に来ました。幕臣の子弟の青年たちの心もまた空っぽだったことでしょう。そんな空っぽな青年たちの心にクラーク先生の聖書と科学の話は命を吹き込み、彼らの心を熱く燃えさせました。

 自分が聖書の話をしたことで静岡の青年たちの心が熱く燃えたことでクラーク先生の心もまた燃やされたのでしょう。先生はアメリカに帰国した後、神学校に入って牧師になりました。この静岡のクラークの先生の話をした時、札幌のクラーク先生の話もしました。札幌のクラーク先生は帰国後に起こした事業に失敗して財産と名誉を失い、寂しい晩年を過ごしましたが、死を前にした病床で人生を振り返り、札幌の青年たちに聖書を教えることができたことが人生最大の喜びであったと語ったそうです。聖書の話は、それを語る側も聴く側も心が燃やされて、大きな喜びが与えられます。17日の礼拝では、語る側と聴く側の喜びが重なり合って喜びが一層増し加わる、増幅するんだという話をしました。そして、今の時代に牧師を志す若い人がいないのは、この喜びの増幅を妨げる何かがあるのだろう、その何かが分かれば、日本のキリスト教もきっと息を吹き返して復活するだろうという話をしました。

 その話をした2日後に教区会の説教で私もまた心を燃やされたことで、今の時代に欠けていることが少しずつ分かって来たような気がしています。それは、この第一のパートの表題に示したように、世の中に希望があった時には教会も伸びていましたが、今の時代には世の中全体に希望がほとんど感じられない状況にあるのではないかということです。

 徳川の時代、日本は鎖国をしていました。その間に西洋では科学技術がどんどん発展していました。鎖国が解け、明治に入って若者たちは心を躍らせながら新しい西洋の知識を貪欲に吸収して行きました。そして、この西洋の近代科学によって日本も発展するという明るい希望を持っていました。そういう雰囲気の中で聖書も学ばれていました。皆が皆、聖書を信じたわけではありませんが、科学によって世の中が良くなるという雰囲気があったことは大きいと思います。聖書によって世の中が良くなるということと、科学によって世の中が良くなるということの方向が一致していたからです。

 札幌農学校でクラーク先生が青年たちに教えたのもアメリカ式の大規模農業の技術でした。当時の日本には大規模農業の考え方はありませんでしたが、クラーク先生はそれを伝えました。と同時に聖書を教えました。それまでとは異なる近代的な農業技術と共に聖書が教えられたことで若者たちの心が燃やされ、クラーク先生の心もまた燃やされました。

 第二次世界大戦後の日本も同様ではないでしょうか。戦後の日本は科学技術でまだまだ欧米に後れを取っていましたから、追い付き追い越せで多くの若者が科学や工業技術の習得を志しました。湯川秀樹博士が1949年に日本人初のノーベル賞を受賞した効果も大きかっただろうと思います。1960年代にはアメリカとソ連が競って有人の宇宙ロケットを打ち上げて科学は夢を人々に与えました。1970年の大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」で、当時の日本人の多くは科学に信頼を寄せて、そこに希望の光を見ていたように思います。1980年代に入ると、科学に対する信頼は薄らいで来ますが、それでも1985年のつくば科学万博の頃までは、まだ科学に希望の光を感じていたように思います。

 そして1986年が転機の年と呼べるかもしれません。1986年1月にアメリカのスペースシャトルのチャレンジャー号が打ち上げ時に事故を起こして乗務員全員が死亡しました。1986年4月にはソ連(今はウクライナ)のチェルノブイリ原発が暴走して爆発するという大事故が起きました。そうして科学の未来に希望の光を見ることが難しくなった中で日本では1986年の12月からバブル景気が始まりました。不動産価格や株価が上昇して、金融業などに就職した方が給料が良いということで理系の学生でも文系の仕事に就くという現象が起きました。そうして、若者の理系離れが進み、バブルも崩壊して、失われた20年、或いは30年という時代が始まりました。そういう悪い時期にオウム真理教の事件が起きて、教会は大きなダメージを受けました。

 教会が伸びていた時期は、世の中が科学に信頼を寄せて明るい希望を持っていた時代と大体一致しているように思います。その希望がほとんど無くなり欠けていた時期にオウム真理教の事件が起きたように思います。

 暗い時代にこそ、多くの方々に教会に来てイエス様の光に照らされて欲しいと私たちは願いますが、世の中が停滞している時期は教会もまたそれに連動して停滞してしまう傾向があるようです。

②今の世には本当に希望が無いのか?
 現代は世の中全体に希望が失われているように見えます。その中で若者の多くも明るい希望を持って生活しているようには見えません。政治にも関心が薄く、20代の投票率は最近の衆議院選挙では4回連続で30%代です。20代の投票率はどの年の選挙でもほとんどの場合、他の世代より投票率が低いのですが、それでも私が20歳だった1980年の衆議院選挙では20代の63%が投票していました。20代の63%が一番低かったので、30代以上の投票率はもっとありました。それが今や20代の投票率は30%台で、全体の投票率は50%台です。1980年には最低の20代でも63%が投票していたのに、今やあらゆる世代が低調です。10年前にバブル崩壊から20年が経った時は「失われた20年」と言われ、その10年後の今は「失われた30年」と言われています。このように世の中に希望が見出せない時は教会も低調になるのでしょう。

 さてしかし、今の世は本当にそんなに希望が無いのでしょうか?もちろん、そんなことはないと思います。3年目に入ったコロナ禍やロシアとウクライナの戦争など暗いニュースが多い今の時代ですが、希望はあります。

 例えば、今回のコロナ禍では新しいワクチンが開発されて、大きな効果が発揮されました。コロナウイルスは突然変異によって、姿を変えますからワクチンを接種している人でもなお感染して、未だに終息しませんが、それでももし、新しいワクチンが開発されていなかったら、もっと大変なことになっていただろうと思います。

 先ほど話したような1986年以降の科学に希望の光が見えなくなった頃に比べると、今はまた希望が持てるように思います。1970年に大阪万博が開かれていた頃のような輝きではないとしても、新型コロナウイルスのワクチンが多くの人の命を救い、人の動きを再び活発にする働きを見るなら、やはり科学の力は大きいと感じます。

③心が内で燃えた時代の再来を祈る
 最後のパートに移って、きのう静岡聖文舎に入荷したばかりの新刊本を紹介したいと思います。いのちのことば社の『DNAに刻まれた神の言語 遺伝学者が神を信じる理由』(2022)という本です。著者はアメリカ人のフランシス・コリンズという遺伝学者で、翻訳したのは中村昇さんと中村佐知さんのご夫妻です。中村佐知さんは礼拝でも紹介したスコット・マクナイトの『福音の再発見』(2013)を翻訳した方で、2020年のインマヌエルのeラーニングの『霊的観点からみる「境界線」』の講師も務めた方です。



 この『DNAに刻まれた神の言語』は、実は14年前にNTT出版から出された『ゲノムと聖書 科学者、〈神〉について考える』の新装改訂版です。著者のコリンズはクリスチャンの遺伝学者で、DNAの解析結果からは進化論が正しいことは明らかであることを説くとともに科学と信仰は対立することなく両方に信頼を寄せ得ることを、この本の中で説いています。14年前の『ゲノムと聖書』は出版されてすぐにイムマヌエルの教報でも新刊書のコーナーで紹介されていましたから、当時神学生の1年生だった私も興味を覚えてすぐに購入して読みました。

 この、「進化論は正しい」とクリスチャンの遺伝学者が説く本が14年の時を経て福音派の出版社の、いのちのことば社から新装改訂版として出版されたことに科学と信仰の間の溝がようやくここまで埋まって来たのだなと私は感慨深く思っています。それで、『ゲノムと聖書』を既に持っていますが、昨日、入荷したばかりの『DNAに刻まれた神の言語』も静岡聖文舎に行って買い求めて来ました。

 この新装改訂版には14年前には無かった解説が後ろにあります。最後に、その解説の一部を紹介したいと思います。解説を書いたのは理系出身の牧師で聖契神学校の校長の関野祐二先生です。先生は学生時代を振り返ってこのように書いています(説教では分かりやすくするために一部表現を替えて話しましたが、本ブログでは原文のまま引用します)。

 筆者の受洗は大学二年で、目下の悩みは「何のために会社へ行くのか」だった。キリスト者学生団体のスタッフ曰く「伝道のため」。伝道の大切さはわかるが、これでは仕事の意義を説明していない。背景に「十字架による罪の赦しと天国行きの福音」理解の強調があったことに気付いたのは後々のことである。それ自体は正解でも、滅び行くこの世からの脱出を救いの目的とするなら、地上における諸活動の意義は見いだしにくい。

 創世記で、神のかたちに創造された人類が最初に与えられた使命は地上を支配することだった(創世記1:28)。聖書全巻は、罪によって壊れた世界を回復するために、神が主導して神のかたち/友である人類と契約を結び、神と人が共働しながらこの地上を治め、新天新地完成に至る贖いの物語であり、今のこの世は神の国完成を先取りして被造物世界を管理運用し、ある種の連続性をもってその成果を新天新地へ持ち込む舞台に他ならない。だから、人類がその歴史の中で築き上げてきた文化、芸術、科学などの営みはすべて、神の物語にあって価値あるものであり、被造物管理と神の国の進展のわざとして積極的に携わるべきなのだ。(p.338)

 この関野先生の解説は、今まで私が上手く説明できていなかったことがとても上手くまとめられていると思いました。やはり私たちは、イエス様の弟子として、きよめられて互いに愛し合いながら、この地上を良くして行くことに携わるべきです。天国への切符を手にして天国へ行くことばかり考えるのでなく、いずれ天国はこの地上に降って来て新天新地が創造されるのですから、その時に備えて、この地上を良くすることに携わるべきです。祈りつつ文化・芸術・科学に携わることで、或いはきよめられて互いに愛し合うことで、この地上に平和がもたらされるように働くべきです。

 明治の初期や第二次世界大戦後に心燃やされた聖書の話に耳を傾けた人々も、単に天国に行くことを欲していたのではなく、この地上が科学と信仰、その他によって良くなるのだと無意識の中で感じていたから、心が燃やされていたのだと思います。この地上はもっと良くなるのだという期待感が全体にあるなら、それは聖書が説く福音の方向ですから、まだ信仰を持っていない人々も神様に背中を押されて教会を訪れやすくなるのだろうと思います。ですから私たちは、心が内で燃やされていた時代の再来を祈りたいと思います。

おわりに
 去年から私は自治会の役員を務めていて、さらにあと一年務めることになっています。自治会の会合に出るようになって知ったことは、自治会の活動にも昔は若い人がもっと多く集っていて、地域を良くするために働いていたということです。やっぱり、地域を良くしよう、地上を良くしようという思いが少ないと、教会にも人が集まりにくいのかなと、思うことです。

 でも、もしかしたらそれは、逆なのかもしれません。教会が、この地上を良くしていくために働くなら、地域の方々も、もっと地域を良くして行こうと元気付けられて、教会にも人が集うようになる、これがあるべき姿でしょうとイエス様はおっしゃっているように感じます。そうなったら素晴らしいなと思います。

 かなりアンビシャスな考え方かもしれませんが、札幌のクラーク先生も「ビー・アンビシャス、大志を抱け」と言っていますから、教会が地域を良くして行くのだという大志を抱いて、イエス様に祈りつつ、進んで行きたいと思います。そうすれば、多くの方々の心が内で燃やされる時代が再び来ることも、決して夢ではないと思います。

 お祈りいたしましょう。

ルカ24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
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永遠の中の主が共にる御国(2022.4.24 召天者記念礼拝)

2022-04-26 11:09:06 | 礼拝メッセージ
2022年4月24日召天者記念礼拝メッセージ
『永遠の中の主が共にいる御国』
【マタイ1:18~23】

はじめに
 この教会に私が遣わされてから早いもので3年が経ちました。この教会で召天者記念礼拝を行うのは今年で4回目になります。

 3年前にこの教会で初めて召天者記念礼拝を行った時、このように召天した先輩方の遺影を前方に並べるのを見て、それまでに神学生や牧師として遣わされた教会では、このようなスタイルでの召天者記念礼拝を行ったことはありませんでしたから、とても新鮮に感じました。

 2年前の2020年の春は4月から5月に掛けてコロナの緊急事態宣言が発令されましたから、召天者記念礼拝は秋の10月に延期しました。この年は5月にN兄が天に召され、さらにその1ヶ月後の6月にS兄が天に召されました。ですから10月の召天者記念礼拝は、このお二人の兄弟のことを格別に強く思いながらの礼拝となりました。皆さんはそれぞれのご家族のことを思いながらの礼拝だったと思いますが、私自身はやはりNさんとSさんを強く思いながらの礼拝でした。

 去年の2021年の4月は、その1ヶ月前の3月20日にM兄を天に見送ったばかりでしたから、やはりMさんのことを強く思いながらの礼拝となりました。

 そして、この1年間は守られて天に見送った方はいませんでしたから感謝でしたが、しかし、今年は今年でまた特別な感慨があります。先週の礼拝の後、皆さんがこの写真を載せるための台を準備して下さり、写真が並べられました。それで私はこの写真を見ながら1週間を過ごしたわけですが、この写真の信仰の先輩方は今、平和に満ちた永遠の中の御国におられるのだなということを、これまでになく、とても強く感じました。それは今、ウクライナが戦場となって悲惨なことが起きているからです。戦争のニュースをこの2ヶ月間、毎日のように見ていて心を痛めていますから、先輩方は平和に満ちた御国にいるんだな~ということを、今年はとても強く感じました。

 私は戦後の生まれです。生まれた年の1959年以降も世界では多くの紛争や戦争がありました。しかし、今年のロシアとウクライナの戦争は今までの戦争と決定的に違う点があると思います。それは、ウクライナの市民がスマホとSNSなどを用いて戦場となった国の悲惨な様子を直接世界に向けて発信しているということです。それまでの戦争は報道記者が戦場に入るという形でしか報道されませんでした。一般市民には発信する術がありませんでした。それが今はスマホやSNSで報道記者ではない一般の市民によって直接、悲惨な様子が伝えられています。或いはまた、日本にいるウクライナ人が現地に残っている家族とテレビ電話で通話している様子なども報じられています。現地の家族は本当に危険な中にいる様子が表情と声から良く分かりますし、日本にいるウクライナ人も現地の家族のことが心配で心配でたまらない様子も表情と声から分かります。

 こういう生々しい映像を毎日のように見ていますから、信仰の先輩方は平和に満ちた御国にいるんだな~ということを、今年はとても強く感じています。御国が平和なのは、そこに主がおられるからです。聖書には、神が私たちと共におられると書かれている記事があちこちにあります。きょうの中心聖句は、その中の一つのマタイ1章23節です。

マタイ1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 そして、次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①後の者と先の者が混ざって時間の前後がない御国
 ②「先→後」の時間の前後関係が平和を妨げる要因
 ③主が共にいる御国の平安の恵みに、地上で与る

①後の者と先の者が混ざって時間の前後がない御国
 きょうの聖書箇所のマタイ1章は、クリスマスの時期によく開く箇所ですが、きょうの召天者記念礼拝のこの機会を、神様が私たちと共におられるというインマヌエルの恵みに改めて思いを巡らす機会としたいと思います。ここに並んでいる信仰の先輩方は今もう神様が共におられる恵みにどっぷりと浸かっています。この状況を用いさせていただいて、私たちも改めて、神様が私たちと共におられるインマヌエルの恵みについて、改めて思いを巡らす機会としたいと思います。

 イエス様は、私たちが神様と共にいることができるようにして下さるために、天からこの世に遣わされました。そうして十字架で死んで復活した後はまた天に帰り、今も天におられます。この天におられるイエス様をとても身近に感じて、神様が私と共におられることを感じるなら、それは既に天国に入れられているのと同じで、自分は救われているという「救いの確証」が得られます。この「救いの確証」を得ることで私たちは深い平安を得ることができます。ですから、「救いの確証」を得ることはとても大事なことです。

 少し極端なことを言えば、「救いの確証」が得られるなら、キリスト教の教理の難しいことはそんなに知らなくても良いと言えるでしょう。英語や中国語、韓国語などの外国語を学ぶ時のことを考えれば分かると思いますが、文法などを知らなくても、その外国語が自然と身に着くなら、それが一番良いでしょう。しかし、ある程度の年齢になると外国語を自然に身に着けることは難しくなりますから、その外国語の文法を学ぶことをします。

 キリスト教の十字架の教理なども外国語の文法のようなものだと言えるでしょう。教理を学ばなくても、イエス様の方をしっかりと向くことで義と認められ、そのことで神様が共にいて下さることを感じるようになり、「救いの確証」を得るなら十字架の意味も何とはなしに分かる、むしろそのほうが自然ではないかなと思います。

 私は牧師になる前は大学の留学生センターという所にいて、外国人に日本語を教えていました。18歳ぐらいで日本に来て日本語を学ぶ学生は、文法などはあまり気にしないでどんどん日本語が上手になります。しかし30歳を越えて博士の学位を取ってから研究のために日本に来た、というような人は文法から入りますから、なかなか上手になりません。キリスト教も、神様が共におられるということを自然に感じることができるようになるなら、それが一番ではないかと思います。

 さてしかし、神様が共におられると感じることを妨げるものがあります。それは私たちの多くが次のように考えていることです。

「私たちの信仰の先輩方は今、天の御国にいます。私たちよりも先に天の御国に入っていて、今まだ地上にいる私たちはイエス様を信じれば天の御国に入ることが許されて、地上生涯を終えたら先輩方よりも後から天の御国に入ります。」

 こう考えることは、間違ってはいないのかもしれませんが、私たちはあまりにも「先」とか「後」とか、「先輩」とか「後輩」とか、時間の後先にとらわれ過ぎているように思います。

 一つ質問をします。私たちが先輩たちの後から天の御国に入ったら、先輩たちを「先輩」と呼ぶでしょうか?「先輩」と呼んで敬うでしょうか?

 答は、天の御国は先輩も後輩もありませんから、「先輩」と呼ぶことはありません、それが答でしょう。

 イエス様は福音書で、「後の者が先になり、先の者が後になる」と何度か話していますね。例えば週報p.2に載せたように、マタイ19:30では、

マタイ19:30 先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。

とおっしゃり、マタイ20:16では

マタイ20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。

とおっしゃいました。トランプのカードを混ぜることを考えると分かりやすいと思いますが、カードを混ぜる時、後のものが先になり、先のものが後になります。それを何回か繰り返す間に、カードはきれいに混ざって後も先もなくなります。天の御国も、後の者が先になり、先の者が後になることが繰り返される間に、後も先もなくなって、先輩も後輩もなくなります。

 ですから、ここ(写真台)におられる信仰の先輩方は地上においては先輩ですが、天の御国に入れば先輩も後輩もありません。皆が平等です。

②「先→後」の時間の前後関係が平和を妨げる要因
 天の御国では先輩も後輩もありません。トランプのカードのように、よくシャッフルされていて、時間の前後関係はありません。何故このことを強調するかというと、この後先の問題が神様が共におられると感じることを妨げるだけでなく、平和の実現をも妨げる要因になっているからです。争い事はどちらかが先に、相手に不快な思いをさせることから始まります。でも争い事の多くは些細なことから始まりますから、どちらが先に相手を不快にさせたのか、よく分からないことも多いのではないでしょうか。

 或いは、先輩と後輩という関係があると、よくあるパターンとしては先輩がいばって後輩に不快な思いをさせるということがあります。

 4月から新年度が始まって、今の時期、夕方に外を走っているとランニングコースの近くの高校の部活の生徒たちにも新しい1年生が加わっているのが見られます。様子を見ていれば、ああこれは新入生だなというのが大体は分かります。10日ぐらい前でしたが、新入生が先輩に何かの歌を歌わされていました。たぶん中学の校歌を歌わされていたんだと思います。なぜ分かるかというと、私も静岡の別の高校で1年生の時に先輩に中学の校歌を歌わされたことがあるからです。そして、2年生になった時は今度は後輩の1年生に中学の校歌を歌わせました。どこの高校でも同じのようですね。

 この春、新入生が歌を歌わされている様子を見ながら、懐かしいというよりは、過去の自分の罪は棚に上げて、まだこんなことやってるんだと思いました。先輩・後輩という時間の前後関係があると、この様な先輩が威張るということが起きて心の平和を乱します。

 或いはまた、言い争いになった時に古いことを持ち出されることもよくあるパターンではないでしょうか。古いことを持ち出されると、カチンと来て、争いがエスカレートすることも、よくあるパターンです。時間の前後関係があると、こういうことになります。

 大学の留学生センターで働いていた時、日韓留学プログラムを担当するようになって、日韓関係の歴史も少し学びました。20世紀の前半に日本は朝鮮半島を植民地化して、そこに住む人々に日本語を使うように強制しました。軍隊にも徴兵して日本兵として出征させました。日本の軍需工場でも働かせました。多くの女性が日本の従軍慰安婦にもなりました。20世紀の前半にそういうことを日本は朝鮮半島の人々に対してしていましたから、このことを韓国の人々が不快に思っていることは以前から知っていました。でも、韓国の人々が豊臣秀吉の朝鮮出兵に対しても21世紀になっても不快感を持っているということを日韓留学プログラムを担当するようになってから知りました。

 日本と韓国はお隣同士で、どちらも中国から強い影響を受けた歴史がありますから、日本と韓国は兄弟国と言えるかもしれません。そして韓国の方が地理的には中国に近くて、国らしい国ができたのは韓国の方が早かったですから、韓国が兄で日本は弟ということになります。朝鮮半島に百済・新羅・高句麗の三国が成立したのが紀元前1世紀で日本に邪馬台国ができたのはそれより200~300年ぐらいも後ですから、韓国のほうが圧倒的にお兄さんです。韓国にはお兄さんとしてのプライドもあることでしょう。

 ロシアとウクライナも兄弟国であると言われていますね。ウクライナの方が、モスクワが首都のロシアよりも地中海や西ヨーロッパに近くて早くに発展したので、ウクライナのほうがお兄さんなのだそうです。ウクライナがロシアの侵攻に徹底的に抵抗しているのは、お兄さんとしてのプライドもあるのかもしれません。どちらが先に発展したかということは、国のプライドに大きく関わっているように思います。

 でも私たちは、イエス様が「後の者が先になり、先の者が後になります」とおっしゃったことを、しっかり心に留めて、どちらが先でどちらが後かということからは自由になりたいと思います。後先の問題から皆が自由になるなら、世界は平和に向かって行くことでしょう。
 
③主が共にいる御国の平安の恵みに、地上で与る
 きょうの中心聖句のマタイ1:23をもう一度お読みします。

マタイ1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 イエス様は人の子として地上に遣わされて、ペテロやヨハネ、マタイたちと共に地上で過ごしました。マタイは取税人でしたがイエス様の12弟子の一人になりました。その時のことをマタイは9章9節で書いています(週報p.2)。

マタイ9:9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

 こうしてマタイはイエス様の弟子の一人になってからは、いつもイエス様と共に過ごすようになりました。そうして、イエス様が天に帰られた後のペンテコステの日に聖霊を受けましたから、今度は聖霊を通していつも天のイエス様を近くに感じるようになりました。きょうの中心聖句のマタイ1:23は、そういう中で書かれたものです。ですから、「神が私たちとともにおられる」とマタイが書いた時、マタイはきっと天のイエス様を身近に感じていたことでしょう。マタイにとって天の御国とは、死んで地上生涯を終えてから入る所ではなくて、既に入っているも同然でした。

 ヨハネもイエス様の十二弟子の一人ですから、地上生涯のイエス様と共にいて、イエス様が天に帰ってからは聖霊を通してイエス様との交わりの中に入れられていました。礼拝で良く引用するヨハネの手紙第一1:3は、そのことを書いています。

Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 ヨハネにとっても天の御国は地上生涯を終えてから入る場所ではなくて、既に入っているのも同然でした。そのヨハネは御国がどんなに素晴らしい場所であるかを幻で見る恵みに与り、その御国の光景を黙示録の21章と22章に書きました。その一部をもう一度読むことにしましょう。ヨハネの黙示録21章22節から26節までを私のほうでお読みします。聞いていただくだけでも良いですが、開ける方は開いて下さい(新約p.517)。

ヨハネ21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
26 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。

 23節には、この御国は太陽も月も必要としないとありますから、太陽が昇ったり沈んだりすることがありません。ですから25節にも書いてありますが、ここには夜がありません。太陽が昇ったり沈んだりの繰り返しがありませんから、昼と夜の繰り返しがありません。つまり、ここには「昨日→今日→明日」という日付の前後関係がありません。時間の後先がありません。

 そして、私たちの教会の信仰の先輩たちは、この後先の前後関係がない御国の中にいます。この黙示録21章の始めには天の御国が地上に降って来る光景が書かれていますから、これは未来のことと思うかもしれません。でも御国に入っている先輩方にとっては既に時間の前後関係がない場所にいますから、既にこの御国の中にいます。

 そして、私たちもイエス・キリストを信じることで、ヨハネが第一の手紙1:3に書いたように、父と御子イエス様との交わりに入れられますから、私たちもまた後先の時間関係から自由にされています。普段の日常生活では時間に縛られて後先の関係から自由になることはなかなかできませんが、お祈りをして聖書を開いてみことばに触れ、ディボーションの時を持って神様との交わりに入れていただくなら、後先の前後関係からは自由になれます。

 この後先の関係から自由になることで、私たちは平和を実現できます。どちらが先に相手を侮辱したとか、どちらが先に暴力をふるったとか、どちらが先に生まれた兄だから弟よりも偉いんだとか、そういう後先の関係から自由になるなら、争い事に発展することはずっと少なくなり、平和を実現できるでしょう。

おわりに
 きょうのメッセージを締めくくります。きょうは召天者記念礼拝で、多くの信仰の先輩方がここにおられます。その中のお一人にNさんのお兄さんのKさんがいます。Kさんは24歳の若さで天に召されましたから、この写真だけ見ると、弟のNさんのほうが、ずっと年上に見えます。これだけを見ても、御国には後も先もないことが分かると思います。

 Mさんはイエス様を信じたのが私たちよりも後ですが御国には先に入りました。そうしてイエス様のみもとで憩っておられます。やはり御国には後も先もありません。

 この、後も先もない御国におられる信仰の先輩方、そしてイエス様、そして天の御父に心を寄せることで、私たちはこの地上にいながらにして、時間の後先の関係から自由になり、永遠の神様が共におられることを感じて深い平安を得ます。

 日頃、時間に縛られて生きている私たちは、御国での平安が得られるのは地上生涯を終えてからだと思ってしまいがちですが、そんなことはありません。イエス様を信じてイエス様が身近にいることを感じ、神様が共におられることを感じるなら、いつでも、この世の後先の関係から解放されて深い平安を得ることができます。

 この深い平安を得て、戦争が絶えないこの世にあって、イエス様が与えて下さる深い平安を証しできる私たちでありたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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空っぽの私に命を吹き込む主(2022.4.17 イースター礼拝)

2022-04-19 05:53:47 | 礼拝メッセージ
2022年4月17日イースター礼拝メッセージ
『空っぽの私に命を吹き込む主』
【ヨハネ20:19~23】

はじめに
 主のご復活を皆さんと心一杯喜び、感謝したいと思います。
 金曜日の午後3時頃に十字架で死なれたイエス様は日が沈む前に墓に葬られました。 そうして、安息日の土曜日を挟んで日曜日の朝にあった出来事を、交読の時にご一緒に読みました。このヨハネ20章の前半の場面も、後で短くご一緒に見ることにしています。そして、きょうの聖書箇所は20章の19~23節で、中心聖句は19節と20節です。
 
ヨハネ20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①期待に胸を膨らませていた弟子たち
 ②イエス様の受難で空っぽになった心
 ③空っぽの私に命を吹き込むイエス様

①期待に胸を膨らませていた弟子たち
 このパートでは、イエス様が十字架に掛かる前の弟子たちについて考えたいと思います。
 福音書には弟子たちが、誰が一番偉いかを議論していたという記述がありますね。ルカの福音書には2度も出て来ます。

ルカ9:46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。

ルカ22:24 また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。

 イエス様が北のガリラヤから南のエルサレムに行くまでの間、各地で群衆がイエス様のところに押し寄せました。ザアカイがいたエリコの町では、ザアカイは木に登らなければイエス様の姿が見えないほど、大勢の人がイエス様を見ようと群がっていました。

 そうして、先週も見たようにイエス様がロバの子に乗ってエルサレムに近づいて行った時には、人々は道に自分たちの上着を敷いて大歓迎しました。このように群衆がイエス様のところに押し寄せて来ていた時、弟子たちはイエス様のすぐそばにいましたから、きっと得意になってしまっていたんだろうな~と思います。自分はぜんぜん偉くないのに、まるで自分が偉くなったように、すっかり勘違いしてしまったように思います。

 やがてイエス様がダビデのような王様になったら、自分たちもイエス様の側近として高い地位が与えられるであろうと、妄想が膨らんで、すっかり舞い上がってしまっていたかもしれません。それゆえ最も高い地位が与えられるのは誰か、一番偉いのは誰か、そんな議論をしていたのでしょう。

 比較の対象にしたら気の毒かもしれませんが、与党の大きな派閥に所属している国会議員を思い浮かべると良いのではないかと思います。大きな派閥に属していて、当選回数がある程度になっていれば、大臣になれます。国会の答弁でも何でも官僚が原稿を作ってくれますから、それを読むだけで良くて、言っては悪いですが、派閥の親分が偉ければ、弟子は大したことがなくても、国の偉い地位に就けてしまいます。選挙区がある地元では偉いのかもしれませんが、国の政治の大臣には国レベルの実力がある人に大臣になってほしいと思います。でも親分が偉いと大臣にふさわしい実力が無くても大臣になれてしまいます。

 イエス様の弟子たちも、イエス様と一緒に旅をして各地で大歓迎されているうちに、まるで自分が歓迎されているかのように勘違いをして、やがてイエス様の側近としてダビデの王国の大臣になれるぞと期待で胸を膨らましていたのでしょう。

②イエス様の受難で空っぽになった心
 でも、イエス様が捕らえられて十字架で死刑になって死んでしまったことで、弟子たちの期待は打ち砕かれました。

 どうして、こんなことになってしまったのか、弟子たちは訳が分からなかったことでしょう。胸にぽっかりと穴が空くという表現がありますが、そんな感じではなかったかと思います。イエス様が葬られた墓が空っぽになったことは、弟子たちの心の中もまた空っぽになったことをも表現しているように感じます。

 ヨハネ20章を見て行きましょう。1節と2節、

ヨハネ20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」

 マグダラのマリアは墓をふさいでいた石が取りのけられているのを見て、ペテロともう一人の弟子、これはヨハネでしょう、ペテロとヨハネに知らせました。そしてペテロとヨハネも墓に駆け付けて、墓の中に入り、イエス様の遺体が無くなっていることを確認しました。2節にあるようにマリアは誰かがイエス様の遺体をどこかに持って行ってしまったと思い込んでいて、ペテロとヨハネもそう思ったことでしょう。9節に、

9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。

とあるからです。この時イエス様は既によみがえっていました。そうして、少し後にマリアの前に現れました。しかし、この時、10節にあるようにペテロとヨハネは自分たちのところに帰っていました。弟子たちの心の中を想像すると、本当に空っぽの墓のように空洞になってしまっていたのではないかなと思います。弟子たちは金曜日のイエス様の受難の出来事についてでさえ、心の整理がぜんぜん出来ていませんでした。どうして、こんなことになってしまったのか、ぜんぜん分かりませんでした。それに追い打ちをかけるように、今度はイエス様の遺体を誰かが持って行ってしまいました。次から次へと予想していなかった想定外のことが起きて、思考停止の状態、一頃よく使われた表現を使うなら「頭の中が真っ白になり」、何も考えられない状態になってしまったのではないでしょうか。

 ほんの数日前までは、自分たちは大臣のような高い地位に就けるのではないかという期待に胸を膨らませていました。その期待が打ち砕かれて、今はユダヤ人たちを恐れて、隠れ家のような所に身を潜めていました。

 そんな風に、この数日間であまりにも色々なことがありすぎて、何も考えられない状態になっていたことでしょう。そんな弟子たちのところに、またしても驚きの情報がもたらされました。マグダラのマリアが、復活したイエス様に会ったという情報でした。弟子たちは、信じられなかったことでしょう。混乱して何も考えられない状態のところに、死んだイエス様がよみがえったという普通では有り得ないことを聞いても、とても信じられなかったことでしょう。

 24節以降に、トマスがイエス様の復活を信じなかったことが書かれていますが、当然のことだと思います。ペテロたちも復活したイエス様が目の前に現れるまでは、マグダラのマリアが言ったことが信じられなかったに違いありません。何も考えられない空っぽの状態のペテロたちには、マグダラのマリアの言うことばは、空しい響きでしかなかったのではないかと思います。

③空っぽの私に命を吹き込むイエス様
 そんなペテロたちの前にイエス様が現れました。
 最後の3番目のパートに進んで19節と20節、

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

 「弟子たちは主を見て喜んだ」とありますが、それは驚きを含んだ喜びであったことでしょう。エ~!マリアの言ったことは本当だったんだ、エ~、ホントですかイエス様?生きてらっしゃるんですか、イエス様?きっと驚きと喜びが入り混じった感じではなかったかと思います。

 それが一段落してから、やがてしみじみと、本当の喜びが心の奥底からジワジワとしみ出して来たのではないでしょうか。そうして、しみじみと喜びを噛みしめている弟子たちにイエス様は、もう一度語り掛けました。21節と22節です。

21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

 今度はただの喜びではなく、心に命が吹き込まれる思いがしたのではないでしょうか。この時から50日目の五旬節の日に弟子たちは聖霊を受けてイエス様を力強く宣べ伝え始めます。そのための準備が、ここから始まりました。そして23節、

23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 イエス様が十字架に掛けられる前、弟子たちは、誰が一番偉いのかの議論をしていました。ルカの福音書には二度もそのことが書かれていますから、きっと、もっと何回も議論していたのでしょう。議論というより喧嘩みたいな言い争いになっていたかもしれません。王であるイエス様の次に偉い総理大臣になるのは、俺様だ、いや違う俺様だ、みたいな感じで、興奮してつかみ合いの喧嘩になりかねないぐらいの勢いで言い争っていたかもしれません。

 自分ではぜんぜん偉くないのに、イエス様の側に付いていたということだけで、すっかり偉くなったつもりになっていました。そうして、人よりも自分のほうが優れていることを主張し合っていたとしたら、それは大きな罪です。イエス様は最後の晩餐の時に、自らへり下って弟子たちの足を洗いましたが、それは弟子たちが誰が一番偉いかの議論をしていたからというのも大きな理由の一つだったんでしょう。

 弟子たちはそのような罪をたくさん持っていました。その罪を互いに赦し合うようにイエス様は弟子たちに教えました。「あなたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます」そうして、互いに赦し合い、互いに愛し合うようにイエス様は教えました。罪を抱えたままでは宣教は十分にはできませんから、まず互いに赦し合うようにイエス様は教え、そうして、ペンテコステの日に向けた準備が始められました。

 イエス様を宣べ伝えることは、大きな喜びです。いま静岡では、静岡のクラーク先生を見直して、札幌のクラーク先生と同じくらいに皆がよく知る人物になるようにしようという働きが動き始めています。私もその働きに遅れてですが少しずつ関わり始めていて、もっと大きな動きになれば良いなと願っているところです。

 札幌のクラーク先生のほうは、「Boys be ambitious」で有名な先生ですから、皆さんも名前だけなら、よく知っていると思います。静岡のクラーク先生は名前すらほとんど知られていないので、もっと知られるようになってほしいと願っています。

 私は北大の出身ですから、札幌のクラーク先生に関する本も何冊か持っています。札幌のクラーク先生はアメリカに帰国してから事業に失敗して、最後は財産も名誉も失って、寂しくこの世を去って行ったそうです。でもクラーク先生はこの世を去る前に、病気で寝ていたベッドで自分の人生を振り返り、札幌で若者たちに聖書を教えることができたことが、自分の人生の中で最大の喜びであったと満足げに振り返ったということです。クラーク先生は牧師ではありませんでしたから、アメリカで聖書を教えることはありませんでした。子どもに教えることぐらいはあったかもしれませんが、若者たちに聖書を教えたのは札幌においてだけだったでしょう。クラーク先生は大学の先生でしたから、アメリカでも多くの学生たちに学問を教えました。でもアメリカの学生たちに学問を教えたことに勝って、札幌の学生たちに聖書を教えることができたことが、自分の人生で最大の喜びであったと、クラーク先生は死の床にあって、語ったそうです。

 次に静岡のクラーク先生の話をします。札幌のクラーク先生はウイリアム・クラークですが、静岡のクラーク先生はエドワード・クラークです。

 静岡のエドワード・クラーク先生は札幌の先生より5年早い明治4年に日本に来て、静岡の学問所で若者たちに当時の最先端の科学などを教えました。それと共に、宿舎では若者たちに聖書を教えていたそうです。静岡に来たばかりの頃のクラーク先生の宿舎は沓谷の蓮永寺でした。北街道を水落から千代田の方面に行く時、沓谷で旧街道と新しい街道とが分岐する所がありますね。ちょうどその分岐点の辺りに蓮永寺はあります。そこでエドワード・クラーク先生は若者たちに聖書を教えました。当時は静岡のクラーク先生も牧師ではありませんでした。そして、先生はアメリカに帰国した後に牧師になりました。父親が牧師であったという家庭環境もあったと思いますが、やはり、静岡の若者たちに聖書を教えたことに大きな喜びを感じたからだろうと思います。

 札幌のクラーク先生は日本に来た時に既に50歳でしたが、静岡のクラーク先生は日本に来た時は22歳で、アメリカに帰国した時もまだ20代後半の若さでしたから、帰国してからの生涯をイエス様を宣べ伝えるためにささげたのですね。いずれにしても、札幌のクラーク先生にしても、静岡のクラーク先生にしても、まだ聖書を知らなかった日本の若者たちに聖書を教えたことが、いかに大きな喜びであったかということが、よく分かる逸話だと思います。

 エドワード・クラーク先生が静岡に来た明治4年当時、静岡には徳川慶喜と共に静岡に移り住んだ幕臣たちが多くいました。勝海舟もその一人でした。この徳川家の家来の幕臣たちは薩長連合の官軍に負けて江戸城を明け渡して静岡に移って来た訳ですから、心の中が空っぽになっていた者が多かったでしょう。静岡の学問所で学んでいた若者たちは、その子弟たちでした。親が希望を失って静岡に来たのですから、その子である若者たちも将来どうしたら良いのか分からなくて希望が持てない者たちがほとんどではなかったかと思います。

 その空っぽだった若者たちの心を満たしたのが、エドワード・クラーク先生が教えた聖書と西洋の最先端の科学でした。若者たちの心は燃えたことでしょう。ちょうどイエス様の弟子たちが、イエス様が十字架で死んで心が空っぽになった所に復活したイエス様が現れて弟子たちの心に命が吹き込まれたように、江戸城を明け渡した幕臣の子で明るい希望もなく空っぽだった静岡の若者たちの心もクラーク先生の聖書と科学が豊かに満たし、燃やしたことでしょう。

 そして、イエス様は空っぽだった私たちの心にも命を吹き込んで下さいました。イースターのきょう、このことを心一杯感謝して喜び、お祝いしたいと思います。

おわりに
 聖書は伝える側にも教わる側にも大きな喜びを与えます。札幌のクラーク先生は人生で最大の喜びであったと死の床で語り、静岡のクラーク先生は帰国してから牧師になりました。聖書を学ぶ喜びは、伝える側と教わる側の両方が喜び合うことで共鳴し合って、喜びが増幅するものであるということが、二人のクラーク先生が聖書を教えた経験から伝わって来ます。今の時代、牧師が不足しているのは、この喜びが共鳴することが不足しているからではないかと、とても考えさせられます。

 牧師が不足しているのはインマヌエルだけでなく、どの教団も事情は同じです。特に若い牧師が圧倒的に不足しています。それは牧師の給料が少ないせいだろうか?と漠然と思っていましたが、それ以前に伝える側と教わる側の喜びが共鳴し合って喜びが増幅することが少ないからなのかもしれません。

 これは全国的なことですから、私の説教が下手だからとか、そういうことだけではなさそうです。それが何なのか、イースターのこの機会に考えなさいとイエス様はおっしゃっているように感じます。その原因が分かれば、(大きなことを言うようですが)、日本のキリスト教会もきっと息を吹き返して復活するように思います。

 教会学校でも礼拝の説教でも、聖書を伝える側と教わる側が共に喜びを分かち合うこと、それを妨げる何かが今の世にはありそうです。それが何かを考えるなら、きっとイエス様が答を教えて下さることと思います。

 それが分れば、きっと日本のキリスト教会は復活します。きょうのイースターの日、イエス様が復活したことで私たちは喜びに包まれています。そして、教会が息を吹き返して多くの人が集うようになるなら、私たちはもっと大きな喜びに包まれます。そのことを願い、どうしたら教会が息を吹き返すのか、イエス様に教えていただきたいと思います。そうして、さらなる喜びをいただきたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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戦災の悲劇を悲しむイエスと一つになる(2022.4.10 礼拝)

2022-04-10 12:56:31 | 礼拝メッセージ
2022年4月10日棕櫚の聖日礼拝メッセージ
『戦災の悲劇を悲しむイエスと一つになる』
【ルカ19:41~44】

はじめに
 きょうは棕櫚の聖日、パームサンデーです。交読の時にご一緒に読んだように、イエス様はロバの子に乗ってゆっくりとエルサレムに近づいて行きました。すると、人々は道に自分たちの上着を敷いて、イエス様を歓迎しました。そうして37節と38節には、このように書かれています。

ルカ19:37 イエスがいよいよオリーブ山(やま)の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、
38 こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」

 37節には大勢の弟子たちがみな、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めたとあります。「大勢の弟子たち」ということは、イエス様が北のガリラヤから南のエルサレムまで旅をする間にイエス様に付き従う弟子たちの数がどんどん増えていったんですね。

 そうして、いよいよイエス様はエルサレムのすぐ近くにまで来ました。イエス様はそこで、この都のために泣きました。これがきょうの中心聖句の、ルカ19章41節です。

41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①余計な物を片付けイエス様と一つになる
 ②同じ悲劇を繰り返すエルサレムを悲しむ
 ③十字架後もすぐには変わらぬ世を悲しむ

①余計な物を片付けイエス様と一つになる
 先週の礼拝説教では、マルコの福音書の「宮きよめ」の場面を開きました。ルカの福音書にも、きょうの聖書箇所の後に「宮きよめ」の記事がありますから、見てみましょう。19章の45節と46節です。

45 それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、
46 彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」

 エルサレムの宮は祈りの家なのに、祈りを妨げる余計な物がたくさん置かれていました。そして、もしかしたら私たちの心の中も同じなのかもしれません。余計な物がいろいろと置かれているなら、イエス様との距離が離れてしまいます。

 先週の説教では、ライフラインで放送されたソプラノ歌手の坂井田真実子さんの証しを紹介しました。坂井田さんは超一流のオペラ歌手としての階段を着実に上ってキャリアを積んでいましたが、難病に掛かって一時は下半身不随になりました。リハビリによって、ある程度までは回復したものの、それまでのような音楽活動はできなくなり、限られた活動しかできなくなりました。でも、そのことで坂井田さんは神様と自分との間に挟まっていた余計な物、キャリアやオーディション、大きな舞台、そういったものが全部取り払われて、神様をずっと近くに感じることができるようになった、だから幸せなのだそうです。

 私たちも神様を、そしてイエス様をできるだけ近くに感じることができるようになりたいと思います。教会に通い始めた頃に比べると今はイエス様を随分と近くに感じるようになっている、ということはほとんどの皆さんが感じていることだと思います。最初の頃は、二千年前のよく分からない人という感じで、自分からはすごく離れた所にイエスという男がいます。それが、いつの間にか、とても近くに感じるようになって、「イエスという男」ではなくて「イエス様」と呼ぶようになります。

 そうして、きょう願っていることは、私たちの一人一人がイエス様と一つになるくらいにイエス様との距離を縮めたいということです。エルサレムに近づいたイエス様は、この都のために泣きました。イエス様はどんな思いで、泣いたのでしょうか。イエス様と一つになるぐらいに近づいて、イエス様の思いを知りたいと思います。

②同じ悲劇を繰り返すエルサレムを悲しむ
 きょうの聖書箇所を見て行きましょう。まず41節、

41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。

 イエス様はどうして泣いたのでしょうか。42節、

42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

 「おまえ」というのはエルサレムのことです。イエス様はエルサレムを擬人化して、つまり人のように見て、エルサレムに語り掛けています。エルサレムには平和に向かう道もありました。でも、エルサレムに住む人々にはそれが見えていませんでした。そうして、この約40年後にエルサレムはローマ軍の攻撃によってメチャメチャにされて火を付けられ、炎上して廃墟になってしまいます。43節と44節、

43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

 一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかないとは、このエルサレムの街が徹底的に破壊されてメチャメチャになるということです。実際にエルサレムはそのように破壊され、火を付けられて神殿も炎上して崩れ去り、廃墟になってしまいました。

 これは、エルサレムがまたしても滅びるということです。エルサレムは旧約の時代の紀元前586年にも、バビロン軍の攻撃によって滅亡しています。列王記を読むと、当時のユダの国の王たちの多くが悪王であり、主の目に悪であることを行っていたと書かれています。中にはヒゼキヤ王やヨシヤ王のような良い王もいましたが、多くは律法を重んじない悪王たちでした。ヨシヤ王の前のマナセ王とアモン王の親子の時代は最悪で、悪魔の時代とされています。預言者たちが殺され、はっきりと書かれてはいませんが、イザヤもマナセ王の時代に殺されたのではないかという説があります。いずれにしても、マナセ王の時代には多くの血が流されたと列王記第二には記しています。

 こういう悪王たちの悪魔の時代のことを礼拝の説教で話してもぜんぜん恵まれませんから、あまり話すことはありません。ですから、それを補う意味でもご自宅での聖書通読はぜひ行っていただきたいなと思います。これらの時代の悲惨な出来事の数々を聖書通読によって知り、そうして永遠の中を生きるイエス様がどれほど悲しんでおられたか、イエス様と一つになることで分かるようになりたいと思います。

 さて、最悪の王であったマナセ王とアモン王の親子の後のヨシヤ王は良い王で、宗教改革を行いました。クリスチャンホームで男の子が生まれると「よしや」と名付けられることがありますね。それはヨシヤがとても良い王として聖書に記録されているからです。このヨシヤの時代に律法の書が神殿から発見されました。発見されたということは、紛失していたということで、ヨシヤは最初のうちは律法の書の存在すら知りませんでした。それほどヨシヤの前のマナセ王とアモン王の時代は悪に満ちた、ひどい時代でした。それをヨシヤ王は正しました。

 しかし、せっかくヨシヤ王が宗教改革を行って悪を取り払ったのに、ヨシヤの子のエホヤキム王がまたしても、マナセとアモンの悪王の時代に戻してしまいました。エレミヤ書には、エホヤキム王がエレミヤが語った神のことばを記した巻物を暖炉の火で焼いてしまったことが書かれています。こういうひどいことをしていたのですから、主の怒りによって滅ぼされてしまったのも仕方のないことと言えるかもしれません。主は滅ぼす前にエレミヤを通して再三に渡って悔い改めるように警告していました。その警告が王たちに聞かれることはありませんでしたから、エルサレムは滅ぼされてしまい、エルサレムの住民の多くは殺され、生き残った者たちもバビロンに捕囚として引かれて行ってしまいました。

 このエルサレムの滅亡の悲劇が紀元70年にもまた繰り返されました。エルサレムは廃墟となって住民の多くが殺され、生き残った者たちは世界中に散らされました。イエス様の悲しみはどれほど深かったことでしょうか。

③十字架後もすぐには変わらぬ世を悲しむ
 きょう皆さんと一番分かち合いたいと願っていることは、エルサレムのために泣いたイエス様が、これから5日後には十字架に付けられる、そういう時であったということです。イエス様が十字架の苦しみを受けたことで、私たちは心の平安を得ることができるようになりました。それはイザヤ書53章5節に書かれている通りです。それは、イエス様ご自身もよくご存じのことでした。イザヤ53章5節、

イザヤ53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 十字架に付くことで人々の罪が赦され、そのことで人々が心の平安を得て、地上に平和がもたらされるようになる、このことはイエス様ご自身もよくご存じのことです。でも、十字架に付くことは大変な苦しみを受けることになります。イエス様は、できればこの苦い杯を飲みたくはありませんでした。ルカ22章42節でイエス様は天の父に祈っています

ルカ22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
43 〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。
44 イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕

 御使いが天から現れてイエス様を力づける必要があったほどにイエス様はこれから受ける十字架の苦しみのことで悶え、苦悩していました。そして同時にイエス様は、人々の不信仰はそんなに簡単には改められずに、地上に平和がもたらされるのには、長~い時間が掛かることもよくご存じでした。使徒の働きに書かれているようにイエス様を信じる人々もいましたが、それはまだまだ少数派であり、ステパノの迫害をきっかけにして弟子たちは迫害を受けることになることもイエス様はご存じでした。そんなに簡単には不信仰が改まらないことをイエス様はご存じでした。

 そうして、イエス様を信じないエルサレムのユダヤ人たちの多くはローマ軍の攻撃を受けた時に亡くなりました。それが1世紀の出来事です。そして20世紀には二度の世界大戦があり、21世紀の今、ロシア人は隣人のウクライナ人を愛することができずに軍事侵攻して、一般市民の多くが残虐な方法で殺害されたことが報じられています。イエス様は永遠の中を生きておられますから、こういうことのほとんどを、よくご存じでしょう。

 イエス様はご自分が十字架につくことで、多くの人々が神様に立ち返り、すぐにでも地上に平和がもたらされるなら、イエス様は「喜んで」とまでは言いませんが、それほど苦悩せずに十字架に付いたかもしれません。でも、イエス様はご自分が十字架に付いてもそんなにすぐには地上に平安がもたらされないことを、よくご存じでした。それでも、十字架に付かなければ、世の中は改まらずに悪いままですから、十字架はどうしても必要でした。でも、世の中が改まるにはとても長い時間が掛かることが分かっていました。イエス様にとって、これはどんなにつらいことだったでしょうか。ですから、できればこの苦い杯を飲みたくはありませんでした。でも、イエス様は「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と天の父に祈りました。

 このイエス様の耐え難い苦悩を、私たちはイエス様と一つになって感じ取りたいと思います。

おわりに
 1年半前にスコット・マクナイトの『福音の再発見』(中村佐知訳、キリスト新聞社 2013)の新装改訂版が出版された時に購入して、週報台に置きました。この本は2013年に最初に出版された時に、大変に話題になって多くの人が買い求めたので品切れ状態になり、2020年の秋に新装改訂版として再び出版されました。この本の中で著者のマクナイトは、現代のアメリカの教会が「救いの文化」に支配されてしまっていて、「福音の文化」が廃れてしまっていることを大変に憂慮していて、聖書的には「福音の文化」を持つことが教会の本来の姿であることをこの本で主張しています。それはアメリカだけではなく日本も同じだということで、何人かの有志の方々によって、この本の日本語訳が2013年に出版されました。

 「救いの文化」というのは要約して簡単に言うなら、イエス・キリストの十字架の贖いを信じて罪が赦され、永遠の命を得て天国に入れるようになることを最大の目的として伝道活動をする文化のことです。もちろん、この「救いの文化」はとても大事です。でも、イエス様の弟子となって、イエス様の働きに加わることは、もっと大事なことです。イエス様は、この世に神の国を築くために今も働いておられます。その働きを助ける弟子となることが何よりも大切であり、イエス様の弟子になるなら救いの恵みには自動的に与ることができます。

 黙示録の最後の21章と22章に書かれているように、終わりの時には天から新しいエルサレムが降って来て、新天新地が創造されます。その終わりの時に間に合わなければ、私たちは先ずは天の御国に入りますが、その天はいずれはこの地に降って来ます。私たちが主の祈りで祈る、「御国が来ますように」は、このことの筈です。この、天の御国が地上に来る時に備えて、私たちは少しでもこの世が平和になるために働き、天の御国が降って来た時には多くの人々が入ることができるよう、働くべきです。働くと言っても別にそのことのために汗をかきましょうと言っているわけではありません。イエス様に似た者へと変えられて行き、きよめられて行くことで、自然とその働きができるようになるでしょう。ですから、私たちはきよめられる必要があります。イエス様に似た者へときよめられることで、福音が自然と伝わっていくようになります。これが「福音の文化」でしょう。マクナイトは「きよめ」ということばは使っていませんが、同じことです。私たちはイエス様の弟子となって、この世に神の国が築かれるように働くイエス様を助けたいと思います。これが「福音の文化」です。「救いの文化」にとどまっているなら、イエス様の弟子としてきよめられる、次のステップに進んで行くことができません。

 イエス様の十字架から間もなく二千年が経とうとしています。それなのに、今のウクライナのようなことが起きています。どうしてでしょうか。それは、クリスチャンの多くが「救いの文化」にとどまっているからでしょう。『福音の再発見』を書いたマクナイトは戦争のことまでは書いていません。でも私は、クリスチャンが多くいる国で戦争が繰り返されて来たのは、クリスチャンの多くが「救いの文化」にとどまっていたからだと考えます。天国に入れる入場券さえ手に入ればそれで良くて、イエス様の弟子になって、きよめられることまでは考えないクリスチャンが多いために、いつまで経っても戦争が繰り返されているのだと思います。

 今私たちは、ウクライナが悲惨な状況になっている報道を、毎日目の当たりにしています。その今こそ私たちは「救いの文化」を超えて「福音の文化」へと移って行かなければならないのだと思います。イエス様の弟子になり、戦災の悲劇を悲しむイエス様と一つになって、天の御国が来るように働くイエス様と共に、きよめの道を進みたいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りいたしましょう。

ルカ19:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
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神様と私の間に何も置かない(2022.4.3 礼拝)

2022-04-04 12:47:16 | 礼拝メッセージ
2022年4月3日聖餐式礼拝メッセージ
『神様と私の間に何も置かない』
【マルコ11:15~19】

はじめに
 きょうは聖餐式を行います。聖餐式の前のひと時、聖書を開いて神様の御声を聴き、心を整えるひと時としたいと思います。

 きょうの聖書箇所は「宮きよめ」と呼ばれる箇所です。ここは2週間前の教会学校で開かれた箇所です。教会学校で読まれたワークシートの説明書きには次のように書かれています。

当時のエルサレムの庭(神殿)には、ローマの貨幣を神殿に納める貨幣に両替する両替商や、いけにえ用の動物を売る商人がいました。礼拝に来る人々にとって便利である一方で、その手数料や値段はかなりの高値でした。また神殿を管理する祭司長たちも、その商売を許可することで利益を得ていました。エルサレムの宮は、①イスラエル(男子)の庭、②婦人の庭、③異邦人の庭、の3つに区切られており、商売が行われていたのは、異邦人が礼拝をささげる③でした。(せいちょう グレード4-5 ワークシート 3月20日「宮きよめ」)

 この説明書きを読むまで私はイエス様が宮きよめをしたのが異邦人の庭であったことを知りませんでした。いつも使っている注解書を調べてみたら、宮きよめは異邦人の庭での出来事であるとしっかり書いてありましたが、今まで気にとめたことがなくスルーしていたようです。あ~そうだったんだと今回、このことに思いを巡らすことで、大切なことを教えられたと感じていますから、聖餐式の前のひと時、皆さんとこの恵みを分かち合いたいと思います。

 きょうの中心聖句はマルコ11章15節です。

マルコ11:15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①エルサレムは私たち一人一人の心の状態
 ②神様を愛しても隣人は愛さないエゴの巣
 ③神様と私の間に余計な物を一切置かない

①エルサレムは私たち一人一人の心の状態
 まず心に留めたいことは、エルサレムは私たち一人一人の心の状態、もっと言えば霊的な状態を表しているということです。その象徴が、きょうの記事の一つ手前にある記事です。きょうは、ここから見て行きましょう。11章の12節と13節をお読みします。

マルコ11:12 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。

 12節の前の11節によると、イエス様たちは前の日に一旦エルサレムに入っていました。いわゆる棕櫚の聖日のパームサンデーに、ロバの子に乗ったイエス様はエルサレムの人々に大歓迎されました。イエス様はエルサレムの宮にも入ってすべてを見て回った後、エルサレムを出てベタニアに泊まりました。そして12節でまたベタニアを出てエルサレムに向かいました。その時、イエス様は葉の茂ったいじちくの木が遠くに見えたので、近づいて見ました。空腹を覚えたので、もし実がなっていたら食べようと思ったようです。でも、よく茂った葉っぱだけで実はなっていませんでした。

 いちじくはイスラエルの象徴でもあります。そして、これがイスラエル人たちの心の状態でした。遠くから見ると繁栄しているように見えても近づいて見るなら、何も実を結んでいません。実がなる季節になれば実を付けることもあるのかもしれませんが、その前に日照りが続けば枯れてしまうかもしれません。すべては神様の御手の中にあるのに、神様など知らないといった風情で生い茂っています。

 日本にも「おごる平家は久しからず」ということばがありますね。今年のNHKの大河ドラマでは『鎌倉殿の13人』が放送中で、これから源頼朝が率いる源氏側の軍勢によって平家は滅ぼされます。どんなに繁栄していても謙虚さを失って心が驕っていると、結局は滅びの道をたどることになります。イエス様はこのいちじくの木に向かって言いました。

14 「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」

 このいちじくの木が象徴するように、エルサレムの人々の心の中には霊的な実が結ばれていませんでした。先回りして19節を見ておくと、イエス様はこの日も夕方になるとエルサレムの城壁の外へ出て行きました。エルサレムの市内にも泊まれる場所はあったのではないかと思います。でもイエス様は、霊的な実が結ばれていなくて強盗の巣になっていたエルサレムの市内に泊まることに、きっと耐えられなかったのではないか、そんな気がします。
 
②神様を愛しても隣人は愛さないエゴの巣
 さて問題の15節です。

15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

 このイエス様の行動はとても乱暴に見えます。でも、この宮の中の様子が私たち一人一人の心の中にある宮の状態であるとしたら、これくらい乱暴な方法でないと私たちの心の中の宮はきれいにならないのだと、納得するのではないでしょうか。この後でイエス様は十字架に付いて死にます。そのイエス様が十字架で流した血によって私たちの心はきよめられます。でも、きよめられる以前に、私たちの心の中には余計な物があまりにもたくさんあるのだと思います。まずそれらをイエス様に取り払っていただかなければ、イエス様の血によるきよめへと進んで行くことはできません。

 先ほど教会学校のワークシートの説明書きを読みました。イエス様がこの乱暴を働いたのは宮の中では一番外側の「異邦人の庭」でした。異邦人はここまでしか入ることが許されていませんでしたから、異邦人にとってはここが祈りの場でした。その祈りの神聖な場で商売することを祭司長たちは許して、利益を得ていました。商売の場になっていましたから騒然としていて、異邦人は祈りに集中することはできなかったでしょう。

 一方、ユダヤ人の男子は聖所に一番近い場所で静かに祈ることができました。男子の庭と異邦人の庭の間には婦人の庭がありましたから、商売のにぎやかさからは隔絶される形になっていたことでしょう。ここに祭司長たちの独善が見て取れます。自分たちは静かな場所で神様と向き合い祈ることができます。そうして神様を愛しているつもりになっています。でも、隣人の異邦人のことをぜんぜん気遣っておらず愛していません。こういう自己中心的なエゴイズムをイエス様は忌み嫌います。

 そして、そういう傾向は私の中にもあることを感じます。自分は神様を愛していて神様と向き合うことができていると独善的に思い込んでいると、隣人を気遣うことがぜんぜんできなくなります。隣人のことはどうでも良いと思っているわけではありませんが、エルサレムの宮で祭司長たちがしていたことを思うと、心を刺される思いがします。地域の方々を含めて、もっと周囲の方々がこの礼拝に集いやすい雰囲気を作らなければならないと思わされます。

 自分は神様を愛していて、神様と向き合うことができているという独善に陥り、隣人を愛せなくなっている時、イエス様はその人の心を乱暴な方法で変えようとします。例えば、パウロの例がとても分かりやすいでしょう。

 パウロは若い頃から一貫して神様を愛していました。パウロがまだサウロと呼ばれていた時も、サウロは神様を強く愛していました。そのサウロから見ると、十字架に付けられて呪われて死んだイエスという男が神の子であるなどとは、とうてい信じられませんでした。ですから、呪われたイエスを神の子と信じる者を絶対に赦すわけにはいかず、激しく迫害しました。自分は正しいと信じて、隣人を愛することがぜんぜんできていませんでした。そうしてエルサレムで迫害するだけでは足りずに、ダマスコまで出掛けて行きました。

 そこにイエス様が乱暴な方法で現れて、サウロの目を見えなくしてしまいました。隣人を愛することができない不信仰は、これぐらい乱暴な方法でないと正すことができないということでしょう。ただし、人の心は本当にやっかいですから、イエス様のこの乱暴な方法に屈服せずに却って心を閉ざす場合もあります。祭司長たちがそうでした。18節にあるように、祭司長たちや律法学者たちはイエス様を殺すための相談をしました。

③神様と私の間に余計な物を一切置かない
 8日前の3月26日の土曜日の朝のライフラインの放送ではソプラノ歌手の坂井田真実子さんのソロ・コンサートとインタビューの様子が放送されていました。とても良い放送でした。見逃した番組でもネットチャンネルの「聖書チャンネルBRIDGE」(https://www.seishobridge.com/)でいつでも見られるようになっていますから、是非ご覧になることをお勧めします。

 坂井田さんはソプラノの歌手として国際コンクールで数々の賞を受賞し、オペラではいくつもの大役の座をオーディションで次々に射止めて、超一流への階段を着実に上っていました。2014年には文化庁の奨学金も獲得してウィーンへの留学も果たしました。そうして、これからさらなる飛躍が期待されていたさ中の2016年に難病の視神経脊髄炎を発症して、一時は下半身不随になってしまったということです。リハビリによってある程度までは回復しましたが、後遺症が残っているとのことで、再発の恐れもあるということです。できる範囲での音楽活動を再開していますが、大勢の人々と共に練習・公演をする

 番組のインタビューで坂井田さんはこの病気のことを、「神様が病気を与えて下さった」と言って感謝しているということです。声楽家としての階段を上っていた時の人生よりも病気になってからの人生の方が幸せに感じているそうです。それは、病気をしたことで、神様をより一層近くに感じるようになったから、なのだそうです。それまで自分と神様との間に挟まっていた余計な物、キャリアやオーディション、大きな舞台、そういったものが全部取り払われて、神様をずっと近くに感じることができるようになった、だから幸せなのだそうです。

 そうして目に見えるものではなくて、見えないものに目が向くようになった、そのことをとても感謝に思っているそうです。坂井田さんの2ndアルバム「見えるものよりも」に収められている曲、アルバムのタイトルと同じ「見えるものよりも」という曲(加賀清孝・作)には、こうあります。

見えるものよりも 見えないものに
消えてゆくものよりも いつまでも残るものに
私は目を向ける 心の目を
形あるものは消え 愛はいつまでも

 坂井田さんは病気になったことで「永遠」に目を向けることができるようになりました。形あるものはいつか消えますが、神様の愛は永遠の中にあります。

 病気になる前の坂井田さんは決して隣人を愛することができない方ではなかったはずです。サウロに比べれば遥かに隣人を愛することができていた方でしょう。でも神の器が用いられようとする時、神様はしばしばとても乱暴な方法でその器をご自分の側に引き寄せようとします。坂井田さんの場合は難病によって一時は下半身不随になるという乱暴な方法でした。でも、坂井田さんはこのことを神様に感謝しています。ここに神様との関係が真実に築かれた方のすごさを感じます。

 私も多くを手放して神学校に入って寮生活を送っていた時は、神様をとても近くに感じていましたから、坂井田さんがおっしゃっている、神様と自分の間にある余計な物がなくなると神様をとても近くに感じるようになるという感覚は、良く分かります。でも、私の場合はイエス様が余計な物を取り除いて下さった後で、すぐにまた余計な物を運び入れてしまいます。神様との関係が近くなると、そのことで奢り高ぶって祭司長たちのように隣人のことを忘れてしまうようなところがあるのだろうと思います。

 マルコの福音書11章に戻って、16節と17節をお読みします。

16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

 イエス様は私たちの心の中の余計な物を取り去って下さり、もう余計な物を運ぶことをお許しにならないのに、それにも関わらずまたしても余計な物を運び込むことを繰り返して強盗の巣にしてしまいます。皆さんはいかがでしょうか。せっかくイエス様が余計な物を取り払って下さったのに、またしても運び込んでしまうというようなことはないでしょうか?

 こういうことを繰り返す者に、神様は坂井田真実子さんの証しと歌を通して、その繰り返しをやめるようにおっしゃっているように思います。余計な物を取り払わないなら、イエス様の血によって真実にきよめられる段階へと進んで行くことはできないでしょう。

おわりに
 きょうの礼拝の後のお掃除の時に坂井田真実子さんのCDの曲をこの会堂のスピーカーで流したいと思います。私たちは坂井田さんのように、神様と自分との間に余計な物を置かずに神様といつも近い関係にある者たちでありたいと思います。イエス様は私たちが余計な物を置くと取り払って下さいます。その後ですぐにまた余計な物を持ち込むことなく、いつもイエス様を近くに感じることができる者たちでありたいと思います。

 これから聖餐式に臨みます。イエス様は十字架で血を流されました。そうして、その血によって私たちの心をきよめて下さいます。でも余計な物がたくさん置かれているなら、きよめられることはありません。まずはイエス様に余計な物を取り払っていただきたいと思います。あまりに多くの物が置かれている場合には、イエス様は少々乱暴な方法で取り除くこともあるでしょう。でも、それはとても感謝なことです。イエス様との距離がずっと縮まるからです。

 これから臨む聖戦式では、イエス様をすぐ近くに感じながらパンとぶどう液をいただきたいと思います。お祈りいたします。
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なぜ敵を愛し、敵のために祈るべきか?(2022.3.27 礼拝)

2022-03-28 06:28:01 | 礼拝メッセージ
2022年3月27日礼拝メッセージ
『なぜ敵を愛し、敵のために祈るべきか?』
【マタイ5:43~48】

はじめに
 先週の礼拝ではマタイ5章39節に目を留めて、『右の頬を打たれたら、どうしますか?』という説教題で話をしました。5章39節でイエス様はこのようにおっしゃいました。

マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

 第二次世界大戦後にクリスチャンになった私たちにとって、ウクライナがロシア軍からの攻撃によって悲惨な状況になっている今ほど、このマタイ5:39と真剣に向き合うべき時はかつて無かったのではないか、先週はそんな話をしました。そして、これは私たちの一人一人が聖霊の助けを得ながら向き合わなければならない問題であると話しました。さらにまた、このマタイ5:39は平和の問題を考える上では中心の中の中心であり、弓矢の的(まと)で言えば、ど真ん中であるとも話しました。

 実は、先週の説教の準備をしていた時点では、きょうの43節以降の思い巡らしはまだ十分にできていませんでした。そして先週の説教の後できょうの説教の準備を始めてから、きょうの44節もまた平和を考える上では中心中の中心、弓矢の的のど真ん中であると感じています。39節も44節も、どちらも同じくらいに重要であるなと感じています。

 きょうの中心聖句はマタイ5:44です。

マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 そして、次の三つのパートで話を進めます。

 ①敵の「滅び/赦し」のどちらを祈るのか?
 ②神の子どもとなり、地上に平和をつくる
 ③「神の国は近づいた」と教えたイエス様

①敵の「滅び/赦し」のどちらを祈るのか?
 43節から見て行きます。

マタイ5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

 あなたの隣人を愛しなさいという教えは旧約聖書のレビ記19:18にあります。

レビ 19:18 あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしはである。

 さてしかし、「あなたの敵を憎め」という教えそのものは旧約聖書には一切出て来ません。でも詩篇、特にダビデの詩篇を読むと、「憎め」と言っているかのような表現はあちこちに見られますね。例えば、きょうご一緒に交読した詩篇146篇の12節には、次のようにあります。

詩篇 143:12 あなたの恵みによって私の敵を滅ぼし 私のたましいに敵対するすべての者を消し去ってください。私はあなたのしもべですから。

 このように主が自分の敵を滅ぼすことを祈っているダビデの詩篇を読むと、私たちは敵を憎んでも良いのかなと、つい思ってしまいそうになります。ダビデの信仰は私たちのお手本でもあるからです。でもダビデの信仰は戦場、戦いの場で培われた信仰です。詩篇23篇も死の影がちらつく戦場の最前線での平安を歌ったものです。主はそんな戦いの人生を送ったダビデに神殿の建設をお許しになりませんでした。主は息子のソロモンの時代に平和を与えて神殿の建設をお許しになりました。私たちの心の中の神殿も、平和の中でこそ建て上げられます。

 ウクライナでの戦争の悲惨な光景を過去の歴史としてではなく、現在進行形として目の当たりにしている今、私たちはダビデの信仰から一歩前に進んで、イエス様に付き従って行くべきでしょう。イエス様はおっしゃいました。マタイ5章44節、

44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 では、自分を迫害する者のための祈りとは、どのような祈りでしょうか?詩篇143篇12節のような、敵の滅びを願う祈りなら、簡単にできそうです。でも、イエス様はもちろんそんな敵の滅びのための祈りなど勧めていませんね。イエス様は「自分の敵を愛しなさい」と先ずおっしゃっています。ですから、敵のための祈り、自分を迫害する者のための祈りとは、「愛の祈り」でなければなりません。それは、十字架のイエス様の「赦しの祈り」ではないでしょうか。イエス様は十字架で祈りました。ルカ 23章34節です。

ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 イエス様は十字架に付けられて激しい痛み、苦しみの中にありました。それなのに、ご自身を十字架に付けた者たちを赦すように天の父に祈りました。何というお方でしょうか。そしてこの祈りは、イエス様だけでなく石打ちで死んだステパノもまたささげました。使徒の働き7章59節です。

使徒7:59 彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

 ステパノもまた、自分が命を落とすほどのひどい仕打ちを受けて激しい苦痛の中にありました。しかし、それでもなお、自分を迫害した者たちの罪の赦しを祈りました。イエス様は神様だから特別に寛容なのだと、つい思ってしまいますが、イエス様だけではありませんでした。ステパノもまた、イエス様と同じくらいに寛容でした。そしてイエス様は、私たちに対しても「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃっています。

 なぜ、ここまでしなければならないのでしょうか?次のパートに進んで、このことに思いを巡らしたいと思います。

②神の子どもとなり、地上に平和をつくる
 なぜ自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈らなければならないのでしょうか?イエス様は45節で、このようにおっしゃいました。

45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

 「天の父の子どもになるためです」とありますね。敵を愛し、迫害する者のために祈るのは、私たちが天の父の子どもになるためだと、イエス様はおっしゃいました。きょうは、このことを、さらに深めて行きたいと願っています。

 天の父の子どもになるとは、神の子どもになるということです。このマタイ5章の山上の説教では、イエス様は既に9節で、

9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

とおっしゃっていますね。平和をつくる者は神の子どもと呼ばれるのですから、44節と45節の父の子どもになるために敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るとは、地上に平和をつくるためなのだ、ということでしょう。天の御国はもともと平和ですから、平和をつくるべきは地上です。私たちは地上に平和をつくって神の子どもとされるために、敵を愛し、迫害する者のために祈るべきである、とイエス様はおっしゃっています。

 そこで思い至るのが、イエス様の「主の祈り」の「御国が来ますように」です。マタイ6章10節にあるように、イエス様は「御国が来ますように」と祈りなさいと教えました。御国が地上に来れば地上は平和になります。御国の到来は私たちがイエス様を信じれば、あとは何もせずにいても、御国が来るように主がして下さると私たちは思いがちでしょう。しかし、実は御国は私たちの一人一人が平和をつくる働きをすることによって、段々と近づいて来るものではないでしょうか?イエス様は5タラントのしもべ、2タラントのしもべ、1タラントのしもべのたとえ話で、主人が留守をしている間にしもべに預けた財産を増やした5タラントと2タラントのしもべを褒めました。一方、預かった1タラントを地面の穴に隠して何もせずにいたしもべを厳しく叱りました。このしもべたちの働きとは、御国が近づくように働くことではないでしょうか?天の御国は私たちが神様から与えられた聖霊の力を使って平和のために働くことで近づいて来る、そのように思わされます。

 但し、平和のための働きとは私たちが何かを頑張るというよりはイエス様が言われた39節や44節を守る、ということではないでしょうか。先週目を留めた39節でイエス様はおっしゃいました。

39 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

そうして44節でおっしゃいました。

44 自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 それは私たちが平和をつくり、父の子どもになって御国が来るようにするためです。さらにイエス様はおっしゃっています。

45 父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

 天の父は正しい者も正しくない者も等しく愛して恵みを注いでいます。それは正しくない者が悔い改めて、神様の愛を受け入れる者に変えられることを天の父が望んでおられるからでしょう。そのための働きを、主は私たちに期待しています。私たちにタラントを預けて、イエス様が再び戻って来る時まで、平和のために働くようにとおっしゃっているようです。

 平和は、私たちが当たり前のことをしていても実現しません。46節と47節、

46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。

 誰でもできる当たり前のことをしていても、地上に天の御国のような平和をつくることはできません。ですから、イエス様はおっしゃいました。48節、

48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 もちろん私たちはすぐには完全になることはできません。でも聖霊によってきよめられていくことで、少しずつイエス様に似た者に変えられて行くことができます。右の頬を打つ者に左の頬を向けることは難しいことです。でも、十字架に付けられたイエス様は、そうなさいました。自分を迫害した者のために赦しを祈ることはとても難しいことです。でも、十字架のイエス様はそうなさいました。イエス様だけでなくステパノもまた、そうしました。私たちは今すぐにステパノのようになることは難しいでしょう。でも、聖霊によって少しずつきよめられて、そのような者へと変えられたいと願います。

 そうでなければ、何千年経っても戦争は無くならず、今のウクライナのような悲劇がこれからもずっと繰り返されて行くことになってしまうことでしょう。イエス様が十字架に掛かってから間もなく二千年になろうとしている今、私たちは平和をつくる者へと変えられなければなりません。

③「神の国は近づいた」と教えたイエス様
 イエス様はマルコ1:15でおっしゃいました。

マルコ1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 この「時が満ち、神の国が近づいた」がマルコの福音書におけるイエス様の第一声、イエス様の最初のことばです。そして、マルコの福音書はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書の中で一番最初に書かれた書であると考えられていますから、この「時が満ち、神の国が近づいた」は、福音書におけるイエス様の第一声だということになります。

 もちろん、イエス様はこれ以前にも、いろいろなことを話しているでしょう。しかし、福音書の中で一番始めに書かれたイエス様のことばが「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であることは、このことばが格別に重いことを意味するでしょう。

 1世紀の人々は、神の国がすぐにでも来るという緊張感を持って過ごしていました。神の国が来るとは、黙示録21章でヨハネが見たように、新しい天と地が創造されて、新しいエルサレムが天から地上に降って来ることでしょう。黙示録21章1節と2節、

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

 でも、天の御国はなかなか来ませんでした。パウロやペテロの手紙を読むと、イエス様の再臨がなかなか無いことを人々がいぶかしがっている様子が伺えます。そんな中で使徒たちは、イエス様の再臨の時は近いのだから目を覚ましているようにと励ましています。マルコの福音書が「時が満ち、神の国が近づいた」で始まるのも、なかなか神の国の到来が無いと人々がいぶかしく思っている雰囲気の中で、それを戒めるためだったのかもしれません。マルコの福音書が書かれた時にはイエス様が天に昇ってから少なくとも20年以上、恐らくは30年前後が経っていたからです。

 しかし、結局1世紀の間に天の御国の地上への到来はなく、21世紀の今もありません。実は霊的には、ペンテコステの日に聖霊が降ったことで来ているのですが、肉の目で見える形ではまだ御国は来ていません。そういう中で、クリスチャンは段々と自分の地上生涯の間に天の御国が地上に来ることを待ち望むのではなく、自分が地上生涯を終えたら天の御国に入ることを期待するように変質して行ったように思います。しかし、イエス様は私たちに「時が満ち、神の国が近づいた」とおっしゃり、「御国が来ますように」と祈りなさいとおっしゃいました。ですから私たちは自分が御国へ行けるようになることを祈り願うのでなく、御国のほうが来ることを祈るべきでしょう。そうして地上を少しでも平和にして御国が近づくようにすべきでしょう。

おわりに
 先週の23日(水)と24日(木)に教団の年会がオンラインでありました。2日目の24日の午後、任命式を前にした宣教会で教団代表の岩上祝仁先生を通して語られたみことばの中に、マタイ9章37節と38節のイエス様のことばがありました。

マタイ9:37「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

 このみことばが読まれた時に私は、今のキリスト教会の収穫が少ない現状のことを思いました。イエス様、本当に収穫は多いのですか?と思いました。でも考えてみると、もし周囲の方々の全員が既にイエス様を信じていて、皆がイエス様に似た者にされていたら、もはや収穫すべき作物は残されていませんね。しかし私たちの周囲にいるのは、これから収穫される方々がほとんどです。ですから「収穫は多いが、働き手が少ない」のですね。

 きょうは、ギデオン協会の兄弟の方々がこの会堂に来て下さっています。ギデオンの方々は、収穫のための働き手として、主に用いられている器方です。本当に感謝なことです。私たちはギデオンの方々の働きがますます用いられ、祝されるように祈るとともに、私たちもまた収穫のために働かなければなりません。それは、ギデオンの働きに参加するということかもしれませんし、もちろん別の方法もあります。神学校に入って牧師になるという道もあります。或いはまた、ギデオンでも牧師でもなくても、イエス様がおっしゃる「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことができる者になることも、働き手の一人となることだと思います。マタイ5章48節でイエス様はおっしゃいました。

マタイ5:48 あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 このように完全な者に少しずつでも近づいて行き、イエス様に似た者にされていくことが、収穫のための働き手となることだと言えるでしょう。イエス様に似た者にされるなら、その人柄に魅力を感じて教会に導かれる方々がおこされるからです。

 そのようにして私たちは神の子どもとされて、平和をつくるために働き、天の御国が地上で実現するために働くことができる、お互いでありたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

44 自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
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右の頬(ほお)を打たれたら、どうしますか?(2022.3.20 礼拝)

2022-03-21 05:21:53 | 礼拝メッセージ
2022年3月20日礼拝メッセージ
『右の頬(ほお)を打たれたら、どうしますか?』
【マタイ5:39】

はじめに
 先週の礼拝では、『平和のため、天の考え方を身に着ける』というタイトルで、ぶどう園の主人のたとえの箇所などを開きました。神様が平和を望んでおられることは、聖書を読むなら明らかです。それなのに、平和はなかなか実現しません。平和が実現しないのは、神様の考え方が私たち人間の考え方と大きく異なることが理由の一つとしてあるように思います。神様の考え方を理解できていないために、クリスチャンであっても御心に適う生き方ができていないようです。

 神様は最高にきよいお方です。そのきよい神様の考え方を少しでも理解できるように、私たちはきよくなる必要があります。きよくなるとは、きれいになるとは少し違い、神様の考え方に馴染み、身に着けて行くことだろう、そういう話を先週はしました。

 平和の問題を考える時、きょうの箇所のイエス様のことばは、中心中の中心(ちゅうしんちゅう の ちゅうしん)であると言えるのではないかと思います。弓矢の的(まと)で言えば、ど真ん中です。平和について神様がどのような考えをお持ちの方であるかを知るには、この的をはずすわけにはいかないでしょう。

 今日の聖句は、マタイ5章39節です。

マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①思考停止(拒否or盲従)せずに神様と向き合う
 ②黙って十字架に付いたイエス様(イザヤ53:7)
 ③完全に向けて少しずつ、つくり変えて下さる神様

①思考停止(拒否or盲従)せずに神様と向き合う
 第二次世界大戦後(1945年以降)の日本でクリスチャンになった私たちにとって、ウクライナがロシアからの攻撃を受けている真っ最中の今ほど、イエス様のマタイ5:39のみことばと真剣に向き合うことを求められている時は、かつて無かったのではないかと思います。

 いまウクライナの人々の多くが武器を持って侵攻して来たロシア軍と戦っています。この、今まさに戦っているウクライナの人々に向かってクリスチャンの私たちは、「イエス様が『悪い者に手向かってはいけません』とおっしゃっていますから、戦いをやめて下さい」と言えるでしょうか?

 戦いをやめるべきはロシアの側であって、ウクライナの人々に「抵抗しないで戦いをやめて下さい」とは、言えないだろうと思います。まして、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けて下さい」などとは決して言えないでしょう。

 ロシアは日本にとっても隣の国です。仮にロシアが北方のサハリン(樺太)、国後・択捉方面から北海道に侵攻して来たら、私たちクリスチャンは日本人に「悪い者に手向かってはいけません」と言えるでしょうか?言うことは難しいでしょう。まして、「北海道をロシアに与え、次は本州も与えましょう」とは決して言えないでしょう。でも、それが「右の頬を打つ者に左の頬を向ける」ということではないでしょうか?極端すぎる例えかもしれませんが、究極的には、それが天の考え方なのだと思います。でも、このことばに従うことは、とうてい無理のように思います。

 それでも、イエス様は「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と、おっしゃっています。私たちは、このイエス様のことばと、どう向き合えば良いのでしょうか?

 イエス様のことばの多くは世の常識と異なっていますから、その通りにすることが難しいものが大半です。それでも、きょうのイエス様のことばを除けば、拒否しようとまでは思いません。例えば、先週引用したマタイ18章でイエス様はこのようにおっしゃいました。

マタイ18:3「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」

 大人が子どものようになることは難しいことです。でも、そのようになりたい、とは思うでしょう。難しいことだけれど、イエス様がそうおっしゃるのだから、子どものようでありたいと思います。しかし、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」に関しては、そうありたいとすら思わないのが、普通ではないでしょうか?そんなことは絶対にできない!と思い、深く考えずに拒否したいのが普通ではないかと思います。

 或いは逆に、イエス様がおっしゃることはすべて守るべきだと考え、「イエス様がおっしゃるから」という理由だけで、深く考えずに守ろうとする人も中にはいるかもしれません。でも、これは盲従・盲信の類と言わねばならないでしょう。自分の考えを持たずに盲従するだけであれば周囲から「狂信的」とか「カルト的」などと見られかねません。狂信的という印象を周囲に与えてしまえば伝道することは難しくなります。

 深く考えずに盲従することも、あるいは逆に深く考えずに拒否することも、どちらも思考停止であり、それは好ましいことではありません。私たちは思考停止することなく、イエス様のマタイ5章39節のことばに、しっかりと向き合わなければならないのだと思います。

 イエス様を信じる私たちクリスチャンに聖霊が注がれているのは、そのためです。「助け主」である聖霊は、イエス様がおっしゃったことばを深く理解できるように助けて下さいます(ヨハネ14:26参照)。イエス様はそのために私たちの一人一人に聖霊を注いで下さいました。深く考えずに拒否、或いは盲従するなら、聖霊は要りません。でも私たちには聖霊が注がれています。それはイエス様が私たちに、ご自身のことばをもっと深く理解してもらいたいと願っているからでしょう。

 イエス様のことばは頭で理解できるものでは決してありません。聖霊に助けていただくことで初めて理解できるものです。平和がいつまで経っても実現しないのは、クリスチャンがまだまだ聖霊の助けを十分に得ていないからだ、とも言えるのかもしれません。

②黙って十字架に付いたイエス様(イザヤ53:7)
 もう一度、マタイ5章39節のイエス様のことばをお読みします。

マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

 私たちがこのイエス様のことばを重く受け留めなければならないのは、イエス様ご自身が黙って十字架に付いたお方だからです。イエス様は39節のことばを言いっ放しにしていたわけではありません。この後で十字架に付いて死にました。

 きょうの聖書交読でご一緒に読んだように、イザヤ書53章7節には、このように書かれています。

イザヤ53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 この様子は、福音書にも見られます。きょうはマタイの福音書を開いていますから、マタイの受難の場面を見てみましょう。マタイ27章11~14節です(p.60)。まず11節と12節をお読みします。

マタイ27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
12 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。

 イエス様は総督のピラトの質問には短く返事をしましたが、祭司長たちや長老たちが訴えている間はずっと黙っていました。この祭司長たちの訴えは、彼らがイエス様の右の頬を打っているようなものです。続いて、13節と14節、

13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」
14 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。

 祭司長たちはなおも不利な証言をしていました。しかし、イエス様は一切反論せずに黙っていました。それは右の頬だけでなく左の頬も向けたようなものでしょう。つまり、マタイ5章の39節の、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」は、イエス様ご自身が、その通りになさったことです。私たちは、このことを知った上で39節と向き合わなければならないでしょう。イエス様は口先だけで「悪い者に手向かってはいけません」とおっしゃったのではなくて、ご自身の身をもって、それをお示しになりました。

 でも、私たちの多くは右の頬を打つ者に左の頬も向けることはできません。日常生活においては、何か言われればすぐに反論したくなりますし、戦争においては相手から攻撃を受けたら反撃するのが当然と考えます。それが人間の常識的な態度です。でも、天の考え方は違います。イエス様は、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」とおっしゃいました。私たちは、このイエス様のことばにも馴染んで、身に着けて行かなければならないのでしょうか?

 きょうの説教のタイトルは「右の頬を打たれたら、どうしますか?」です。もし、イエス様のおっしゃることがことばだけのことなら、拒否して敵に反撃しても、構わないのでしょうか?そんなことはない筈です。神の御子イエス様がおっしゃることには従うのがクリスチャンでしょう。ましてイエス様はことばだけではなく、十字架でご自身の身をもって示して下さいました。それでもなお、敵に反撃することは仕方のないことなのでしょうか?

 イエス様は二千年前に「互いに愛し合いなさい」とおっしゃり、「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。でも二千年が経った今でも世界に平安はなく、平和は実現していません。それは、私たちがイエス様の「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」ができていないからではないか、という気がします。

③完全に向けて少しずつ、つくり変えて下さる神様
 悪い者に手向かってはいけませんとイエス様はおっしゃいますが、その通りにしたら、悪い者がのさばるだけです。そうして悪い者に支配されてしまうから、手向かわないわけにはいかないでしょう、と私たちの多くは考えます。それはつまり、イエス様のおっしゃることを拒否するということです。それでも良いのでしょうか?家族を守り、国を守るためには、イエス様のことばを拒否することになっても敵に反撃することは仕方のないことなのでしょうか?これは、私たちの一人一人がイエス様と向き合って考えるべきことだと思います。イエス様を信じた者には聖霊が与えられますから、一人一人が聖霊の助けを得ながら、イエス様のこのことばと向き合わなければならないと思います。

 受け入れることが難しいイエス様のことばを何も考えずに拒否したり盲従したりするのでなく、聖霊の助けを得ながら深く思いを巡らすなら、聖霊が私たちを少しずつイエス様に似た者へとつくり変えて下さいます。反射的に拒否したり盲従したりするのでなく、聖霊の助けを得ながら思いを巡らすなら、聖霊の働きによって私たちは少しずつ、つくり変えられて行きます。

 マタイの福音書5章の終わりの48節で、イエス様は次のようにおっしゃっています。

マタイ5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 この48節の「ですから」は、この直前の段落だけを受けているのではないでしょう。きょうの39節のことばも受けていると思います。それだけでなく、5章の山上の説教の最初からのことばのすべてが、この48節に掛かっていると言っても良いでしょう。

 私たちはもちろん天の父のような完全な者にはなれません。でも、聖霊の働きによって少しずつですが、つくり変えられて行くことはできます。完全にはほど遠い者たちですが、1ミリ1ミリ、或いはもっと少ない歩みで、1ミクロン1ミクロンかもしれませんが、イエス様に近づくことができます。それほど遅い歩みですが、イエス様に似た者へとされて行くことができます。右の頬を打たれたら、左の頬を向けることができるようになるには、長い時間が掛かるかもしれませんが、それでも1ミリ1ミリ、或いは1ミクロン1ミクロン、ほんの少しずつでも良いから、近づいて行くべきだとイエス様はおっしゃっているように思います。

 このように思いを巡らす時、私たちが毎週礼拝でささげている「主の祈り」の、「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」(マタイ6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように)、とは実は、「私たち自身が為すものなのであろう」ということに気付かされます。もちろん私たちは無力ですから、私たちが為そうと思っても決して為せるものではありません。しかし、私たちがほんの少しずつでも変えられて行くことによって、為されて行くものなのだろうということに気付かされます。

 すると、黙示録21章の冒頭の新天新地の光景も、私たち自身がつくるものではないか、ということにも気付かされます。もう一箇所、ヨハネの黙示録21章の1節から5節までを、ご一緒に読みたいと思います(p.516)。お読みします。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」

 新しい天と新しい地においては、4節にあるように、もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもありません。それは、私たちの一人一人がつくり変えられて行くことで実現するものなのかもしれません。5節で御座に座っておられる方は仰せられました「見よ、わたしはすべてを新しくする。」これは、私たちが新しくつくり変えられることで実現するということを示しているのではないでしょうか。

 これは、とても難しいことであり、長い時間が掛かることです。そして、この新天新地の実現にどうしても必要な一歩が、今日の聖句のマタイ5章39節の「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」ということなのかもしれません。これを「無理!」と決めつけて反射的に拒否してしまうなら、二千年経っても五千年経っても、何千年経っても、いつまで経っても「新しい天と新しい地」(黙示録21:1、イザヤ65:17、イザヤ66:22)は実現しないのかもしれません。

おわりに
 きょう、ご一緒に考えた問題は、とても難しい問題です。現実的には人から、或いは他の国から攻撃を受けたなら反撃しないではいられない、それが、現実の中を生きる私たちの姿であろうと思います。でも、イエス様は「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」とおっしゃいました。そうして、「十字架に付けろ」と叫んだ者たちに対して、イエス様は何の反論もせずに黙って十字架に付かれました。私たちはこのことを、しっかりと覚えていたいと思います。イエス様は悪い者に手向かわずにいて、右の頬を打つ者には左の頬を向けました。そのイエス様が、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」とおっしゃいました。その完全のお手本がイエス様です。ですから私たちは、イエス様に似た者へと聖霊によってほんの少しずつでも変えられて行きたいと思います。そうして、平和をつくる者へと変えられて行きたいと思います。

 変えられることを拒み、1ミリも変わろうとしないで、ただ単に祈るだけであるなら、平和の祈りが聞かれることはないのではないでしょうか?イエス様に似た者にはほど遠い者であっても、ほんの少しでも変えられたいと願いながら祈ることで、平和をつくる者へと変えられて行き、平和が実現して行きます。時間は掛かりますが、何千年経っても戦争の悲劇が繰り返され続けることのないように、私たちは変えられて行かなければなりません。

 お祈りしましょう。

マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

イザヤ53:7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。


今春のチューリップ(2022年3月20日撮影)
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平和のため、天の考え方を身に着ける(2022.3.13 礼拝)

2022-03-14 09:50:37 | 礼拝メッセージ
2022年3月13日礼拝メッセージ
『平和のため、天の考え方を身に着ける』
【マタイ20:1~16】

はじめに
 きょうの説教のタイトルは『平和のため、天の考え方を身に着ける』です。先日の木曜日の祈祷会でも話したことですが、平和をつくるためには「きよめ」とは何かについて改めて考え直してみる必要があると感じています。ロシア軍が攻撃しているウクライナの悲惨な状況をテレビやネットで見るにつけ、私たちは平和の大切さをヒシヒシと感じます。

 イエス様は最後の晩餐で「互いに愛し合いなさい」と何度もおっしゃり、また十字架で死なれて復活した後に「平安があなたがたにあるように」と三度おっしゃいました。この時から二千年も経つのに、未だに戦争が絶えません。戦うことをやめて、平和をつくる者へと変えられるために、私たちはもっときよめられる必要があります。

 イエス様は「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」(マタイ5:8)とおっしゃり、その後で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)とおっしゃいました。心のきよい者は恵みの高嶺の変貌山に連れて行っていただくことができ、神の御姿のイエス様を見ることができます。そのように神の御姿のイエス様を見る者が平和をつくり、神の子どもと呼ばれて祝福されるのだと思います。二千年経っても平和がないのは神様が見えない者が多いからではないでしょうか。神様が見えないなら神様の声も聞こえません。それは、神様の「(戦いを)やめよ」(詩篇46:10)の声も聞こえないということです。

 ですから、平和のために私たちはもっときよくなる必要があると思います。しかし、「きよくなる」というと、「そんなの無理」と考える人もいるでしょう。以前の私がそうでした。それは「きよくなる」とは「きれいになる」ことと考えていたからです。自分のように汚れた者がきれいになることは有り得ないと思っていました。でも、「きよくなる」ことと「きれいになる」こととは少し違います。

 木曜日の祈祷会でも話しましたが、結論から先に言うと、「きよくなる」とは、神様の考え方に馴染んで、それを段々と身に着けて行くことではないかと思います。祈祷会では、マタイ18章3節のイエス様のことばに思いを巡らしました。イエス様は「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国には入れません」とおっしゃいました。これが天の考え方です。きょうはマタイ20章のぶどう園の主人の箇所と、その他の章も見ながら、天の考え方に馴染みたいと思います。

 きょう注目したい聖書の箇所は広くて実は中心聖句を絞り切れません。それでマタイ20章の冒頭部分の1節と2節にしておきたいと思います。

マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。

 そして、次の3つのパートで話を進めて行きます。

 ①存在は高価だが働きは1デナリの小さい私たち
 ②イエス様に負わせた罪は1人当り1万タラント
 ③幼子のような者が恵みの高嶺に連れて行かれる

①存在は高価だが働きは1デナリの小さい私たち
 きょうの聖書箇所のぶどう園の主人のたとえの全体をまず見ておきましょう。マタイ20章の1節と2節、

マタイ20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。

 このぶどう園の主人は天の父あるいはイエス様ですね。そして、1日1デナリの約束でぶどう園に送られた者は、天の御国に入ることが約束された者と考えて良いと思います。主人と最初に約束した者たちは朝早く、午前6時頃でしょうか、ぶどう園で働き始めました。そうして、主人は午前9時、12時、午後3時、午後5時にも何もしていない人をぶどう園に送りました。「何もしていない」とは、神様のために働いていないということでしょう。

 さて夕刻になった午後6時頃、主人は監督に言って賃金を払いました。まず午後5時頃にやとわれた者たちには1デナリを支払いました。1デナリは1日の労賃ですから、分かりやすく1万円と考えましょう。彼らは1時間しか働いていないのに1日分の労賃の1万円を受け取りました。そして3時間働いた者、6時間働いた者、9時間働いた者たちにも1万円が支払われて、最後に朝6時から12時間働いた者たちにも同じ1万円が支払われました。10節です。

10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。

 それで彼らは主人に不満をもらしました。12節、

12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』

 しかし、13節と14節、

13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。

 このたとえ話の、朝早くから12時間働いた者、夕方5時から1時間しか働かなかった者たちはいろいろな者たちに当てはまりますね。

 例えばペテロは最初にイエス様に付き従った一番弟子です。でも神様は一番弟子が一番偉いとは考えません。最後にイエス様に従った者も一番弟子のペテロと同じように扱います。また、朝早く雇われた者たちはイスラエルの民族と考えても良いでしょう。まずイスラエルの民が神様に選ばれて、次いで異邦人にイエス様の福音が伝えられました。異邦人の中でも日本に福音が伝わったのは遅い方です。日本の中でも早く伝わった地域と、なかなか伝わらなかった地域とがあります。しかし、神様はどの地域の者たちも同じように扱って下さいます。

 或いはまた、何歳の時にイエス様を信じたかでも、早い人と遅い人とがいます。クリスチャンホームなら小学生になるかならないかぐらいでイエス様を信じる子もいます。クリスチャンホームでなくても、教会学校でお話を聞いて、小学生の時にイエス様を信じる子供もいます。一方、私が信じて洗礼を受けたのは42歳の時ですから、小学生で洗礼を受けた方に比べればだいぶ遅いです。それでも、もっと高齢の70代、80代でイエス様を信じた人に比べれば早いほうでしょう。いずれにしても天の神様は小学生の時にイエス様を信じた者でも、天に召される直前に信じた者でも、同じように扱って下さいます。

 その他にも、このたとえ話から読み取れることがあります。それは、このパートの表題でも示したように、私たちの存在自体は高価で尊いものですが、私たちは1デナリ分の働きをするのがせいぜいの、小さな者たちであるということです。神様はイザヤ書43章4節でおっしゃいました。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 私たちは高価であると神様は仰せられます。私たち一人一人の存在そのものが高価なのですね。でも私たちが朝から12時間汗水たらして、どんなに一生懸命働いても、1デナリ分の仕事をするのが精一杯です。

 マタイ25章には5タラントもうけた者、2タラントもうけた者のたとえ話がありますが、それは神様があらかじめ5タラント、2タラントを預けて下さったからです。1タラントは6000デナリ、つまり6000万円ですから、5タラントもうけた者は3億円ももうけましたが、それは神様が3億円を預けて下さったから倍に増やすことができました。何も持たずに手ぶらでいた者がぶどう園で働いて得られる賃金は1万円がせいぜいです。それでも1万円もいただけるなら感謝なことです。

②イエス様に負わせた罪は1人当り1万タラント
 お金の話が出たところで、私たちの罪は一体いくらに相当するのかを見ておきたいと思います。あちこち見ることになってすみませんが、マタイ18章の1万タラントの負債のある者の話を見たいと思います。マタイ18章21節から27節を、お読みします。

マタイ18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

 1万タラントは6000万デナリですから、1万円×6000万で6000億円です。私たちの罪はそれほど重いということです。因みに働いて返すとしたら、1日に1デナリしか返せませんから、6000万日働かなければなりません。6000万日は約16万4千年です。もちろん一生働いても返せる金額ではありません。その私たちの重い罪をイエス様は背負って十字架に掛かり、赦して下さいました。これほどの罪を私たちは赦していただいたのですから、私たちも人を赦さなければなりません。ですからペテロがイエス様に「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」と聞いた時、イエス様は答えました。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」

 これが天の考え方です。私たちはこの天の考え方に先ず馴染んで、そうして少しずつ身に着けて行きたいと思います。それがきよめられるということではないでしょうか。きよくなるとは、きれいになることとは少し違います。このような天の考え方を身に着けて行くことでしょう。そうして平和をつくる者へと変えられたいと思います。

③幼子のような者が恵みの高嶺に連れて行かれる
 1万タラント、6000億円もの罪の大半は、私たちが幼子から大人へと成長する過程で身に着けてしまうものです。私たちは天の考え方を身に着けるべきなのに、世の中を生きて行く中で必要のない罪までも身に着けてしまいます。

 たとえば喧嘩。子供でも喧嘩をして、それも罪の一つかもしれませんが、子供の喧嘩は殺人までには発展しません。しかし、大人の喧嘩は人を殺すところまで発展する場合がありますから、罪に罪を重ねます。その行き着く先が戦争であり、最もおぞましいのが悪魔の兵器である核兵器の使用です。広島と長崎では実際に核兵器が使われました。そして、ウクライナの戦争では再び使用されることが心配されています。この核兵器の罪のおぞましさは1万タラントを70倍しても、まだ足りないぐらいです。核兵器は極端であるとしても、大人はこういう重い罪を成長する過程で身に着けてしまいます。

 いまちょうどマタイ18章を開いていますから、18章の1節から5節をお読みします。

マタイ18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。

 これが天の考え方です。「きよくなる」ということは、この天の考え方に馴染み、身に着けて行くことでしょう。そのためには、大人になる過程で身に着けた余計なものを脱ぎ捨て、手放して行かなければなりません。これはとても難しいことですが、イエス様がすべてを手放し、衣服すらもはぎ取られて十字架に付けられたことを思うなら、少しずつでも手放して行くべきではないでしょうか。

 そうして段々と身軽になるなら、恵みの高嶺へとイエス様は連れて行って下さいます。恵みの高嶺は遠いですが、少なくとも山の裾の暗い樹海を抜けて森林限界の上の高い木が育たない場所までイエス様に連れて行っていただけば、恵みの高嶺を下から仰ぐことはできるようになります。

 先月の礼拝説教で「森林限界」の話をしました。ちょうど1ヶ月前の2月13日に将棋の藤井聡太棋士が五つめのタイトルを取って五冠になった記者会見で「森林限界」ということばを使ったことを受けてのことでした。藤井五冠は記者から、富士山で言うと、いま何合目ぐらいを登っているイメージかと聞かれました。その答が、将棋はとても奥が深いゲームでまだ頂上も見えていないので、今は森林限界の手前にいると思う、というものでした。

 この藤井五冠の森林限界のコメントを引用した説教は2月20日にしました。この時はまだロシアはウクライナに侵攻していませんでした。しかし、その4日後の2月24日に戦争が始まりました。戦争の原因の多くは不安です。ですから私たちはイエス様に恵みの高嶺に連れて行っていただき、心の深い平安を得ることができるようにならなければなりません。

 プーチン大統領は、旧ソ連が解体して東ヨーロッパの諸国が次々に西側のNATOの陣営に加わって、不安が増して行ったと言われています。もちろん、それだけが理由ではないでしょうが、プーチン氏が心の深い平安を得ていたなら、決して今のような事態にはなっていないでしょう。

 武力で不安を解消することは決してできません。軍備を増強すれば相手も軍備を増強しますから不安はますます大きくなります。不安を解消するためには万軍の主に守っていただくことが一番であることを私たちは知っています。そして万軍の主は不安を取り去って下さるだけでなく、不安を抱えていた時には想像すらできなかった心の深い平安を与えて下さいます。この平安の深さは無限ですから、私たちはもっと天の考え方を身に着けて、きよめられ、さらに深い心の平安を与えていただきたいと思います。それがイエス様に恵みの高嶺に連れて行っていただくということです。平安が深まれば深まるほど、私たちは恵みの高嶺の上の方へと連れて行っていただけます。

おわりに
 きよめられないなら、罪がまだ残ったままですから、平安は得られません。マタイ20章の15節と16節をまだ見ていませんでしたから、最後にこの2つの節を読んで終わりたいと思います。15節と16節、

15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

 ねたみもまた罪ですね。朝6時から12時間働いていた者たちは、天の御国に入ることが約束されていながら、まだ恵みの高嶺の遥か下の暗い樹海の中にいて、ねたみの罪をしっかりと抱えていました。せっかく早い時期からイエス様と一緒に歩むことが許されたのに、このようなねたみの罪に縛られているのは、とても残念なことです。

 神様はおっしゃいました。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 この神様の豊かな愛に包まれているなら、神様の考え方に馴染み、身に着けて行くことができるでしょう。そうして、自分が握っているものを少しずつ手放してきよめられ、深い平安をいただくことができる、お互いでありたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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戦いをやめよ。知れ。わたしこそ神(2022.3.6 礼拝)

2022-03-06 13:52:29 | 礼拝メッセージ
2022年3月6日礼拝メッセージ
『戦いをやめよ。知れ。わたしこそ神』
【詩篇46:1~11】

はじめに
 ある出来事が世界を大きく揺るがし、人々の世界を見る目が大きく変わることがあります。21世紀に入ってからも、そのようなことが何度もありました。2001年の同時多発テロでニューヨークのワールド・トレード・センターの2つの高層ビルに民間の旅客機が激突して崩壊したことにより、私たちは国と国との間の戦争だけでなく、テロ組織もまた世界の平和を乱すことを知りました。テロ組織が危険なことに気付いていた人も少なくなかったとは思いますが、私たちの大半はテロ組織の危険性を十分に理解しないでいました。

 11年前の東日本大震災で私たちは地震と津波の破壊力の大きさを目の当たりにしました。東北の太平洋沿岸に住んでいた方々は実際にご自分の目でそれを見て、私たちはテレビの映像を通して津波が建物を破壊する様子を見ました。そして多くの方々が犠牲になった様子を見ました。さらに地震と津波は福島第一原発をも襲いました。福島第一原発は外部電源を喪失して、さらに非常電源用のディーゼル発電機も水没して、原子炉を冷却できない状況になり、核燃料の炉心が溶融するメルトダウンの重大事故が発生しました。これも予期していた人も一部にはいましたが、大半の人はこれほど重大な事故が起きるとは考えておらず、対策は十分ではありませんでした。まさか、こんな事が起きるとは、というのが大多数の人の感想であったと思います。しかし、このことで原発の危険性が大きく認識されるようになりました。

 そして一昨日の3月4日の金曜日、ロシア軍がウクライナ南部のザポリージャ原発を攻撃して制圧するという前代未聞の暴挙が報道されました。6基あるうちの1基は稼働中であったということで、攻撃によって核分裂が制御できなくなったり電源を喪失したりすれば福島第一原発の事故を上回る甚大な被害が出る可能性がありました。ロシア軍によるウクライナへの侵攻自体がまさか、こんな事が起きるとはというショッキングな出来事でしたが、さらに稼働中の原発を攻撃するとは、本当に考えられない事態です。

 このロシアの暴走を止めなければなりません。ロシアの暴走は、制御できなくなった原子炉の暴走のように非常に危険です。神様は「戦いをやめよ。知れ。わたしこそ神」とおっしゃっています。しかし、この神様の声はロシアのプーチン大統領の耳には届いていません。プーチン大統領はキリスト教のロシア正教会の信徒だそうですが、神様の声に耳を傾けようとしません。原発を攻撃するほどの暴走ですから、この先いったいどこまで暴走するのか分かりません。原発を攻撃するほど歯止めが掛からなくなっていますから、核兵器を使用するという、まさかの事態も有り得るのかもしれません。予測不能な動きをするという点では国家とうよりテロ組織に近いとすら感じます。後になって振り返るなら、このウクライナの戦争も私たちの考え方が大きく変えられたターニングポイントになるのではないかと思います。

 このような事態の中で、私たちはどうしたら良いのでしょうか?詩篇46篇をご一緒に見て、神様の御声を、耳を澄ませて聞きたいと思います。きょうの中心聖句は詩篇46篇の9節と10節です。
 
詩篇46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り 槍を断ち切り 戦車を火で焼かれる。
10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。」

 そして次の三つのパートで話を進めます。

 ①心に平安がない者たちがこの世の平和を乱す
 ②聖所からの水が豊かに流れる神の都の平安
 ③平安を知る者が多数になれば実現する平和

①心に平安がない者たちがこの世の平和を乱す
 心に平安がないと平和が乱れることは、個人レベルの小さなことでは日常的にあることです。マリアの姉のマルタはイエス様へのもてなしのことでイライラしていて平安がなく、妹のマリアに不満を持ちました。この程度で済めば良いですが、イスラエルの初代の王のサウルは部下のダビデを殺そうとしました。ユダヤの王のヘロデはイエス様が生まれた時、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまいました。サウル王もヘロデ王も、自分の王位をおびやかす者が現れたことで平安を失っていました。いまNHKで放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、いずれ源頼朝が弟の義経を討伐することになると思います。義経が期待していた以上の働きをして人々の間で人気が高まったことが、頼朝を不安にさせたのでしょう。頼朝と義経の関係はサウル王とダビデの関係に似ている点があると思います。

 第二次世界大戦中にアメリカが原爆の研究開発を急ピッチで進めたのは、ドイツが先に原爆の開発に成功することを恐れた不安からだとされています。しかし、実際はドイツではほとんど進んでいませんでした。当時の技術では原爆を作ることは相当に難しかったのですね。日本も試みましたが、ほとんど進みませんでした。それほど難しいことを、アメリカは莫大な資金と大勢の人員を投入して成し遂げました。原爆の開発に携わったメンバーにはノーベル賞級の優秀な科学者も多数含まれていました。そうしてアメリカはドイツではなく日本の広島と長崎に原爆を投下しました。原爆となると、サウル王のような個人レベルではなく、世界レベルで平和が乱されます。

 ロシアのプーチン大統領も、旧ソ連が解体した後で東欧諸国が次々にNATOに加盟したことを不安に思っていたと言われています。プーチン氏はウクライナが西側の陣営に入ることを、どんな手段を使ってでも阻止したいようです。それがザポリージャ原発を攻撃して制圧するという暴挙として表れています。プーチン氏はまったく平静を失っているとしか言いようがありません。平静が失われるのは心に平安がないからです。平和のためには世界の指導者が心に深い平安を得る必要があります。そのためには、まず国民が深い平安を得る必要があるのだと思います。指導者が暴走して国民を戦争へと駆り立てても、動かされない平安を国民の側がしっかりと持つ必要があるでしょう。

②聖所からの水が豊かに流れる神の都の平安
 きょうの聖書箇所の詩篇46篇を読むと、この詩篇には先ず主が与えて下さる深い平安のことがしっかりと記されていることに気付きます。次いで国々が立ち騒ぐ様子が記されて、最後に主は「やめよ。知れ。わたしこそ神」と仰せられます。このように、詩篇46篇は三つに区分できるようです。1) 主が与える深い平安、2) 立ち騒ぐ国々、3) 「やめよ」と仰せられる主、の三つの区分です。詩篇46篇を1節から見て行きましょう。

詩篇46:1 神はわれらの避け所また力。苦しむとき そこにある強き助け。

 神様は私たちの避け所であり、また力ですから、神様に心を寄せるなら心の平安が得られます。苦しむ時にも神様に心を寄せるなら心の平安が得られますから、強い助けになります。2節と3節、

2 それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
3 たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。

 神様に心を寄せて深い平安を得ているなら、山々が揺れ動くような恐ろしいことが起きても私たちの心は平安なままであり、恐れはありません。そして4節と5節、

4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでに これを助けられる。

 神様が与えて下さる平安は、豊かな水をたたえてゆったりと流れる川のようです。この川が流れている所では、すべてのものが生きます。聖書にはそのような川の記述がありますね。真っ先に思い起こすのはエゼキエル書47章と黙示録22章です。エゼキエル47章の9節と12節をお読みします。

エゼキエル47:9 「この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 エゼキエルが御使いに見せられたのと同じような川の光景を、ヨハネもまた御使いに寄って見せられました。黙示録22章です。1節と2節、

黙示録22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 この水の源は聖所ですから、この川の水は神の霊の水、すなわち聖霊でしょう。私たちは神様に心を寄せるなら聖霊に満たされて深い平安を得ることができます。

 一方、この豊かな平安の恵みを知らない者たちは心を騒がせて、平和を乱します。詩篇46篇に戻ります。6節と7節、

6 国々は立ち騒ぎ 諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
7 万軍のはわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。

 神様は立ち騒ぐ諸方の王国を鎮められます。8節と9節、

8 来て見よ。のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り 槍を断ち切り 戦車を火で焼かれる。

③平安を知る者が多数になれば実現する平和
 戦いをやめさせるお方の神様は、仰せられます。10節、

10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。」

 世界で、そして日本でも、これまでに無数の戦争がありました。20世紀には第一次世界大戦と第二次世界大戦がありました。そして今また、ロシアがウクライナに侵攻して戦争が起きています。神様はロシア正教の信徒のプーチン大統領にも「やめよ。知れ。わたしこそ神」と仰せられています。しかし、この神様の声はプーチン大統領には届いていないようです。どうすれば届くのでしょうか?

 神様の声は聖霊を受けていない人には届きません。ですから、旧約の時代には聖霊を受けた預言者たち、モーセやエリヤ、イザヤやエレミヤ、エゼキエルなどが神様の声を人々に届けていました。しかし、預言者たちの数は限られていましたから、人々の間に十分に届かずにいて、旧約の民は不信仰を繰り返していました。

 その不信仰の罪をイエス・キリストはすべて背負って十字架に付き、不信仰の罪は赦されました。イエス様は旧約の時代の罪だけでなく、新約の時代の私たちの不信仰の罪もすべて背負って十字架に付きましたから、20世紀と21世紀を生きる私たちの罪も赦されています。そうしてイエス様を信じた私たちは聖霊を受けています。聖霊とは洗礼を受けてキリスト教徒になれば注がれるわけではありません。イエス様を信じなければ注がれません。たとえ洗礼を受けていても不信仰を悔い改めず、イエス様の復活も信じず、イエス様が神の子キリストであることを信じない名ばかりのキリスト教徒には注がれません。プーチン大統領も、きっとその一人なのでしょう。

 そのようにまだ聖霊を受けていない人に対しては、聖霊を受けた私たちが神様の「やめよ」の声を届けなければなりません。でも、私たちの声はまだまだ小さいようです。声が小さいゆえに届いていないのだと思います。これは霊的な声ですから、実際の話す声を大きくすることとは違います。街頭のデモやSNSで「やめよ」と大きな声で叫ぶことも大切ですが、私たちは聖霊を通してイエス様の名によって「やめよ」と叫びます。霊的な耳が閉じている人々の魂を揺さぶり、霊的な耳が覚醒するような大きな声で「やめよ」と叫びます。

 では、私たちの「やめよ」の声が大きくなるようにするには、どうすれば良いのでしょうか?それは私たちがもっと深い平安を得ることではないでしょうか。それは詩篇46篇前半の深い平安を得ることなのだと思います。

4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。

 この深い平安と、戦争で混乱する世の中とのギャップが大きくなれば大きくなるほど、「やめよ」を伝える霊的な声が強く大きくなるのではないでしょうか。この詩篇46篇の平安を得ることは、変貌山の神の御姿のイエス様に大胆に近づくことと言い換えても良いかもしれません。

 聖書はいろいろな書き方で、私たちがもっと神様に大胆に近づくようにと招いています。ヘブル人への手紙の記者は次のように書いていますね。

ヘブル 4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 私たちはイエス様を信じて聖霊を受け、イエス様の血によってきよめられているがゆえに聖所の恵みの御座に大胆に近づくことが許されています。罪で汚れた私たちはそのままでは聖所に入ることなど絶対にできません。でもイエス様が十字架に掛かって血を流し、その十字架の血によって私たちはきよめられましたから、大胆に聖所に入ることができます。ヘブル人への手紙10章19節に書いてある通りです。

ヘブル 10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

 このことはイエス様が山上の説教でもおっしゃっていることです。マタイ5章8節です。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 こうして神様に大胆に近づき、御姿を見ることで私たちは心の深い平安を得ます。詩篇46篇1節にあるように、

詩篇46:1 神はわれらの避け所また力。苦しむとき そこにある強き助け。

です。この神様の御姿を見るなら、この詩篇46篇1節は単に信じていることではなく、実際のことになっていますから、心の深い平安が得られます。

 そうして深い平安を得た私たちの仲間が増えて共に祈るなら、神様の「やめよ」を大きな声でプーチン大統領とロシアの軍隊に届けることができます。

おわりに
 最後に詩篇46篇11節をお読みします。

11 万軍のはわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。

 万軍の主は、軍は軍でも弓や槍、鉄砲や爆弾で制圧して国を治める方ではありません。深い平安を人々に与えて国を治めるお方です。万軍の主が治める国は天国であり、深い平和に満ちた国です。聖霊を受けた私たちは既にこの深い平安をいただいています。しかし、この平安の深さは無限ですから、私たちはもっともっと深い平安を得ることができます。

 ですからイエス様の血によってきよめられた私たちは、さらに大胆に恵みの御座に近づいて、もっと深い平安を得たいと思います。そうして神様の「やめよ」をもっともっと大きな声でプーチン大統領とロシアの軍隊に届けたいと思います。そしてさらに、この戦争に関わっている人々のすべてに心の平安を得てほしいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りしましょう。
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「不信仰な時代だ」と嘆くイエス(2022.2.27 礼拝)

2022-02-27 15:19:50 | 礼拝メッセージ
2022年2月27日礼拝メッセージ
『「不信仰な時代だ」と嘆くイエス』
【マルコ9:14~29】

牧会祈祷(抜粋)

詩篇46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り 槍を断ち切り 戦車を火で焼かれる。
10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。」 

 いまウクライナでは、ロシア軍の侵攻によって多くの死傷者が出て苦しんでいます。早く戦闘をやめて事態が収まるよう、「やめよ」の声が聴こえなくなっている人々の耳を開けて下さい。そうして神様の「やめよ」の声がさやかに聴こえるようにして、ウクライナに平和が戻るようにして下さい。

はじめに
 きょうの中心聖句は、イエス様のきついことばが記されているマルコ9章19節です。イエス様はおっしゃいました。

マルコ9:19 「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

 このことばはきついですね。イエス様はいつくしみ深いお方です。きょう歌った賛美歌「いつしみ深き」の2節には、「いつくしみ深き友なるイエスは、われらの弱きを知りて憐れむ。悩み悲しみに沈める時も、祈りにこたえて慰めたまわん」とあります。そのイエス様が「いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」とおっしゃっています。とてもきついです。

 イエス様はパリサイ人たちには、いつも厳しいことをおっしゃるお方ですが、弱い立場の人々には、憐み深く、やさしく接するお方です。弟子たちに対しては、その中間ぐらいで、時には厳しいことも言います。たとえば、湖が大荒れになって舟が沈みそうになって弟子たちが恐怖に包まれていた時、イエス様はおっしゃいました。

マタイ8:26 「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」

 この「信仰の薄い者たち」も、かなりきついですが、きょうの「いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」は相当にきついですね。あまりにきついので、これまで私はこの箇所のイエス様からは少し距離を置いていました。

 でも、先週の礼拝で変貌山の箇所を開き、このイエス様のきついことばは変貌山の後で発せられたことばであることに思い至って、かなり納得しました。きょうは先ず、このことを分かち合いたいと思います。きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①変貌山の余韻が残っていたイエス様
 ②使徒の時代も現代も未だに続く不信仰
 ③疑わずに御心にかなう祈りを捧げる

①変貌山の余韻が残っていたイエス様
 きょうの中心聖句のイエス様のきついことば、

マルコ9:19 「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

は、イエス様たちが変貌山から下って来た直後のことでした。14節から見て行きます。

マルコ9:14 さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。

 イエス様が変貌山に連れて行ったのはペテロとヤコブとヨハネの三人だけでしたから、他の弟子たちは山の下にいました。イエス様たちがそこに戻ると、大勢の群衆が弟子たちを囲んでいました。15節、

15 群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。

 群衆は「非常に驚き」とあります。群衆は皆、早くイエス様が戻って来てくれないかなと願っていたのでしょう。そう願っていたら本当にイエス様が現れたので、驚いたということではないかと思います。これも不信仰の現れと言えるかもしれませんね。祈り願っていることが本当に適えられると、私たちはしばしば驚きます。「本当に適えられた」と。でも、驚くということは神様を心の底から信頼していないということでもあると思いますから、きっと不信仰なんでしょう。

 次に16節から18節、

16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
17 すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
18 その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」

 このマルコ9章の少し前の6章には、弟子たちが悪霊を追い出していたことが書かれています。マルコ6章12節と13節です。

マルコ6:12 こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、
13 多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。

 この時には弟子たちは悪霊を追い出すことができていました。でも、このマルコ9章では、それができませんでした。きょうの中心聖句の19節は、これらのことがあってから、イエス様が言われたことです。19節、

19 イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 この少し前までイエス様は変貌山にいました。イエス様は高い山の上で神の御姿を現しました。先週ご一緒に見た9章2節ですね。2節と3節、

2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。
3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。

 また、イエス様はエリヤとモーセと語り合いました。4節、

4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。

 そうして、この変貌山では天の御父の声もハッキリと聞こえました。それはペテロたちも聞くことができるものでした。7節です。

7 そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」

 イエス様は天から遣わされた神の御子です。そうして、つい少し前に変貌山の天に非常に近い所まで行って来て、神としての御姿を現したばかりでした。こう言うと語弊があるかもしれませんが、分かりやすく言うなら里心がついてホームシックになったようなところがあったのかもしれません。

 もう45年も前のことになりますが、大学1年生だった時に夏休みで約4週間を静岡で過ごしてから札幌に戻った時のことを思い出します。まだ一人暮らしに十分に慣れていなかった私は静岡から札幌に戻って来た日、静岡を思って寂しさを感じていました。大学2年生以降はもうすっかり札幌に馴染んでいましたから、夏休みに静岡に帰ったとしても何日間かいるだけで1週間もいませんでした。でも1年生の時は4週間近くも静岡で過ごしました。そうしてお盆が終わる頃に再び札幌に戻って来た時、静岡を恋しく思って寂しさを感じていました。もしかしたらイエス様も、故郷の天の御国が懐かしくて恋しくなったのかもしれません。それが、19節のきついことばになって表れたのかもしれません。

「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

 今まで私は19節のイエス様のこのきついことばからは少し距離を置いていましたが、イエス様は変貌山で天の御国が懐かしくて恋しくなってしまったのかもしれないと思うと、イエス様をもっと身近に感じるようになりました。イエス様も人の子ですから、そういう一面もまた、あったのではないでしょうか。

②使徒の時代も現代も未だ続く不信仰
 神の御子のイエス様は永遠の中を生きておられます。ですから、「ああ、不信仰な時代だ」とイエス様が嘆いた時代は、イエス様が地上にいた時だけではありません。使徒の時代も、そして現代に至るまで、ずっと不信仰な時代が続いていると言えます。

 たとえばマルコがこの福音書を書いた使徒の時代も、ユダヤ人たちの多くはイエス様を信じませんでした。ですから、不信仰な時代はイエス様の地上生涯の時代から引き続き、使徒の時代も続いていました。

 そして、不信仰な時代は私たちが生きている20世紀と21世紀の現代に至るまで、なお続いています。ヨーロッパでは洗礼を受けるクリスチャンが多くいますが、それにも関わらず、多くの戦争があり、血が流されて来ました。第一次世界大戦はヨーロッパが戦場でしたし、第二次世界大戦でもヨーロッパは再び戦場と化して、多くの血が流されました。第二次世界大戦というと私たち日本人は日本軍が兵を送っていたアジア大陸や太平洋諸国を先ず思い浮かべると思いますが、ヨーロッパもまた主要な戦場になっていました。

 第二次世界大戦の始まりは歴史的には1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻した時とされているようです。しかし、それ以前からヨーロッパでは多くの血が流されていました。1937年にはスペインのゲルニカという町が爆撃に遭って多くの一般市民が犠牲になりました。ピカソの有名な絵の「ゲルニカ」は、この悲劇があった年の1937年に描かれたものです。


パブロ・ピカソ「ゲルニカ」(1937) ※出典:西洋絵画美術館(https://artmuseum.jpn.org/mu_gelunica.html)

 私はこの「ゲルニカ」の実物を1981年にニューヨーク近代美術館で観たことがあります。当時大学4年生で1ヶ月間アメリカを一人旅していました。当時はまだ戦争と平和の問題にはそんなに深い関心を持っていませんでしたが、この「ゲルニカ」を実際に観た時のことは今でもよく覚えています。まだ平和の問題に関心が薄かった私の心にも響くものがあったのだろうなと思います。

 そして2022年の今、ゲルニカの爆撃と同じようなことがウクライナで起きています。どうしてクリスチャンが多いヨーロッパでこんなにも戦争の悲劇が繰り返されるのでしょうか?イエス様はこのことを、どれほど悲しみ、嘆いていることでしょうか。イエス様はエルサレム入りを前にして、泣きました。

ルカ19:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

 そうして、イエス様が泣いた約40年後にエルサレムはローマ軍の攻撃によって炎上して廃墟になりました。

 イエス様は二千年前に十字架に掛かって、私たちの中に潜む罪の大きさを示して下さいました。それから二千年も経つのに、今でも戦争の悲劇が繰り返されています。永遠の中におられるイエス様は、この不信仰をどれだけ悲しみ、嘆いておられることでしょうか。

マルコ9:19 「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

 そうしてイエス様はおっしゃいました。

「その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 弟子たちと人々の不信仰を嘆いたイエス様でしたが、そうかと言って人々を決して見捨てるお方ではありません。

③疑わずに御心にかなう祈りを捧げる
 イエス様が「不信仰な時代だ」と嘆くもう一つの理由に、私たちが神様を信じているようでいて、100%本気では信じていないという点があるように思います。

 悪霊に取り憑かれた子は引きつけを起こし、地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回っていました。この子は幼い時から、このようであったとのことです。そして、父親はイエス様に言いました。

22 「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」

 するとイエス様は言われました。

23 「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 イエス様は不信仰な父親を叱りつけました。でも、考えてみると私自身も、この父親と同じようなものかもしれません。少しの疑いもなく100%イエス様を信じ切って祈っているだろうかと思う時、信じ切って祈ることはもちろんありますが、そうでない時も少なくないように思います。もし祈りが応えられなかった時にガッカリし過ぎないように予め予防線を張り、本気で祈っていないことがあります。幼子のようにまったく疑いを挟まずに祈るのでなく、疑いながらの祈りになっていることがあります。ですから、この23節のイエス様のことばは私に対することばでもあります。

23 「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 すると、19節のイエス様の嘆きが一層突き刺さって来ます。

19 「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

 イエス様は「信じる者には、どんなことでもできるのです」を分からせるために、敢えてその前にきつい19節のことばをおっしゃったのでしょう。続いて24節と25節、

24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」

 そうして悪霊は叫び声をあげて、その子から出て行きました。弟子たちはイエス様にそっと尋ねました。

28 「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」

 イエス様は弟子たちに答えました。

29 「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」た。

 弟子たちの祈りもまた足りませんでした。私の祈りもまた足りません。御心にかなう祈りでしたら、神様は必ず応えて下さいます。そのことを信じて幼子のように疑いを挟まずに祈れる者にしていただきたいと思います。

おわりに
 私たちは平和のために、祈ります。でもイエス様の十字架から二千年が経っても、未だに平和が訪れないのですから、まだまだ平和への道のりは遠そうだなと、つい思ってしまいがちです。でも、イエス様はおっしゃいます。

23 「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 ですから、疑いを挟まずに平和のために、特に今はウクライナの平和のために祈りたいと思います。平和の祈りは御心に適う祈りです。ですから幼子のように疑いを挟まずにイエス様を100%信頼して、お祈りしたいと思います。

 耳が閉じられて「やめよ」(詩篇46:10)の声が聴こえなくなっている人々の耳を開けて、神様の「やめよ」の声がさやかに聴こえるようになり、早く戦闘をやめて事態が収まり、ウクライナに平和が戻るように、お祈りしたいと思います。

 しばらく、ご一緒に、お祈りしましょう。
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キリストは森林限界の上の天へ私を導く(2022.2.20 礼拝)

2022-02-21 06:35:39 | 礼拝メッセージ
2022年2月20日礼拝メッセージ
『キリストは森林限界の上の天へ私を導く』
【マルコ9:2~8】

はじめに
 きょうの説教のタイトルは『キリストは森林限界の上の天へ私を導く』で、「森林限界」ということばを使いました。実はこの「森林限界」は1週間前の2月13日に将棋の藤井聡太五冠が記者会見で使って、話題になったことばです。SNSのツイッターでは、一時多くのツイートがされて、トレンドにもなっていました。この藤井五冠の「森林限界」のコメントは、今日の聖書箇所の「変貌山」の記事と重ねると、とても味わい深いと思いましたから、「森林限界」ということばの賞味期限が切れない新鮮なうちに、お話ししておきたいと思います。

 きょうの中心聖句はマルコ9章2節の、

マルコ9:2 イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。
 
です。ここで注目したいのは、イエス様が弟子たちを高い山の上に連れて行ったということです。きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①天が見えない樹海でさまよっていた私たち
 ②森林限界の上で神の御姿を見せるイエス様
 ③御父と御子との交わりで一層よく見える天

①天が見えない樹海でさまよっていた私たち
 ちょうど1週間前の2月13日の日曜日に、将棋の藤井聡太五冠の記者会見が行われました。藤井五冠は前日の12日に王将のタイトルを渡辺明名人から奪取して、五つのタイトルホルダーになりました。五つのタイトルとは、王位、棋聖、叡王、竜王、そして今回の王将です。残るタイトルは棋王、王座、名人の三つで、将棋の八つのタイトルを独占する八冠も期待されています。そんな藤井さんに対して、この会見では記者からこんな質問がありました。

「富士山で言うと、いま藤井さんは何合目ぐらいを登っているイメージがありますか?」

 この質問に藤井五冠は、こんな風に答えたそうです。

「はい(苦笑)。えーと、そうですね・・・。うーん・・・。そうですね、なんというか、将棋というのはとても奥が深いゲームで・・・。うーん・・・。そう・・・ですね。まあ・・・。なんというか、本当にどこが頂上なのかというのもまったく見えないわけなので。うーん、そうですね・・・。そういう意味でもなんというかまだ、頂上が見えないという点ではなんか、森林限界の手前というか、まだまだやっぱり、なんというか、上の方には行けていないのかな、とは思います」(注1:出典は文末に記載)

 藤井五冠ほどの人でも、将棋という山の頂上はまだぜんぜん見えていないということです。このことを言うために、「森林限界」ということばを使ったところが、藤井さんらしくてユニークですね。

 山は標高が高くなると気温が低くなり、また強風が吹き荒れるなど環境が厳しくなるため、背の高い木は育たなくなって森林はできません。その標高を森林限界と言います(山の場合)。この森林限界より高い場所には背の高い木はありませんから、見晴らしが良くなって山の頂上も見えるようになります。

 信仰生活にたとえるなら、イエス様と出会う前の私たちは、山の裾の暗い森林の中をさまよっているようなものです。もう14年前のことになりますが、2008年の8月に、静岡教会の皆さんとキャンプで本栖湖の近くの青木ヶ原の樹海の入口へ行ったことを思い出します。当時の牧師は高桑先生ご夫妻で、私は神学生の1年生でした。当時、夏季実習でこの静岡教会でお世話になっていました。宿泊したのは朝霧高原でしたが、その前に本栖湖に寄って、ボート遊びをしたり、樹海の入口まで行ったりしたことを思い出します。私が富士山の樹海に行ったことがあるのは、後にも先にもこの時だけです。樹海は迷い込んだら出て来られない、とても危険な場所と言われていて、確かにそのような雰囲気が漂っていました。


キャンプで宿泊した朝霧高原から見た朝の富士山(2008.8.15撮影)

 樹海では昼間でも日光が下まで届かずに暗いままです。その中をあてもなく歩くなら、方向感覚が分からなくなって、どこから来たのかさえ分からなくなってしまいます。そうして、どちらへ行けば良いのかも分からなくなります。イエス様と出会う前の私たちは、この樹海の中をさまよっているようなものでしょう。でも、イエス様に出会い、「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)「来なさい。そうすれば分かります」(同1:39)とおっしゃるイエス様に付き従って行くなら、森林限界を超えて見晴らしの良い所まで連れて行っていただけます。その見晴らしの良い所からは、天の御国も見えるようになります。

②森林限界の上で神の御姿を見せるイエス様
 きょうの聖書箇所を見て行きましょう。ここでイエス様の御姿が変貌したことから、この山は「変貌山」と呼ばれています。まず9章2節、

マルコ9:2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。

 ペテロとヤコブとヨハネは、使徒の働きに記されているように教会の働きで中心的な役割を担いました。イエス様は早い段階から、この三人が教会のリーダーになるようにと教育していたのですね。そうしてイエス様は彼らの目の前で御姿を変えられました。3節、

3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。

 イエス様の衣は、この世の職人にはなし得ない、つまり神様にしかできない白さで輝きました。4節、

4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。

 普通に考えると、どうしてエリヤとモーセだと分かったんだろう?と不思議に思います。ペテロたちはエリヤにもモーセにも会ったことがない筈ですから、なぜ分かったのか不思議です。でも、分かったんですね。それはつまり、ペテロたちはとても神秘的な体験、すなわち神体験をしたということです。そして5節と6節、

5 ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
6 ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。

 何を言ったら良いのか分からなかったペテロは、本当に訳の分からないことを言いました。ペテロはガリラヤ湖で魚を獲る漁師でしたから、幕屋を造る技術は持っていなかったでしょう。ヤコブとヨハネも漁師でした。まして、もしペテロが想定していたのが、神の箱を置くような立派な幕屋だったとしたら、金や銀を使い、また鮮やかな刺繍を施しますから、職人に作製を依頼したとしてもお金が掛かり過ぎて、ペテロたちにはとうてい造れなかったでしょう。このようにペテロは訳の分からないことを言っていました。それは「恐怖に打たれていた」からだとマルコは記しています。この時、ペテロたちは天の父の声を聞きました。7節、

7 そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」

 天の父の声を直接聞くとは、ペテロたちは本当にすごい神体験をしました。これが神秘的な体験であったことは、次の8節からも分かります。

8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。

 このように、ペテロたちはとても不思議な体験をしました。これは一見すると、ペテロたちだけの特殊な体験のように見えます。でも今回、将棋の藤井五冠の「森林限界」のコメントをヒントに改めて思いを巡らしてみて、私たちは皆、似たような体験ができるチャンスが与えられていることに気付かされました。なぜなら、最初のパートで話したように、私たちは皆、森林限界の下の暗い樹海の中をさまよう者たちだからです。そんな私たちにイエス様は声を掛けて下さり、森林限界の上へと連れて行って下さいます。そこはまさに天の方を見通すことができる、変貌山です。私たちはペテロやヤコブやヨハネのように、この変貌山に連れて来ていただくことができます。そうして、神の御姿のイエス様を見ることが許されます。そのことを、次のパートで思い巡らしてみましょう。

③御父と御子との交わりで一層よく見える天
 最後の3番目のパートの表題は、「御父と御子との交わりで一層よく見える天」です。もう何度も引用していますが、きょうもヨハネの手紙第一1章を引用したいと思います。きょうは3節だけでなく、1節から3節までを引用します。

Ⅰヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 このように、ヨハネは私たちを「御父また御子イエス・キリストとの交わり」に招いています。このヨハネの手紙第一の記者のヨハネは、ヨハネの福音書を書いたヨハネであり、マルコの福音書9章でイエス様に変貌山に連れて行かれて神の御姿のイエス様を見て、天の御父の声を聞いたヨハネです(変貌山の記事はマタイの福音書17章とルカの福音書9章にも記されています)。ヨハネは変貌山で御父と御子の交わりに入れていただくという、すごい神体験をしましたが、この交わりに私たちもまた入ることができるように、福音書と手紙を書きました。イエス様は読者の私たちに「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)「来なさい。そうすれば分かります。」(同1:39)と声を掛けて下さり、神の御姿のイエス様を見せて下さり、御父の声も聞けるようにして下さいます。

 ヨハネの福音書の分からないところはヨハネの手紙第一を読んで補うことができます。さらにマタイ・マルコ・ルカの福音書も併せ読むなら、御父と御子との豊かな交わりの中に入れていただくことができるようになります。聖書を読むなら、イエス様は山の裾の暗い樹海でさまよう私たちを、こんな素晴らしい森林限界の上へと導いて下さいます。

 きょうは将棋の藤井聡太五冠の「森林限界」のコメントから話を始めました。藤井さんは5年前、中学2年生の時に四段になってプロ棋士になりました。14歳でした。そしてデビュー戦の相手は当時76歳の加藤一二三さんで、最年少と最年長の棋士の対局ということで、とても話題になりましたね。加藤一二三さんはカトリックの信者で、現役引退後の一昨年、『だから私は、神を信じる』(注2)という本を出版しました。静岡聖文舎でこの本を見かけましたから、私も買いました。この本の帯にはこう書いてあります。

「キリスト教を信じることによって、私の人生や将棋は大きく変えられた」

 そして、本の中で加藤さんはこのように書いています。

「キリスト教の教えを信じることによって、私の生き方は大きく変えられました。
 洗礼を受ける少し前、私は将棋人生に行き詰まりを覚え、このままでは先がないというつらく苦しい日々を過ごしていました。指し盛りの頃なのに勝率は五割程度に留まり、周りの方からも『将棋の内容に面白みがなくなった』と言われ、タイトルの挑戦や棋戦優勝からも遠のいてしまっていました。何とかその状況を打破しようとしたものの、正直空回りばかりでした。しかし洗礼を受けてから、私の将棋は本当に変わっていったのです。」(p.20)。

 加藤さんは、山の裾の暗い樹海の中をさまよっていました。加藤さんはまた、このようにも書いています。

「人生を歩むなかで、『苦しみ』に出会わない人はいません。進路、家族関係、仕事の人間関係……、さまざまな局面において私たちは困難を経験します。
 私も洗礼を受ける前、将棋にも行き詰まりつらい日々を過ごしていました。しかし今思えば、その苦しみがあったからこそ私は信仰へ導かれ、こうして今、生かされているということになります。そうした経験から、苦しみは『単なる苦しいこと』に留まらず、必ず何らかの意味をもっていると私は思うのです。」(p.38)

 加藤さんは「苦しみがあったからこそ私は信仰へ導かれ、こうして今、生かされている」と書いています。私たちも同じですね。暗い樹海の中でさまよっていたからこそ、イエス様と出会うことができました。暗い闇の中で明るい方向へと導いて下さるイエス様と出会うことができることは本当に感謝なことです。そうして信仰生活を始めるなら、しばらくの間はまだ暗い樹海の中を歩みます。でもイエス様が一緒ですから、平安があります。不安や恐れがなくなります。そうして、もうしばらく歩き続けるなら、イエス様は森林限界の上へと導いて下さり、神の御姿のイエス様を見せて下さり、さらには天の御父の声までも聞けるようにして下さいます。

 信仰を持った後でしばらくしてから、さらに信仰が引き上げられることには、いろいろな呼び方がありますね。「第二の転機」、「聖霊の満たし」、「聖潔(きよめ)」、「全面的明け渡し」などなど様々な呼び方があります。でも、どれも今一つ分かりにくい気もします。そんな中、きょう話したような、イエス様に導かれて「森林限界」を超えて高い山の上に連れて行かれるイメージは、かなり分かりやすいのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
 
おわりに
 6節をもう一度、お読みします。

マルコ9:6 ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。

 ペテロとヤコブとヨハネは恐怖に打たれていました。彼らは素晴らしい神体験をしていましたが、同時に恐怖も感じていました。何事においても上の方へ行くことは恐怖を伴うものでしょう。ペテロたちの恐怖とは少し違いますが、上へ行けば、そこに到達した者にしか分からない境地があります。でも周囲の人々はそれを理解しませんから、変わり者と思われて、いろいろなことを言われて、孤独になることもあります。そういう孤独な領域に足を踏み入れることは恐ろしいことでもあります。

 スポーツの世界が分かりやすいかもしれません。大相撲の横綱には横綱になった者にしか分からないことがあるでしょう。横綱とは孤独な地位とも言えるでしょう。サッカーでも野球でも超一流の選手になれば、その分、孤独を味わうことにもなるでしょう。サッカー選手には孤独な雰囲気を漂わせている人が少なくないように思います。日本のプロ野球から大リーグのヤンキースに移籍して活躍した松井秀喜さんは、引退後はあまり積極的に野球に関わらず、ずっとニューヨークで暮らしていますね。松井秀喜さんにしか分からない高みで世間との隔たりを感じ、深い孤独を感じることがあったんだろうなと想像します。

 オリンピックでメダルを取れば、それが重圧になって凡人には分からない孤独に苦しむこともあります。古くは1964年の東京オリンピックで銅メダルを取ったマラソンの円谷幸吉選手が4年後のメキシコ・オリンピックを目前にして自ら命を絶つという悲しい出来事がありました。円谷さんの遺書を読むと、本当に孤独だったんだなということがしみじみと伝わって来ます(円谷さんの遺書はインターネットの検索サイトで「円谷幸吉 遺書」で検索すれば読むことができますから、関心のある方は読んでみて下さい)。

 信仰もまた、信仰が引き上げられて行くなら、周囲の人々に理解されない寂しさを味わうこともあります。理解されずに孤立することは恐ろしいことでもあります。でも信仰においてはイエス様が共にいて下さいます。たとえ周囲の人々に理解されない寂しさを感じたとしても、イエス様が共にいて下さいますから、孤独ではありません。

 きょう歌った賛美歌の「たとえばわたしが」の歌詞にあるようにイエス様は、たとえば私が涙を流す時、共に涙を流して悲しんで下さいます。たとえば私が一人になっても、イエス様は私を慰めて励まして下さいます。イエス様が私たちと共にいて下さいますから、決して孤独ではありません。

 ですから私たちはイエス様と共に「森林限界」の上を目指して、神様としてのイエス様の御姿を見て、天の御父の声が聞ける所までイエス様に連れて行っていただきたいと思います。そうすれば天の御国はもうすぐそこです。地上にいながらにして、天の御国の入口の恵みに与ることができます。

 この恵みの高嶺に、イエス様に連れて行っていただきましょう。この後で歌う賛美歌は「恵みの高嶺を」です。この恵みの高嶺に、イエス様に連れて行っていただきましょう。そうして、この素晴らしい恵みを周囲の方々にお伝えしましょう。樹海の暗闇をさまよう私に寄り添って下さるイエス様をお伝えすることも、もちろん大切です。これは必須です。でも森林限界の上の、恵みの高嶺をもお伝えできるなら、この地上において天の御国の恵みを分かち合えるようになります。それは「主の祈り」にある、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」が実現することでもあります。ですから私たちは、恵みの高嶺にイエス様に連れて行っていただきたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

マルコ9:2 イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。

注1 出典:松本博文『「頂上が見えないという点では森林限界の手前」藤井聡太新王将(19)王将戦第4局翌日会見コメント全文』
注2 加藤一二三『だから私は、神を信じる』(日本キリスト教団出版局 2020)
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主への私の愛を主がご存じの幸いと平安(2022.2.13 礼拝)

2022-02-14 10:06:17 | 礼拝メッセージ
2022年2月13日礼拝メッセージ
『主への私の愛を主がご存じの幸いと平安』
【ヨハネ21:15~19】

はじめに
 礼拝と祈祷会のメッセージでは、「心の深い平安」についての理解を深めて行きたいと願っています。イエス様が与えて下さる平安の深さは無限です。ですから、既に平安を得ていても、さらに深い平安の世界があるはずです。また、平安をまだ得ていない方々には、少しでも平安が得られるようになっていただきたいと思います。そのことを思いながら、きょうは、ヨハネ21章のペテロの心の内に分け入ってみたいと思います。

 きょうの中心聖句は、ペテロのことばの

「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」(ヨハネ21:15, 16, 17)

です。そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①主への私の愛を主がご存じの幸いと平安
 ②主と一つの私は喜びも悲しみも共有する
 ③主を愛しているから私は心一杯賛美する

①主への私の愛を主がご存じの幸いと平安
 最初のパートの表題の「主への私の愛を主がご存じの幸いと平安」は、きょうの説教題と同じです。私がイエス様を愛していることを、イエス様もご存じであるということは、とても幸いなことです。そしてこのことで、心の深い平安が得られることを、分かち合いたいと思います。

 まず、今日の場面に至った経緯を見ておきましょう。21章でペテロたちはティベリア湖の湖畔にいました。ティベリア湖というのは、ガリラヤ湖のことです。ここに至る前、イエス様と弟子たちは12章でエルサレムに入り、13~17章では「最後の晩餐」の時を過ごしました。そしてイエス様は18章で祭司長たちに捕らえられて裁判にかけられ、19章で十字架に掛かって死に、20章で復活して弟子たちの前に現れました。そして21章でイエス様はもう一度、ティベリア湖畔にいた弟子たちの前に現れて一緒に食事をしました。13節です。

ヨハネ21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

 次の14節には、これはイエス様が死人の中からよみがえってから三度目のことである、と記されています。そして、15節、

15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」

 イエス様はペテロに「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」とおっしゃいました。単に「シモン」ではなく、「ヨハネの子シモン」と呼び掛けたところに重みを感じますね。これから、とても大切なことを話しますよ、というサインです。そして、「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」と聞きました。

 ここで押さえておきたいのは、イエス様はペテロの心の内を知らないで質問したのではない、ということです。神様であるイエス様はペテロの心の内をすべて知っています。ペテロ以上に知っています。その上で、こう聞いているんですね。

 神様は人を造ったお方ですから、造られた側の人が気付きにくい心の奥深い領域のことまで、良く知っています。たとえば先週話したように、イエス様はヨハネの福音書1章で、「あなたがたは何を求めているのですか」と弟子たちに聞きました。聞かれた側は気づいていませんが、実は人は心の奥底では深い平安を求めています。心の深い領域の平安は神様だけが与えることができる平安ですから、神様との深い交わりを持つ前の人には、そのことが分かっていません。でも、人をお造りになった神様はご存じです。人はもともと神様との交わりによって平安が得られるように造られています。そのように神様がお造りになりました。でも、罪が邪魔をして、平安を得ることを妨げています。

 神様を愛することも同じです。人はもともと、神様を愛するように造られています。でも罪が働いて、人は神様に背きます。ペテロも、他の誰よりもイエス様を愛していましたが、罪が働いてイエス様のことを「そんな人は知らない」と三度も言ってしまいました。イエス様は、そのことをご存じでした。一方のペテロは、自分がこんなにもイエス様のことを愛しているのに、どうして自分はあんなことを言ってしまったのか、とても情けなく思っていたことでしょう。イエス様が復活して現れた後も、それを引きずっていたことでしょう。そんな時に、イエス様がもう一度、ティベリア湖畔で現れて下さいました。そうして、「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」と聞いて下さいました。

 イエス様が捕らえられる前、イエス様とペテロの間で次のような、やりとりがありました。マルコ14章の29節から31節までです。

マルコ14:29 ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。

 ペテロはイエス様にこう言い張っていたのに、「そんな人は知らない」と三度も言ってしまいました。そんなペテロにイエス様は、それでもやっぱり、「あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」と聞きました。もちろんペテロはイエス様のことを愛しています。ここで、もしイエス様が普通の人間だったら、自分を裏切ったペテロの言うことなど信用しないのが普通でしょう。いくらペテロが「私はあなたを愛しています」と言っても、「そんな人は知らない」と言ってしまった者の言うことなど信用してもらえないでしょう。

 でも、ペテロはイエス様が自分の心の内を知っているお方だと分かっていました。なぜならペテロはイエス様が「生ける神の子キリストである」(マタイ16:16)ことを知っており、ペテロが「そんな人は知らない」と言う前から、そのことをちゃんと予告していたからです。ですから、ペテロはイエス様に答えることができました。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエス様は自分の心の内を知っているお方だとペテロは知っているから、このように答えることができたのですね。

 イエス様が自分の心の内をすべてご存じであることは恐ろしいことでもあります。自分の心の内の醜さは、できれば隠しておきたいことです。でもイエス様はすべてご存じです。一方、自分の醜さだけではなくて、自分がイエス様を愛していることをもイエス様がご存じであることは、何と幸いなことでしょうか。先ほども言ったように人間であれば、自分を裏切った者が何を言っても信用しないでしょう。自分を裏切った者から「あなたを愛しています」と言われても、信用できるはずがありません。ペテロもイエス様を裏切りました。でも、イエス様は生ける神の子キリストですから、ペテロがイエス様を愛していることをご存じでした。ペテロもそれを知っていました。ですから、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と言うことができました。何と幸いなことでしょうか。この幸いによって、私たちは大きな平安を得ます。イエス様を裏切ったことがある私の言うことでも、イエス様は私の心の内をご存じのお方ですから、信用して下さいます。この幸いによって、私たちは心の深い平安を得ます。

②主と一つの私は喜びも悲しみも共有する
 16節でイエス様はもう一度ペテロに聞きました。

16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

 「あなたはわたしを愛していますか」と聞くイエス様に、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と告白できるなら、その人は自分の心の内を全面的にイエス様に明け渡していると言えるでしょう。自分の欠点や醜さも含めて、すべてをイエス様にさらけ出しているなら、それは全面的に明け渡しているということです。もちろん、さらけ出さなくてもイエス様はすべてをご存じです。私たちは決して隠すことができません。しかし隠すことができなくても、隠したくなるのが罪に陥っている者の心理というものでしょう。旧約聖書の創世記3章のアダムとエバもそうでしたね。アダムとエバは、神様から食べてはならないと言われていた物を食べてしまいました。そうして、二人は神様の御顔を避けて、身を隠しました。創世記3:8には、次のように書かれています。

3:8 そよ風の吹くころ、彼らは、神であるが園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

 神様から隠れることはできないのに、隠れようとする、これが私たち罪人の悲しい習性です。でも、その罪を認めて悔い改めて、すべてを神様にさらけ出して明け渡すなら、神様と一つになることができます。そうして神様と一つになるなら、神様の喜びは私たちの喜びにもなります。イエス様は、「一人の罪人が悔い改めるなら、…大きな喜びが天にあるのです」(ルカ15:7)とおっしゃいましたが、この天の喜びを私たちも共有できるようになります。教会で洗礼式があって、新たな家族が教会に与えられるなら、私たちには、大きな喜びがありますね。洗礼式の時、私たちは天と共に喜びを分かち合っています。

 さてしかし、神様と一つになることは、神様の悲しみもまた共有するということです。ヨハネ21章17節、

17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

 ペテロはイエス様に「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と二度も答えたのに、さらにもう一度「あなたはわたしを愛していますか」と聞かれたことに、心を痛めました。でも、これによってペテロはイエス様の悲しみも共有することができ、さらにイエス様と一つになることができました。

 ペテロはイエス様のことを「そんな人は知らない」と三度言いました。イエス様にとって、これは分かっていたこととはいえ、とても悲しいことだったでしょう。このイエス様の悲しみを、ペテロは三度イエス様から「あなたはわたしを愛していますか」と聞かれることで共有しました。今やペテロはイエス様と完全に一つになりました。そうしてペテロは「わたしの羊を飼いなさい」と言われて、イエス様の福音を広く世界に宣べ伝える働きを託されました。

 「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と信仰の告白をしてイエス様に自分の心の内をすべて明け渡すなら、イエス様と一つにされて喜びと悲しみを共有することができるようになります。イエス様の喜びだけでなく悲しみも共有するなら一体感が強まります。この強い一体感によって平安が深まります。これは本当に素晴らしい恵みです。イエス様に自分の心の内を明け渡してイエス様と一つになり、強い一体感を得て深い心の平安を得る私たちでありたいと思います。

③主を愛しているから私は心一杯賛美する
 きょうの聖日、日本中の教会、世界中の教会で礼拝がささげられます。私たちは主を愛しているから、礼拝で主を心一杯賛美します。

 主は、私が主を愛していることをご存じです。だとしたら、わざわざ礼拝をしなくても良いのではないのか、心の中で礼拝していれば、目に見える形で表さなくても良いのではないのか、ふとそんな思いが、しないでもありません。では、どうして私たちは礼拝をするのでしょうか。次のa)~c) の三つの理由があり、他にもまだあることでしょう。

 a) 喜びを心の内にしまっておけない 
 b) この喜びを大勢で分かち合いたい 
 c) この喜びの輪をさらに広げたい

 まずa)です。私たちは主を愛していることの大きな喜びを心の内にしまっておくことはできません。旧約聖書のサムエル記に、神の箱をエルサレムに迎え入れた時のダビデの大きな喜びが記されていますね。第二サムエル6:14には次のように書かれています。

Ⅱサムエル6:14 ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。

 ダビデは神の箱をエルサレムに運び入れることができたことが、うれしくてうれしくてたまりませんでした。そうして、その喜びを全身で表現して、神の箱の前で力の限り跳ね回り、喜びを爆発させました。ダビデは大きな喜びを心の内にしまっておくことができませんでした。それで、自然に踊り出してしまいました。妻のミカルは、夫のダビデが踊り狂うのを見て、はしたないと軽蔑しましたが、ダビデは人目をはばからず、自分が王としての威厳を保たなければならないということも思わず、ただただうれしくてうれしくて、その喜びを全身で表現しました。私たちの礼拝も、そのようなものではないでしょうか。私たちは神様を愛しています。イエス様を愛しています。このことを心の内にしまっておけなくて、礼拝で喜びを力の限り表現する。これが礼拝ではないでしょうか。今はコロナ禍でマスクをしながら小声でしか賛美ができません。早くマスクをはずして大きな声で心一杯賛美できるようになってほしいと思います。

 そして私たちは、この喜びを大勢で分かち合いたいから、教会に集まって礼拝をささげます。礼拝に限らず、何でもそうですね。スポーツを観戦するのでも、自宅で一人で観戦するよりも家族と一緒に何人かで観たほうが盛り上がります。パブリックビューイングで大勢の人と一緒に観れば、さらに盛り上がるでしょう。また、実際にスタジアムに行けば、選手と一緒に喜ぶことができますから、さらに盛り上がります。負ければ悔しいですが、その悔しさを共有できることもまた、一つの喜びです。

 礼拝においては神様が真ん中にいらして、その神様を礼拝する喜びを教会の皆さんと共有することができます。これは素晴らしい恵みです。ですから、私たちは教会で礼拝をささげます。

 そして、私たちはこの喜びの輪に、もっと多くの方々に加わっていただきたいと願っています。地域の方々に、この会堂に集っていただき、共に主を礼拝することの素晴らしい恵みに与りたいと願っています。ですから、私たちは礼拝をささげます。今はコロナ禍で様々な制限がありますから、早く終息して、礼拝の輪が広がっていくようになればと思います。

おわりに
 きょうの話を締めくくります。ペテロは、「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言いました。先ずは私たちの一人一人が、自分はペテロのように、このように言って、心の内をイエス様にさらけ出すことができる者であるか、自問してみたいと思います。そしてもし、アダムとエバのように隠そうとする者であるなら、隠そうとする思いを手放して、心の内をすべてイエス様にさらけ出し、明け渡すことができる者になりたいと思います。私たちの心の内は隠そうとしても決して隠せません。そうであるなら、明け渡すべきです。すると、心の深い平安が得られるようになります。なぜならイエス様に心の内をすべて明け渡すなら、イエス様と一つにされて強い一体感を得ることができるからです。イエス様との一体感が増すなら、心の深い平安が得られるでしょう。

 人間同士であるなら、醜い心を持つ罪人の私がいくら「私はあなたを愛しています」と言っても、信用してもらえないことが多いでしょう。でもイエス様は私の心の内をすべてご存じです。私の心の内にはまだ罪がたくさん残っていますが、それでもイエス様を愛しています。私の心の内は罪もイエス様への愛もゴチャ混ぜになっています。そんなゴチャゴチャの私の心の内をイエス様はご存じであり、私がイエス様を愛していることを、ちゃんと分かって下さっています。何と幸いなことでしょうか。

 このイエス様に平安を与えていただきながら、日々をイエス様と共に歩んで行きたいと思います。
 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

「あなたは、わたしを愛していますか。」
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
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私たちが求めているのは、心の深い平安(2022.2.6 礼拝)

2022-02-07 11:19:22 | 礼拝メッセージ
2022年2月6日礼拝メッセージ
『私たちが求めているのは、心の深い平安』
【ヨハネ1:35~40】

はじめに
 礼拝の説教では、しばらくの間、神様が与えて下さる「心の深い平安」についての理解を深めて行きたいと願っています。先週は、神様がダビデには神殿の建設を許さずに、息子のソロモンにそれを許したことを話しました。ダビデの時代はイスラエルが戦争に明け暮れていた時代でしたが、神様はソロモンの時代に平安を与えて神殿の建設を許しました。私たちの信仰も、そのような平安の中で建て上げられるものです。

 また、先々週はヨハネの福音書のイエス様が弟子たちに三度「平安があなたがたにあるように」と話した箇所をご一緒に見ました。同じ書に三度も同じことが書かれている場合、それはとても大切なことです。私たちはイエス様が弟子たちに三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃったことを、重く受け留めなければなりません。

 そして、このイエス様の「平安があなたがたにあるように」に思いを巡らす時、イエス様の私たちへの最初の問い掛けのことばの「あなたがたは何を求めているのですか」の答の「何」とは「平安」ではないか、ということに思い至ります。きょうは、このことに、共に思いを巡らしてみたいと思います。

 きょうの中心聖句はヨハネの福音書1章38節のイエス様のことばの「あなたがたは何を求めているのですか」と、39節の「来なさい。そうすれば分かります」です。そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①「何を求めているのですか」がイエス様の第一声
 ②父と一つであることを繰り返し説くイエス様
 ③御父と御子との交わりの中で得られる深い平安

①「何を求めているのですか」がイエス様の第一声
 皆さんと共に「心の深い平安」について理解を深めて行きたいと願っている理由の一つは、現代を生きる人々の心に平安がないことを強く感じるからです。いつの時代にも、人の心に平安はないものなのかもしれませんが、二千年もの間、ずっとイエス様が人々に「平安があなたがたにあるように」と語って下さっているのに、いつまで経っても多くの人々に平安がないのは、本当に残念なことです。ぜひ心の深い平安をイエス様から得てほしいと思います。

 では、きょうの聖書箇所を35節から見て行きます。この箇所を開くのは初めてではありませんが、改めて、ご一緒に見て行きましょう。まず35節と36節、

ヨハネ1:35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36 そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。

 ヨハネの福音書には、マタイ・マルコ・ルカの福音書と異なる点がたくさんあります。マタイ・マルコ・ルカの福音書はお互いに似ている点が多いことから、三つまとめて共観福音書という言い方もされますが、ヨハネの福音書は共観福音書とは大きく異なります。その異なる点の一つに、この福音書には「バプテスマのヨハネ」という名前の登場人物が出て来ないということがあります。マタイ・マルコ・ルカの福音書には、「バプテスマのヨハネ」という名の人物がちゃんといますが、ヨハネの福音書はこの35節のように単に「ヨハネ」と書いてあるだけで、「バプテスマのヨハネ」という名前は一度も出て来ません。

 それは、この福音書の第一の目的がとにかく読者がイエス様と出会うことができるようにすることであって、歴史的な事実を忠実に伝えることは二の次になっているからです。このヨハネの福音書は、いかに読者がイエス様と交わることができるようにするか、そのことのために様々な工夫が凝らされています。

 この35節にはヨハネと共に、二人の弟子が登場します。ヨハネはこの二人の弟子に聞こえるように「見よ、神の子羊」と言って、この弟子たちをイエス様に引き合わせます。この二人のうちの一人はアンデレであったと40節にありますが、もう一人の名前は明らかにされていません。つまり、もう一人の弟子は読者である私たちです。ヨハネは私たちに、「見よ、神の子羊」と言って、イエス様と引き合わせてくれます。感謝ですね。

 続いて37節、

37 二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 弟子は、彼が「見よ、神の子羊」と言うのを聞いて、イエス様について行きました。私の場合で言えば、韓国人の留学生が私を教会に導いてイエス様と引き合わせてくれましたから、その留学生がヨハネです。皆さんのそれぞれにも教会に導いてくれたヨハネがいるでしょう。続いて38節、

38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」

 このイエス様の「あなたがたは何を求めているのですか」が、このヨハネの福音書のイエス様の第一声、イエス様の最初のことばです。イエス様は、教会に来たあなたに、「あなたは何を求めているのですか?」と聞いて来ます。あなたは心の奥底で何かを求めているはずです。それは何ですか?と聞いて来ます。でも、私たちには自分が本当は何を求めているのかが、よく分かっていません。ですから、答えられません。心の浅い部分の欲求なら、よく分かっています。おいしい物を食べたいとか、もうちょっとお金がほしいとか、そういうことなら、すぐに答えられます。でも、イエス様が聞いているのは、もっと心の奥深い魂の領域で求めているものです。そういう心の深い領域のことは自分でも分かりませんから、困ってしまって逆に聞き返します。「先生、どこにお泊りですか」。するとイエス様は答えます。

39 「来なさい。そうすれば分かります。」

 「あなたが心の奥深い所で何を求めているのか、わたしに付いて来れば、分かりますよ」とイエス様はおっしゃいます。そうして私たちは、イエス様に付いて行き、イエス様との長い旅が始まります。自分が心の奥深い所で何を求めているのかは、イエス様と一緒に旅をするようになってからでも、そんなにすぐに分かるものではありません。イエス様がどこに泊まっているのかなら、その日のうちに分かるかもしれません。でも、自分が心の奥深い所で何を求めているのかは、自分のことでありながら、すぐには分かりません。でも、イエス様と共に旅を続けるなら、イエス様が少しずつ教えて下さり、段々と分かるようになります。

②父と一つであることを繰り返し説くイエス様
 旅をする中でイエス様は私たちに、イエス様と父とは一つのお方である、ということを教えて下さいます。2番目のパートに進んで、イエス様が天の父との関係を語っていることばの、いくつかに耳を傾けたいと思います。ある時、イエス様はおっしゃいました。

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(5:17)

 イエス様は父と一つのお方ですから、父が働いている時はイエス様も働いています。さらにイエス様はおっしゃいます。

「わたしは自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。」(5:30)

 イエス様は、さばく時も父から聞いたとおりにさばきます。或いはまた、イエス様が語っていることは、父から聞いたことです。イエス様はおっしゃいました。

「わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」(8:26)

 ここからも、イエス様が父と一つであることが分かります。さらにイエス様は、ご自身が「わたしはある」であると語っています。これはヨハネ8章28節に書かれています(週報p.2)。

ヨハネ8:28 「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」

 「わたしはある」は、かつて天の父がモーセに語り掛けて、ご自身のことを明らかにした時のことばです。旧約聖書の出エジプト記3章には、このように書いてあります。

出エジプト3:13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

 このように、「わたしはある」は、天の父がモーセに対してご自身を明らかにした時のことばです。そして、イエス様はご自身が「わたしはある」であることを、ヨハネの福音書で明らかにしています。つまり、イエス様は父と一つのお方です。このイエス様のことばは大切なので、もう一度お読みします。ヨハネ8章28節です(週報p.2)

ヨハネ8:28 「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」

 そしてイエス様はヨハネ10章30節で、

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

とおっしゃいました。さらに「最後の晩餐」でイエス様はピリポに向かって、こうおっしゃいました。

9 「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。」(ヨハネ14:9-11)

 イエス様は、「わたしを見た人は、父を見たのです」とおっしゃいました。イエス様が父のうちにいて、父がイエス様のうちにおられることを信じるなら、イエス様を見たことは、父を見たことになります。私たちもイエス様とお会いしています。イエス様とお会いしていますから、私たちは天の御父ともまた、お会いしています。

③御父と御子との交わりの中で得られる深い平安
 そうしてイエス様は、「最後の晩餐」を終えるに当たって、天の父に向かってお祈りしました。

21 「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」

 このイエス様の祈りによって、私たちは天の父と、そしてイエス様と一つにされて、御父と御子との交わりの中に入れられます。但し、そのためには十字架が必要でした。天の父とイエス様と一つにされるには、私たちはあまりにも罪で汚れています。この罪の汚れをきよめるために、イエス様の十字架の血が必要でした。この十字架のイエス様を信じることで私たちは罪が赦され、きよめられて御父と御子との交わりの中に入れていただけるようになります。

 ヨハネは、この御父と御子との交わりの中に私たちを招いています。ヨハネの手紙第一1:3に書いてある通りです(週報p.2)

Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 こうして、イエス・キリストを信じ、十字架の血によってきよめられ、御父と御子との交わりの中に入れられるなら、私たちは深い平安を得ます。なぜなら、この世にいながら御父と御子との交わりを感じて、この世にいながら既に天の御国に入れられていることを実感できるからです。天の御国は、将来の希望ではなくて、今すでにもう、そこに入れられていることを御父と御子との交わりを通して実感できます。死んだ後の将来の希望ではなくて、いま既にそれが実現しています。天の御国は「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」(黙示録21:4)素晴らしい場所ですから、私たちは深い平安を得ます。今この世を生きている中で、深い平安を得ます。この深い平安が、「あなたがたにあるように」と、イエス様はこの福音書のしめくくりの20章で、三度もおっしゃいました。

ヨハネ20:19, 21, 26 「平安があなたがたにあるように。」

 そうして、ヨハネの福音書はこの20章で閉じられます。20章31節、

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 ここでヨハネの福音書は閉じられます。まだ21章がありますが、21章は音楽のコンサートのアンコールみたいなものでしょう。コンサートが終わって、演奏に感動した観客は盛大な拍手をします。その感動の余韻の中で、演奏者はもう1曲(或いはもう2、3曲)、演奏します。その中で観客はさらにもうしばらくの間、感動に浸り続けることができます。ヨハネ21章は、20章までに与えられた深い平安を、さらに深めて行く章です。

 そうして私たちはイエス様とのこれまでの旅を振り返ります。この振り返りで気付くことは、イエス様の「あなたがたは何を求めているのですか」「来なさい。そうすれば分かります」が心の深い平安のことではなかったか、ということです。

 この心の深い平安は、イエス様との交わりを深めることで、初めて分かることです。それゆえの「来なさい。そうすれば分かります」ではなかったのか、ということに気付かされます。イエス様との旅を続ける中で、イエス様と天の父とは一つのお方であることを私たちは知ります。イエス様との交わりだけでも深い平安が得られますが、イエス様が天の父と一つのお方であることが分かるなら、さらに深い平安、心の奥底からの深い平安、すなわち魂の平安が得られます。なぜなら、この世にいながらにして、既に天の御国に入れられていることを実感できるからです。

おわりに
 この、心の深い平安を先ずはじっくりと味わいましょう。朝や夜の静かな時に聖書を開き、みことばを通して天の父とイエス様からの語り掛けを聞いて、御父と御子との交わりの中に入れられましょう。そうして、深い平安に入れられましょう。

 イエス様と出会った時、イエス様は「あなたは何を求めているのですか」と聞いて下さいました。その時はまだ深い平安を知りませんでしたから、イエス様の問いに答えることができませんでした。そんな私にイエス様は「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃって下さいました。そうして旅を続ける中で、深い平安を与えて下さり、私たちが求めているのは、心の深い平安であることを教えて下さいました。

 イエス様との旅はこれからも続きます。イエス様との旅を続ける中で、イエス様はさらに深い平安を私たちに与えて下さることでしょう。このことに、心一杯感謝したいと思います。
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平安を与えて下さる神を賛美する(2022.1.30 礼拝)

2022-01-31 11:30:45 | 礼拝メッセージ
2022年1月30日礼拝メッセージ
『平安を与えて下さる神を賛美する』
【列王記第一5:1~7】

はじめに
 これからのひと時、教会総会に備えて、心を整える時としたいと思います。
 今年の私たちの教会の標語聖句はここにある通り、

「歌い手たちが、まるで一人のように一致して「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美した。」(歴代誌第二5章13節より)

です。

 これはソロモン王の時代に建設を進めていた神殿が完成したことを祝う式典でのことです。歌い手たちが一つになって「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美しました。

 きょうは、この神殿建設が平和な時代に行われたことを、分かち合いたいと思います。私たちの心の中の神殿で育まれる信仰も、平和の中でこそ建て上げられるものではないかと思います。

 きょうの中心聖句は列王記第一5章の4節から5節に掛けての、

列王記第一5:4 しかし今や、私の神、は、周囲の者から私を守って安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。
5 今私は、私の神、の御名のために神殿を建てようと思っています。

です。そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①主から平安が与えられたソロモンの時代
 ②賛美歌、みことば、聖霊で深まって行く平安
 ③天の御国への希望、確信、そして実感へ
 
①主から平安が与えられたソロモンの時代
 きょうの聖書箇所は列王記第一の5章です。列王記にはイスラエルの歴代の王様の時代に何があったかが書かれています。列王記はダビデ王の晩年から始まって、王位がソロモンに引き継がれたこと、ソロモン王の後で国が北王国と南王国の二つに分裂したこと、そして先ず北王国がアッシリアに滅ぼされたこと、そして南王国がバビロニアに滅ぼされたことまでが書かれています。

 列王記第一の最初の1章から4章までには、イスラエルの王国の王位が、ダビデからソロモンに引き継がれるまでの経緯が書かれています。そうして、5章に入ってソロモンは神殿の建設に取り掛かることにしました。列王記第一5章の1節から読んで行きます。1節と2節、

列王記第一5:1 さて、ツロの王ヒラムは、ソロモンが油注がれて、彼の父に代わって王となったことを聞いて、自分の家来たちをソロモンのところへ遣わした。ヒラムはダビデと常に友情を保っていたからである。
2 そこで、ソロモンはヒラムのもとに人を遣わして言った。

 次の3節から6節まではソロモンのことばです。まず3節、

3 「ご存じのように、私の父ダビデは、周りからいつも戦いを挑まれていたため、が彼らを私の足の裏の下に置かれるまで、私の父の神、の御名のために神殿を建てることができませんでした。

 神殿をエルサレムに建設することはソロモンの父ダビデの悲願でした。しかし、主はダビデにそれをお許しになりませんでした。それはダビデの人生が戦争に明け暮れる人生だったからです。巨人のゴリヤテとの対戦に始まって、若い時はいつも戦いの先頭に立ち、王になってからは後方で指揮を取り、束の間の安息はあるものの、平和が長く続くことはありませんでした。しかし4節、

4 しかし今や、私の神、は、周囲の者から私を守って安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。

 主はダビデの息子のソロモン王の時代に平安を与えました。そして5節、

5 今私は、私の神、の御名のために神殿を建てようと思っています。が私の父ダビデに、『わたしがあなたの代わりに王座に就かせるあなたの子、彼がわたしの名のために家を建てる』と言われたとおりです。

 そうしてソロモンはツロの王ヒラムに神殿の建設に必要な木材の提供を願い出ました。6節、

6 どうか、私のために、レバノンから杉を切り出すように命じてください。私の家来たちも、あなたの家来たちと一緒に働きます。私はあなたの家来たちに、あなたが言われるとおりの賃金を払います。ご存じのように、私たちの中にはシドン人のように木を切ることに熟練した者がいませんから。」

 するとヒラムは言いました。7節、

7 ヒラムはソロモンの申し出を聞いて、大いに喜んで言った。「今日、がほめたたえられますように。主は、この大いなる民を治める、知恵のある子をダビデにお与えになった。」

 ヒラムはイスラエル人ではありませんが、「がほめたたえられますように」と言いました。イスラエルが平和であることは隣国のツロの王ヒラムにとってもありがたいことだったのですね。ソロモンの所にはシェバの女王も来てをほめたたえたことが列王記第一の10章9節に書かれています。ソロモンの時代は、他国の王たちも主をほめたたえるという理想的な状態にあったことが分かります。

 神殿とは、こういう平安の中において建てられるべきものなのですね。私たちの信仰の深まりも、平安の中で行われるものではないかということを、最近よく考えさせられます。信仰を持つきっかけは、悲しいことの中、苦しいことの中にあった時という場合が多いと思います。悲しい時、不安の中にある時、疲れた時などに教会に導かれて、そこで神様との出会いを経験して信仰を持つ場合が多いことと思います。そうして、平安を得て平安の中で信仰生活を送ることで、神様の愛をもっと深く感じるようになり、より深い信仰が育まれて行きます。

 しかし、たとえ信仰を持っていても、いつも不安な状況に取り囲まれていると、ある程度までは信仰が深まっても、どうもそれ以上は深まらないようです。平安が深まらなければ信仰も深まっては行かないようです。ダビデの人生が後半に入ってから坂道を転げ落ちるように転落して行ったのも、そこに原因があったのかもしれませんね。

②賛美歌、みことば、聖霊で深まって行く平安
 標語聖句にあるように、ソロモンの神殿が完成した式典で歌い手たちは、まるで一人のように一致して「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美しました。これは旧約の時代のことでしたから、聖霊は限られた預言者たちにしか与えられていませんでした。それゆえ歌い手たちは聖霊を受けていません。それなのに御霊の一致を得たかのように、まるで一人のように一致して賛美しました。賛美歌には、そういう不思議な力があります。賛美歌には、人々を神様に近づけて、一つにして、平安を与える不思議な力があります。

 現代の教会でも、まだ神様を信じていない人が賛美歌を聞いて心が癒されて神様に引き寄せられるということが多くあります。何度も話していますが、私自身がそういう経験を持っていますし、皆さんの中にもそういう経験を持つ方々がおられることと思います。

 そうして教会につながり始めるなら、次にはみことばが、その人をより一層神様に近づける働きをして、平安を与えます。みことばには大きな力がありますから、一つ一つのみことばからでも、平安が得られます。しかし、複数のみことばが絡(から)み合うようになるなら、さらに深い平安が得られるようになります。

 例えば、ペテロはイエス様が祭司長たちに捕らわれた時に、イエス様のことを「そんな人は知らない」と三度も言いました。この「そんな人は知らない」だけだと人間の罪深さが示されているだけですから、救いのないことばです。しかし、イエス様はそんなペテロに対して、「あなたはわたしを愛していますか」、「わたしの羊を飼いなさい」と三度おっしゃいました。ここからイエス様がペテロを深く愛していて、ペテロの罪を赦し、神様との和解の機会を与えて、さらには用いようとしていることが分かります。

 私たちもかつてはペテロのように、イエス様のことを「そんな人は知らない」と言ったことがあるかもしれません。でも、そんな私たちをイエス様は愛していて下さり、赦して下さいます。このように、「そんな人は知らない」と「あなたはわたしを愛していますか」と「わたしの羊を飼いなさい」が絡み合うなら、深い平安が得られます。複数のみことばが私たちの中で絡み合うようになるなら、より一層深い平安が得られるようになります。

 このように、賛美歌とみことばは私たちに深い平安を与えます。しかし、何と言っても聖霊が内に入ってイエス様の直接の語り掛けを心の耳で感じるようになるなら、それに優る深い平安はありません。聖霊を通してイエス様の直接の語り掛けを受けるなら、御父と御子との交わりに入れられていることを感じます。きょうの聖書交読の箇所のヨハネの手紙第一に書かれているように、イエス様を信じて聖霊を受けるなら、私たちは御父と御子との交わりに入れられます。

Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 御父と御子との交わりを感じるなら、それは既に天の御国に入れられていることを実感しているということです。

③天の御国への希望、確信、そして実感
 パウロがピリピ書に書いたように、私たちの国籍は天にあります(ピリピ3:20)。今まで神様に背を向けていたことを悔い改め、十字架で死んで復活したイエス様は神の子キリストであると信じるなら、私たちは罪が赦されて天の御国へ入ることができます。ですから、やがての日に地上生涯を終えたなら、私たちは天の御国に入ります。イエス様を信じる私たちは、そういう希望を持っています。

 そして、みことばによって深い平安を得るなら、その希望は確信に変わります。希望があるだけでも感謝なことですが、希望はしばしば儚(はかな)いものでもあります。希望は失いやすいもののようです。天の御国への希望というけれど、天の御国なんて本当にあるんだろうかという疑いが簡単に生じます。そうすると礼拝に出席することに意味も感じなくなり、教会から離れるということにもなるでしょう。

 でも、単なる希望ではなくて確信、天の御国に必ず入れるんだという確信があるなら、天の御国があるのか無いのか分からないという疑念が生じることもなく、信仰生活をしっかりと歩むことができるでしょう。しかし、そんな確信に満ちた人でも様々な事情で教会から遠ざかる期間が少し長く続くなら、確信が単なる希望にすべり落ち、希望を失うこともあるでしょう。

 一方、聖霊が内に入っていることを感じて、御父と御子との交わりの中に入れられることを感じるなら、天に召される日を待つことなく、地上にいながら既に天の御国に入れられていることを実感することができます。将来の希望として天の御国のことを思うのと、いま既に天の御国の中に入れられていることを実感するのとでは、平安の深さがまるで違います。それが真(まこと)の平安の中に入れられるということです。御父と御子との交わりを感じることで、地上にいながら既に天の御国に入れられているという真の平安を得ること、これが聖霊の恵みの最たるものでしょう。聖霊の恵みにもいろいろありますが、御父と御子との交わりに入れられて、今すでに天の御国を実感できる真の平安を与えられること、これが聖霊の恵みの最たるものでしょう。

 こうして日々を御父と御子との交わりの中で過ごすなら、単なる希望へ滑り落ちて希望すら失うことは、まず有り得ないでしょう。しかし、日々を忙しい現実の中で過ごすなら、いつの間にか天の御国の実感を失うことがあることもまた、確かでしょう。ですから、日々少しの時間でも良いですから、聖書を開き、みことばに思いを巡らし、御父と御子との交わりに入れられていることを実感し続けることが大切です。私たちは昼間の普段の生活の中では御父と御子との交わりを感じることは難しいですから、朝や夜にディボーションの時を持つことが大切です。忙しくて、このディボーションの時が持てなくなる時が長く続くなら、やがて実感が失われてすべり落ちて行くことになります。

 天の御国への確信を持てるだけでも素晴らしいことかもしれませんが、実感と確信とでは平安の深さが、次元が異なるほどに大きく違いますから、真の平安の中で実感を持ち、実感が持てるようになったなら、その実感を失わないようにしたいと思います。

おわりに
 きょうの説教のタイトルは、「真の平安を与えて下さる神を賛美する」です。ダビデの時代のイスラエルの民は戦争に明け暮れていましたから、平安が深まる時がなかなかありませんでした。戦いと戦いの合間に束の間の平安はありましたが、長続きする平安はありませんでした。しかし、主はソロモンの時代に平安を与えて、神殿の建設を許しました。

 私たちの信仰も、平安の中で建て上げられ、育まれるものです。幸いにして新約の時代の私たちは聖霊を受ける恵みをいただいています。ですから、昼間は仕事や家庭内の様々な戦いの中にあって平安を失いがちであっても、朝や夜に聖書を開いて思いを巡らし、御父と御子との交わりの中に入れていただくなら、聖霊によって天の御国に既に入れられていることを実感して深い平安、真(まこと)の平安が得られるようになります。

 この真の平安を与えて下さる神様を私たちは賛美します。誰かに礼拝に行くように言われたから礼拝に出席するのではなく、神様が素晴らしい真の平安を与えて下さるお方だから、感謝し、ほめたたえて賛美歌を歌います。喜びを持って自ら礼拝に出席します。

 コロナ禍で会堂に集うことが難しくなることもありますが、日々聖書を開いて御父と御子との交わりに入れていただくなら、真の平安の中で日々を過ごすことができます。この真の平安を与えて下さる神様を、これからも賛美し続けて行く私たちでありたいと思います。
 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

列王記第一5:4 しかし今や、私の神、は、周囲の者から私を守って安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。
5 今私は、私の神、の御名のために神殿を建てようと思っています。
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