2022年5月8日礼拝メッセージ
『母の願いに全身全霊で応える神』
【列王記第二4:32~37】
はじめに
きょうは母の日です。そこで、聖書に描かれている母の一人である、シュネムの女に注目したいと思います。
聖書に登場する女性のことを思う時、信仰によって育まれた心の強さを持つ女性が多いという印象があります。中でもシュネムの女は特に、信仰によってしか得られない強靭な心を持つ女性であるように思います。そのシュネムの女の迫力に圧倒された神の人エリシャは全身全霊で彼女の願いに応えようとしました。このシュネムの女とエリシャの記事から、私たちと神様との関係にも思いを巡らして行くことができればと思います。
きょうの中心聖句は、列王記第二4章33節と34節です。
そして、次の3つのパートで話を進めます。
①20個のパンで百人を満腹にしたエリシャ
②霊的な感性が優れていたシュネムの女
③母親の強い願いに全身全霊で応える神様
①20個のパンで百人を満腹にしたエリシャ
シュネムの女を見る前に、まず預言者エリシャについて、簡単に見ておきたいと思います。
エリシャは北王国で活動していた預言者でした。エリシャはエリヤから外套を受け継ぎましたから、エリヤとエリシャは先輩と後輩のような関係と言えるかもしれません。エリシャがエリヤから外套を受け継いだ話まですると長くなりますから、きょうは省略します(次聖日のBTC創立記念礼拝で、その箇所を開くことを考えています)。
エリシャの話で皆さんの心に強く印象に残っているのは、左側のページの5章にある、ツァラアトに冒されたナアマンとエリシャの話ではないでしょうか。5章9節にあるように、ナアマンは馬と戦車でエリシャの家の入り口までやって来ました。ナアマンは重い皮膚病のツァラアトに冒されていて、エリシャに治してもらいたいと思っていました。そうして、いろいろありましたが、ナアマンのツァラアトは治りました。
或いはまた、4章の42節から44節までには、エリシャがイエス様の「五千人の給食」とそっくりの奇跡を行ったことが記されています。「五千人の給食」では、イエス様は五つのパンと二匹の魚で、五千人のお腹を一杯にして、なおパンが余りました。エリシャもまた、イエス様と同じような奇跡をこの42節から44節までで行っています。エリシャがイエス様に似た預言者であることを見るために、ここを読んでおきましょう。私のほうでお読みします。
こうしてエリシャは、大麦のパン二十個と、新穀一袋で百人のお腹を一杯にして、なおパンは余りました。このようにエリシャはイエス様に似た奇跡を行った預言者でした。
②霊的な感性が優れていたシュネムの女
では、次のパートに進んで、シュネムの女がどのような女性であったかを見ましょう。シュネムの女が登場するのは、4章の8節からです。8節、
このシュネムの女は、霊的な感性がとても優れていた女性でした。というのは、彼女はエリシャが神の人であることに気付いていたからです。9節と10節、
このように、エリシャが神の人であることにシュネムの女は気付いていました。でも、夫は気付いていませんでしたから、エリシャは普通にしていて、神の人のオーラを特に出していた訳ではないでしょう。オーラを出さなくても自然に神の人である雰囲気がにじみ出ていたのでしょう。それを感じる優れた霊性がシュネムの女には備わっていました。
この、オーラを出していなくても、自然ににじみ出てくるものの例えとして、何が良いか考えたのですが、例えば1953年のハリウッド映画の『ローマの休日』のアン王女はどうでしょうか。オードリー・ヘップバーンが演じたアン王女は、ローマの市中では王女のオーラを消して、一般の女性として過ごします。でも、それでも消し切れない、にじみ出て来る王家の女性の気品がありました。この『ローマの休日』という映画は、それをとても上手く表現していたと思います(今週の金曜ロードショーで『ローマの休日』が放送されるようですね)。
エリシャも、神の人のオーラを出していたわけではないと思います。でもシュネムの女はエリヤが神の人であることに気付き、夫は気付きませんでした。気付いたシュネムの女は優れた霊的な感性を持っており、夫は持っていなかったということでしょう。
さて、細かい経緯は後で皆さんそれぞれで読んでいただくこととして、シュネムの女は神様によって男の子を授かりました。そして、その子が大きくなった時のことです。18節から20節をお読みします。
シュネムの女の膝の上で、子どもは死んでしまいました。普通であれば、呆然として何もできず、ただ泣くばかりではないでしょうか。しかし、シュネムの女は違いました。ここから猛然と行動を開始します。21節と22節、
我が子が死んだら泣き崩れて、しばらくは何もできないのが普通だと思います。でも彼女は違いました。彼女は脇目も触れずに一目散に神の人のエリシャの所に向かいました。そうしてエリシャに言いました。28節です。
シュネムの女は不妊の女で、子供のことはもうあきらめていました。ですから、子供は彼女がエリシャに頼んで授かったのではなく、エリシャが彼女のもてなしへのお礼がしたくて、子が授かるようにしたものでした。ですから、彼女はエリシャに猛然と抗議しました。
このシュネムの女の抗議には、ハッとさせられます。私たちクリスチャンは、神様がすべての物を与えて下さっていることを覚えて、その恵みに日々感謝しつつ暮らしています。そして、試練さえも、これは神様が与えて下さった試練であると考えることが多いかもしれません。でも、シュネムの女は少し違いました。「この子を授かったのは、あなたの恵みによるものです。あなたが与えて下さった恵みです。その恵みによって、いま私は悲しんでいます。あなたが与えて下さった恵みによって、どうして私はこんなにも悲しまなければならないでしょうか」と抗議しています。
このシュネムの女の信仰に比べると、自分の信仰は生ぬるいな、ということを思わされます。苦しみや悲しみの中にある時、物わかり良く、これも神様が与えて下さる試練なのだろうと思うよりも、シュネムの女のように猛然と抗議すべきなのかもしれませんね。でも、多分それはケース・バイ・ケースでしょう。試練と考えて受け入れたほうが良い時もあれば、シュネムの女のように猛然と抗議すべき時もあるのでしょう。はっきりしていることは、生ぬるい信仰であってはならない、ということだと思います。
③母親の強い願いに全身全霊で応える神様
再びエリシャに目を向けます。ここでは、神の人エリシャのことを、人ではなくて、神様とはこういうお方なのだという目で見たいと思います。
私たちは神の御子イエス様を通して、神様とはこういうお方なのだということを学んでいます。神様は目に見えないお方ですから、神様のことを知るのはとても難しいことです。でも神様は私たちのために御子のイエス様を地上に遣わして下さいましたから、私たちはイエス様を通して神様を知ることができます。それは神様の姿形がイエス様のようである、というのではなくて、神様の喜怒哀楽、神様はこのようなことに喜び、怒り、哀しみ、また楽しんでおられるのだということを、イエス様を通して知ることができます。
先ほど4章42節から44節で見たように神の人エリシャはパン二十個と新穀一袋で百人のお腹を一杯にして、イエス様と似た奇跡を行っていますから、私たちはエリシャを通しても、神様がどのようなお方であるかを知ることができると思います。
神の人エリシャはシュネムの女が猛然と抗議するのを聞いて、母の願いにすぐに応えようとしました。先ずは付き人のゲハジを子供の所に行かせました。ゲハジは若く、エリシャよりも早くに子供の所に行くことができます。29節です。
すると母親は言いました。30節、
彼女はエリシャに対して、「あなたが行って何とかして下さい」と言っているようです。霊的な感性が優れていたシュネムの女は、ゲハジではダメだと見抜いていたのでしょうね。神の人エリシャでなければ、この大変な事態を解決することはできないと分かっていたのだと思います。31節、
案の定、ゲハジではダメでした。そして32節と33節、
この33節から、エリシャが全身全霊で母の願いに応えようとしていたことが見て取れます。この部屋に母親に入ってもらっても良いのではないか、と私なら思います。でも、エリシャは全身全霊で母の願いに応えるために、気が散らないように、祈りに集中するために、母親さえ、この部屋に入れませんでした。それから34節、
エリシャは自分の顔と上半身が子供とぴったりと重なるように身をかがめました。すると、その子の体が温かくなってきました。この場面からは、福音書の「長血の女」の記事が思い起こされます。長血の女がイエス様の衣に触れた時、イエス様は力が出て行ったことを感じました(マルコ5:30)。シュネムの女の子供の体が温かくなった時も、エリシャの体からは、きっと力が出て行ったことでしょう。
それでエリシャはもう1回自分の体にエネルギーをチャージします。35節、
エネルギーがチャージされるまでエリシャはしばらく部屋の中を歩き回り、もう一度子供の上に身をかがめると、子供は息を吹き返しました。そして36節と37節、
子どもをよみがえらせたのは、エリシャではなくて神様です。神様はもっと大きな存在ですから、エリシャのようにはしていないでしょう。でも、神様の霊的な姿勢はエリシャと同じです。神様は全身全霊で子供をよみがえらせるために、力を送りました。神様は同時に何億人もの人を相手にすることができるお方です。それゆえ私たちは、神様は一人一人に対しては全力で相手をしないと思いがちかもしれません。でも、エリシャの姿勢を見るなら、神様は私たちの一人一人に対して全身全霊で向き合って下さるお方だと分かります。
しかし、神様は必ずしも私たちの願い通りにはして下さいません。むしろ願い通りではないことの方が多いですね。きょうの場面の子供の体温が温かくなった箇所を読んで、こんなことを思いました。それは、この地上にはたくさんの人が住んでいる一方で、神様が使えるエネルギーの量は一定だということです。神様はいくらでも人にエネルギーを与えることができるお方ですが、エネルギーを与えすぎると、この地上は熱くなりすぎて、人が住めなくなってしまいます。きっと、そういう事情もあって、私たちの願いのすべてに応えるわけにはいかないのでしょう。でも、神様は決して見放しているわけではなく、一人一人に全身全霊で向き合って下さっているんだと、エリシャの姿勢からは見て取れます。
先日の祈祷会ではホセア書を開いて、神様が苦悩しておられる様子を見ました。神様はすべての人の願いを聞き入れるわけにいかないことにも、きっと苦悩しておられるのだろうと、きょうのシュネムの女の子供の体が温かくなった場面を読んで思いました。
おわりに
きょうは母の日です。シュネムの女は強烈な方法で、子に対する母の愛を示しました。でも行動の現し方はシュネムの女のようではなくても、子への愛情の強さはどの母親も同じですね。その母親によって私たちは育てられました。シュネムの女のような母もいると思いますが、違うタイプの母もいるでしょう。シュネムの女のようでなければいけないということは、決してありません。どの母親も子に対しては強い愛情を持ち、それを示します。そうして、神様はどの母親、どの子供に対しても全身全霊で相い対して下さっています。
でも、様々な事情で不幸なこともたくさん起こります。そういう時は、シュネムの女のように、神様に猛然と抗議しても良いのだと思います。良くないのは、神様から目を離し、神様から離れて行ってしまうことです。ですから私たちは、シュネムの女のように、いつも神様の方を真っ直ぐに見ていたいと思います。そうして神様は私たちの一人一人に対して、全身全霊で向き合って下さるお方であることを覚えたいと思います。
お祈りしましょう。
『母の願いに全身全霊で応える神』
【列王記第二4:32~37】
はじめに
きょうは母の日です。そこで、聖書に描かれている母の一人である、シュネムの女に注目したいと思います。
聖書に登場する女性のことを思う時、信仰によって育まれた心の強さを持つ女性が多いという印象があります。中でもシュネムの女は特に、信仰によってしか得られない強靭な心を持つ女性であるように思います。そのシュネムの女の迫力に圧倒された神の人エリシャは全身全霊で彼女の願いに応えようとしました。このシュネムの女とエリシャの記事から、私たちと神様との関係にも思いを巡らして行くことができればと思います。
きょうの中心聖句は、列王記第二4章33節と34節です。
Ⅱ列王4:33 エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって【主】に祈った。
34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。
34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。
そして、次の3つのパートで話を進めます。
①20個のパンで百人を満腹にしたエリシャ
②霊的な感性が優れていたシュネムの女
③母親の強い願いに全身全霊で応える神様
①20個のパンで百人を満腹にしたエリシャ
シュネムの女を見る前に、まず預言者エリシャについて、簡単に見ておきたいと思います。
エリシャは北王国で活動していた預言者でした。エリシャはエリヤから外套を受け継ぎましたから、エリヤとエリシャは先輩と後輩のような関係と言えるかもしれません。エリシャがエリヤから外套を受け継いだ話まですると長くなりますから、きょうは省略します(次聖日のBTC創立記念礼拝で、その箇所を開くことを考えています)。
エリシャの話で皆さんの心に強く印象に残っているのは、左側のページの5章にある、ツァラアトに冒されたナアマンとエリシャの話ではないでしょうか。5章9節にあるように、ナアマンは馬と戦車でエリシャの家の入り口までやって来ました。ナアマンは重い皮膚病のツァラアトに冒されていて、エリシャに治してもらいたいと思っていました。そうして、いろいろありましたが、ナアマンのツァラアトは治りました。
或いはまた、4章の42節から44節までには、エリシャがイエス様の「五千人の給食」とそっくりの奇跡を行ったことが記されています。「五千人の給食」では、イエス様は五つのパンと二匹の魚で、五千人のお腹を一杯にして、なおパンが余りました。エリシャもまた、イエス様と同じような奇跡をこの42節から44節までで行っています。エリシャがイエス様に似た預言者であることを見るために、ここを読んでおきましょう。私のほうでお読みします。
Ⅱ列王4:42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」
44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。主のことばのとおりであった。
43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」
44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。主のことばのとおりであった。
こうしてエリシャは、大麦のパン二十個と、新穀一袋で百人のお腹を一杯にして、なおパンは余りました。このようにエリシャはイエス様に似た奇跡を行った預言者でした。
②霊的な感性が優れていたシュネムの女
では、次のパートに進んで、シュネムの女がどのような女性であったかを見ましょう。シュネムの女が登場するのは、4章の8節からです。8節、
8 ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこに一人の裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになった。
このシュネムの女は、霊的な感性がとても優れていた女性でした。というのは、彼女はエリシャが神の人であることに気付いていたからです。9節と10節、
9 女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。
10 ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机と椅子と燭台を置きましょう。あの方が私たちのところに来られるたびに、そこを使っていただけますから。」
10 ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机と椅子と燭台を置きましょう。あの方が私たちのところに来られるたびに、そこを使っていただけますから。」
このように、エリシャが神の人であることにシュネムの女は気付いていました。でも、夫は気付いていませんでしたから、エリシャは普通にしていて、神の人のオーラを特に出していた訳ではないでしょう。オーラを出さなくても自然に神の人である雰囲気がにじみ出ていたのでしょう。それを感じる優れた霊性がシュネムの女には備わっていました。
この、オーラを出していなくても、自然ににじみ出てくるものの例えとして、何が良いか考えたのですが、例えば1953年のハリウッド映画の『ローマの休日』のアン王女はどうでしょうか。オードリー・ヘップバーンが演じたアン王女は、ローマの市中では王女のオーラを消して、一般の女性として過ごします。でも、それでも消し切れない、にじみ出て来る王家の女性の気品がありました。この『ローマの休日』という映画は、それをとても上手く表現していたと思います(今週の金曜ロードショーで『ローマの休日』が放送されるようですね)。
エリシャも、神の人のオーラを出していたわけではないと思います。でもシュネムの女はエリヤが神の人であることに気付き、夫は気付きませんでした。気付いたシュネムの女は優れた霊的な感性を持っており、夫は持っていなかったということでしょう。
さて、細かい経緯は後で皆さんそれぞれで読んでいただくこととして、シュネムの女は神様によって男の子を授かりました。そして、その子が大きくなった時のことです。18節から20節をお読みします。
18 その子が大きくなって、ある日、刈り入れをする者たちと一緒にいる、父のところに出て行ったとき、
19 父親に、「頭が、頭が」と言った。父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じた。
20 若者はその子を抱き、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親の膝の上に休んでいたが、ついに死んでしまった。
19 父親に、「頭が、頭が」と言った。父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じた。
20 若者はその子を抱き、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親の膝の上に休んでいたが、ついに死んでしまった。
シュネムの女の膝の上で、子どもは死んでしまいました。普通であれば、呆然として何もできず、ただ泣くばかりではないでしょうか。しかし、シュネムの女は違いました。ここから猛然と行動を開始します。21節と22節、
21 彼女は屋上に上がって、神の人の寝台にその子を寝かせ、戸を閉めて出て行った。
22 彼女は夫に呼びかけて言った。「どうか、若者一人と、雌ろば一頭を私のために出してください。私は急いで神の人のところに行って、すぐに戻って来ますから。」
22 彼女は夫に呼びかけて言った。「どうか、若者一人と、雌ろば一頭を私のために出してください。私は急いで神の人のところに行って、すぐに戻って来ますから。」
我が子が死んだら泣き崩れて、しばらくは何もできないのが普通だと思います。でも彼女は違いました。彼女は脇目も触れずに一目散に神の人のエリシャの所に向かいました。そうしてエリシャに言いました。28節です。
28 彼女は言った。「私がご主人様に子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」
シュネムの女は不妊の女で、子供のことはもうあきらめていました。ですから、子供は彼女がエリシャに頼んで授かったのではなく、エリシャが彼女のもてなしへのお礼がしたくて、子が授かるようにしたものでした。ですから、彼女はエリシャに猛然と抗議しました。
このシュネムの女の抗議には、ハッとさせられます。私たちクリスチャンは、神様がすべての物を与えて下さっていることを覚えて、その恵みに日々感謝しつつ暮らしています。そして、試練さえも、これは神様が与えて下さった試練であると考えることが多いかもしれません。でも、シュネムの女は少し違いました。「この子を授かったのは、あなたの恵みによるものです。あなたが与えて下さった恵みです。その恵みによって、いま私は悲しんでいます。あなたが与えて下さった恵みによって、どうして私はこんなにも悲しまなければならないでしょうか」と抗議しています。
このシュネムの女の信仰に比べると、自分の信仰は生ぬるいな、ということを思わされます。苦しみや悲しみの中にある時、物わかり良く、これも神様が与えて下さる試練なのだろうと思うよりも、シュネムの女のように猛然と抗議すべきなのかもしれませんね。でも、多分それはケース・バイ・ケースでしょう。試練と考えて受け入れたほうが良い時もあれば、シュネムの女のように猛然と抗議すべき時もあるのでしょう。はっきりしていることは、生ぬるい信仰であってはならない、ということだと思います。
③母親の強い願いに全身全霊で応える神様
再びエリシャに目を向けます。ここでは、神の人エリシャのことを、人ではなくて、神様とはこういうお方なのだという目で見たいと思います。
私たちは神の御子イエス様を通して、神様とはこういうお方なのだということを学んでいます。神様は目に見えないお方ですから、神様のことを知るのはとても難しいことです。でも神様は私たちのために御子のイエス様を地上に遣わして下さいましたから、私たちはイエス様を通して神様を知ることができます。それは神様の姿形がイエス様のようである、というのではなくて、神様の喜怒哀楽、神様はこのようなことに喜び、怒り、哀しみ、また楽しんでおられるのだということを、イエス様を通して知ることができます。
先ほど4章42節から44節で見たように神の人エリシャはパン二十個と新穀一袋で百人のお腹を一杯にして、イエス様と似た奇跡を行っていますから、私たちはエリシャを通しても、神様がどのようなお方であるかを知ることができると思います。
神の人エリシャはシュネムの女が猛然と抗議するのを聞いて、母の願いにすぐに応えようとしました。先ずは付き人のゲハジを子供の所に行かせました。ゲハジは若く、エリシャよりも早くに子供の所に行くことができます。29節です。
29 そこでエリシャはゲハジに言った。「腰に帯を締め、手に私の杖を持って行きなさい。たとえだれかに会っても、あいさつしてはならない。たとえだれかがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の頭の上に置きなさい。」
すると母親は言いました。30節、
30 その子の母親は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。
彼女はエリシャに対して、「あなたが行って何とかして下さい」と言っているようです。霊的な感性が優れていたシュネムの女は、ゲハジではダメだと見抜いていたのでしょうね。神の人エリシャでなければ、この大変な事態を解決することはできないと分かっていたのだと思います。31節、
31 ゲハジは二人より先に行って、その杖を子どもの頭の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかった。そこで引き返してエリシャに会い、「子どもは目を覚ましませんでした」と報告した。
案の定、ゲハジではダメでした。そして32節と33節、
32 エリシャが家に着くと、その子は寝台の上に死んで横たわっていた。
33 エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈った。
33 エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈った。
この33節から、エリシャが全身全霊で母の願いに応えようとしていたことが見て取れます。この部屋に母親に入ってもらっても良いのではないか、と私なら思います。でも、エリシャは全身全霊で母の願いに応えるために、気が散らないように、祈りに集中するために、母親さえ、この部屋に入れませんでした。それから34節、
34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。
エリシャは自分の顔と上半身が子供とぴったりと重なるように身をかがめました。すると、その子の体が温かくなってきました。この場面からは、福音書の「長血の女」の記事が思い起こされます。長血の女がイエス様の衣に触れた時、イエス様は力が出て行ったことを感じました(マルコ5:30)。シュネムの女の子供の体が温かくなった時も、エリシャの体からは、きっと力が出て行ったことでしょう。
それでエリシャはもう1回自分の体にエネルギーをチャージします。35節、
35 それからエリシャは降りて、部屋の中をあちらこちらと歩き回り、また寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開けた。
エネルギーがチャージされるまでエリシャはしばらく部屋の中を歩き回り、もう一度子供の上に身をかがめると、子供は息を吹き返しました。そして36節と37節、
36 彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい」と言った。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこでエリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい」と言った。
37 彼女は入って来て彼の足もとにひれ伏し、地にひれ伏した。そして、子どもを抱き上げて出て行った。
37 彼女は入って来て彼の足もとにひれ伏し、地にひれ伏した。そして、子どもを抱き上げて出て行った。
子どもをよみがえらせたのは、エリシャではなくて神様です。神様はもっと大きな存在ですから、エリシャのようにはしていないでしょう。でも、神様の霊的な姿勢はエリシャと同じです。神様は全身全霊で子供をよみがえらせるために、力を送りました。神様は同時に何億人もの人を相手にすることができるお方です。それゆえ私たちは、神様は一人一人に対しては全力で相手をしないと思いがちかもしれません。でも、エリシャの姿勢を見るなら、神様は私たちの一人一人に対して全身全霊で向き合って下さるお方だと分かります。
しかし、神様は必ずしも私たちの願い通りにはして下さいません。むしろ願い通りではないことの方が多いですね。きょうの場面の子供の体温が温かくなった箇所を読んで、こんなことを思いました。それは、この地上にはたくさんの人が住んでいる一方で、神様が使えるエネルギーの量は一定だということです。神様はいくらでも人にエネルギーを与えることができるお方ですが、エネルギーを与えすぎると、この地上は熱くなりすぎて、人が住めなくなってしまいます。きっと、そういう事情もあって、私たちの願いのすべてに応えるわけにはいかないのでしょう。でも、神様は決して見放しているわけではなく、一人一人に全身全霊で向き合って下さっているんだと、エリシャの姿勢からは見て取れます。
先日の祈祷会ではホセア書を開いて、神様が苦悩しておられる様子を見ました。神様はすべての人の願いを聞き入れるわけにいかないことにも、きっと苦悩しておられるのだろうと、きょうのシュネムの女の子供の体が温かくなった場面を読んで思いました。
おわりに
きょうは母の日です。シュネムの女は強烈な方法で、子に対する母の愛を示しました。でも行動の現し方はシュネムの女のようではなくても、子への愛情の強さはどの母親も同じですね。その母親によって私たちは育てられました。シュネムの女のような母もいると思いますが、違うタイプの母もいるでしょう。シュネムの女のようでなければいけないということは、決してありません。どの母親も子に対しては強い愛情を持ち、それを示します。そうして、神様はどの母親、どの子供に対しても全身全霊で相い対して下さっています。
でも、様々な事情で不幸なこともたくさん起こります。そういう時は、シュネムの女のように、神様に猛然と抗議しても良いのだと思います。良くないのは、神様から目を離し、神様から離れて行ってしまうことです。ですから私たちは、シュネムの女のように、いつも神様の方を真っ直ぐに見ていたいと思います。そうして神様は私たちの一人一人に対して、全身全霊で向き合って下さるお方であることを覚えたいと思います。
お祈りしましょう。