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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

まるで一人のように一致した賛美歌(2022.1.1 元旦礼拝)

2022-01-03 04:35:33 | 礼拝メッセージ
2022年1月1日元旦礼拝メッセージ
『まるで一人のように一致した賛美歌』
【歴代誌第二5章1~14節】

はじめに
 あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 今年の私たちの教会の標語聖句は、ここに掲げられている通りです。

「歌い手たちが、まるで一人のように一致して「主は慈しみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美した。

 この標語の毛筆の担当者のご労に感謝致します。

 昨年は音楽の力の大きさを実感した年でした。クリスマス礼拝では「牧人ひつじを」の四重唱の賛美ができて、とても感謝に思いました。1月9日には「御前につどい」の四重唱を予定しています。席についたままでも結構ですから、多くの方に四つのパートでの賛美に参加していただけたらと思います。

 この音楽の力の大きさを感じる中で、音楽には霊的な働きがあると感じるようになりました。特に賛美歌にそれを感じます。それで、クリスマス礼拝のメッセージでは、ルカ2章の、御使いが羊飼いたちにイエス・キリストの誕生を告げ知らせた時に天の軍勢が神を賛美した箇所を中心聖句にしました。そうして、私たちの一人一人が救われた時にも天が大喜びして賛美歌の大合唱が行われたであろうことに思いを巡らしました。この天の賛美歌による大喜びには大いに励まされることを感じます。そして、これから救われる方々にも大きな励ましとなることでしょう。

 そこで、今年はしばらくの間、聖書から賛美歌に関係した箇所を引用しながら、賛美歌の霊的な働きに思いを巡らしてみたいと願っています。霊的な事柄は、皆一人一人で捉え方が違いますから、分かち合うのが難しいことを感じています。それに比べると、賛美歌の場合はもっと分かち合えそうだという期待感があります。もちろん、賛美歌の捉え方も人それぞれですから分かち合えない部分もあると思います。でも霊的な事柄に比べるともっとずっと分かち合いやすいだろうと思います。特に素晴らしい点は、賛美歌は御霊を受けた人も受けていない人も、共にその恵みを分かち合えるという点です。

 きょうは歴代誌第二の5章を見ながら、その賛美歌の恵みについて分かち合いたいと思います。きょうの中心聖句は歴代誌第二5章13節です。ここに「宮」ということばが出て来ますが、「宮」とは「神殿」のことです。

Ⅱ歴代5:13 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」とに向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわちの宮に満ちた。

 そして、きょうは次の三つのポイントで話をします。

 ①人々の心を一つにして一致させる賛美歌
 ②人の心を開いて主の方を向かせる賛美歌
 ③聖霊に似た役を旧約時代に担った賛美歌

①人々の心を一つにして一致させる賛美歌
 まず、歴代誌第二5章の全体と、ここに至るまでの経緯を簡単に見ておきたいと思います。

 きょうの歴代誌第二5章では、ソロモン王の下で進められていたエルサレムの神殿の建設が完了したことの、お祝いの式典が行われています。神殿の建設は、ソロモンの父ダビデの悲願でした。ダビデは息子のソロモンの時代ではなく、自分が王である間に神殿を建設したいと願っていました。しかし、それは適いませんでした。主がそれをお許しにならなかったからです。その辺りの事情をダビデは次のようにソロモンに話しています。少し長いですが、歴代誌第一22章の6節から10節までをお読みします。

Ⅰ歴代22:6 ダビデはその子ソロモンを呼び、イスラエルの神、のために宮を建てるように命じた。
7 ダビデはソロモンに言った。「わが子よ。私は、わが神、の御名のために宮を建てる志を持ち続けてきた。
8 しかし、私に次のようなのことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたがわたしの名のために家を建ててはならない。わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。
9 見よ、あなたに一人の男の子が生まれる。彼は穏やかな人となり、わたしは周りのすべての敵から守って彼に安息を与える。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与える。
10 彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしの子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王座をイスラエルの上にとこしえに堅く立てる。』」

 ソロモンという名前は、「平和・平安」を意味する「シャローム」に由来するそうです。ダビデは戦いで多くの血を流しました。しかし、主はソロモンの世には平和と平穏を与えるとおっしゃり、神殿はソロモンの平和な時代に建てられることになりました。そしてダビデの死後に神殿が建設されて、5章でそれを祝う式典が行われました。歴代誌第二5章1節から3節まで、

Ⅱ歴代5:1 こうして、ソロモンがの宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、神の宮の宝物倉に納めた。
2 それからソロモンは、イスラエルの長老たち、および、イスラエルの部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムに召集した。ダビデの町シオンからの契約の箱を運び上げるためであった。
3 イスラエルのすべての人々は、第七の新月の祭りに王のもとに集まった。

 3節にあるように、イスラエルのすべての人々が集まって式典が始まりました。きょうは聖餐式がありますから時間の関係で式典の細かいところは省略して、賛美に関係した11節に飛びます。11節と12節、

11 祭司たちが聖所から出て来たときのことである。列席したすべての祭司たちは、務めの組分けにかかわらず自らを聖別していた。
12 また、歌い手であるレビ人全員、すなわち、アサフ、ヘマン、エドトン、および彼らの子たちや兄弟たちも、亜麻布を身にまとい、シンバル、琴および竪琴を手にして祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司たちも彼らとともにラッパを吹き鳴らしていた。

 この12節から、レビ人全員が歌い手であったことが分かります。レビ人は何人ぐらいいたのでしょうか。民数記によれば、モーセの時代の終盤のカナン入りを前にした時点ではレビ人が2万3千人(民数記26:62)いたと記されています。その後、ダビデ王の晩年の時代に兵士の数の人口調査が行われて、兵士はモーセの時代の2倍ぐらいに増えていました。兵士の数を調べる調査だったので祭司の役割を担うレビ人の数は載っていませんが、もしレビ人も兵士と同様に2倍ぐらいに増えていたとすれば、ソロモンの神殿の完成を祝う式典の歌い手は4万人から5万人ぐらいということになります。だいたいプロ野球やJリーグの人気のあるチームの試合の観客数と同じぐらいだと考えると、分かりやすいかもしれません。

 そうして、きょうの中心聖句の13節、

13 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」とに向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわちの宮に満ちた。

 ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、を賛美し、ほめたたえました。歌い手たちはバラバラになることなく、みんなが心を一つに合わせて主を賛美し、ほめたたえました。

②人の心を開いて主の方を向かせる賛美歌
 賛美歌には人々を一つにする力だけでなく、人の心を開いて主の方を向かせる力があります。これはとても大切なことだと思います。みんなの心が一つになっても、必ずしも主の方を向いているとは限りません。例えば、モーセの時代のイスラエルの人々は、みんなが一つになって主に背を向けていましたね。モーセがシナイ山に上って主のことばを聴いていた時、下にいたイスラエルの民は金の子牛を造って踊り、主を怒らせました。或いはまた、12人の族長たちが約束の地カナンを偵察に行って帰って来た時、ヨシュアとカレブそしてモーセを除くイスラエル人たちは一つになって「エジプトに帰ろう」と言い出しました。このように、みんなが一つになっても、必ずしも主の方を向いているとは限りません。

 歴代誌第二5章13節には、歌い手たちが「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と主に向かって賛美したとありますから、みんなが主の方を向いていました。

 きょうの礼拝から、始めに歌う「頌栄」を復活させることにしました。頌栄は、主の栄光をほめたたえる賛美歌です。インマヌエルの教会で、最初に頌栄を賛美する教会は非常に珍しいと思います。私は神学生時代にいくつもの教会に実習で遣わされましたが、静岡教会以外で最初に頌栄を賛美する教会を知りません。それゆえ、正直を言うと若干の違和感を覚えていました。頌栄は礼拝の最後にちゃんと歌いますから、最初のほうで頌栄を歌う必要があるのだろうか?と何となく思っていました。

 そんな私でしたが、昨年の後半、コロナの感染者数が増えたことで賛美歌の数を減らして最初の頌栄も省略したことで、物足りなさを感じるようになりました。使徒信条の後の2曲を1曲に減らしたことにも、もちろん物足りなさを感じるのですが、違和感を覚えていたほうの最初の頌栄も歌わないことで物足りなさを感じていました。そうして、音楽の力の大きさを感じるようになった頃から、最初に頌栄を歌うことの素晴らしさを思うようになりました。

 何よりも素晴らしいのは、最初に頌栄を歌って主の御名を崇めることが「主の祈り」と合致していることです。「主の祈り」では、まず天の父に呼び掛けた後で、「御名を崇めさせたまえ」と祈りますね。これが最初の祈りです。「主の祈り」は、イエス様が弟子たちに「祈るときには、こう言いなさい」(ルカ11:2)と教えた祈りですから、とても大切な祈りであることは言うまでもありません。その「主の祈り」では、まず「御名が崇められますように」と祈ります。

 ですから、礼拝の始めにまず「招きの詞」によって招かれた後で最初に頌栄を賛美することは素晴らしいことだと思います。頌栄は私たちみんなの心を一つにして一致させ、また私たちの心を開いて主の方を向かせる素晴らしい力を持っています。この恵みに感謝しつつ、以前のように、礼拝の賛美歌を頌栄から始めることにしたいと思います。

 私たちの主イエス様はぶどうの木で、私たちは枝です。枝である私たちは、幹であるイエス様の御名を崇めつつイエス様の方を向いて一つになりたいと思います。そうして私たちは御霊の実をたくさん結び、また伝道の実をたくさん結びたいと思います。

③聖霊に似た役を旧約時代に担った賛美歌
 最後の3番目のポイントは、賛美歌には聖霊に似た力があるということです。特に旧約の時代においては聖霊のような役割を担っていたことが、きょうの聖書箇所から分かります。神殿完成の式典で歌い手たちが一つになって主を賛美していた時、雲が主の宮に満ちました。そのことが13節の終りに書いてあります。最後の文です。

13 その時、雲がその宮、すなわちの宮に満ちた。

 雲が宮、すなわち神殿に満ちました。そして14節、

14 祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。の栄光が神の宮に満ちたからである。

 神殿に満ちた雲とは、聖霊と言っても良いのではないでしょうか。歌い手たちの賛美によって、聖霊が神殿に満ちました。その時、祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができませんでした。なぜなら、旧約の時代には聖霊は限られた数の預言者たちにしか注がれなかったからです。祭司たちですら、聖霊を受けていませんでした。聖霊を受けていない者は聖められていませんから、主の御前に立つことはできません。

 この描写を見る時、新約の時代を生きる私たちに与えられた恵みの大きさを改めて感じます。新約の時代の私たちはイエス・キリストを信じるなら誰にでも聖霊が注がれて聖められますから、主の御前に大胆に近づくことが許されています。主の栄光が満ちたこの会堂にいて、御父と御子との交わりに入れていただくことができます。

 そして、この13節と14節の描写からもう一つ分かることは、賛美歌の恵みは聖霊の恵みに限りなく近いということです。歌い手たちにも聖霊は注がれていませんでしたが、それなのに彼らはまるで一人のように一致して「主はいつくしみ深い、その恵みはとこしえまで」と賛美することができました。

 聖霊は人々を一つにして、人の心を開いて主の方に向かせる力があります。それと同じ力を賛美歌は持っています。しかも賛美歌の力は聖霊を受けていない人々にも及びます。旧約の時代の人々のほとんどは聖霊を受けていませんでしたが、賛美歌の力によって一つになりました。新約の時代を生きる私たちも、最初は誰も聖霊を受けていません。イエス・キリストを信じることで注がれるからです。しかし、主は私たちがまだイエス様を信じる前から私たちを愛していて下さり、賛美歌によって救いへと導いて下さいました。私たちの多くが賛美歌によって救いへと導かれました。賛美歌は私たちの救いに何らかの形で必ず関わっていると思います。このことに深く感謝したいと思います。

 これから聖餐式を行います。聖礼典である聖餐式は、十字架のイエス様の下で私たちが一つにされるための、最も重要な式典です。賛美歌によって救いへと導かれ、イエス様と共に食事をするテーブルに招かれたことに、心一杯感謝しつつ、パンとぶどう液を共にいただきたいと思います。
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