2021年10月10日礼拝メッセージ
『神様の善いものは、未来から流れて来る』
【ヨハネ17:1~3】
はじめに
今週からヨハネ17章に入ります。この17章は「最後の晩餐」の締めくくりの章で、イエス様は天の父に祈っています。イエス様は10章で「わたしと父とは一つです」と言っていますが、この17章のイエス様の祈りを読むと、本当にイエス様と父とは一体なのだなと思います。
きょうの聖書箇所は1節から3節までですが、特に3節に目を留めたいと思っています。従って、きょうの中心聖句は、17章3節です。
そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。
①永遠のいのちとは、天の父とイエスを知ること
②未来から流れて来る「霊の乳」で知る父と御子
③未来から流れて来る天国への入場券を逃さない
①永遠のいのちとは、天の父とイエスを知ること
まず、17章の1節と2節を見ておきましょう。1節をお読みします。
これらのこと、というのは13章から16章までのことですね。この「最後の晩餐」のシリーズを始めた時、ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の場面は他の福音書と比べると、とても長いことを話しました。イエス様はたっぷりと時間を使って13章から16章までのことを弟子たちに話しました。そして、「父よ、時が来ました」と言いました。これは、十字架の時が来た、ということですね。十字架でのイエス様の死と、死からの復活によって神様の栄光が現わされます。いよいよ、その時が来ました。続いて2節、
天の父は、すべての人に永遠の命を与えたいと願っておられます。そうして父は子に、すべての人を支配する権威をお与えになりました。このことで、イエス・キリストを信じる者にはすべて聖霊が注がれて、永遠のいのちが与えられるようになりました。
しかし、このことをおかしいと思う人もたくさんいます。神様がすべての人に永遠のいのちを与えたいと願っているなら、イエス・キリストを信じない人にも永遠のいのちを与えるべきではないか、そう考える人もたくさんいます。私も友達からそう言われたことが何度もあります。
そのような友達の言葉に昔はあまり上手く答えられないでいましたが、今はだいぶ分かるようになって来ました。
天の父はすべての人に永遠のいのちを与えたいと願っていて、イエス・キリストを信じれば永遠のいのちを与えて下さいます。と同時に、天の父は私たちに選ぶ自由も与えて下さっています。強制的に永遠のいのちを与えるようなことはしません。強制的に与えるなら、人はただ神様の命令通りにしか動けないロボットになってしまいます。
神様は私たちに守るべき戒めを与えましたが、拒む自由も与えています。私たちはロボットではありませんから、神様に背く自由も与えられているんですね。だから、永遠のいのちは要らないという人に、神様は強制的に永遠のいのちを与えることはしません。
さてしかし、永遠のいのちは要らないという人にも二種類の人がいます。本当に自分の考えで永遠のいのちは要らないと思っている人と、悪魔に惑わされて永遠のいのちは要らないと思い込まされてしまっている人の二種類です。ほとんどの人は後者で、悪魔に惑わされているのだろうと思います。そもそも永遠のいのちがあるということすら知らない人も多いのではないかと思います。永遠のいのちがあることを分からなくすることも悪魔の策略です。
神様は私たちの自由な意志を尊重して下さいますから、本当に自分で永遠のいのちは要らないという人に強制的に与えることはしません。でも問題は、多くの人が悪魔に惑わされ、支配されているということです。その悪魔の支配を打ち負かして、人を闇から解放して救い出すためにイエス様は十字架に付いて死に、死から復活して悪魔に打ち勝ちました。
このようにして、永遠の中では悪魔は滅ぼされました。しかし、この世においては悪魔の誘惑はまだまだ続いています。ですから、イエス様を信じて永遠のいのちをいただいて、この世における悪魔の支配から解放される必要があります。その永遠のいのちとは、父とイエス・キリストを知ることだとイエス様はおっしゃっています。3節ですね。
これは、一体どういう意味でしょうか?次のパートに進んで、このことを考えたいと思います。
②未来から流れて来る「霊の乳」で知る父と御子
もう一度、3節をお読みします。
これは、一体どういう意味でしょうか。これは、聖霊に教えていただく以外にはないですね。もう何度も引用していますが、イエス様はヨハネ14章26節でおっしゃいました(週報p.2)。
助け主である聖霊は、すべてのことを教えて下さいます。ですから、この17章3節の意味も、助け主の聖霊に教えていただく必要があります。
この、ヨハネが助け主と呼んだ聖霊のことを、ペテロは、「霊の乳」と呼んでいます。「乳」は赤ちゃんが飲むお乳です。先週の木曜日の祈り会でペテロの手紙第一のこの箇所を開いて、「霊の乳」ってすごく良いことばだなと思いました。第一ペテロ2章2節をお読みします(週報p.2)。
先週の木曜日の祈り会の準備をしていて、この第一ペテロ2:2のみことばに私は、心が洗われる思いがしました。私たちは子供から大人へと成長する過程で、世の中の汚いドロドロとしたものを、たくさん身に着けます。この世は悪魔が支配している汚れた世界ですから、これは避けられないことです。私たちは大人になる過程でいろいろと汚いものを身に着けます。でも、イエス様を信じて、イエス様が十字架で流した血できよめられることによって私たちは、もう一度、何も汚れていない赤ちゃんに戻り、霊の乳をいただくことができます。イエス様を信じることで新しく生まれて、神の子どもとされて、純粋な霊の乳をいただくことができます。何という幸いでしょうか。
ドロドロとした汚れとは、たとえるなら、船が難破した時に、きれいな海を汚してしまう油のようなものでしょう。船の油はきれいな海を汚し、そこに住む魚や鳥たちも汚します。私たちも子供から大人へと成長する過程で、そういう船の油のようなドロドロをたくさん身に着けます。でも、イエス・キリストを信じるなら、イエス様が流した十字架の血によって、そのドロドロがきれいにされて、私たちはきれいな肌を持つ赤ちゃんに生まれ変わることができます。赤ちゃんに生まれ変わらなければ、私たちは天の御国に入ることはできないのですね。イエス様がヨハネ3章でニコデモに言ったことばの通りです。ヨハネ3章3節をお読みします(週報p.2)。これはイエス様がニコデモに言ったことばです。
イエス様を信じるなら、私たちは新しく生まれます。そうして、きれいな赤ちゃんになった私たちは霊の乳をいただいて、天の父とイエス様のことを改めて教えていただきます。すると、助け主の助けによって段々分かるようになります。そうして17章3節の、
も、分かるようになります。
助け主の霊の乳は、未来から流れて来ます。かつてイエス様を信じていなかった頃の私たちは、霊の乳のことを知りませんでしたから、自分が霊の乳の流れのすぐ近くにいることを知りませんでした。悪魔の惑わしによって、霊の乳がすぐ近くを流れていることを分からなくされているからです。でも、イエス様を信じてからは霊の乳の川が自分のすぐ近くを流れていることが分かるようになりました。そうして私たちは、上流から流れて来る新鮮な霊の乳をいただきます。霊の乳も古くなると悪魔がいろいろな混ぜ物をして、悪くなるかもしれません。でも、上流の未来から流れて来る霊の乳はいつも新鮮で、私たちを豊かに成長させて下さいます。
このように、神様からの善いものは、すべて上流の未来から流れて来ます。次の3番目のパートに進んで、さらにこの話をします。
③未来から流れて来る天国への入場券を逃さない
先ほども言ったように、神様からの善いものは、すべて未来の上流から流れて来ます。天国への入場券もそうです。
たとえるなら、回転寿司や流しそうめんにたとえても良いかもしれません。神様は気前の良いお方ですから、天国への入場券もジャンジャン流して下さっています。時々しか流さないのではなく、いつもジャンジャン流して下さっています。悪魔の惑わしによって、よそ見をしてしまいますから、見づらくなっていますが、神様は気前よくたくさん天国の入場券を流して下さっています。早くこのことに気付いて、入場券を手に入れることを逃さないようにしていただきたいと思います。そうして永遠のいのちを得ていただきたいと思います。
この「神様の善いものは、未来から流れて来る」ことを伝えることは、これからの伝道で重要なポイントになる気が私はしています。回転寿司や流しそうめんにたとえてみるなど、伝え方はいろいろ工夫する必要があると思いますが、これからの伝道で伝えていくべき重要なポイントだと感じています。先週の礼拝では、神様は不思議を為さるお方だという話をしました。神の箱を担ぐ祭司が足をヨルダン川に踏み入れた時、ヨルダン川の流れが止まって、民が川の中を歩いて渡ることができるようになりました。神様は人が新たな一歩を踏み出す時、不思議なことを為さいます。「神様の善いものは、未来から流れて来る」という教えも、不思議な形で与えられました。残りの時間で、その証しをさせていただきます。
少し前に私は、金曜日の朝にその枝教会で行われている朝祷会に参加しませんか、という誘いを受けました。朝祷会というのは全国的に行われている朝の祈りの会で、静岡ではここ30年間ぐらいは、S教会で行われているのだそうですね。インマヌエルからは、S先生が天に召される直前まで、毎週参加されていたと伺いました。今回誘って下さったのはU教会の信徒の方で、この静岡の朝祷会の世話役を務めている方です。ただ私としては、金曜日の朝はちょっとな、という曜日でした。火曜か水曜の朝なら参加しやすいのですが、金曜日はやるべきことがたくさんあります。
でも、今の福音伝道が行き詰っている状況を変えるには、私自身も何かを変える必要を感じていましたから、おとといの金曜日の朝、初めてS教会での朝祷会に参加しました。少ない人数でしたが、福音伝道がやせ細る一方になっていることを憂慮する思いを共有しつつ、お祈りができましたから感謝でした。私も静岡の福音伝道のために用いて下さいとお祈りをしました。
そうして、こちらに戻って来てから、ふと藤本満先生のウェスレーのeラーニングの第2週の動画を見るべしという思いが与えられました。2週目の動画をまだ見ていなかったからです。このウェスレーの学びでは、第1週はウェスレーがアルダスゲイトで福音的な回心を体験したことを学びました。そして、第2週はウェスレーが野外説教を始めたことで大きく変えられたことを学びました。ウェスレーにとってはアルダスゲイト街の集会に参加したことも、野外説教を始めたことも、どちらもあまり気が進まないままにしたことでした。でも、それがきっかけで、ウェスレーは大きく変えられました。
金曜日の朝の朝祷会も、私には気の進まないことでした。金曜日はいろいろ用事があってちょっと遠慮したい曜日です。でも、この朝祷会に参加して、一緒にお祈りをして、その後でウェスレーの動画を見ることを示されました。そうして、ウェスレーが野外説教を始めた当時のイギリスではすごい勢いで人々が信仰に目覚めていたことを改めて学んで、大いに刺激を受けました。今の静岡でも、このウェスレーの時代ほどとは行かなくても、もっと多くの人々が信仰に目覚めても良いはずです。現代の人々に向けて何を語れば、耳を傾けてもらえるのでしょうか。
そんな時、ふと「神様の善いものは、未来から流れて来る」ということが示されました。霊の乳も、天国への入場券も、すべて上流の未来から流れて来ます。それらは回転寿司や流しそうめんのように霊の乳と一緒に上流の未来から流れて来ます。神様は気前の良いお方ですから、霊の乳も天国への入場券もジャンジャン流して下さいます。
これは特に、若い人への福音伝道に有効だろうと考えています。若い人は、自分の未来についていつも気に掛けています。そういう若い方々に何千年も前に書かれた聖書の話をしても、耳を傾けてもらうのは、なかなか難しいと感じます。
でも実は、みことばも未来から流れて来るものなんですね。まだみことばを聞いたことがない人にとっては、未来から流れて来るものです。或いはまた、みことばを既に知っている私たちにとっても、みことばは未来から流れて来るものです。なぜなら、同じみことばであっても、聞くたび・読むたびに神様は私たちに新しいことを語って下さるからです。ですから、みことばも未来から流れて来ます。
おわりに
来週の17日は教団創立記念礼拝としたいと思います。来週は英和の奨励日でもあります。英和女学院も、私たちのインマヌエル教団も、ウェスレーから始まるメソジストの流れの中にあります。
ウェスレーは18世紀の人ですが、ウェスレーに関することも、やっぱり未来から流れて来るんですね。以前の私たちはウェスレーについて、ぜんぜん知りませんでした。そういう知らない時を経て、ウェスレーについて新しく学びます。ですから、ウェスレーに関する新しいことも未来から流れて来ます。インマヌエルの恵み、神様は共にいて下さるという恵みも、未来から流れて来ます。天国への入場券も未来から流れて来ます。そういう善いものを神様は未来からジャンジャン流して下さいます。天の父とイエス・キリストについて今まで知らなかったことも、神様は上流の未来から霊の乳を流して教えて下さいます。そうして私たちは霊の乳に満たされ、聖霊に満たされて、天の父とイエス・キリストをもっと深く知るようになり、永遠のいのちを既に得ているという確信をますます深めます。どんなにドロドロに汚れていても、イエス様の血によってきれいにされて、赤ちゃんとなり、霊の乳をいただいて永遠のいのちが与えられていることが分かるようになります。素晴らしい恵みです。その恵みに、心から感謝したいと思います。
お祈りいたします。
『神様の善いものは、未来から流れて来る』
【ヨハネ17:1~3】
はじめに
今週からヨハネ17章に入ります。この17章は「最後の晩餐」の締めくくりの章で、イエス様は天の父に祈っています。イエス様は10章で「わたしと父とは一つです」と言っていますが、この17章のイエス様の祈りを読むと、本当にイエス様と父とは一体なのだなと思います。
きょうの聖書箇所は1節から3節までですが、特に3節に目を留めたいと思っています。従って、きょうの中心聖句は、17章3節です。
ヨハネ17:3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。
①永遠のいのちとは、天の父とイエスを知ること
②未来から流れて来る「霊の乳」で知る父と御子
③未来から流れて来る天国への入場券を逃さない
①永遠のいのちとは、天の父とイエスを知ること
まず、17章の1節と2節を見ておきましょう。1節をお読みします。
ヨハネ17:1 これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。
これらのこと、というのは13章から16章までのことですね。この「最後の晩餐」のシリーズを始めた時、ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の場面は他の福音書と比べると、とても長いことを話しました。イエス様はたっぷりと時間を使って13章から16章までのことを弟子たちに話しました。そして、「父よ、時が来ました」と言いました。これは、十字架の時が来た、ということですね。十字架でのイエス様の死と、死からの復活によって神様の栄光が現わされます。いよいよ、その時が来ました。続いて2節、
2 あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。
天の父は、すべての人に永遠の命を与えたいと願っておられます。そうして父は子に、すべての人を支配する権威をお与えになりました。このことで、イエス・キリストを信じる者にはすべて聖霊が注がれて、永遠のいのちが与えられるようになりました。
しかし、このことをおかしいと思う人もたくさんいます。神様がすべての人に永遠のいのちを与えたいと願っているなら、イエス・キリストを信じない人にも永遠のいのちを与えるべきではないか、そう考える人もたくさんいます。私も友達からそう言われたことが何度もあります。
そのような友達の言葉に昔はあまり上手く答えられないでいましたが、今はだいぶ分かるようになって来ました。
天の父はすべての人に永遠のいのちを与えたいと願っていて、イエス・キリストを信じれば永遠のいのちを与えて下さいます。と同時に、天の父は私たちに選ぶ自由も与えて下さっています。強制的に永遠のいのちを与えるようなことはしません。強制的に与えるなら、人はただ神様の命令通りにしか動けないロボットになってしまいます。
神様は私たちに守るべき戒めを与えましたが、拒む自由も与えています。私たちはロボットではありませんから、神様に背く自由も与えられているんですね。だから、永遠のいのちは要らないという人に、神様は強制的に永遠のいのちを与えることはしません。
さてしかし、永遠のいのちは要らないという人にも二種類の人がいます。本当に自分の考えで永遠のいのちは要らないと思っている人と、悪魔に惑わされて永遠のいのちは要らないと思い込まされてしまっている人の二種類です。ほとんどの人は後者で、悪魔に惑わされているのだろうと思います。そもそも永遠のいのちがあるということすら知らない人も多いのではないかと思います。永遠のいのちがあることを分からなくすることも悪魔の策略です。
神様は私たちの自由な意志を尊重して下さいますから、本当に自分で永遠のいのちは要らないという人に強制的に与えることはしません。でも問題は、多くの人が悪魔に惑わされ、支配されているということです。その悪魔の支配を打ち負かして、人を闇から解放して救い出すためにイエス様は十字架に付いて死に、死から復活して悪魔に打ち勝ちました。
このようにして、永遠の中では悪魔は滅ぼされました。しかし、この世においては悪魔の誘惑はまだまだ続いています。ですから、イエス様を信じて永遠のいのちをいただいて、この世における悪魔の支配から解放される必要があります。その永遠のいのちとは、父とイエス・キリストを知ることだとイエス様はおっしゃっています。3節ですね。
3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
これは、一体どういう意味でしょうか?次のパートに進んで、このことを考えたいと思います。
②未来から流れて来る「霊の乳」で知る父と御子
もう一度、3節をお読みします。
3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
これは、一体どういう意味でしょうか。これは、聖霊に教えていただく以外にはないですね。もう何度も引用していますが、イエス様はヨハネ14章26節でおっしゃいました(週報p.2)。
14:26 助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
助け主である聖霊は、すべてのことを教えて下さいます。ですから、この17章3節の意味も、助け主の聖霊に教えていただく必要があります。
この、ヨハネが助け主と呼んだ聖霊のことを、ペテロは、「霊の乳」と呼んでいます。「乳」は赤ちゃんが飲むお乳です。先週の木曜日の祈り会でペテロの手紙第一のこの箇所を開いて、「霊の乳」ってすごく良いことばだなと思いました。第一ペテロ2章2節をお読みします(週報p.2)。
Ⅰペテロ2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
先週の木曜日の祈り会の準備をしていて、この第一ペテロ2:2のみことばに私は、心が洗われる思いがしました。私たちは子供から大人へと成長する過程で、世の中の汚いドロドロとしたものを、たくさん身に着けます。この世は悪魔が支配している汚れた世界ですから、これは避けられないことです。私たちは大人になる過程でいろいろと汚いものを身に着けます。でも、イエス様を信じて、イエス様が十字架で流した血できよめられることによって私たちは、もう一度、何も汚れていない赤ちゃんに戻り、霊の乳をいただくことができます。イエス様を信じることで新しく生まれて、神の子どもとされて、純粋な霊の乳をいただくことができます。何という幸いでしょうか。
ドロドロとした汚れとは、たとえるなら、船が難破した時に、きれいな海を汚してしまう油のようなものでしょう。船の油はきれいな海を汚し、そこに住む魚や鳥たちも汚します。私たちも子供から大人へと成長する過程で、そういう船の油のようなドロドロをたくさん身に着けます。でも、イエス・キリストを信じるなら、イエス様が流した十字架の血によって、そのドロドロがきれいにされて、私たちはきれいな肌を持つ赤ちゃんに生まれ変わることができます。赤ちゃんに生まれ変わらなければ、私たちは天の御国に入ることはできないのですね。イエス様がヨハネ3章でニコデモに言ったことばの通りです。ヨハネ3章3節をお読みします(週報p.2)。これはイエス様がニコデモに言ったことばです。
ヨハネ3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
イエス様を信じるなら、私たちは新しく生まれます。そうして、きれいな赤ちゃんになった私たちは霊の乳をいただいて、天の父とイエス様のことを改めて教えていただきます。すると、助け主の助けによって段々分かるようになります。そうして17章3節の、
17:3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
も、分かるようになります。
助け主の霊の乳は、未来から流れて来ます。かつてイエス様を信じていなかった頃の私たちは、霊の乳のことを知りませんでしたから、自分が霊の乳の流れのすぐ近くにいることを知りませんでした。悪魔の惑わしによって、霊の乳がすぐ近くを流れていることを分からなくされているからです。でも、イエス様を信じてからは霊の乳の川が自分のすぐ近くを流れていることが分かるようになりました。そうして私たちは、上流から流れて来る新鮮な霊の乳をいただきます。霊の乳も古くなると悪魔がいろいろな混ぜ物をして、悪くなるかもしれません。でも、上流の未来から流れて来る霊の乳はいつも新鮮で、私たちを豊かに成長させて下さいます。
このように、神様からの善いものは、すべて上流の未来から流れて来ます。次の3番目のパートに進んで、さらにこの話をします。
③未来から流れて来る天国への入場券を逃さない
先ほども言ったように、神様からの善いものは、すべて未来の上流から流れて来ます。天国への入場券もそうです。
たとえるなら、回転寿司や流しそうめんにたとえても良いかもしれません。神様は気前の良いお方ですから、天国への入場券もジャンジャン流して下さっています。時々しか流さないのではなく、いつもジャンジャン流して下さっています。悪魔の惑わしによって、よそ見をしてしまいますから、見づらくなっていますが、神様は気前よくたくさん天国の入場券を流して下さっています。早くこのことに気付いて、入場券を手に入れることを逃さないようにしていただきたいと思います。そうして永遠のいのちを得ていただきたいと思います。
この「神様の善いものは、未来から流れて来る」ことを伝えることは、これからの伝道で重要なポイントになる気が私はしています。回転寿司や流しそうめんにたとえてみるなど、伝え方はいろいろ工夫する必要があると思いますが、これからの伝道で伝えていくべき重要なポイントだと感じています。先週の礼拝では、神様は不思議を為さるお方だという話をしました。神の箱を担ぐ祭司が足をヨルダン川に踏み入れた時、ヨルダン川の流れが止まって、民が川の中を歩いて渡ることができるようになりました。神様は人が新たな一歩を踏み出す時、不思議なことを為さいます。「神様の善いものは、未来から流れて来る」という教えも、不思議な形で与えられました。残りの時間で、その証しをさせていただきます。
少し前に私は、金曜日の朝にその枝教会で行われている朝祷会に参加しませんか、という誘いを受けました。朝祷会というのは全国的に行われている朝の祈りの会で、静岡ではここ30年間ぐらいは、S教会で行われているのだそうですね。インマヌエルからは、S先生が天に召される直前まで、毎週参加されていたと伺いました。今回誘って下さったのはU教会の信徒の方で、この静岡の朝祷会の世話役を務めている方です。ただ私としては、金曜日の朝はちょっとな、という曜日でした。火曜か水曜の朝なら参加しやすいのですが、金曜日はやるべきことがたくさんあります。
でも、今の福音伝道が行き詰っている状況を変えるには、私自身も何かを変える必要を感じていましたから、おとといの金曜日の朝、初めてS教会での朝祷会に参加しました。少ない人数でしたが、福音伝道がやせ細る一方になっていることを憂慮する思いを共有しつつ、お祈りができましたから感謝でした。私も静岡の福音伝道のために用いて下さいとお祈りをしました。
そうして、こちらに戻って来てから、ふと藤本満先生のウェスレーのeラーニングの第2週の動画を見るべしという思いが与えられました。2週目の動画をまだ見ていなかったからです。このウェスレーの学びでは、第1週はウェスレーがアルダスゲイトで福音的な回心を体験したことを学びました。そして、第2週はウェスレーが野外説教を始めたことで大きく変えられたことを学びました。ウェスレーにとってはアルダスゲイト街の集会に参加したことも、野外説教を始めたことも、どちらもあまり気が進まないままにしたことでした。でも、それがきっかけで、ウェスレーは大きく変えられました。
金曜日の朝の朝祷会も、私には気の進まないことでした。金曜日はいろいろ用事があってちょっと遠慮したい曜日です。でも、この朝祷会に参加して、一緒にお祈りをして、その後でウェスレーの動画を見ることを示されました。そうして、ウェスレーが野外説教を始めた当時のイギリスではすごい勢いで人々が信仰に目覚めていたことを改めて学んで、大いに刺激を受けました。今の静岡でも、このウェスレーの時代ほどとは行かなくても、もっと多くの人々が信仰に目覚めても良いはずです。現代の人々に向けて何を語れば、耳を傾けてもらえるのでしょうか。
そんな時、ふと「神様の善いものは、未来から流れて来る」ということが示されました。霊の乳も、天国への入場券も、すべて上流の未来から流れて来ます。それらは回転寿司や流しそうめんのように霊の乳と一緒に上流の未来から流れて来ます。神様は気前の良いお方ですから、霊の乳も天国への入場券もジャンジャン流して下さいます。
これは特に、若い人への福音伝道に有効だろうと考えています。若い人は、自分の未来についていつも気に掛けています。そういう若い方々に何千年も前に書かれた聖書の話をしても、耳を傾けてもらうのは、なかなか難しいと感じます。
でも実は、みことばも未来から流れて来るものなんですね。まだみことばを聞いたことがない人にとっては、未来から流れて来るものです。或いはまた、みことばを既に知っている私たちにとっても、みことばは未来から流れて来るものです。なぜなら、同じみことばであっても、聞くたび・読むたびに神様は私たちに新しいことを語って下さるからです。ですから、みことばも未来から流れて来ます。
おわりに
来週の17日は教団創立記念礼拝としたいと思います。来週は英和の奨励日でもあります。英和女学院も、私たちのインマヌエル教団も、ウェスレーから始まるメソジストの流れの中にあります。
ウェスレーは18世紀の人ですが、ウェスレーに関することも、やっぱり未来から流れて来るんですね。以前の私たちはウェスレーについて、ぜんぜん知りませんでした。そういう知らない時を経て、ウェスレーについて新しく学びます。ですから、ウェスレーに関する新しいことも未来から流れて来ます。インマヌエルの恵み、神様は共にいて下さるという恵みも、未来から流れて来ます。天国への入場券も未来から流れて来ます。そういう善いものを神様は未来からジャンジャン流して下さいます。天の父とイエス・キリストについて今まで知らなかったことも、神様は上流の未来から霊の乳を流して教えて下さいます。そうして私たちは霊の乳に満たされ、聖霊に満たされて、天の父とイエス・キリストをもっと深く知るようになり、永遠のいのちを既に得ているという確信をますます深めます。どんなにドロドロに汚れていても、イエス様の血によってきれいにされて、赤ちゃんとなり、霊の乳をいただいて永遠のいのちが与えられていることが分かるようになります。素晴らしい恵みです。その恵みに、心から感謝したいと思います。
お祈りいたします。
ヨハネ17:3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。