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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

神様の善いものは、未来から流れて来る(2021.10.10 礼拝)

2021-10-11 13:51:56 | 礼拝メッセージ
2021年10月10日礼拝メッセージ
『神様の善いものは、未来から流れて来る』
【ヨハネ17:1~3】

はじめに
 今週からヨハネ17章に入ります。この17章は「最後の晩餐」の締めくくりの章で、イエス様は天の父に祈っています。イエス様は10章で「わたしと父とは一つです」と言っていますが、この17章のイエス様の祈りを読むと、本当にイエス様と父とは一体なのだなと思います。

 きょうの聖書箇所は1節から3節までですが、特に3節に目を留めたいと思っています。従って、きょうの中心聖句は、17章3節です。

ヨハネ17:3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

 そして、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①永遠のいのちとは、天の父とイエスを知ること
 ②未来から流れて来る「霊の乳」で知る父と御子
 ③未来から流れて来る天国への入場券を逃さない

①永遠のいのちとは、天の父とイエスを知ること
 まず、17章の1節と2節を見ておきましょう。1節をお読みします。

ヨハネ17:1 これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。

 これらのこと、というのは13章から16章までのことですね。この「最後の晩餐」のシリーズを始めた時、ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の場面は他の福音書と比べると、とても長いことを話しました。イエス様はたっぷりと時間を使って13章から16章までのことを弟子たちに話しました。そして、「父よ、時が来ました」と言いました。これは、十字架の時が来た、ということですね。十字架でのイエス様の死と、死からの復活によって神様の栄光が現わされます。いよいよ、その時が来ました。続いて2節、

2 あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。

 天の父は、すべての人に永遠の命を与えたいと願っておられます。そうして父は子に、すべての人を支配する権威をお与えになりました。このことで、イエス・キリストを信じる者にはすべて聖霊が注がれて、永遠のいのちが与えられるようになりました。

 しかし、このことをおかしいと思う人もたくさんいます。神様がすべての人に永遠のいのちを与えたいと願っているなら、イエス・キリストを信じない人にも永遠のいのちを与えるべきではないか、そう考える人もたくさんいます。私も友達からそう言われたことが何度もあります。

 そのような友達の言葉に昔はあまり上手く答えられないでいましたが、今はだいぶ分かるようになって来ました。

 天の父はすべての人に永遠のいのちを与えたいと願っていて、イエス・キリストを信じれば永遠のいのちを与えて下さいます。と同時に、天の父は私たちに選ぶ自由も与えて下さっています。強制的に永遠のいのちを与えるようなことはしません。強制的に与えるなら、人はただ神様の命令通りにしか動けないロボットになってしまいます。

 神様は私たちに守るべき戒めを与えましたが、拒む自由も与えています。私たちはロボットではありませんから、神様に背く自由も与えられているんですね。だから、永遠のいのちは要らないという人に、神様は強制的に永遠のいのちを与えることはしません。

 さてしかし、永遠のいのちは要らないという人にも二種類の人がいます。本当に自分の考えで永遠のいのちは要らないと思っている人と、悪魔に惑わされて永遠のいのちは要らないと思い込まされてしまっている人の二種類です。ほとんどの人は後者で、悪魔に惑わされているのだろうと思います。そもそも永遠のいのちがあるということすら知らない人も多いのではないかと思います。永遠のいのちがあることを分からなくすることも悪魔の策略です。

 神様は私たちの自由な意志を尊重して下さいますから、本当に自分で永遠のいのちは要らないという人に強制的に与えることはしません。でも問題は、多くの人が悪魔に惑わされ、支配されているということです。その悪魔の支配を打ち負かして、人を闇から解放して救い出すためにイエス様は十字架に付いて死に、死から復活して悪魔に打ち勝ちました。

 このようにして、永遠の中では悪魔は滅ぼされました。しかし、この世においては悪魔の誘惑はまだまだ続いています。ですから、イエス様を信じて永遠のいのちをいただいて、この世における悪魔の支配から解放される必要があります。その永遠のいのちとは、父とイエス・キリストを知ることだとイエス様はおっしゃっています。3節ですね。

3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

 これは、一体どういう意味でしょうか?次のパートに進んで、このことを考えたいと思います。

②未来から流れて来る「霊の乳」で知る父と御子
 もう一度、3節をお読みします。

3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

 これは、一体どういう意味でしょうか。これは、聖霊に教えていただく以外にはないですね。もう何度も引用していますが、イエス様はヨハネ14章26節でおっしゃいました(週報p.2)。

14:26 助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 助け主である聖霊は、すべてのことを教えて下さいます。ですから、この17章3節の意味も、助け主の聖霊に教えていただく必要があります。

 この、ヨハネが助け主と呼んだ聖霊のことを、ペテロは、「霊の乳」と呼んでいます。「乳」は赤ちゃんが飲むお乳です。先週の木曜日の祈り会でペテロの手紙第一のこの箇所を開いて、「霊の乳」ってすごく良いことばだなと思いました。第一ペテロ2章2節をお読みします(週報p.2)。

Ⅰペテロ2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

 先週の木曜日の祈り会の準備をしていて、この第一ペテロ2:2のみことばに私は、心が洗われる思いがしました。私たちは子供から大人へと成長する過程で、世の中の汚いドロドロとしたものを、たくさん身に着けます。この世は悪魔が支配している汚れた世界ですから、これは避けられないことです。私たちは大人になる過程でいろいろと汚いものを身に着けます。でも、イエス様を信じて、イエス様が十字架で流した血できよめられることによって私たちは、もう一度、何も汚れていない赤ちゃんに戻り、霊の乳をいただくことができます。イエス様を信じることで新しく生まれて、神の子どもとされて、純粋な霊の乳をいただくことができます。何という幸いでしょうか。

 ドロドロとした汚れとは、たとえるなら、船が難破した時に、きれいな海を汚してしまう油のようなものでしょう。船の油はきれいな海を汚し、そこに住む魚や鳥たちも汚します。私たちも子供から大人へと成長する過程で、そういう船の油のようなドロドロをたくさん身に着けます。でも、イエス・キリストを信じるなら、イエス様が流した十字架の血によって、そのドロドロがきれいにされて、私たちはきれいな肌を持つ赤ちゃんに生まれ変わることができます。赤ちゃんに生まれ変わらなければ、私たちは天の御国に入ることはできないのですね。イエス様がヨハネ3章でニコデモに言ったことばの通りです。ヨハネ3章3節をお読みします(週報p.2)。これはイエス様がニコデモに言ったことばです。

ヨハネ3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

 イエス様を信じるなら、私たちは新しく生まれます。そうして、きれいな赤ちゃんになった私たちは霊の乳をいただいて、天の父とイエス様のことを改めて教えていただきます。すると、助け主の助けによって段々分かるようになります。そうして17章3節の、

17:3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

も、分かるようになります。

 助け主の霊の乳は、未来から流れて来ます。かつてイエス様を信じていなかった頃の私たちは、霊の乳のことを知りませんでしたから、自分が霊の乳の流れのすぐ近くにいることを知りませんでした。悪魔の惑わしによって、霊の乳がすぐ近くを流れていることを分からなくされているからです。でも、イエス様を信じてからは霊の乳の川が自分のすぐ近くを流れていることが分かるようになりました。そうして私たちは、上流から流れて来る新鮮な霊の乳をいただきます。霊の乳も古くなると悪魔がいろいろな混ぜ物をして、悪くなるかもしれません。でも、上流の未来から流れて来る霊の乳はいつも新鮮で、私たちを豊かに成長させて下さいます。

 このように、神様からの善いものは、すべて上流の未来から流れて来ます。次の3番目のパートに進んで、さらにこの話をします。

③未来から流れて来る天国への入場券を逃さない
 先ほども言ったように、神様からの善いものは、すべて未来の上流から流れて来ます。天国への入場券もそうです。

 たとえるなら、回転寿司や流しそうめんにたとえても良いかもしれません。神様は気前の良いお方ですから、天国への入場券もジャンジャン流して下さっています。時々しか流さないのではなく、いつもジャンジャン流して下さっています。悪魔の惑わしによって、よそ見をしてしまいますから、見づらくなっていますが、神様は気前よくたくさん天国の入場券を流して下さっています。早くこのことに気付いて、入場券を手に入れることを逃さないようにしていただきたいと思います。そうして永遠のいのちを得ていただきたいと思います。

 この「神様の善いものは、未来から流れて来る」ことを伝えることは、これからの伝道で重要なポイントになる気が私はしています。回転寿司や流しそうめんにたとえてみるなど、伝え方はいろいろ工夫する必要があると思いますが、これからの伝道で伝えていくべき重要なポイントだと感じています。先週の礼拝では、神様は不思議を為さるお方だという話をしました。神の箱を担ぐ祭司が足をヨルダン川に踏み入れた時、ヨルダン川の流れが止まって、民が川の中を歩いて渡ることができるようになりました。神様は人が新たな一歩を踏み出す時、不思議なことを為さいます。「神様の善いものは、未来から流れて来る」という教えも、不思議な形で与えられました。残りの時間で、その証しをさせていただきます。

 少し前に私は、金曜日の朝にその枝教会で行われている朝祷会に参加しませんか、という誘いを受けました。朝祷会というのは全国的に行われている朝の祈りの会で、静岡ではここ30年間ぐらいは、S教会で行われているのだそうですね。インマヌエルからは、S先生が天に召される直前まで、毎週参加されていたと伺いました。今回誘って下さったのはU教会の信徒の方で、この静岡の朝祷会の世話役を務めている方です。ただ私としては、金曜日の朝はちょっとな、という曜日でした。火曜か水曜の朝なら参加しやすいのですが、金曜日はやるべきことがたくさんあります。

 でも、今の福音伝道が行き詰っている状況を変えるには、私自身も何かを変える必要を感じていましたから、おとといの金曜日の朝、初めてS教会での朝祷会に参加しました。少ない人数でしたが、福音伝道がやせ細る一方になっていることを憂慮する思いを共有しつつ、お祈りができましたから感謝でした。私も静岡の福音伝道のために用いて下さいとお祈りをしました。

 そうして、こちらに戻って来てから、ふと藤本満先生のウェスレーのeラーニングの第2週の動画を見るべしという思いが与えられました。2週目の動画をまだ見ていなかったからです。このウェスレーの学びでは、第1週はウェスレーがアルダスゲイトで福音的な回心を体験したことを学びました。そして、第2週はウェスレーが野外説教を始めたことで大きく変えられたことを学びました。ウェスレーにとってはアルダスゲイト街の集会に参加したことも、野外説教を始めたことも、どちらもあまり気が進まないままにしたことでした。でも、それがきっかけで、ウェスレーは大きく変えられました。

 金曜日の朝の朝祷会も、私には気の進まないことでした。金曜日はいろいろ用事があってちょっと遠慮したい曜日です。でも、この朝祷会に参加して、一緒にお祈りをして、その後でウェスレーの動画を見ることを示されました。そうして、ウェスレーが野外説教を始めた当時のイギリスではすごい勢いで人々が信仰に目覚めていたことを改めて学んで、大いに刺激を受けました。今の静岡でも、このウェスレーの時代ほどとは行かなくても、もっと多くの人々が信仰に目覚めても良いはずです。現代の人々に向けて何を語れば、耳を傾けてもらえるのでしょうか。

 そんな時、ふと「神様の善いものは、未来から流れて来る」ということが示されました。霊の乳も、天国への入場券も、すべて上流の未来から流れて来ます。それらは回転寿司や流しそうめんのように霊の乳と一緒に上流の未来から流れて来ます。神様は気前の良いお方ですから、霊の乳も天国への入場券もジャンジャン流して下さいます。

 これは特に、若い人への福音伝道に有効だろうと考えています。若い人は、自分の未来についていつも気に掛けています。そういう若い方々に何千年も前に書かれた聖書の話をしても、耳を傾けてもらうのは、なかなか難しいと感じます。

 でも実は、みことばも未来から流れて来るものなんですね。まだみことばを聞いたことがない人にとっては、未来から流れて来るものです。或いはまた、みことばを既に知っている私たちにとっても、みことばは未来から流れて来るものです。なぜなら、同じみことばであっても、聞くたび・読むたびに神様は私たちに新しいことを語って下さるからです。ですから、みことばも未来から流れて来ます。

おわりに
 来週の17日は教団創立記念礼拝としたいと思います。来週は英和の奨励日でもあります。英和女学院も、私たちのインマヌエル教団も、ウェスレーから始まるメソジストの流れの中にあります。

 ウェスレーは18世紀の人ですが、ウェスレーに関することも、やっぱり未来から流れて来るんですね。以前の私たちはウェスレーについて、ぜんぜん知りませんでした。そういう知らない時を経て、ウェスレーについて新しく学びます。ですから、ウェスレーに関する新しいことも未来から流れて来ます。インマヌエルの恵み、神様は共にいて下さるという恵みも、未来から流れて来ます。天国への入場券も未来から流れて来ます。そういう善いものを神様は未来からジャンジャン流して下さいます。天の父とイエス・キリストについて今まで知らなかったことも、神様は上流の未来から霊の乳を流して教えて下さいます。そうして私たちは霊の乳に満たされ、聖霊に満たされて、天の父とイエス・キリストをもっと深く知るようになり、永遠のいのちを既に得ているという確信をますます深めます。どんなにドロドロに汚れていても、イエス様の血によってきれいにされて、赤ちゃんとなり、霊の乳をいただいて永遠のいのちが与えられていることが分かるようになります。素晴らしい恵みです。その恵みに、心から感謝したいと思います。

 お祈りいたします。

ヨハネ17:3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
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皆が同じ方を向いて新しい一歩を踏み出す(2021.10.3 礼拝)

2021-10-04 11:32:52 | 礼拝メッセージ
2021年10月3日聖餐式礼拝メッセージ
『皆が同じ方を向いて新しい一歩を踏み出す』
【ヨシュア3:5~17】

はじめに
 緊急事態宣言が解除になり、きょうは8週間ぶりで皆さんと共にこの会堂で礼拝をささげることができていますことを、主に心一杯感謝したいと思います。

 きょうの聖餐式礼拝では、新しい一歩を踏み出す時としたいと願っています。新しい一歩を踏み出すと言っても、まずはお祈りを始めるということです。次の世代への信仰の継承に向けて、私たちは力強く歩み出さなければなりません。そのことに向けてお祈りを始めたいと思います。そうして、実際に新しい一歩を踏み出すのは、来年1月の教会総会の時です。その1月の教会総会に向けて今日から祈り始めて、その間、何回か運営委員会を持つと思いますから、どのように一歩を踏み出すかを皆さんと相談したいと願っています。

 このお祈りを始める礼拝は、そもそもは9月19日にすることを考えていました。その前の週の9月12日に「駐車場資金完済感謝礼拝」を行って、隣の駐車場用地を買うために借り入れたお金をすべて返済することができたことを主に感謝しました。そこで次の19日の聖日に新しい一歩のために祈り始めることを考えていましたが、緊急事態宣言が延長になりましたから、宣言の期間が明けたきょうの10月3日を、その日とすることにしました。

 きょうのメッセージの中心聖句はヨシュア記3章13節です。

 
ヨシュア3:13 「全地の主であるの箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。」

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①世代交代の過渡期にあったイスラエルの民
 ②皆が同じ方を向いて新しい一歩を踏み出す
 ③一歩を踏み出さないと起きない主の不思議

①世代交代の過渡期にあったイスラエルの民
 私たちの教会の将来について祈ることを始める前に、ヨシュア記3章に目を留めます。ここでは先ず、イスラエルの民は世代交代の過渡期にあったことを覚えたいと思います。

 イスラエルの民は40年間の荒野の放浪を経て、いよいよこれから約束の地のカナンに入るために、ヨルダン川を渡ろうとしていました。この時のリーダーはモーセからヨシュアに替わっていましたから、もう世代交代したと言っても良いのかもしれません。しかし、まだまだ世代交代の途中であったとも言えます。と言うのは、ここにはヨシュアとカレブがいて、ヨシュアとカレブは古い世代に属していたからです。

 イスラエルの民がエジプトを脱出したばかりの40年前、主はイスラエルの民にカナンを偵察するように命じました(民数記13章)。主は12人の族長たちで偵察隊を編成して約束の地であるカナンを下見して来るよう、モーセに命じました。この時の12人の族長たちの中にヨシュアとカレブがいましたから、この二人は古い世代に属します。

 古い世代が二人だけなら、もう新しい世代と言っても良いでしょう。でも、ヨルダン川を渡ろうとしていたイスラエルの民には、子供の頃にエジプトに住んでいた者もたくさんいました。エジプトを脱出した時に大人だった者たちは、40年間の荒野での放浪の間にすべて死に絶えました。ヨシュアとカレブだけはまだ生きていましたが、他の大人たちはカナンに入ることが許されずにすべて死に絶えました。でも、子供だった者は生かされました。その者たちの多くは子供の頃に住んでいたエジプトのことを覚えていたことでしょう。

 ですから、まだ世代交代の過渡期であったと見ることができます。エジプトのことを覚えていない者たちばかりになった時に、本当に世代交代したと言えるのではないでしょうか。新しい世代になったと言えるのではないかと思います。

 同様に私たちの教会も、初代の松村導男先生の代からの世代交代の過渡期にあると言えるのだろうと思います。導男先生から直接の教えを受けた方々が多くいらっしゃいますし、その時に建てられたこの会堂もまだ大切に使われています。一方で、導男先生にはお会いしことがない方も多くおられます。私もその一人です。両方の教会員が混じっていますから、世代交代の過渡期と言って良いのではないかと思います。

②皆が同じ方を向いて新しい一歩を踏み出す
 きょうの聖書箇所のヨシュア3章5節と6節をお読みします。

ヨシュア3:5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」
6 ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。

 カナンの地に入るのにイスラエルの民はヨルダン川を歩いて渡っていきました。この時、神の箱を担いだ祭司たちが先頭に立って、ヨルダン川に入って行きました。神の箱が先頭に立ち、全員が同じ方向を向いて、約束の地のカナンに向かって行きました。この、神の箱を先頭にして皆が同じ方向を向いて約束の地に入って行ったことに心を留めたいと思います。

 きょうから私たちは、次に進むべき方向について主の導きを仰ぐためのお祈りを始めたいと思います。主は私たちに駐車場という新しい財産を与えて下さいました。そして、借り入れたお金を無事に返済することができました。ですから、このことに感謝しつつ、私たちは次なる地に向かって行きたいと思います。しかし、一つ気掛かりなことがあります。それは、この会堂が建てられたのが19xx年で、築xx年になるということです。これから、この会堂をどうするのかも、お祈りの重要な課題の一つです。

 今は借金の返済を終えたばかりですから、会堂献金の口座はぼぼ空っぽです。でも、空っぽだからこそ、すべてを主にお委ねして、これからどうしたら良いかを主にお尋ねする良いチャンスです。なまじ預金があると、いろいろな思いが入って来ますが、今はほとんどありませんから、全面的に主にお委ねすることができます。

 今の私たちは、自分たちが何を求めたら良いのかもよく分からない状態です。きょうの聖書交読で開いたヨハネ1章で、イエス様は近づいて来た弟子たちに言いましたね。

「あなたがたは何を求めているのですか」(ヨハネ1:38)
「来なさい。そうすれば分かります」(同1:39)

 以前も話しましたが、イエス様の弟子たちへの「来なさい。そうすれば分かります」は、イエス様がどこに泊まっているのかが分かるという意味ではなくて、自分たちが何を求めているのか、イエス様のもとに来るなら分かるという意味です。

 イエス様に出会う前の私たちは、自分が何を求めているのかさえ、分かっていませんでした。それが、イエス様に出会って、イエス様と共に歩むようになってから、自分が何を求めているのかが段々と分かるようになって来ました。とても感謝なことですね。皆さんの多くが、自分が何を求めているのか、イエス様に教えていただいていることと思います。

 ただし、それは私たち一人一人の場合であり、教会の場合はまた少し違うでしょう。この教会が何を求めて、どちらの方向に進めば良いのか、このこともイエス様に教えていただく必要があります。私たちの一人一人は、いずれは地上生涯を終える時が来ます。その時には天の御国に召される希望がありますから、それで良いです。でも教会の場合は、建物が古くなって使えなくなったら教会も閉じる、というわけには行きませんね。私たちは次の世代にこの教会を引き継いで行ってもらいたいと願っています。

 そのために、どうしたら良いのかを、イエス様に教えていただきたいと思います。私たちは、何を求めたら良いでしょうか。まったく新しい新築の新会堂を求めたら良いのでしょうか?恐らくそれは無理でしょうね。今の年齢構成から言っても、考えにくいと思います。じゃあ、今の会堂をできるだけ長く使えるように、温存する道を探れば良いのでしょうか?

 でも、あまりに現実的になって、最小限のことしか、求めないとしたら、それは却って主に失礼なような気もします。主におできにならないことはありませんから、小さなことばかり願っていたら、教会はどんどん縮小していくばかりでしょう。大胆に主に願い、大胆に主に祈ることも必要でしょう。かと言って、後の世代に大きな負担を残すわけにも行きません。その辺りの兼ね合いはとても難しいと思います。ですから、まずは私たちが何を求めるべきなのか、祈ることから始めるべきだと思います。

 沼津教会にいた時、教会の働きを様々に助けて下さった信徒の方々の一人に、過去に二度、別の教会で会堂献金の戦いを経験された方でした。その方が言っていましたが、高度経済成長の時代は、会社が倒産する心配もなく、給料は毎年上がり、終身雇用制で首になる心配もなかったし、退職金と年金も十分な額が保証されていたから、有り金全部を会堂のために献げても、ぜんぜん心配が無かった、すぐにまた収入が入って来てちゃんと生活ができた、とおっしゃっていました。今とぜんぜん違いますね。今は正社員になること自体が難しく、パートやアルバイト、契約社員の場合が多いでしょう。会社はいつ倒産するか分かりませんし、解雇される心配もあります。給料は下がる一方ですし、将来の年金も暮らして行けるだけの額がもらえる望みはほぼありません。ですから、自分や家族の老後のために備える必要もあります。昔のように教会に多くの会堂献金を献げることはできない状況にあります。

 そういう中で私たちは、この教会の将来をどう考えるか、何を求めるべきか、イエス様に祈り、導きを仰がなければなりません。人によって考え方はいろいろだと思いますが、皆が同じ方向を向いて進んで行く必要があります。議論する時は様々な意見を出しますが、最終的には一つにまとまって、皆が同じ方向を向いて進んで行きます。そのためには、私たちが何を求めるべきかイエス様に教えていただかなければなりません。

③一歩を踏み出さないと起きない主の不思議
 今話したように、2021年の現代の私たちを取り巻く状況は、この会堂の建設当時と比べると随分と厳しいように見えます。でも、その時はその時で、いろいろと厳しい面があったことと思います。そんな中、松村導男先生がこの会堂の建設へと一歩を踏み出したことで、今のこの会堂があります。そうして、主の不思議が行われました。人間の力だけで、これだけの会堂は建たないでしょう。

 先ずは一歩を踏み出さないと何事も始まりません。個人の信仰もそうですね。20年前、私は高津教会の中に一歩足を踏み入れたことで、様々な主の不思議が行われて、受洗に至りました。そうして私は変えられました。一人の小さな者が信仰によって変えられることも主の不思議ですし、開拓によって新しい教会ができて行くことも主の不思議です。小さな教会に立派な会堂が与えられることも主の不思議です。私は神学生の時には、イムマヌエル聖宣神学院という神学校が新しく作られたことを、すごいことだなあと思っていました。学校を一つ作ることは大変なことです。これも主の不思議です。英和や雙葉などのミッション系の学校がこの静岡にできたことも、主の不思議ですね。すごいことだなあと思います。このように、主はすごいことをして下さるお方ですから、主の不思議を期待しないで現実的なことばかりを考えるのでは、信仰的にどうなんだろうと思います。主の不思議を期待して一歩を踏み出すこともまた、必要なことでしょう。

 ヨシュア記3章のイスラエルの民も、祭司がヨルダン川の水の中に一歩足を踏み入れたことで、主の不思議が行われました。もう一度、5節と6節をお読みします。

5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」
6 ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。

 きょうはこの後に聖餐式を控えていますから、時間の関係で途中を飛ばして今日の中心聖句の13節をお読みします。

13 全地の主であるの箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。

 そうして、祭司たちがこのことばの通りにヨルダン川へ足を一歩踏み入れた時に主の不思議が行われて、水がせき止められましたから、イスラエルの民はヨルダン川を渡ることができました。15節には、「ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた」とあります。しかし、祭司たちはこの溢れる水を恐れることなく、主のことばを信じて、足を一歩踏み入れました。そうして、主の不思議が行われました。

おわりに
 今回、このメッセージの準備をする中で、この会堂の建設当時と今とでは何が違うんだろうかということを考えました。その一つが、先ほど話した雇用形態がぜんぜん違うということです。正社員が少なく、終身雇用制ではなくなったことなどを話しました。

 他にも違うことはいろいろとあるでしょう。その中に、未来に対するワクワク感が少なくなったということも挙げられるでしょう。今はいろいろなデータがたくさんあって、そのデータを見れば、未来のことがある程度は分かります。もちろん、データ通りには行かないのですが、現代の私たちは過去のデータを過度の信じるようになっているのではないかと思いました。そうして、大体こんなもんだろうと未来を予測して、当たり障りのない道を歩もうとします。身の破滅を招いたら大変ですから、もちろんそれで良いのだと思いますが、ちょっとつまらない気もします。

 そんな中で、野球の大谷翔平選手や、将棋の藤井聡太三冠のような、規格外の若者が登場すると、私たちはワクワクしますね。今まで、そんな人はいなかったわけですから、私たちはワクワクします。若者ダビデがゴリアテを倒した時のイスラエルの民にも、そんなワクワク感があったのだろうと思います。イエス様が宣教を開始した時、病人が次々と癒されました。すごいお方が現れたと、人々はワクワクしました。ペンテコステ以降、主の弟子が急速に増えて教会が成長していった時期には、弟子たちは一体どこまで成長するんだろうかとワクワクしたのではないでしょうか。

 いま私たちは駐車場購入の借入金を返し終えて、何もする力がありません。でも、私たちの皆が同じ方向を向いて、新しい一歩を踏み出すなら、主はきっと不思議を行って下さるでしょう。その不思議とはいったい何なのか、主の不思議をワクワクしながら待ち望み、先ずは祈ることから始めたいと思います。

 これから聖餐式に臨みます。二千年前の「最後の晩餐」から始まったこの聖礼典が、二千年間途絶えることなく、続けられて来たこともまた、主の不思議な御業だと思います。私たちのインマヌエル静岡教会のこの聖餐式も、絶やすことなく後の世代に引き継いで行ってもらいたいと思います。主は不思議を為さるお方ですから、私たちの皆が一つの方向を向いて新しい一歩を踏み出すなら、そのように導いて下さるでしょう。

 お祈りいたします。
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罪・義・さばきについての世の誤り(2021.9.26 礼拝)

2021-09-26 12:45:25 | 礼拝メッセージ
2021年9月26日礼拝メッセージ
『罪・義・さばきについての世の誤り』
【ヨハネ16:7~11】

はじめに
 先々週まではヨハネの福音書の「最後の晩餐」の場面を13章から順番に見て、イエス様のことばに耳を傾けて来ました。そうして15章の半ばまで進みましたが、先週は13章に戻り、また19章の十字架の場面、さらに21章も見て、イエス様が愛しておられた弟子、すなわち愛弟子とは私たちのことでもあることを話しました。

 来週の聖餐式礼拝では旧約聖書のヨシュア記を開くことにしています。また10/31は静岡聖会のDVDの説教をご一緒に視聴する予定にしています。説教箇所はヨハネ15章とのことです。というわけで、順番通りにはいかなくなっていますから、これからアドベントの前までは、ヨハネの福音書の13章以降をページの順番にとらわれることなく行き来することにしたいと思います。そうしてアドベントに入ったら、マタイとルカのイエス様がお生まれになった頃の箇所を開きます。アドベントの直前まで最後の晩餐と十字架、そして復活の場面を見ておくことで、イエス様がこの世に生まれたご聖誕の恵みが、どんなに素晴らしいものであったかが、いっそう分かるのではないかと期待しています。

 きょうは16章の7節から11節までのイエス様のことばに耳を傾けます。この箇所のイエス様のことばはとても難しいです。でも私たちは6月の初めからずっと、「最後の晩餐」のテーブルに座ってイエス様のことばに耳を傾けて来ました。ですから、この難しい箇所も分かるようになっていることと思います。助け主である聖霊の助けをいただきながら、ここでイエス様が何をおっしゃっているのかを、しっかりと分かち合いたいと思います。きょうの中心聖句は16章8節です。

ヨハネ16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 そして、きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①悪魔が世を罪で縛って生じさせる誤解
 ②罪で見えない「イエスは神の御子である」
 ③罪で見えない「イエスはキリストである」

①悪魔が世を罪で縛って生じさせる誤解
 早速、7節から見て行きましょう。

ヨハネ16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

 きょうの箇所は、とても難しいと先ほど話しましたが、この7節は一見するとそんなに難しい箇所ではないように見えます。なぜなら、イエス様は助け主の聖霊の話を既に何度もしているからです。この礼拝メッセージでも、14章26節を何度も引用して来ましたね。14章26節、

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 助け主の聖霊は、私たちにすべてのことを教えて下さり、イエス様が私たちに話したすべてのことを思い起こさせて下さいます。それゆえイエス様は16章7節で、ご自身がこの世を去って行くことは益になるとイエス様はおっしゃっているのでしょう。でも、後で話す8節から11節のことを踏まえると、どうもそれだけではないようです。イエス様のこの7節のことばの行間には、もっと重大なことが見え隠れしています。

 それは、イエス様が弟子たちの前から去って、天から助け主を遣わすまでの間には、十字架と復活があるからです。7節でイエス様は十字架と復活のことは飛ばして、聖霊の話をしていますが、十字架と復活のことをしっかりと踏まえた上で8節以降を読むべきでしょう。では、8節以降を見て行きます。まず、きょうの中心聖句の8節、

16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 助け主の聖霊が来ると、罪と義とさばきについて、世の誤りを明らかにするとイエス様はおっしゃいました。罪・義・さばきの三つです。どうして、この三つなんでしょうか?先ほど引用した14章26節では、聖霊はすべてのことを教えるとイエス様はおっしゃいました。すべてのことを聖霊が教えて下されば、世にはたくさんの誤りがあることが分かるのではないでしょうか。どうしてこの三つなんでしょうか?

 それは、世の誤りは突き詰めればこの罪・義・さばきの三つに集約されるからなのかもしれませんね。果たしてそうなのか、世の誤りは突き詰めれば罪・義・さばきの三つに集約されるのか、確かめることにしたいと思います。

 イエス様は、まず罪について語りました。9節です。

9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

 イエス様を信じないことが罪であることは、イエス様を信じる私たちにとっては当たり前のことです。でも、それだけで片づけてしまうと、次の10節の義と、11節のさばきについての誤りをどう解釈するか、行き詰ってしまいます。罪と義とさばきは、バラバラに考えるのではなく、三つをセットにした三点セットで考えるべきものです。

 そこで参考になるのが、ヨハネの手紙第一の3章8節です。ヨハネの福音書で分からないことがある時は、ヨハネの手紙第一を参考にすると分かる場合が多いことを、これまで何度か話して来ました。今回のヨハネ16章7節から11節までの箇所も、まさにそのような箇所です。第一ヨハネ3章8節をお読みします。

Ⅰヨハネ3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。

 以前、「最後の晩餐」の背後には「神vs悪魔」の対決の構図が隠されていることを話しました。ヨハネが13章2節という「最後の晩餐」の早い段階で「悪魔」に言及しているからです。この、背後の「神vs悪魔」の対決の構図を念頭に置きつつ、今の第一ヨハネ3章8節を参考にするなら、ヨハネ16章8節にある、「罪・義・さばき」の世の誤りの三点セットは、悪魔のことを考慮に入れて解釈すべきでしょう。

 世の人々が誤った考えに捕らわれてイエス様を信じないのは、悪魔が世の人々を罪で縛っているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。

 このヨハネの福音書には「力ある神」としてのイエス様が描かれています。「最後の晩餐」の後でイエス様を捕らえに来た人々は、イエス様に圧倒されて地に倒れました(ヨハネ18:6)。それは、イエス様が悪魔のわざを打ち破るために遣わされたからだったんですね。悪魔は世の人々を罪で縛って誤った考えを植え付けます。その悪魔のわざを打ち破るために「力ある神」である御子のイエス様が遣わされました。

②罪で見えない「イエスは神の御子である」
 世の人々は悪魔が植え付けた罪によって誤った考えに陥っていましたから、「義」についても誤っていました。次にこのことを見ます。10節をお読みします。

10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

この10節が一番難しいです。イエス様が父のもとに行き、弟子たちがイエス様を見なくなるから、義について世は誤っているとは、どういうことでしょうか?イエス様が父のもとに行くことと、義についての世の誤りとの間に、どういう関係があるのでしょうか?

 こういう困った時に頼りになるのが、やはりヨハネの手紙第一です。ヨハネの手紙第一を読むと、こう書いている箇所があります。第一ヨハネ2章29節です。

Ⅰヨハネ2:29 あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。

 神が正しい方、すなわち義なるお方であることは、ユダヤ人であれば誰でも知っていることです。弟子たちに限らず、パリサイ人ももちろん神が正しいお方であることを知っていました。でも、イエス様を迫害していたパリサイ人たちには分かっていないことがありました。それは、イエス様が神の御子であるということです。パリサイ人たちは悪魔のわざの罪によって、目が曇っていました。それゆえイエス様が行っていることが正しいことだと分かりませんでした。イエス様は安息日に病人を癒していましたが、パリサイ人たちはそれを批判しました。パリサイ人たちはイエス様が安息日に病人を癒したことを律法に反する罪だと考えましたが、罪に陥っていたのはパリサイ人たちの方だったんですね。

 イエス様は正しいことを行っている神の御子です。世の人々は誤っていたために、このことが見えていませんでした。しかし、イエス様が十字架の死から復活して天の父のもとに帰り、助け主の聖霊を遣わして下さったことで、正しいことが分かるようになりました。それがイエス様が10節でおっしゃった、

10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

ということではないでしょうか。

 義とは正しさのことです。イエス様は神の御子ですから、もともと天の父のところにいて、正しいことを行っていました。そうして、地上に遣わされてからももちろん、神の御子として正しいことを行っていました。世の人々は誤っていたためにその正しいことが分かりませんでした。しかしイエス様は十字架で復活した後、天に帰って助け主の聖霊を遣わして下さいましたから、その誤りが明らかになりました。

③罪で見えない「イエスはキリストである」
 3番目の「さばき」について、イエス様はこうおっしゃっています。11節、

11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

 「この世を支配する者」とは、悪魔のことです。悪魔は世の人々を罪で縛り、正しいことが見えないようにしていました。しかし、イエス様が十字架の死からよみがえって悪魔に勝利しましたから、悪魔はさばかれました。そうして助け主の聖霊が遣わされたことで、さばきについての誤りも明らかになりました。

 イエス様は、ヨハネ5章24節で、このようにおっしゃっています。

ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

 イエス様のことばを聞いて、父を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがありません。それは、イエス様の十字架と復活によって、悪魔が打ち負かされてさばかれたからです。悪魔はイスカリオテのユダの心を操ってイエス様を裏切らせました。そして、パリサイ人たちと民衆の心をも操ってイエス様を十字架に付けて殺しました。悪魔はイエス様が神の御子であることを知っていましたから、悪魔にとってイエス様は邪魔な存在でした。そのイエス様を十字架で殺すことができましたから、悪魔は勝利した筈でした。

 しかし、悪魔が神に打ち勝つことはありませんでした。神はイエス様をよみがえらせて悪魔に勝利しました。こうして、イエス様の十字架と復活によって悪魔に勝利したことで、悪魔のわざである私たちの罪も赦されて、永遠の命を得ることができます。ですから、イエス様は救い主です。イエス様は救い主のキリストです。

 ここで、ヨハネが20章の最後に、この福音書の執筆目的を書いていることを思い出したいと思います。ヨハネはこの福音書の執筆目的を、このように書いています。

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 もう一度お読みします。ヨハネがこの福音書を書いたのは、このことのためでした。

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 イエスが神の子キリストであると信じることと、きょうの中心聖句の16章8節とは、密接に関係しています。

 もう一度、きょうの中心聖句の16章8節をお読みします。

8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 「罪」から解き放たれて「義」が分かると、「イエス様は神の御子である」ことが分かります。そして、「さばき」が分かると「イエス様は救い主のキリストである」ことが分かります。つまり、「罪」から解き放たれると、「イエスは神の子キリストである」ことが分かります。そうして、「イエスは神の子キリストである」と信じるなら、永遠のいのちがあたえられます。

 つまり、きょうの中心聖句の16章8節でイエス様はキリスト教の中心的な教理を教えたことになります。キリスト教の中心的な教理と言えば、ヨハネ3:16のことも思い起こしますね。ヨハネ3:16は「聖書の中の聖書」とも言われています。この1節の中に聖書のすべてが詰まっているとも言われています。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 きょうの中心聖句の16章8節は、聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネ3:16とも密接に関係しています。助け主の聖霊が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。悪魔は私たちを罪で縛って正しいことを分からなくしています。正しいこととは、イエス様が神の御子であり、人々を罪から救い出すキリストであるということです。イエス様は十字架に掛かって死に、復活することで悪魔に勝利しました。このことを信じる私たちは罪が赦されてさばきにあうことがなく、死からいのちに移って永遠のいのちが与えられています。

おわりに
 静岡県に発令されている緊急事態宣言は今月一杯で解除される見込みです。この宣言下で私たちは様々なことに縛られて制限されています。礼拝も制限された形でしか行えません。旅行も自由にはできません。東京の家族にも会えません。家族以外のお世話になった方々や友だちにも会えません。本当にいろいろなことに縛られています。

 そして、罪も私たちを様々な形で縛ります。罪は正しいことを分からなくします。イエス様は神の御子であることを分からなくします。イエス様は救い主のキリストであることを分からなくします。それ以外にも罪は、様々な正しいことを分からなくして、私たちが誤った行動をするように導きます。

 しかし、十字架のイエス様を信じて、イエス様は神の子キリストであると信じた私たちは、この罪の縛りから解放されました。素晴らしい恵みです。緊急事態宣言による縛りが解かれようとしている今、この罪の縛りから私たちは解き放たれていることをイエス様から教わることができました。このことを、心から感謝したいと思います。

 イエス様を信じる私たちは既に罪から解き放たれています。でもイエス様から目を離すなら、罪はしつこくまとわりついて来ます。このことをしっかりと覚えておきたいと思います。イエス様から離れるなら、罪はたちまち私たちに絡みついて来て、私たちを罪で縛ります。私たちはイエス様から目を離すことなく、信仰の道を歩み続けたいと思います。

 来週は聖餐式礼拝を行う予定です。静岡県の緊急事態宣言も解除されることと思いますから、皆さん、この会堂でお会いしましょう。そうして、聖餐式の恵みに共に与りましょう。お祈りいたします。
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イエスが愛しておられた弟子(2021.9.19 敬老感謝礼拝)

2021-09-20 10:27:02 | 礼拝メッセージ
2021年9月19日敬老感謝礼拝メッセージ
『イエスが愛しておられた弟子』
【ヨハネ13:23】

はじめに
 きょうは敬老感謝礼拝です。ここまで人生の旅路を長く歩んで来た方々に、心から敬意を表したいと思います。

 古来、洋の東西を問わず、人生は旅に譬えられて来ました。生涯の中で何度も引っ越しをして違う地域を転々として来られた方々はもちろんのこと、たとえ同じ地域に住み続けていたとしても、人は様々な所を通ります。子供の頃は学校で学び、学びを終えると社会に出て働き、伴侶を得て家庭を持ち、或いは持たなかったとしても、親とは異なる人生を歩むようになります。

 ずっと同じ地域に住んでいたとしても、そこから見える風景が人生のその時その時の場面で異なって見えることは、鉄道の旅に譬えられるかもしれませんね。同じ席に座っていても窓の外の風景は次々に変わって行きます。私は鉄道に乗った時には窓の外の風景を眺めるのが好きです。特に何を考えるのでもなく、外の風景を見ていると日頃の雑事から解放されて心が安らぎます。それは長い旅の場合でもそうですし、日常的に乗る短い区間の場合でも同じです。東京で働いていた時は通勤で毎日同じ区間を電車で往復していましたが、私は飽きることなく窓の外の風景を眺めていました。

 聖書を読むことも鉄道に乗ることに似ているかもしれませんね。聖書通読で長い区間を読むこともあれば、短い区間を何度も何度も繰り返し読むこともあります。聖書の同じ箇所を繰り返し読む場合でも、その時その時で違う響きがあります。通勤で毎日同じ電車に乗って同じ風景を眺めていても、その時の天気や様々なことで違って見えるのと同じです。聖書は人生の旅の伴侶として、最高の書物だと思います。

 教会のご高齢の方々の多くは、これまで長く聖書に親しんで来られましたが、これからも聖書と共に生涯を歩んで行かれます。この素晴らしい恵みが与えられていることに、心から感謝したいと思います。きょうは、次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①イエスと共に長い旅をしてきた愛弟子
 ②十字架をすぐ近くで目撃した愛弟子
 ③イエスの証人として無数の証しを残す

①イエスと共に長い旅をしてきた愛弟子

ヨハネ13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。

 礼拝メッセージでのヨハネの福音書の「最後の晩餐」のシリーズは6月に始めました。始めてすぐの第2回目の聖書箇所には、きょうの23節も含まれていました。しかし、その時には23節には敢えて注目しませんでした。まだ早いと思ったからです。時期が来たら、この13章23節に戻ろうと思っていいました。そうしていつ戻ろうかと思いながら、この4ヶ月間を過ごして来ましたが、きょうの敬老感謝礼拝がちょうど良いだろうと思いました。皆さんはこれまでの人生をイエス様と共に長い間過ごして来ましたから、イエス様の愛弟子です。

 イエス様を信じる・信じないに関わらず、イエス様はいつも私たちと共に歩んで下さっています。私がイエス様を信じたのは40歳を越えてからでしたが、それまでの40年もイエス様は私と共に歩んで下さっていました。母の胎から生まれる前から私を愛して下さっていたイエス様は、ずっと私と共に歩んで来て下さいました。ただし、私は弟子ではありませんでした。イエス様に愛されていましたが、私の側でイエス様を信じていませんでしたから、弟子ではありませんでした。そんな私がイエス様を信じて弟子とされました。それもただの弟子ではなくて、イエス様に愛されている愛弟子とされました。

 このヨハネ13章23節で初めて登場する「イエスが愛しておられた弟子」、すなわち愛弟子の場合はどうだんでしょうか?

 もしかしたら、最初はそんなにしっかりとはイエス様を信じていなかったのかもしれませんね。この愛弟子は13章になって初めてヨハネの福音書に登場します。それ以前には出て来ません。ということは、それまでは中途半端な信じ方であって、愛弟子と呼べるほどではなかったのかもしれませんね。でも1章から12章までイエス様と共に長い旅をして来る中でイエス様のことばをたくさん聞き、またイエス様が行う奇跡をいくつも見ることで堅く信じるようになって、愛弟子に昇格したということではないでしょうか。

 ですから、この愛弟子は私たちのことでもあります。イエス様は私たちが生まれる前から私たちを愛して下さっていましたが、私たちがイエス様を信じたのは人生の途中からでした。でも、信じたと言っても最初は中途半端でした。それがイエス様をしっかりと信じたことによって愛弟子とされました。そして、この「最後の晩餐」の席では、イエス様のすぐ隣という特等席が与えられました。本当はペテロがこの特等席に座りたかったんだろうなと思います。でもイエス様は「私たち」をこの特等席に座らせて下さいました。一番弟子のペテロではなくて、「私たち」をこの特等席に招いて座らせて下さいました。

 私たちは6月から足掛け4ヶ月間、この「最後の晩餐」のテーブルでイエス様と共に過ごしていますから、このことを実感できるのではないでしょうか。6月の始めの段階では、もしかしたらまだ少し早くて実感できなかったかもしれませんが、9月の後半に入った今では、自分がイエス様の愛弟子とされてイエス様の隣の特等席が与えられていることを実感できるのではないでしょうか。この特等席が与えられたことに、心か感謝したいと思います。

②十字架をすぐ近くで目撃した愛弟子
 「最後の晩餐」でイエス様の隣という特等席が与えられた愛弟子は、十字架の時も十字架のすぐそばという特等席が与えられました。十字架は残酷ですから特等席というと語弊がありますが、愛弟子はイエス様のすぐ近くで十字架の出来事をしっかりと目撃していました。この愛弟子ももちろん、私たちです。その箇所をご一緒に見ましょう。ヨハネの福音書19章の25節から27節までです。

25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 26節の「愛する弟子」というのが愛弟子です。私はこの場面を読む度に、愛弟子はどうしてイエス様の母マリアを自分のところに引き取ることになったんだろうか?ということに思いを巡らします。その時に何か答が与えられることもありますが、大抵の場合はよく分からないまま終わります。鉄道の窓の風景に譬えるなら、夜の真っ黒な風景と言えるでしょうか。でも、今回は少しは風景が見えている気がしています。この説教の準備をしていて、次のように思いました。

 このヨハネの福音書ではイエス様は「力ある神」として描かれています。例えばイエス様がユダの裏切りによって捕らえられる場面では、イエス様は捕らえに来た者たちを圧倒しています。18章6節です。

6 イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。

 イエス様は「力ある神」として彼らを圧倒して、彼らは地に倒れました。一方、マタイ・マルコ・ルカの福音書には弱い人間として苦悩するイエス様が描かれていますね。マルコの福音書には苦悩するイエス様がこううめくことばが書かれています。

マルコ14:36 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

 これから十字架に付いて苦痛を受けなければならないイエス様は、このように苦悩して悶え苦しんでいました。このイエス様の苦悩はまた、母マリアの苦悩でもありました。ヨハネの福音書は苦悩するイエス様を描かなかった代わりに、十字架の前にいる母マリアを描くことで、母と子の痛みと悲しみを描いたのではないかと思います。イエス様は「力ある神」であるだけでなく、やはり弱い一人の人間として、母のマリアと同じように絶望的な痛みと悲しみの中にありました。そして、その母と子の絶望的な痛みと悲しみを、愛弟子の私たちも共有します。愛弟子は母マリアを自分のところに引き取りましたから、私たちも母と子の痛みと悲しみを引き取りました。

③イエスの証人として無数の証しを残す
 愛弟子はまた、ヨハネの福音書の最後の最後の場面でも登場します。21章の20節からの場面です。少し長いですが、20節から25節までをお読みします。

20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
23 それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。
24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 この箇所には、とても深い感動を覚えます。それは、ここには1世紀のヨハネから始まって、2世紀、3世紀、そして20世紀、21世紀の現代に至るまで連綿と引き継がれて来た、無数の愛弟子たちの姿が見えているからです。20節から見ていきます。20節と21節、

20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。

 この時にペテロが見ていた愛弟子はヨハネです。ペテロとヨハネは同じ時代を生きていました。しかしペテロは、2世紀の愛弟子や21世紀の愛弟子の私たちとは違う時代を生きています。この時ペテロは1世紀の、同時代のヨハネを指してイエス様に聞きました。「主よ、この人はどうなのですか」、するとイエス様は答えました。22節と、その後の23節も読みます。

22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
23 それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。

 この時にイエス様が言った「彼」というのは、次の世代の愛弟子たちでしょう。ヨハネから始まって、イエス様の愛弟子は21世紀の現代の私たちに至るまで、無数にいます。そして、今を通り越して未来の、イエス様の再臨がある時まで愛弟子は引き継がれて行きます。愛弟子が絶えていなくなることは決してありません。ですから、いつかイエス様が再臨する時まで愛弟子は引き継がれて行くことで生き続けます。でも、ペテロが関わる直接関わることができたのは1世紀の初代の愛弟子のヨハネだけです。だからイエス様はペテロに「あなたに何の関わりがありますか」と言いました。

 間接的にはもちろん、1世紀のペテロと21世紀の愛弟子の私たちは関わりを持っています。しかし、肉体に縛られている私たち人間は、同じ時代を生きている者同士としか、直接の関わりを持つことができません。

 それが神であるイエス様と、人間であるペテロや私たちとの厳然たる違いなのですね。ですから、イエス様はペテロにおっしゃいました。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 ペテロだけでなく、私たちも同じです。21世紀の私たちは22世紀の人たちと直接関わることはできません。ですから私たちは、同じ時代を生きる、目の前にいる人々にイエス様を証しします。私たちはイエス様の証人ですから、イエス様を証しします。それがイエス様に従う、ということです。イエス様に従う私たちは、イエス様を証しします。それゆえヨハネは、この福音書の最後でこのように書いています。まず24節、

24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。

 私たちも、ヨハネの証しが真実であることを知っています。これまで私たちは4ヶ月の間ずっと、「最後の晩餐」のテーブルでイエス様のすぐ隣の席にいて、イエス様のことばを聴いて来ました。ですから、彼の証しが真実であることを知っています。そして21世紀の私たちも、私たち自身がイエス様と出会ってから今日までのことを証しします。25節、

25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。

 私たちはイエス様の声を聴きながら、毎日を過ごしています。その一つ一つを書き記すなら、私一人の分だけでも膨大な量になります。皆さんそれぞれのお一人の分だけでも、膨大な量になります。そういう愛弟子が1世紀から21世紀の今日まで、無数にいます。それら一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないでしょう。

おわりに
 きょうは敬老感謝礼拝です。ご高齢の方々ほど、イエス様の声をたくさん聴き、またイエス様のたくさんの奇跡を見て来ました。人生のピンチの時にもイエス様は助けて下さり、不思議な形でピンチを切り抜けて来ることができました。

 以前、私自身の証しとして、イエス様は信じる前の私のことも守って下さっていたことを話しました。学生の時、自転車でひき逃げの事故に遭い、一時は意識を失いました。一緒にいた友だちは私が死んだと思ったと言ったことを話しました。その時もイエス様は私を守って下さっていました。

 皆さんの一人一人がそういう証しをたくさん持っていると思います。信じる前からイエス様は私たちを守って下さっていました。ですから、ご高齢の方ほど証しをたくさん持っています。そのことに、心から敬意を表します。

 イエス様はこれからも皆さんのお一人お一人と共に歩んで下さいます。私たちは、そのことを証しし続けて行きます。

 イエス様の再臨は、私たちが生きている間にあるかもしれません。私たちはその時に備えていたいと思います。でも、もしかしたら、それは私たちの次の愛弟子の世代の時になるのかもしれません。ですから、私たちは、次の世代の愛弟子たちに、しっかりと信仰のバトンを引き継いでもらわなければなりません。

 次の世代がなかなか育たずに不安になることもありますが、これまでもイエス様は二千年間の間ずっと、愛弟子を育て続けて下さいましたから、大丈夫です。イエス様を信頼して、イエス様にすべてをお委ねして、イエス様と共に歩んで行きたいと思います。そして、そのことを証しして行きたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。
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慰めの場となる聖なる教会を父に求める(2021.9.12 礼拝)

2021-09-13 07:51:55 | 礼拝メッセージ
2021年9月12日駐車場資金完済 感謝礼拝メッセージ
『慰めの場となる聖なる教会を父に求める』
【ヨハネの福音書15:12~17】

はじめに
 きょうの礼拝は駐車場資金完済の感謝礼拝です。隣の土地を約5年前に購入した時の経緯を当時の牧師ご夫妻がかなり細かく記録しておいて下さっていましたから、当時の様子を私もその記録から知ることができます。

 私自身も前任地の沼津で、教会の隣接地を購入した経験を持っています。何度も地主さんとお会いして、次々に発生する問題について話し合い、それを教会に持ち帰って幹事の皆さんと相談して、ということを繰り返しました。細かいことはすっかり忘れていましたが、今回、この感謝礼拝の準備をするに当たって、この教会の駐車場取得の経緯の資料を見て、沼津でも似たような問題があったなあと懐かしく思い出しました。そして、様々な問題があったけれど、神様が一つ一つ解決へと導いて行って下さったことを思い出しました。静岡教会でも、次々に発生する問題を神様が一つ一つ解決へと導いて行って下さった様子を資料から伺い知ることができましたから、とても感謝に思いました。

 隣の土地の購入資金は、それまでに積み立てていた会堂献金と新たに募った献金による自己資金に加えて、金融機関からの融資と教会債による借入金で賄ったとのことです。そのうち金融機関への返済は既に済ませており、教会債の返済も、先週の9月8日に最後の方への返金を終えることができました。

 主の励ましによって財勢が祝されて無事に完済できたことを心から感謝したいと思います。主に感謝するとともに、大変なご苦労をされた教会の皆さんと、当時の牧師先生方を主が労って下さり、豊かに報いて下さいますように、改めてお祈りしたいと思います。

(祈り)

 さて、きょうの感謝礼拝の中心聖句は、ヨハネ15章16節です。

ヨハネ15:16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。
 きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①「友」を挟み込む「互いに愛し合いなさい」
 ②しもべでは分からない御父と御子の十字架の愛
 ③空っぽの今、「聖なる教会」となることを求める

①「友」を挟み込む「互いに愛し合いなさい」
 きょうの12節から17節までは一つの段落になっています。節の始めが一文字分引っ込んでいる所が段落の始めですから、引っ込んでいる12節から、次に引っ込んでいる18節の手前の17節までが一つの段落です。

 そして、この段落を眺めると、始めと終りの12節と17節に、互いに愛し合うべきことが書かれています。そして12節と17節の両端をサンドイッチのパンだとすると、パンに挟まれた中身の具の部分には「友」ということばが三度使われていることが分かります。ですから、「互いに愛し合いなさい」が「友」をサンドイッチする形になっています。まずパンの部分の12節と17節をお読みします。12節、

12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 次に17節、

17 あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

 そしてイエス様は、この12節と17節に挟まれた14節で、次のようにおっしゃいました。

14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

 イエス様が命じる「互いに愛し合うこと」を行うなら、私たちはイエス様の友です。逆に言えば、私たちが互いに愛し合わないなら、私たちはイエス様の友ではありません。この14節の前の13節でイエス様は、このようにおっしゃっています。

13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

 これはもちろん、十字架の愛のことですね。私たちが互いに愛し合うことができていないなら、十字架の愛も分からないでしょう。この十字架の愛が分かる者がイエス様の友である、ということをイエス様はおっしゃりたいようです。次の2番目のパートで、そのことを考えてみましょう。

②しもべでは分からない御父と御子の十字架の愛

15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

 イエス様はここで天の「父」に言及しました。旧約の時代、天の父はいつも愛するご自分の民であるイスラエルの民のことを気に掛けていました。そうして、彼らの信仰がすぐに横にそれて行ってしまうことに心を痛めていました。イスラエルの民はバビロン捕囚の悲劇があってもなお、マラキ書にあるように父の愛が分かっていませんでした。旧約聖書の最後にあるマラキ書には、このように書かれていますね。

マラキ1:2 「わたしはあなたがたを愛している。──は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

 この、神の愛を理解しないイスラエルの民の救いのために、天の父は御子イエスを地上に遣わして、十字架に付けました。そうして十字架によって神の愛を示しました。このことをヨハネは第一の手紙にこう書いています。

Ⅰヨハネ4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 そうして、この十字架によって示された御父と御子の愛はイスラエルの民の救いのためだけではなく、異邦人の救いのためでもありました。そしてそれは1世紀の人々のためだけでなく、21世紀の私たちの救いのためでもありました。

 この御父と御子の愛は、しもべではなかなか分からないものでしょう。イエス様の友にされて初めて深く分かって来るものなのでしょうね。そして、イエス様は、この友をもっと増やすことができるようにと、弟子たちと私たちを選んで任命しました。16節です。

16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

 私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様が私たちを選び、私たちを任命しました。それは、信仰の友を増やし、共に信仰の実、御霊の実を結び、その実が残るようになるためです。そしてまた、私たちがイエス様の名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

 最後の3番目のパートで、この16節にある「父に求める」に目を留めたいと思います。

③空っぽの今、「聖なる教会」となることを求める
 きょうの礼拝は駐車場資金完済の感謝礼拝です。

 会堂のために積み立てた献金を駐車場の土地の購入に使い、いま私たちの教会の会堂献金の口座はほぼ空っぽです。通常会計の口座には多少の預金はありますが、そんなにあるわけではありません。いま私たちは空っぽです。でも、空っぽだからこそ、何にも縛られることなく、自由に父に求めることができます。

 イエス様は金持ちの青年に、財産を手離すように言いましたね。財産があると、その財産に心が縛られてしまって、神様に心を向けることができなくなります。いま私たちは駐車場という財産は与えられましたが、預金のほうの財産はほとんどない状態です。ですから、預金に心が縛られる心配はありません。心が縛られることなく父に求めることができることは感謝なことです。

 では、自由に父を求めることができる今、私たちは何を求めたらいいでしょうか。3番目の表題が「『聖なる教会』となることを求める」ですから、ネタバレですね。これからその話をします。

 実はきょうの説教の準備を始めた段階では、そんなに急いで求めるものを決めなくても良いと思っていました。空っぽですから、すぐに何かができるわけではありません。まして、コロナ禍の真っ只中にありますから、そんなに急ぐことはないと思っていました。それなのに、「聖なる教会」が示されました。それは、次のことがあったからです。

 いま祈祷会では、ペテロの手紙第一を開いています。そして、この手紙でペテロが書いていることと「最後の晩餐」でのイエス様のことばがいくつもの箇所で重なっていることを感じています。たとえば先週のヨハネ15:11でイエス様は「喜び」について語りました。

11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

 この「喜び」ということばが第一ペテロでも使われています。

Ⅰペテロ1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

 そして、きょうの中心聖句のヨハネ15:16の「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」

の「選び」というイエス様のことばは、第一ペテロの最初のことばとも重なります。

Ⅰペテロ1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、へ。

 「選ばれた人たち、へ」ペテロはこの手紙を送っています。「選ばれた」のは、この人たちが先ず救われて、次に他の人々も救われるためですね。私たちも同じです。私たちが先ず救われて、次に私たちがイエス様の証人になって他の人々も救われるために、私たちは選ばれました。

 このように「最後の晩餐」のイエス様のことばとペテロの手紙第一にはいくつかの箇所で重なりが見られます。そうして、先週の祈り会で目を留めたのは、次のみことばでした。

Ⅰペテロ1:15 あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

 「あなたがたを召された聖なる方」の「聖なる方」とはイエス様のことですね。「召された」とは「召し出した」ということで、「選んだ」と同じです。つまりペテロはこう言っています。「あなたがたを選んだ聖なるイエス様に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。」

 私はこのペテロのことばに心を刺されました。そうして「聖なる者になれるように私を変えて下さい」と祈らなければならないと思わされました。

 ただしこれは、私の個人的な祈りです。「聖なる者」になるべきは私であり、教会に適用しようとは思っていませんでした。

 でもここ何日か、 9.11の同時多発テロから今年で20年というニュースを見ていて、このテロで家族を亡くした遺族を慰めるのに教会は大きな役割を果たしたのだろうなと思い、その時に「聖なる教会」のことを思いました。

 教会が悲しむ人を慰めることができるのは、そこが「聖なる場所」だからです。「聖なる場所」には「聖なる方」であるイエス様の臨在が濃厚にあり、それゆえに教会は慰めの場所となることができます。教会は9.11のテロで突然家族を失った遺族の方々を慰め、深い悲しみを癒す働きを、「聖なる場所」として担いました。

 私にも同じ経験があります。2001年の9.11の3ヵ月前の6月11日、(私はそれを個人的に6.11と呼んでいます)、父が亡くなりました。その時、教会で祈りたいという気持ちが与えられて、以前から教会に熱心に誘ってくれていた韓国人に、韓国人教会に連れて行ってもらいました。そうして、その韓国人教会で聞いた聖歌隊の賛美歌にとても心が癒されました。韓国語の賛美でしたから意味は分かりません。でも、その「聖なる場所」にいて、とても癒されました。6.11は月曜日でしたから、教会に行った次の日曜日は6月17日でした。父の死からまだ1週間も経っていなかった私の心を「聖なる教会」が慰め、悲しみを癒してくれました。

 そうして高津教会に導かれたのが、6.11から2ヶ月後の2001年8月12日でした。この日についての証しでは、私はいつも藤本満先生のガラテヤ書の説教に興味を持ったことを話しますね。でも考えてみると、それだけではなくて、やっぱり「聖なる教会」が私を慰め、悲しみを癒してくれたから礼拝に通い続けたのだな、説教だけでは無かったんだなと、今さらですが、気付かされています。

 同時多発テロから20年後の今は、コロナ禍と温暖化による豪雨の災害で多くの人が悲しんでいます。自分の家族は無事であったとしても、コロナ禍で何人もの有名人が直接・間接に亡くなったことで私たちは心を痛めています。「間接に」というのはウイルスに感染したのではなくても、コロナ禍で仕事がなくなった期間にいろいろ考え過ぎて自ら命を絶った人のことです。或いは温暖化による豪雨の被害で家族を失ったご遺族の姿をニュースで見て、私たちは心を痛めています。

 今、多くの人々が悲しみと不安の中を生きています。教会は、そういう方々を慰め、癒す場でありたいと思います。悲しみの中、不安の中にある方々を慰め、癒すことができるのは「聖なるお方」の臨在が濃厚な「聖なる教会」です。

おわりに
 イエス様は私たちを選び出して下さいました。それは、イエス様の名によって天の父に求めるものをすべて、与えてくださるようになるためだとイエス様はおっしゃって下さっています。

 いま私たちは、その一つとして、私たちの教会が「聖なる教会」となることを、天の父に求めたいと思います。コロナ禍や温暖化、そのほか、身近に起こる様々なことで悲しみの中にあり、不安の中にいる方々にとっての慰めの場・癒しの場となる、「聖なる教会」となることを求めたいと思います。お祈りいたします。
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イエスと私たちの喜び(2021.9.5 礼拝)

2021-09-06 12:19:16 | 礼拝メッセージ
2021年9月5日礼拝メッセージ
『イエスと私たちの喜び』
【ヨハネの福音書15章11節】

はじめに
 ヨハネの福音書の「最後の晩餐」のイエス様のことばに耳を傾けるシリーズを続けます。このシリーズを続ける中で新しく教えられたことが、たくさんあります。つい最近も、ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の場面がなぜこんなに長いのかについての新たな気付きが与えられました。

 よく言われることですが、聖書は、昔の人にとっては読むものではなくて、聴くものでした。昔は字の読み書きができない人が大多数でしたから、使徒たちの時代の教会の人々は、旧約聖書や福音書や手紙の朗読を聴くことで、神様のことばに触れていました。

 ヨハネの福音書も、後に新約聖書に収められたわけですから、新約聖書が編纂される前から、教会でよく朗読されていたことでしょう。教会の会衆は、その朗読されるヨハネの福音書に聴き入っていました。すると、ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の場面は長いですから、当時の人々は長い間、「最後の晩餐」のイエス様のことばにとどまっていました。私たちと同じですね。1回当たり、どれくらいの分量が読まれたのかは分かりませんが、いずれにしても教会の会衆は長い時間、「最後の晩餐」のイエス様のことばにとどまっていました。そして、これこそが、この福音書の記者のヨハネの狙いだったのだなあ、と今回のこのシリーズを続ける中で、しみじみと思わされています。

 イエス様はガリラヤからエルサレムへ旅を続ける中でいろいろな人々と会い、病気を癒したり教えを説いたりしました。それらの様々な人々へのイエス様のことばは私たちに対することばでもあります。でも、次々とイエス様の相手が変わると、どうしても相手の人物に注目してしまって、自分に対することばという意識が薄くなってしまいます。しかし、「最後の晩餐」は違います。ずっと同じ食卓の場面で長くイエス様のことばに耳を傾けることで、「このイエス様のことばは自分へのことばなのだ」という意識がどんどん強まって行きます。これは素晴らしい恵みであり、とても感謝に思います。

 さて、きょうの聖書箇所はヨハネ15章11節に一ヵ節だけです。それにしても、こんなスローペースでは、いつまで「最後の晩餐」のシリーズが続くことになるのだろう?と思っている方もおられるかもしれませんね。

 細かい予定を立てているわけではありませんが、アドベントまでには終わらせる予定でいます。今年のアドベント第一礼拝は11月の第4聖日の28日です。ですから、第3聖日にはヨハネ17章の最後と18章の始めの部分を開いて、このシリーズを終わることにしたいと思っています。そうしてアドベント、クリスマス、年末感謝礼拝を経て、新年からはまた新しい気持ちで新しい年に臨みたいと思います。
 きょうのメッセージのタイトルは、『イエスと私たちの喜び』です。きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①花婿が花嫁を喜ぶようにイエス様は喜ぶ
 ②花婿の友人である私たちも花嫁を喜ぶ
 ③見えないからこそ得られる魂の深い喜び

①花婿が花嫁を喜ぶようにイエス様は喜ぶ
 きょうの聖書箇所のヨハネ15:11をもう一度、お読みします。

ヨハネ15:11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

 この「あなたがた」とは弟子たちのことであると同時に、私たちのことでもあります。イエス様の喜びが私たちのうちにあり、私たちが喜びで満ち溢れるようになるために、イエス様はここまで話してきて下さいました。

 では、「イエス様の喜び」とは何でしょうか?この11節の2つめの「喜び」という所に2)という注の印が付いていますから、脚注②を見てみると、ヨハネ3:29とありますから、きょうは先ず、そちらを見ることにします。開ける方は開いて下さい。開かずに聞くだけでも大丈夫です。これはイエス様のことばではなくて、バプテスマのヨハネのことばです。バプテスマのヨハネはイエス様を花婿にたとえています。そして、自分のことを花婿の友人にたとえています。ヨハネ3:29、

ヨハネ3:29 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。

 「花婿」のイエス様は、「花嫁」を迎えました。この「花嫁」とはイエス様を信じた者です。ですから私たちのことです。旧約聖書のイザヤ書に、次のようなみことばがあります。

イザヤ62:5 花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。

 私たちの神様は、花婿が花嫁を喜ぶように、私たちのことを喜んで下さいます。同じ様にイエス様は、イエス様を信じた私たちを喜んで下さいます。イエス様を信じた私たちのことをイエス様が喜んで下さっていることは、とても幸いなことですね。それを知って、私たちも喜びで満ち溢れます。

②花婿の友人である私たちも花嫁を喜ぶ
 もう一度、バプテスマのヨハネのことばであるヨハネ3:29を読みます。ここでバプテスマのヨハネは花婿のイエス様の友人として結婚式に参列しています。

ヨハネ3:29 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。

 イエス様の友人のバプテスマのヨハネは、花嫁を迎えて喜んでいるイエス様の声を聞いて喜びに満ちあふれています。私たちも、教会に新たな受洗者が与えられて洗礼式が行われる時、喜びに満ち溢れますね。それは私たちもバプテスマのヨハネと同じように、イエス様の友人だからです。私たちは、先ずは花嫁として教会に迎え入れられて、その次にはイエス様の友人として新しい花嫁を迎え入れて祝福します。ヨハネ15章に戻って、14節でイエス様はこうおっしゃっています。

ヨハネ15:14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

 イエス様が命じる「互いに愛し合いなさい」を行うなら、私たちはイエス様の友、友人です。ですからイエス様が新しい花嫁を迎える時、共に喜びに満ち溢れます。

 ヨハネ15章に入って今週で4週目ですから、私たちは長くこのヨハネ15章にとどまっています。この15章にじっくりととどまっていると、面白いことに気付きます。それは、この15章でイエス様は弟子たちの目が外の方向に向くようにじわじわと導いているということです。

 最初はイエス様は「わたしはふどうの木、あなたがたは枝です」とおっしゃって、私たちがイエス様に連なってとどまり、実を結ぶようにと教えを説きます。私たちがイエス様にとどまる時、私たちは中心にいらっしゃるイエス様のほうだけを見ています。そんな私たちの視線を、今度は外の方にも向けるようにとイエス様は誘導して行きます。そうして、新しい友を増やす方向へと向かうようにとじわじわと導いて行きます。それがよく分かるのが16節です、

16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

 イエス様は、弟子たちに、そして私たちに、外に出て行って新たな実を結ぶようにと導いています。そのために弟子たちを、そして私たちを選び、任命しました。私たちだけが救われれば良いのでなく、友を増やすようにと、私たちの視線をじわじわと外へ向けようとしています。ですから、私たちは新しい友を天の父に求めたいと思います。そうして、洗礼式で共に喜びに満ち溢れたいと思います。ここでもう一度、きょうの聖書箇所のヨハネ15:11をお読みします。

ヨハネ15:11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

 きょうのキーワードは「喜び」です。この喜びについてヨハネは、第一の手紙でも書いています。その第一の手紙をお読みします。

Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 ヨハネは、福音書と手紙によって、イエス様から聞いたことを人々に伝えました。それは、福音書と手紙によって多くの人々が新たに御父と御子との交わりを持つようになるためでした。そうして友人を増やしていくためでした。このことによって、ヨハネたちは喜びに満ち溢れました。

 しかし、この時代は反キリストの嵐も吹き荒れていました。多くの偽りの教え、異端の教えも出回っていました。それらの偽りの教えに惑わされて、教会はバラバラになる危険がありました。偽りの教えを信じようとする友を批判して憎みあったり、仲たがいをすることもあったかもしれません。

 そのような教会の人々に向かってヨハネは、イエス様の命令である「互いに愛し合うこと」の必要を説きました。ヨハネは十字架の愛を説き、そうして、互いに愛し合うべきことを説きました。

Ⅰヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 この手紙に励まされて教会の人々は互いに愛し合って一つになり、厳しい危機の時代を乗り越えて来ました。私たちも今、コロナ禍の只中にあって厳しい時代の中を通っていますが、互いに愛し合うことで、この危機の時代を乗り越えて行きたいと思います。

③見えないからこそ得られる魂の深い喜び
 最後の3番目のパートでは、ペテロの手紙第一を引用します。
 いま木曜日の夜の祈祷会では、ペテロの手紙第一を開いています。私の説教準備の1週間のサイクルは、概ね月・火は礼拝と祈祷会の説教の両方を考え、水・木は祈祷会の説教に専念して、金・土は礼拝の説教に専念する、このようなサイクルになっています。ですから、先週の1週間は礼拝の準備で「喜び」がキーワードになっていることを意識しながらペテロの手紙を読んでいましたから、木曜日の祈祷会の聖書箇所の中にも「喜び」ということばがあることに、目が留まりました。この3番目のパートでは第一ペテロ1章に出て来る「喜び」を分かち合いたいと思います。第一ペテロ1章8節と9節をお読みします。

Ⅰペテロ1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

 ペテロは、この手紙の読者が「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています」と書きました。すごい表現ですね。「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜び」という表現もすごいですが、「喜びに踊っています」という表現もすごいですね。それほどの大きな喜びが得られるのは、魂の救いを得ているからです。ですから、この喜びは魂の奥底での深い喜びです。この魂の喜びは、天に昇った後のイエス様が目に見えないお方だからこそ、得られるものなのでしょうね。目に見える物事は情報量が多過ぎますから、大切なことが魂にしみ込むことを妨げるのかもしれません。

 フランスのサン=テグジュペリが書いた『星の王子様』に、「いちばん大切なことは目に見えない」という有名なことばがありますね。これはキツネが星の王子様に言ったことばです。「ものごとは、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」のだとキツネは王子様に言いました。

 ヨハネの福音書の最後のほうにも、イエス様が疑い深いトマスにこう言っている場面がありますね。

ヨハネ20:29「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

 目に見えないイエス様は私たちの内の奥深い所にある心の扉をノックするお方です。ですから、目に見えることばかりに頼っていると心の奥底のイエス様のノックの音は聞こえて来ません。逆に、この心の奥深くにある扉のノックの音に気付いて扉を開けてイエス様を内に招き入れるなら、深い喜びが得られます。これは聖霊の働きによるものです。聖霊の働きによって、私たちは栄えに満ちた喜びに躍ります。

おわりに
 最後にきょうの話をまとめます。きょうの話の後半では、ヨハネの手紙第一とペテロの手紙第一を引用しました。
 ヨハネもペテロも、地上生涯のイエス様から直接教えを受けることができました。そして、そのイエス様の教えを、ペンテコステの日以降、人々に説きました。そうして、自分たちの説教でイエス様を信じる人々が次々におこされたことに、ペテロもヨハネ自身も、きっとビックリしたのではないかなあと思います。ペンテコステの日にペテロが説教をした相手は、エルサレムの人々でしたから、イエス様を知っていました。これらの人々は「十字架に付けろ」と叫んでイエス様を十字架に付けた人々ですから、心を刺されてイエス様を信じるようになった、ここまでは分かります。

 でも、エルサレム以外の地域にいて、イエス様を見たことがない人々までもが自分たちのことばによって信じるようになったことには、ペテロもヨハネもきっとビックリしたはずです。実際、使徒の働き10章には、カイサリアに住んでいた異邦人のコリネリウスたちがイエス様を信じた時にペテロたちの一行が驚いた様子が記されています。イエス様を見たことがないのに信じて喜びに溢れる、すごいことですが、これが聖霊の働きなんですね。ペテロたちは、「聖霊の働きってすごいなあ」と心の底から感動したことでしょう。

 ペテロはそういう経験をたくさんしましたから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビテニアというエルサレムから遠く離れた地域に住む人々に向かっても、

Ⅰペテロ1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

と確信を持って書きました。

 日本に住む私たちは、ポントス・ガラテヤよりももっとエルサレムから離れた所に住んでいます。しかも地上生涯のイエス様の時代から二千年も時が経っています。それでも、私たちもこうしてイエス様を信じて、溢れる喜びをいただいています。このことに感謝して、私たちは毎週の礼拝をささげています。聖霊の働きって、本当にすごいなあ、素晴らしいなあ、と思います。

 ですから、いまコロナ禍でオンラインでの礼拝しかささげられなくても、地域の方々への伝道が難しい状況にあっても、聖霊の素晴らしい働きを信じている限り、心配ありません。聖霊の働きを信じていないようなら、ちょっと心配ですが、信じてオンライン礼拝であっても喜びをもって礼拝をささげているのであれば、私たちは思い煩うことなく、イエス様に付き従って行きましょう。

 お祈りいたします。

ヨハネ15:11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。
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立ち止まる時に強く現れる神様(2021.8.29 礼拝)

2021-08-30 10:41:08 | 礼拝メッセージ
2021年8月29日礼拝メッセージ
『立ち止まる時に強く現れる神様』
【ヨハネの福音書15章8~10節】

はじめに
 無会衆のオンライン礼拝は当初の予定では8月までとして、9月からは通常の礼拝を再開したいと思っていました。しかし、静岡県の緊急事態宣言が9月12日まで発令中であること、また、コロナウイルスの感染者数が依然として多いままで減少に転じていませんから、9/5と9/12の礼拝は無会衆礼拝を続けることにします。9/19には通常礼拝を再開することができますように、お祈りしていたいと思います。

 このような中にあって、礼拝メッセージの箇所をヨハネの福音書の「最後の晩餐」にしていて良かったと改めて感じています。先週も話しましたが、私たちはそれぞれ離れた場所で礼拝をささげていますが、霊的には主の「最後の晩餐」のテーブルで一つにされています。そうして、ゆっくりと時を刻んでいます。日常生活では時間に追われてバタバタと過ごしているかもしれませんが、「最後の晩餐」のテーブルでイエス様のことばに耳を傾けている時には、時間がゆっくりと流れます。

 バタバタしている中では、イエス様の御声はなかなか聞こえてきません。心を整えて、しずまって、イエス様の御声に耳を傾けたいと思います。

 きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①主の愛にとどまるとは、主の時間にとどまる
 ②自らの罪を振り返る時、主の時間にとどまる
 ③各自に現れた主が一つになって光り輝く教会

①主の愛にとどまるとは、主の時間にとどまる
 先週の礼拝では、ヨハネ15章では「とどまる」ということばが多く使われていることを話しました。きょうの聖書箇所にも、「とどまる」が使われています。9節と10節です。8節は3番目のパートで見ることにしていますから8節は飛ばして、9節と10節をお読みします。

ヨハネ15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。

 イエス様は、「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃいました。「イエス様の愛」と言えば、「十字架」を真っ先に思い浮かべますが、この十字架の愛はイエス様が人々に語り掛けて教えを説いたこととワンセットになっています。イエス様の説く教えに心を開いてイエス様の愛の下にとどまった者が十字架の愛によって救われます。ですから、イエス様の愛にとどまるとは、十字架にとどまると同時に、教えを説くイエス様にとどまることでもあります。それは教えを説くイエス様の時間にとどまるということです。

 ルカの福音書に出て来るマルタとマリアの姉妹は、妹のマリアのほうは教えを説くイエス様の時間にとどまっていましたが、もてなしの準備をしていた姉のマルタはイエス様の時間からはまったく離れていました(ルカ10:38-42)。マルタはイエス様と同じ家の中にいましたから、距離的には近くにいました。けれども時間はぜんぜん違う中にいました。イエス様はゆったりとした時間の中にいましたが、マルタはとても忙しい時間の中にいました。彼女の頭の中はもてなしの準備の段取りで一杯になっていました。先ず、これをする。次にあれをする。その次はあれもしなければならない、あ~時間が足りない。どうしよう。時間が足りないマルタの中では時間が瞬く間に過ぎていきます。

 一方、イエス様の足もとで主のことばに耳を傾けていたマリアの時間はゆったりと流れていました。ほとんど止まっていたと言っても良いでしょう。イエス様のことばに耳を傾ける時、時間はほとんど止まります。

 この教会の「最後の晩餐」のメッセージが正にそうですね。「最後の晩餐」のシリーズは6月の第一聖日に始めました。きょうは8月の第5聖日ですから、私たちは3ヵ月の間、ずっと「最後の晩餐」の時間の中にとどまっています。日常生活では私たちは姉のマルタのようにバタバタと過ごしていますが、礼拝においてはイエス様のことばに耳を傾けることでマリアのようにゆったりとした時間の中に身を置くことができています。

 ペテロの手紙第二でペテロは書きました。

Ⅱペテロ 3:8 主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

 主の御前では、一日は千年のようです。一日は千年のようであるとは、時間がほとんど進まずに止まっているということです。イエス様のことばに耳を傾ける時、私たちの時間は止まります。周囲では忙しく時間が流れていても、主のみことばに聴き入っている時には時間が止まります。素晴らしい説教者の説教に聴き入っている時には時間が止まりますから、ふと我に返った時、いつの間にか1時間以上も時が経っていたということがありますね。

 そして、「千年は一日のようです」も、時が止まっているということです。聖書の中には何千年という時間が圧縮されてこの一冊の中に閉じ込められています。そうして、各ページは独立しているのではなくて、互いに絡み合っています。例えば、イザヤ書53章で痛めつけられて苦しむ僕(しもべ)は十字架のイエス様と強く絡み合っていますね。出エジプト記の過越のいけにえの羊もまた十字架のイエス様と強く絡み合っています。創世記のエデンの園は新約聖書の最後の黙示録の新天新地と強く絡み合っています。このように聖書の各ページの記事は互いに絡み合っています。絡み合っているというよりは、溶け合って一つになっていると言ったほうが良いでしょう。

 聖書のページが溶け合って一つになっていると見るなら、この中に時は流れていません。つまり時間は止まっています。創世記と黙示録が溶け合って一つになっていると見るなら、その間のページも全部溶け合っていますから、時間の流れは存在しません。つまり、聖書の中では時間が止まっています。まさに、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」

 この聖書のみことばに聴き入る時、私たちは主との豊かな交わりの中に入れられますから、私たちの時間も止まります。そうして主の豊かな愛に包まれます。

②自らの罪を振り返る時、主の時間にとどまる
 きょうの礼拝の前半では詩篇32篇を開きました。この詩篇32篇は先週も開きました。詩篇も先へ先へと進むのでなく、ちょっと時を止めてみたいと思いました。先へ先へと進まずに、たまには同じ詩篇のみことばにとどまることで、一層ゆったりとした心持ちになると思います。

 詩篇32篇の5節でダビデはこう言っています。

詩篇32:5 私は自分の罪をあなたに知らせ、自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを【主】に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ

 戦士であったダビデの生涯の大半は、戦いの生涯でした。常に周辺諸国との戦争があって、それに勝利することでイスラエルは領土を広げて行きました。ダビデ王の時代のイスラエルの領土は、初代のサウル王の時代の領土よりもかなり広がっていたことが聖書の後ろの地図を見ると分かりますから、お時間がある時に確認してみて下さい。ダビデは王様になってからも忙しく戦っていたのですね。王様になってからは前線に出ることは少なかったと思いますが、部下の将軍のヨアブとは常に密に連絡を取り合って、忙しくしていたことでしょう。

 その忙しいダビデが詩篇32篇で、「私の背きを主に告白しよう」と言っています。ここでダビデは過去を振り返っています。これから戦う相手に目を向けるのでなく、過去の自分を振り返り、主に罪を告白しています。「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」から、主に罪を告白するダビデは主の時間の中にいます。そうして、主に赦されて、主の愛の中にとどまります。

 そして、この5節の終わりに「セラ」とあるのが、また良いですね。「セラ」はここで一旦休みましょうという合図です。「セラ」がある箇所では、すぐに次に進まずにちょっと休んで思いを巡らすことが推奨されています。この「セラ」で読者の私たちの時間も止まり、私たちも主の時間にとどまり、主に守られていることを感じます。6節と7節、

6 それゆえ敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かってあなたがおられるうちに。大水は濁流となっても彼のところに届きません。
7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で私を囲んでくださいます。

 主の御守りを感じる時、私たちの心は平安で満たされます。この主の御守りを感じるためには、姉のマルタのように目前の仕事のことを考えてバタバタするのでなく、妹のマリアのように主の時間の中に入れられる必要があります。主の時間の中心には十字架があって、十字架の時間は永遠に止まっています。その十字架によって私たちは主の永遠の中を生きることを許されていて、大きな平安をいただいています。

③各自に現れた主が一つになって光り輝く教会
 きょうのメッセージのタイトルは「立ち止まる時に強く現れる神様」としました。日々を忙しく過ごしていると、なかなか神様の御声は聞こえてきません。しかし、ふと立ち止まる時、神様の声が聞こえて来て、神様が強く現れて下さいます。これは一人一人に現れる神様のことです。この一人一人に現れた神様が御霊の一致によって一つになる時、教会は光輝く教会へと変えられることでしょう。ヨハネ15章8節をお読みします。

ヨハネ15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。

 イエス様は弟子たちに、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります」とおっしゃいました。どういうことでしょうか。天の父は別に弟子の力を借りなくても、お一人で栄光を現すことができるお方です。それなのに、どうして弟子たちが多くの実を結び、イエス様の弟子となることによって、天の父は栄光を受けるのでしょうか?

 おそらくこれは教会によって現わされる栄光のことを言っているのでしょう。少し先の16節でイエス様はこのようにおっしゃっています。

16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

 この16節からは、弟子たちが使徒として各地に出て行って、教会を建て上げて行った様子を思い浮かべることができます。ですから8節のイエス様のことばも、教会が現わす父の栄光のことと読みたいと思います。

 一人一人がイエス様にとどまり、イエス様の愛に育まれて御霊の実を結び、イエス様に似た者とされてイエス様を証しする時、その証しによって新たな弟子が造られて、教会は成長して行きます。そうして教会が成長することで父の栄光が現わされます。ですから、イエス様が「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」とおっしゃった時の「ぶどうの木」とは、教会のことでもあるのですね。

 ここでイエス様が教会を「ぶどうの木」という植物にたとえていることに注目してみたいと思います。植物はすごいなあと思います。同じ場所に根を張って動くことをぜず、そこで葉っぱを広げて太陽の光を存分に浴びて、太くたくましく成長して行きます。そうして幹につながる枝も太く成長して行きます。

 私はルカの福音書のマルタとマリアの姉妹の記事が大好きなんですが、どっしりとしたイエス様にしっかりとつながっている妹のマリアの信仰は、イエス様から霊的な糧をいただいてどんどん太く成長して行きます。一方でイエス様から離れたところでバタバタしている姉のマルタの信仰はなかなか太くなって行きません。信仰の成長のためには、どっしりとしたイエス様にしっかりとつながっている必要があります。

 イエス様の時間は止まっていますから、イエス様にとどまるなら、時間の流れに翻弄されることはありません。いま私たちは毎日のコロナ感染者数の数字の上下に一喜一憂して翻弄されています。昨日より増えれば不安になり、減ればちょっと安心します。そうして、コロナ感染者数の数字の上下に合わせて、私たちの感情も上下して安定しません。これではまるで、嵐の湖の舟の中であわてている弟子たちのようです。イエス様はこの激しく上下する舟の中でも平然と寝ておられました。このどっしりとしたイエス様につながっていられることに感謝したいと思います。イエス様はコロナの感染者が増えていることは悲しんでおられると思いますが、日々の変化に一喜一憂などしていませんから、私たちも動揺することなく、イエス様としっかりとつながっていたいと思います。

おわりに
 最後に、もう少し、数字の上下の話をして、きょうのメッセージを閉じたいと思います。

 いま菅首相の率いる内閣の支持率が30%を切るようになって来て、自民党はとても動揺しています。世論調査をする新聞社やテレビ局によって若干の多い少ないはありますが、いくつもの調査で30%を切るようになって自民党は大慌てです。直近の世論調査は昨日の8月28日に毎日新聞が行ったもので、菅内閣の支持率は26%、不支持の率は66%でした。

 菅内閣としては、オリンピックとパラリンピックを開催しさえすれば、内閣の支持率は必ず上向くと期待して、オリンピックを強行しました。そうして、パラリンピックも開催中です。でも期待に反して、下がり続けている内閣の支持率は上向くことなく、なお下がり続けています。

  国民の命を守るためにコロナ対策を優先すべきなのに、内閣支持率を上げるためにオリンピックを強硬に開催したのですから、支持率が下がるのも当然と言えば当然ですが、きょうここで考えたいのは、次のようなことです。

 もし菅さんが本当に心の底から「オリンピックは大事なんだ、オリンピックは平和の祭典だから、コロナ対策よりも優先すべきことだったんだ、だからオリンピックを開催したんだ」と思っているなら、堂々と、その意義をオリンピックが終わった後でも語り続けるべきでしょう。

 逆に、もしオリンピックを開催したことが誤りだったと思っているなら、悔い改めて、悔い改めたことをしっかりと語るべきだと思います。

 なぜ、こんな話をするかと言うと、それは教会も同じだからです。今ほとんどの教会で、教会員の数が減り続けています。教会の場合は数十年という時間の中で減り続けていますから、1年で支持率が急に下がった菅内閣とは期間が違いますが、ほぼ一貫して減り続けています。でも、もし教会はやるべきことをしっかりとやっているんだと思っているなら、堂々としていれば良いのだと思います。教会員の数は減ったけれども自分たちはやるべきことをちゃんとやって来たのだから、これでいいんだと堂々としていれば良いのだと思います。

 逆に、今まではこれで良いと思っていたけれども、実は違っていたのではないか。これを続けていれば会員の数もまた上向く時が来ると思って続けて来たけれど、どうも違っていたらしいと思うなら、悔い改めて、何がいけなかったのかをしっかりと考えて、考えた結果を語るべきなんだろうと思います。

 ただし、教会のことは神様の御心に関わることですから、何が良くて何が良くないのか、小さな私たちには分かりませんよね。だからこそ、私たちはイエス様としっかりとつながって、イエス様の御声をしっかりと聴いて、今の自分たちがしていることが良いのか良くないのかを、教えていただく必要があります。

 マリアの姉のマルタは、イエス様のおもてなしの準備をすることこそが、一番大切なことだと思って、そうしていましたが、イエス様はおっしゃいました。

ルカ10:41 「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

 必要なことは、妹のマリアのように、イエス様の足もとに座って、イエス様のことばに聴き入ることなんですね。ですから今礼拝で「最後の晩餐」のイエス様のことばに耳を傾けることができていることを、心から感謝したいと思います。

 私たちはマリアのように、イエス様としっかりとつながって、イエス様の御声に聴き入りたいと思います。そうして、私たちがすべきことを教えていただきたいと思います。
 お祈りいたします。

ヨハネ15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
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主のことばにとどまり、欲しいものを求める(2021.8.22 礼拝)

2021-08-23 10:39:56 | 礼拝メッセージ
2021年8月22日礼拝メッセージ
『主のことばにとどまり、欲しいものを求める』
【ヨハネの福音書15章7節】

はじめに
 ヨハネの福音書の「最後の晩餐」でのイエス様のことばに耳を傾けるシリーズを続けています。先週から15章に入りました。この「最後の晩餐」の記事は13章から17章までありますから、15章はちょうど中間地点です。

 先週から私たちの教会の礼拝は原則として無会衆のオンライン礼拝になりました。しかし、私たちは離れた所にいても「最後の晩餐」の同じ食卓について、イエス様のことばに耳を傾けています。会堂に集うことはできませんが、同じテーブルに座っています。そういう意味で、この「最後の晩餐」のシリーズを続けていて良かったなと思います。

 無会衆のオンライン礼拝は一応は8月一杯ということにしていますが、感染者が増えていますから、もしかしたら、もう少しの間は続けなければならないかもしれません。しかし、仮にそうなっても、私たちは同じ主のテーブルについていますから、感謝に思います。

 きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①主のみことばにとどまるなら変えられる
 ②みことばにとどまるなら、かなえられる
 ③教会の外の方々に向けたみことばが欲しい

①主のみことばにとどまるなら変えられる
 きょうは15章の7節だけを説教箇所にしました。お読みします。

ヨハネ15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

 イエス様はここで「とどまる」ということばを使っています。この「とどまる」は、それ以前ですと、イエス様は8章でこのように言われています。

ヨハネ8:31「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 これは、とても有名なみことばですね。「31あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」この有名なみことばでも「とどまる」が使われていますから、「とどまる」はヨハネの福音書の中では、重要なことばの一つと言えるでしょう。その「とどまる」が15章で多く使われています。

 まず4節ですね。4節では4回も「とどまる」が使われています。

4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 続く5節でも2回使われています。

5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 6節でも1回使われています。

6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

 そして、きょうの7節、

7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

 礼拝メッセージで「最後の晩餐」のシリーズを始めたのは6月の第一聖日からですから、私たちは約3か月の間、「最後の晩餐」でのイエス様のことばにとどまっています。このことで一番恵みを受けているのは私かもしれません。

 日曜日の礼拝を終えて、月曜日の朝早くから次の礼拝メッセージの箇所に思いを巡らし始めます。ですから、私はこの3ヵ月、ずっと「最後の晩餐」のイエス様のことばにとどまっています。祈祷会では別の箇所を開きますが、祈祷会のメッセージの準備をしている間もずっと、イエス様の「互いに愛し合いなさい」ということばが私の中にとどまっています。

 その中で、私自身が少しずつ変えられて来ていることを感じています。御霊によって変えられていると言って良いのだろうと考えています。「互いに愛し合いなさい」が、狭い人間関係の中だけでなく、もっと広い範囲で響くようになって来ています。これは三日前の木曜日の祈祷会でも話したことですが、今まで私は、キリスト教会が次々と分裂して来たことを残念に思っていました。キリスト教会は先ず東と西の東方教会と西方教会に分裂しました。そして西方教会はカトリックとプロテスタントとに分裂しました。そしてプロテスタント教会は次々に枝分かれして、今日に至っています。

 そうして最初は一つだったキリスト教会がたくさんの教派に分かれて来たことを私は残念なことだと思っていました。それは、分かれた教派間でしばしば対立や争い事が起きるからです。しかし、この3ヵ月の間、ずっと「最後の晩餐」のイエス様のことばにとどまって来たことで、たくさんの教派に枝分かれしたことは、多様な人々がイエス様につながることを助けて来たのではないかと思うようになりました。

 対立や争い事が起きるのは、悪魔がそのように仕向けるからです。その悪魔の策略に乗らなければ、多様な教会があることは、多くの人々がイエス・キリストとの出会いに導かれることにつながるので、むしろ良いことなのだと思うようになりました。

 例えばパウロの時代のコリントの教会ではパウロに付く人やアポロに付く人、ペテロに付く人との間で対立があったようです。第一コリント1章でパウロはこのように書いています。

Ⅰコリント1:12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。13 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。

 パウロだけでなく、アポロやケファもいたから、より多くのコリント人たちがイエス様を信じることができました。しかし、それを利用して悪魔は人々を対立させようとします。その悪魔の策略に乗ることなく、どの伝道者に導かれたとしても互いに愛し合ってキリストにあって一つにならなければなりません。もしアポロがパウロのコピー人間のように全く同じだったら気持ちが悪いですよね。アポロにはアポロの個性があったことで、パウロには導けなかった人でもアポロによって導かれました。そのようにしてキリスト教会は成長して来ました。たくさんの教派もパウロやアポロやケファの違いのようなものだと見るなら、互いに愛し合ってキリストにあって一つになれば良いのだと思います。

 私のキリスト教会を見る目は、この3ヵ月ほどで、こんな風に変えられて来ました。それはイエス様のみことばにとどまることで、御霊によって変えられたのではないか、そんな風に感じています。

②みことばにとどまるなら、かなえられる
 もう一度、ヨハネ15章7節をお読みします。

ヨハネ15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

 イエス様は、「何でも欲しいものを求めなさい」、「それはかなえられます」とおっしゃっています。但し、それは条件付きです。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」という条件付きです。

 これは意外と難しいかもしれませんね。ある時はとどまっていても、時々は離れてしまうこともあるかもしれません。或いは、自分ではとどまっているつもりでも、実際には離れているということもあるかもしれません。例えばパリサイ人や律法学者たちは、自分たちは神様にとどまっていると思い込んでいましたが、実際は離れていました。

 イエス様にとどまり続けることは、意外と難しいことなのかもしれません。でも、助け主の聖霊が、それを助けて下さいます。聖霊はすべてのことを教えて下さり、イエス様が話したことを思い起こさせて下さいますから、イエス様にとどまり続けることを助けて下さいます。

 また、何を欲しがって求めれば良いのかも、教えて下さるでしょう。何でもかんでも欲しがれば全部かなえられるわけではないことを、私たちはよく知っています。神様の御心にかなったものでなければ、かなえられません。では、何を欲しがればかなえられるのか?それも助け主である聖霊が教えて下さるのだと思います。イエス様にとどまり、何を求めれば良いのかを聖霊に教えていただくのが良いのでしょう。

 いま私は町内のことで具体的にかなえて欲しいことが一つあります。それは、2丁目と3丁目の間の境界の道路に「止まれ」の交通標識を復活させて欲しいということです。ここには2年前までは「止まれ」の標識があったそうですが、2年前からこの境界の道路が車両優先道路になったことで「止まれ」の標識が撤去されたのだそうですね。

 それで非常に危険になったと2丁目と3丁目の住民からの心配の声が出るようになったそうです。それで2丁目と3丁目では市に働きかけて道路に「交差点注意」などの文字を書いてもらいましたが、あまり効果はなくて、やはり「止まれ」を復活させてほしいということで、2丁目と3丁目が連名で警察に「止まれ」の標識の復活を要請する文書を提出することになりました。その文書の作成に私も一部関わりました。「止まれ」の標識が復活すれば、地域の住民の皆さんの命を守ることにつながりますから、ぜひ標識が復活して欲しいなと願い、祈っているところです。皆さんにもお祈りいただければ幸いです。

③教会の外の方々に向けたみことばが欲しい
 もう一つ、欲しいと願っているものの話をします。それは、外向けに発信する「インマヌエル静岡教会のみことば」です。そのみことばを見た人が「教会に入ってみようかな」と思っていただけるようなみことばを、皆さんと相談して決められたらと思います。そのみことばを外の掲示板やホームページやブログに掲げます。或いは伝道を再開した時のチラシに掲載します。できれば長く何年間も使えるみことばが良いと思います。そのようなみことばを皆さんと相談して決められたらと思います。

 よくあるみことばは、マタイ11:28ですね。

マタイ11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 これでも良いかもしれませんが、今の日本は何年か前までの比較的平和だった頃とは、随分と様相が変わって来ました。

 今の日本は、戦争でもないのに、いつ命を落としてもおかしくない状況になっています。温暖化によって大雨が降りやすくなり、河川の氾濫や土砂崩れによって命を落とす方々がたくさんいます。新型コロナウイルスでも亡くなった方々がたくさんいます。つい先日は俳優の千葉真一さんが亡くなられたとニュースで報じられていました。今の日本は、とても恐ろしい状況にあると感じます。

 礼拝メッセージで「最後の晩餐」のシリーズを始めてから2回目の説教では、この「最後の晩餐」の背後には、「神vs悪魔」の対決の構図が見て取れるという話をしました。それは、13章の2節という早い段階でヨハネが「悪魔」に言及しているからです。この「神vs悪魔」の対決の構図は、「最後の晩餐」だけでなくて、ヨハネの福音書全体の背後にあると言っても良いでしょう。ヨハネの福音書の1章でも5節という早い段階で、

ヨハネ1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

と書いているからです。この闇を支配しているのが悪魔です。人々は闇の中で悪魔に苦しめられています。悪魔は多様な考えを持つ人々が対立するように仕向けます。

 いまの日本や世界が、一つになって温暖化やコロナ禍の問題に立ち向かうことができていないのは、この悪魔の働きによって、日本が、そして世界が一つになれずに対立しているからではないかと感じます。

 私たちのインマヌエル教団の信仰の上流にいるジョン・ウェスレーの説教集を読むと、悪魔ということばがたくさん使われています。ウェスレーは300年前の18世紀、1700年代の人ですが、当時のイギリスでも悪魔が盛んに働いていることを感じていたのでしょう。私は神学生の時に、ウェスレーに関する授業で「ウェスレーの悪魔論」というレポートを書いて提出したことがをあります。その授業では、ウェスレーに関することなら何でも良いから調べて論じたレポートを提出するようにという課題が出ました。それで私はウェスレーの説教集を調べて、「悪魔」や「サタン」という言葉が何回使われているかをカウントしました。そうして考察を添えて「ウェスレーの悪魔論」というレポートを提出しました。

 そのように「ウェスレーの悪魔論」を書いた私から見ると、この世の背後では本当に実際に悪魔が働いていることを感じます。それはキリスト教の牧師の私でなくても、神道や仏教の神主や僧侶でも感じていることでしょう。神道や仏教でも形式は違いますが、悪霊払いの儀式がありますから、この世の背後で悪霊が働いていることを感じているのでしょう。悪魔は、その悪霊たちの親分です。

 この悪魔の働きは巧妙ですから、神様に守られているクリスチャンでも、簡単に引っ掛かってしまいます。そうして私たちクリスチャンであっても悪魔の働きに加担してしまう場合が少なくありません。でもイエス様が守って下さいますから、まだ傷は浅いと言えるでしょう。それに対して、イエス様とつながっていない方々は、まったくの無防備です。そうして悪魔の策略に翻弄されて疲弊してしまいます。私たちは、その教会の外にいる方々を教会にお招きして、イエス様の下で守られるようにして差し上げたいと思います。

 そのために、教会に入りやすいようなみことばが与えられるように求めたいと思います。祈りつつ、皆さんと相談して決めて、外の掲示板やホームページ、ブログやチラシに掲げたいと思います。

おわりに
 最後にもう一度、15章7節をお読みします。

ヨハネ15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

 私たちはイエス様にとどまらなければなりません。コロナ禍で教会に集っての礼拝はできませんが、それぞれの場所において「最後の晩餐」のテーブルに集って一つになることが許されていますから、感謝に思います。

 しかしながら、教会の外にはまだイエス様とつながっておらずに闇の中で悪魔に翻弄されて疲れている方々がたくさんいます。そのような方々が「教会に入ってみようかな」と思っていただけるような、みことばが与えられるように祈りたいと思います。戦争でもないのに温暖化やコロナ禍で命の危険にさらされている方々がイエス様と出会い、イエス様とつながり、とどまり、平安を得ていただきたいと思います。

 そのためのみことばが与えられますように、祈りたいと思います。
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わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です(2021.8.15 礼拝)

2021-08-16 10:31:29 | 礼拝メッセージ
2021年8月15日礼拝メッセージ
『わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です』
【ヨハネ15:1~6、Ⅰペテロ3:18~21】

はじめに
 きょうは「終戦の日」です。この礼拝が終わった後の12時には、それぞれの場所で1分間黙祷して、私たちの主イエス・キリストに平和のための祈りをささげたいと思います。

 きょうはこの講壇に、私が高津教会の信徒だった時に使っていた第2版の聖書を持って来ました。この聖書を私は高津教会に通い始めた2001年から聖宣神学院に入学した2008年まで使っていました。

 この聖書の表紙をめくった所に、買った時の日付と書店の名前が書いてあって、「2001年8月15日 吉見書店」と書いてあります。ちょうど20年前のきょう、当時まだ七間町通りにあった吉見書店でこの聖書を買いました。

 私が初めて高津教会を訪れたのは8月12日で、その時に藤本満先生のガラテヤ書の講解説教を聞いて来週もまた教会に来ようと思いました。そうしてお盆で静岡に帰省した時に吉見書店でこの聖書を買って、次の8月19日の聖日はこの聖書を持って高津教会の礼拝に参加しました。8月15日に買ったのは偶然で、「終戦の日」だから聖書を買おうという意識は持っていなかったと思います。でも、この聖書に記された8月15日という日付を見ると、やっぱり私は「平和を告げ知らせる」ために召し出されたのだな、という思いを新たにしています(注:イザヤ52:7が召命の聖句)。

 さて、きょうの中心聖句はヨハネ15章5節の、

ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

です。そして、この5節の次の6節でイエス様は、

6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

とおっしゃっています。では、この世でイエス様の福音を聞くチャンスが無かった人たちはどうなってしまうのでしょうか?例えば広島と長崎では原爆によって多くの一般市民が亡くなりました。また、焼夷弾による空襲で亡くなった方々もたくさんいます。静岡でも空襲がありました。空襲や原爆で亡くなられた方々の大半は、イエス様の福音を聞いたことがなかった方々でしょう。それらの方々の霊はどうなったのでしょうか?きょうは3番目のパートで第一ペテロを引用しながら、そのことを話します。それゆえ、きょうの聖書交読の箇所を第一ペテロとしました。この三つめのパートは三日前の木曜日の祈り会で話したことと重複しますが、多くの皆さんと分かち合いたいと思いますから、ご容赦下さい。

 きょうは次の三つのパートで話を進めて行きます。

 ①聖書のみことばのぶどうの木に枝としてつながる
 ②つながらないまま戦災・災害・事故で亡くなった人々
 ③死者にも福音を宣べ伝えるキリスト(第一ペテロ)

①聖書のみことばのぶどうの木に枝としてつながる
 「最後の晩餐」でのイエス様のことばに耳を傾けるシリーズは6月の第一聖日に始めました。ヨハネの福音書のイエス様は表現を少しずつ変えながら、同じようなことを繰り返しています。互いに愛し合うべきこと、父と子が遣わす助け主の聖霊がすべてを教えて下さること、父と子は一つであること、その父と子の交わりに私たちも御霊を通して入るべきこと、などなどです。

 同じようなことが繰り返されていますから「飽き」を感じている方もいるかもしれません。でも、聖書のみことばは何度も繰り返し味わうことで、じわじわと魂の深い所にしみ込んで来ます。最初は心の表面にとどまるだけですが、繰り返し味わっているうちに心の奥深い領域へとみことばがしみ込んでいくことを感じます。そのスピードは、静岡おでんのつゆが卵や大根にしみ込むスピードよりも、もっとずっと遅いです。一晩や二晩でしみ込むようなものではありません。ですから、時間を掛けてじっくりと魂にしみ込ませていきたいと思います。そういうわけで、きょうから15章に進んで、さらに「最後の晩餐」でのイエス様のことばに耳を傾けたいと思います。

 まず15章1節をお読みします。

ヨハネ15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

 イエス様はご自身のことを「わたしはまことのぶどうの木」であるとおっしゃっています。さらに5節でもう一度、「わたしはぶどうの木」であるとおっしゃっています。そして私たちはその「枝」として、ぶどうの木であるイエス様とつながっています。

 ヨハネの福音書のイエス様は、「わたしはいのちのパンです」(6:48)とおっしゃり、また「わたしは世の光です」(8:12)、「わたしは門です」(10:9)、「わたしは良い牧者です」(10:14)、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(14:6)とおっしゃり、そうして「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(15:5)とおっしゃいました。

 この、「わたしは何々です」の「何々」は多様ですから、一見すると少しバラバラな感じがします。でも、これらの「わたしは何々です」の上にはすべてヨハネの福音書の冒頭の1章1節のみことばが係っていると見ることができます。1章1節とは、有名な

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

です。つまりイエス様はことばであり、父なる神と共にいる神の子です。この1章1節が「わたしはぶどうの木です」に係っているという目で見るなら、「ぶどうの木」とは「みことば」であり、私たちはその「ぶどうの木」という「みことば」につながっている枝です。

 イエス様は4節で弟子たちに「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」とおっしゃいました。私たちはみことばにとどまります。そして、みことばも私たちの中にとどまります。わたしたちはみことばにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。この実とは、「御霊の実」と説明されることが多いと思います。ガラテヤ書にあるように、

ガラテヤ5:22-23 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制

です。このように、私たちはイエス様を信じて御霊を受けて、みことばにとどまっているなら、御霊の実を結びます。でも、とどまっていないなら6節にあるように、投げ捨てられて枯れます。そして、人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまうとイエス様はおっしゃいました。

②つながらないまま戦災・災害・事故で亡くなった人々
 イエス様は4節で、「わたしにとどまりなさい」とおっしゃいました。でも、イエス様の福音に触れるチャンスが無かった人々はどうなるのでしょうか?特に、平均寿命まで生きることなく、若くして事故や災害で亡くなった人はどうなるのでしょうか?その人の魂は滅びるのでしょうか?事故や災害に遭わずに生きていればイエス様の福音に触れる可能性があったのに、ある日突然に事故や災害で死ななければならなかった人々の魂はどうなるのでしょうか?

 1985年の8月12日、日航ジャンボ機が墜落して520名もの方々が亡くなりました。私はあの日、最初にニュースを聞いた時のことを今でもよく覚えています。この事故で亡くなった方々の魂はどうなったのでしょうか?

 きょうは8月15日の終戦の日です。先の大戦では、戦地だけでなく日本国内でも多くの方々が亡くなりました。大都市だけでなく中小の都市のほとんどが空襲に遭い、静岡でも空襲がありました。私は子供の頃に、母から静岡で空襲があった日のことを、よく聞かされました。広島と長崎には原爆が投下されました。原爆からの直接の放射線や熱線、爆風を免れても、その後に降った黒い雨や残留放射線によって亡くなった方々も、たくさんいます。これらの方々の多くがイエス・キリストの福音を知らずに亡くなりました。

 また、9月1日には関東大震災がありました。1月17日には阪神・淡路大震災がありました。3月11日には東日本大震災がありました。4月14日と16日には熊本地震がありました。この他にも多くの地震があり、倒壊した家屋の下敷きになって亡くなった方々、地震の後で発生した火災によって焼死した方々、津波によって溺死した方々がたくさんいます。これらの方々の大半も、イエス・キリストの福音を知らないままで亡くなりました。

 或いはまた、台風や大雨による洪水、土砂崩れによって亡くなる方々もたくさんいます。熱海の土石流でも多くの方々が亡くなりました。先週から今週に掛けて日本列島に停滞している前線が大雨を降らせて、いま全国各地で洪水や土砂崩れの被害が出ていて、この数日間だけでも、亡くなった方々がいます。温暖化によって、今後ますます台風や大雨で亡くなる方々が増えていくことが予想されます。また温暖化によって猛暑になる日も増えていますから、熱中症で命を落とす方々もおられます。

 さらには、新型コロナウイルスの感染によって、命を落とす方々もいます。これらの方々の多くが、ぶどうの木であるイエス様につながることができないまま、亡くなりました。

 これらの、イエス様の福音を耳にする機会がないまま平均寿命まで生きられずに、亡くなられた方々の魂は一体どうなるのでしょうか?私はこれまでずっとモヤモヤしていました。

 これは考えれば考えるほど、モヤモヤする問題です。というのは、イエス様を信じないで亡くなった方々にも、いろいろな方がいるからです。本当にぜんぜん聖書の話を聞いたことがない方々がいます。一方、その逆に聖書の話をたくさん聞いたけれど、結局信じなかったという方々もいます。例えば、英和や雙葉の生徒さんたちなどは聖書の話をたくさん聞きます。

 聖書の話を聞いたことがある人とない人が同じようにさばかれるのは不公平な感じがします。田舎で生まれた人と都会で生まれた人とでも、聖書の話に触れる機会がぜんぜん違うでしょう。クリスチャンの家庭で生まれ育った人とそうでない家庭で生まれ育った人とでも、ぜんぜん違います。それらの人々が同じように、一様にさばかれるのは、どう考えても不公平です。聖書の話を聞くチャンスがまったく無いままに亡くなった方があまりに気の毒です。

 すると、公平にするには、聖書の話をたくさん聞いたけれども結局は信じなかった人を厳しくさばくことになるのでしょうか?でも、もしそんなことになるなら、かえって伝道しなかったほうが良かった、などという話にもなりかねませんね。そんな筈はありませんよね。ですから、これは考えれば考えるほどモヤモヤする問題です。

 しかし、実は聖書にはそのことに関する答がちゃんと書いてあります。私が知らなかっただけです。でも、いちおう神学校を卒業した私が知らなかったということは、これまであまり語られて来なかった、ということです。次の3番目のパートに進んで、次にその話をします。

③死者にも福音を宣べ伝えるキリスト(第一ペテロ)
 ここから先は、3日前の木曜日の祈り会で話したことと重複する部分が多いですが、ご容赦下さい。

 祈り会では、今月からペテロの手紙第一を開いています。今年の5月から7月に掛けての8週間、インマヌエルのeラーニングでペテロの手紙第一を学んで、私は大きな感動を覚えましたから、その感動を分かち合いたいと思いました。

 講師は石田学先生でした。石田先生は日本ナザレン教団の牧師であるとともにナザレン神学校の校長、また日本聖書協会の理事長も務めておられます。私にとっては、フスト・ゴンザレスの『キリスト教史』を日本語に訳した先生です。神学生の時、私たち神学生は皆、この石田先生が訳したフスト・ゴンザレスの『キリスト教史』を競い合うようにして夢中になって読みました。

 この石田先生が講師を務めたペテロの手紙第一のeラーニングでは、私は特に3章18節から21節に大きな感動を覚えました。そして、イエス様の福音を知らずに亡くなった方々の魂はどうなるのか?というモヤモヤが解消しました。第一ペテロ3章18節から見て行きます(新約p.469)。

Ⅰペテロ3:18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。

 キリストは十字架に付けられて肉においては死に渡され、霊においては生かされました。それは、私たちを神に導くためでした。ここにある「あなたがた」とは、この手紙の宛先のポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの地域の人々であると同時に、日本の私たちのことでもあります。この地域は今のトルコの北部にあり、周囲にクリスチャンがほとんどいなかった地の果てのような地域でした。それは、日本も同じですね。エルサレムから見れば日本は正に地の果てであり、私たちの周囲にクリスチャンはほとんどいません。つまり私たちは少数者、マイノリティです。

 講師の石田先生は、このペテロの手紙第一を「少数者・マイノリティ」の観点から読みたいと強調しておられました。そのことで、次の19節、20節、21節から素晴らしい感動が得られます。まず19節、

19 その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。

 捕らわれている霊たちのところとは、神を信じなかった者たちの霊が捕らわれている陰府(よみ)です。キリストは陰府に下って神を信じなかった人々に宣教しました。新改訳聖書の2017年版では「宣言されました」となっていますが、下の脚注を見ると別訳として、「宣べ伝えられました」とあります。第3版では「みことばを語られた」となっていました。新改訳第3版で、19節をお読みします。

19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。(第3版)

 キリストがみことばを語った「捕らわれの霊たち」とは、例えばノアの時代に洪水で流されてしまった人たちの霊です。20節、

20 かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。

 ノアの時代の人々は神様から離れていたために洪水で流されてしまいました。キリストは、そうして洪水で流されて死んだ人たちの霊にみことばを語られました。それは、その人たちの霊を神に導くためです。肉体は水に流されましたが、霊は捕らわれて陰府にありました。キリストはそこに行って、捕らわれている霊にみことばを語り、神に導きました。

 そして、それはノアの時代に神から離れていた人々の霊だけが対象ではありません。どの時代に生きていた人々であっても、神から離れたままで死んだ人々の霊に対して、キリストはみことばを語ります。なぜなら21節に次のように書かれているからです。

21 この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。

 イエス・キリストは聖霊のバプテスマをお授けになる方です。聖霊のバプテスマはイエス・キリストを信じる者なら誰にでも授けられます。ですから、それは旧約の時代の人々も新約の時代の人々も問わないことを21節は示唆しています。ノアの時代の人々だけでなく、創世記やモーセ・ヨシュアの時代、士師記やサムエル記、列王記の時代に神から離れていた人々に対しても、キリストは陰府でみことばを語りました。そして、それは1世紀のペテロの手紙の時代の人々にも、21世紀の私たちの家族や周囲の人々にも及びます。私たちの家族や周囲の方々の多くがイエス様の福音になかなか耳を傾けようとしません。そうして、イエス様の福音を知らないまま亡くなることも少なくありません。しかし、イエス様はそのようにして死んだ人々のところにも行って、みことばを語るのだと、この第一ペテロは書いています。

 1世紀はまだクリスチャンが迫害されていた時代ですから、表立っての伝道はなかなかできませんでした。エルサレムやアンティオキアでさえ、そのような状況ではクリスチャンは少数者でした。ましてポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの地域ではクリスチャンは少数者中の少数者です。それゆえ、人々の大半はイエス・キリストの福音を聞くこと無しに死んで行きました。そのことに、この地域のクリスチャンはとても心を痛めていたことでしょう。その人々にとって、このペテロの手紙第一が説く、キリストが死者のところにも行って福音を宣べ伝えるという教えは、どんなに大きな慰めになったことでしょうか。

 その1世紀のクリスチャンの心の痛みを私たち21世紀の日本のクリスチャンも共有しています。私たちの家族や周囲の人々の多くがイエス様の福音に耳を傾けることなしに、亡くなって行きます。私たちが語ろうとしても、スルーします。家族だけでなく、地震や台風などの自然災害や事故、戦争によっても多くの方々がイエス様の福音を知らないままで亡くなって行きます。そのことは私たちにとって、とても心が痛むことです。でも、ペテロの手紙第一は、キリストが死者の霊にもみことばを語ると書いています。素晴らしい恵みだと思います。このことを知って私は、本当に感動しました。

 但し、注意しなければいけないのは、「全員が救われる」とは書かれていないことです。陰府でキリストが語るみことばを聞いても、相変わらず耳を傾けない者もいるかもしれません。でも、「死」という厳粛な門をくぐり、天の御国には行けずに陰府で捕らわれている霊であるなら、地上にいた時よりもずっとキリストの語るみことばに耳を傾けやすいでしょう。これは私たちにとっては大きな希望であり、慰めだと思います。

おわりに
 イエス様はおっしゃいました。

ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 イエス様がこうおっしゃっていますから、私たちはイエス様の証人となって、多くの方々がイエス様とつながることができるようにと伝道します。しかし、力及ばずにがっかりすることの連続です。でも、たとえ私たちの力が及ばなくても、あとはイエス様にお任せすれば良いのですね。イエス様は死者の霊にも福音を語って下さいます。それほどまでに神様の愛は大きいのですね。この圧倒的な愛を私たちに注ぎ、そして信じない方々にも注いで下さる神様に私たちは心一杯感謝して、賛美したいと思います。

 神様はこんなにも愛に溢れたお方です。その神様を賛美して、御霊と真理によって礼拝をささげたいと思います(ヨハネ4:24)。このことが、地域の方々にとっても良い証しになると思います。

 今はコロナ禍で礼拝もこのようにリモートでしかささげられませんが、今の第5波の高い波が低くなれば、また会堂に集ることができますから、御霊と真理による礼拝をささげて行きましょう。

 お祈りいたします。

ヨハネ15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

Ⅰペテロ3:19 キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。(第3版)
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わたしの平安を与えます(2021.8.8 礼拝)

2021-08-10 12:57:43 | 礼拝メッセージ
2021年8月8日礼拝メッセージ
『わたしの平安(平和)を与えます』
【ヨハネの福音書14:25~31】

はじめに
 例年の夏ですと、8月になれば広島・長崎に心が向き、1945年の8月6日と9日に投下された原爆によって起きた悲劇に心を痛めて、平和のために祈って来ました。しかし、今年の夏はだいぶ様相が異なります。東京を中心にした一都三県ではコロナ禍の第5波によって感染者が急激に増大して、その波は静岡をも飲み込もうとしています。身近に迫っている危険を前にして、なかなか広島・長崎に心が向かないことを感じています。このようなコロナ禍の中でオリンピックが開催されていて、日本全体が騒然とした雰囲気の中にあって穏やかではいられないことも関係しているでしょう。

 やはり平和への静かな祈りは、自分がある程度は平安・平穏な中にいないと、できないことなのだなと感じています。とすると、私もイエス様が与えて下さる平安の中にまだまだどっぷりと浸かることができていないようです。

 イエス様は27節で

27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

とおっしゃっています。この27節が、きょうの中心聖句です。私たちはイエス様が与えて下さる平安の中にどっぷりと浸かりたいと思います。世の中がどんなに騒然としていても、心を騒がせることなく、心の平安を保っていたいと思います。そうして、この世がもっと平和になるように、祈りたいと思います。

 では、このイエス様が与えて下さる平安とはどのような平安なのでしょうか?そのことを、きょうは次の三つのポイントで見て行きたいと思います(週報p.2)。

 ①すべてのことを教えて下さる助け主の聖霊
 ②世が与える平安(平和)は長続きしない
 ③十字架の光の下に錨が下ろされて永遠に生きる

①すべてのことを教えて下さる助け主の聖霊
 最初のポイントに入ります。27節の中心聖句を見る前に25節と26節を見ておきます。まず25節、

ヨハネ14:25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。

 いまイエス様は「最後の晩餐」の場で、弟子たちに最後の教えを説いています。これまでイエス様は弟子たちと一緒にいて、様々なことを教えて来ましたが、この最後の晩餐を終えると十字架に掛かって死にます。その三日目によみがえって弟子たちの前に再び現れますが、それも一時的なことで、やがてイエス様は天に昇って行ってしまいます。しかし26節、

26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 イエス様は弟子たちのもとを去って天に帰りますが、代わりに天から聖霊を遣わします。この26節ではイエス様ではなくて「父」が聖霊を遣わすとイエス様はおっしゃっていますが、父と子は一つですから、同じことです。15章の26節を見ていただくとイエス様は「わたしが父のもとから遣わす助け主」とおっしゃっています。15章26節をお読みします。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

 父と子は一つですから、聖霊は「父と子」が地上の弟子たちに、そして私たちに遣わされます。この聖霊は、少し前の礼拝メッセージで見た14章の16節にあるように、「もう一人の助け主」です。14章16節、

14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

 この16節を開いた時のメッセージでは、もともとの助け主はイエス様で、聖霊は「もう一人の助け主」だと話しました。イエス様は旧約の時代には天におられましたが、助け主として地上に遣わされて弱い人々を助け、また人々が天の父について知ることを助けました。そうして、もともとの助け主のイエス様が天に帰るのと入れ替わる形で「もう一人の助け主」の聖霊が天から遣わされて、すべてのことを教えて下さいます。

 ここで先回りして28節を見ておきます。28節、

14:28 『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

 聖霊が私たちの内に入って下さると、私たちは聖霊を通して天の父とイエス様から助言を受けることができます。目の前に困難がある時、どうすることが最善なのか、天の父とイエス様は助け主の聖霊を通して助言して下さいます。イエス様が地上にいて助言をして下さることもすごい恵みですが、イエス様が偉大な父とともに天にいて、天から聖霊を通して助言をして下さることは、もっとすごい恵みです。なぜなら地上のイエス様から助言をいただくことができたのは2千年前のガリラヤとユダヤという限られた時代の限られた地域の人々だけだったからです。しかし、イエス様が天にいれば、どの時代にどの地域にいても、助言を受けることができます。しかもそれは天の父とイエス様の助言ですから、これほど心強いことはありません。そうして私たちは聖霊を通して天の父とイエス様とつながっていることができますから、平安にどっぷりと浸かっていられます。但し、「どの地域にいても」とは言うものの、それは福音が宣べ伝えられた地域に限られますから、イエス様は地の果てまで宣教するようにとおっしゃったのですね。

②世が与える平安(平和)は長続きしない
 27節をお読みします。

27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 ここで新改訳聖書は「平安」という訳語を使っていますが、新共同訳と聖書協会共同訳(新共同訳の次のバージョン)では「平和」と訳していますから、併記しておきました。新改訳聖書はギリシャ語の「エイレーネー」を「平安」と訳したり「平和」と訳したり、その場その場で使い分けています。一方、聖書協会共同訳は「平和」でほぼ統一されています。私は個人的には「平和」で統一してもらったほうがありがたいと思っています。それで「平和」も併記しておきました。

 さてイエス様は、「わたしの平安を与えます」とおっしゃいました。そして、「わたしは、世が与えるのと同じようには与えません」とおっしゃいました。世が与える平安とは、どのような平安なのでしょうか。2番目のポイントでは、この世が与える平安について、考えてみたいと思います。

 世が与える平安とは表題にも記したように、「長続きしない平安」だと言えるのではないかと思います。イエス様はサマリアの女におっしゃいましたね。(週報p.2)ヨハネ4章の13節と14節です。

ヨハネ4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 今の夏の時期、私は安倍川の河川敷を走る時には必ずスポーツドリンクを入れたペットボトルを持って走ります。脱水状態になって熱中症になると大変ですから、途中で途中でこまめに水分を補給します。命に関わることですから、少しでも渇きを感じたら飲むようにしています。でも、飲んでもすぐにまた渇きます。このように、世が与える平安とは長続きしない平安です。とは言え、たとえ長続きしない平安であっても、生きて行くためには必要な平安です。

 人生には苦しいことが多いですから、生きていくためには楽しいことも必要です。東京オリンピックのマラソンでは選手たちが札幌の街を走っていましたね。北大のキャンパスの中も走るというので懐かしくて昨日は私も女子マラソンを朝6時からしっかりと観戦しました。札幌の人たちはジンギスカンが大好きです。ジンギスカンとは羊の肉を焼いて食べることです。気軽に七輪を外に持ち出してジンギスカンを始めます。今は禁止されていますが、北大のキャンパスの中でも夕刻になるとあちこちでジンギスカンをしている学生たちがいました。大体が研究室の大学院生たちです。研究生活はなかなか思うような成果が出なくて苦しいことが多いです。でも、ジンギスカンのような楽しいことがあるから、続けて行けるのですね。

 3年前の9月に、北海道で大きな地震があって発電所が止まり、道内のすべての地域が長時間に亘って停電するという事故がありましたね。その停電で皆が不安の中にいる時、不安になってばかりいても仕方がないということで、札幌の一部の人たちはジンギスカンをして楽しんでいたということです。さすがだなと思いました。不安の中にいる時には楽しいことを求めることも大切なことだと思います。楽しいことがあると不安が消えて心が平安になります。でも、このような平安は一時的なものに過ぎません。しかし、イエス様が与えて下さる平安は、永続する平安です。

③十字架の光の下に錨が下ろされて永遠に生きる
 もう一度、ヨハネ14章27節と、ヨハネ4章13節と14節とをお読みします。

14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。

ヨハネ4:13 「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 世が与える平安はすぐにまた渇く平安であり、イエス様が与えて下さる平安は永遠のいのちにつながる永続する平安です。この、永遠のいのちにつながる永続する平安の感覚を私が初めて感じたのは、札幌においてでしたから、ここでは、その証しをさせていただきます。

 きのうときょうの朝に札幌で行われたオリンピックのマラソンは、北大構内を3回通るというコースでした。学生時代を過ごしたキャンパスをテレビで見ていて私は懐かしくてたまらなくなりました。この北大のキャンパスで私は18歳の時から28歳の時までを過ごしました。学部生として5年間(1年留年)、大学院生として5年の計10年間を過ごしました。そして、札幌を離れてからも私は毎年のように札幌に遊びに行き、学生時代を懐かしんでいました。

 今から考えると、教会に通うようになる前の私にとっては、毎年札幌に遊びに行くことが、一番の心の癒しになっていたように思います。もちろん、それはすぐにまた渇く一時的な癒しでしかありませんでしたが、札幌に行って学生時代を懐かしむ時、とても心が癒されました。ただ、毎年行く度に段々と切ない気持ちも感じるようになって行きました。毎年札幌に行く度に楽しかった学生時代が一年ずつ昔へと遠ざかって行きます。そうして札幌に行く度に遠ざかって行く学生時代を懐かしむという形で時の流れを感じるようになり、この時の流れに流されながら、自分は一体どこに向かって行くのだろうか?と思うようになりました。そうして、時の流れに流されて漂流している感覚を覚えて不安になりました。教会に導かれる前の私がいつも抱えていた漠然とした不安は、ここに起因していたようです。海を行く船がエンジンの故障などの事故で動力を失うと、漂流を始めます。漂流を始めるとどこに流されて行くのか、とても不安になるだろうと思います。そのような不安を私はいつも抱えるようになりました。

 そうして不安の中にいた私は、自分には何か芯になるものが必要だと思うようになりました。何とかして、この漠然とした不安感から脱したいと思って、いろいろな本を読むようになりました。剣道をしていましたから、剣豪の小説なども結構読みました。ウォルター・ワンゲリンの小説『聖書』がベストセラーになっていた時には、この小説の「旧約篇」と「新約篇」の両方を買って読みましたが、その時には心に響くものはありませんでした。或いはまた、宮崎駿のアニメ映画の『もののけ姫』がヒットしていた時には、「シシ神」という神が登場するというのを新聞か何かで読んで、そういう神が心の芯になってくれるかもしれないと期待して観に行ったりもしました。アニメ自体は面白かったですが、このアニメのシシ神は期待していた神とは大きく異なりましたから、ひどくガッカリもしました。

 しかし、父が死んだことをきっかけにして教会に導かれて、既に話したように自分をそれまで守ってくれていたのが聖書の神様であったことを知って大きな平安を得ました。そのことによって、私の心の中に芯が与えられて、つきまとわれていた不安感もなくなりました。

 その不安感がすっかり無くなっていたことにハッキリと気付いたのが、洗礼を受けた後で初めて行った札幌においてでした。その時、札幌に行ったのは何年かぶりでした。教会に通うようになる2年ぐらい前から私は韓国にはまっていましたから、韓国によく行くようになっていて、札幌には行かなくなっていました。

 そうして洗礼を受けてから2~3年後ぐらいに学会で札幌に行きました。ですから札幌に行ったのは4~5年ぶりぐらいではなかったかと思います。その時に札幌で、学生時代を以前のようには遠くに感じていないことに気付きました。それまでは、毎年札幌に行く度に学生時代が遠ざかって行くことを寂しく思っていました。でも、洗礼を受けた後に札幌に行った時には学生時代を遠くには感じませんでした。それは100年以上前のクラーク先生のことを、とても近くに感じたからです。学生時代はクラーク先生がいた100年前のことを私は大昔のことと感じていました。でも、教会に通うようになって2千年前のイエス様のことを身近に感じるようになっていましたから、100年前のクラーク先生はぜんぜん昔ではなくなりました。まして学生時代のことなど、つい最近のことでした。

 こうして私は、イエス様を信じて御霊を受けたことで、時間の流れの漂流感から解放されました。御霊を受ける前は毎年毎年学生時代がどんどん遠ざかっていましたが、御霊を受けてからは遠ざからなくなりました。そして、やがて迎える肉体の死の時がどんどん近づいて来ていることにも、それほど不安には思っていません。もし、教会に導かれることなく時間の流れに流されるままになっていたなら、60歳を越えた今は将来の死のことで、とても不安になっていただろうと思います。罪の闇の中でどこに向かって行くのか分からずに、ただただ不安に怯えていたことでしょう。

 しかし、イエス様を信じて御霊が注がれて永遠の命が与えられるなら、将来の「死」へと向かって行く時間の流れから救い出されます。そのことによって不安からも救われて心の平安が得られます。

 イエス様を信じる前の人は、私の経験によれば、暗い海の中を漂流する船に乗っている人のようなものです。暗いのでどこへ向かっているのか分かりませんが、一つだけ分かっていることは、いつかは必ず死ぬということです。でも、イエス様を信じるなら、十字架の光の下に錨が下ろされて、罪の暗闇の不安からも、死へと向かう漂流の不安からも救い出されます。

 これがイエス様が与えて下さる平安であると、札幌での経験を通して、イエス様は私に教えて下さいました。

おわりに
 最後に、もう一度、ヨハネ14章27節と、ヨハネ4章13節と14節とをお読みします。

14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。

ヨハネ4:13 「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 いま、世の人々の多くは互いに愛し合うことなく、互いにののしり合っています。コロナ対策を巡って、或いはオリンピックを巡って、人々はののしり合っています。それはやはり、皆が不安の中にあるからですね。不安の中にあると心の平静を失ってののしり合います。

 約80年前にアメリカが原爆の開発を本格的に始めたのは、ドイツが先に原爆の製造に成功したら大変なことになるという不安からでした。でも結局、当時のドイツの国力では原爆を作ることはできませんでした。日本も原爆の開発に取り組みましたが、ぜんぜん無理でした。しかし、アメリカは莫大な予算を投入して、また何万人もの科学者と技術者を投入して、悪魔の兵器を作り上げてしまいました。そして、この核兵器製造の技術はスパイによってソ連に流出して、その他の国々にも拡散して行きました。

 不安が暴走すると、このような悲劇がもたらされます。ですから私たちは、コロナへの不安で世の中が騒然としている今こそ、イエス様が与えて下さる平安の中にとどまっていたいと思います。そうして、世が与えるのとは違う、イエス様が与えて下さる平安を証して行きたいと思います。不安で騒然としている世に向けて、イエス様の平安を証して行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。
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わたしたち(父と子)はその人とともに住みます(2021.8.1 礼拝)

2021-08-02 13:30:38 | 礼拝メッセージ
2021年8月1日礼拝メッセージ
『わたしたち(父と子)はその人とともに住みます』
【ヨハネ14:21~24】

はじめに
 ヨハネの福音書の「最後の晩餐」でのイエス様のことばに今日も耳を傾けたいと思います。教会から一歩外へ出れば、世は騒然としています。コロナの感染拡大が続いている中でオリンピックが開催されたことで、世の人々はお祭り気分になり、もはや自粛を呼び掛けるだけではコントロールが利かなくなっています。

 報道によれば昨日の東京での新規感染者数は4千人を超えました。コロナウイルスに感染しても症状が現れない人も多く、また現れる場合でも潜伏期間があって発症まで数日間は掛かりますから、PCR検査の結果は概ね1週間前の状況を反映していると言われています。ということは、現在の新規感染者数は4千人よりもっと多いということになります。しかも、これはあまり報道されていませんが、東京でのPCR検査の検査数はずっと1万件弱の日が続いています。1万人検査して4千人が陽性だと、ものすごい陽性率です。もっと検査数を増やせば、きっと1万人を超える人々が陽性になることだろうと思います。

 このような状況で、いま日本はオリンピックとコロナ感染で騒然としています。オリンピック賛成の人々と反対の人々とがネット上でののしり合うような状況も続いています。

 皆が互いに愛し合わなければ、困難を乗り越えて行くことはできません。イエス様の戒めのことばの「互いに愛し合いなさい」が広く浸透する世の中になって欲しいと強く願います。このことを思いながら、きょうもイエス様の「最後の晩餐」のことばに耳を傾けたいと思います。

 今の騒然とした日本とは全く対照的に、「最後の晩餐」が持たれている部屋は、恵みと平安に満ちています。この時の弟子たちの間には、イエス様がこれから少しの間いなくなるとおっしゃったことで動揺が見られます。弟子たちはこれから何が起きるかが分かっていなかったからです。しかし、読者の私たちには分かっています。この後、イエス様は十字架に掛けられて死に、三日目に復活して天に昇った後に弟子たちに聖霊が注がれました。聖霊の恵みは21世紀の現代の私たちにも注がれています。その聖霊の助けによって、私たちは「最後の晩餐」のイエス様のことばを、この場にいた時の弟子たちよりもよく理解できます。私たちはこのイエス様のことばを聞き漏らすことなく、しっかりと心の内に刻み込みたいと思います。そうして、騒然とした世の中に向けてイエス様が与えて下さる平安をお伝えできる者にしていただきたいと思います。

 きょうの中心聖句はヨハネ14:23の「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」です。きょうは次の三つのポイントで話を進めます(週報p.2)。

 ①互いに愛し合う交わりの中に現れるイエス
 ②父・子・聖霊が内に住む二倍・三倍の平安
 ③父と子との交わりの中に全身全霊を委ねる

①互いに愛し合う交わりの中に現れるイエス
 ヨハネ14章21節をお読みします。

ヨハネ14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。

 この21節の最後でイエス様は、「わたし自身をその人に現します」とおっしゃいました。どのような人にイエス様は現れるかというと、それはこの節の最初にあるようにイエス様の戒めを保つ人です。イエス様の戒めとは「互いに愛し合いなさい」ですから、互いに愛し合う人々に、イエス様は現れて下さいます。これは、よく分かりますね。

 自分中心でいると、なかなか人を愛せません。互いに愛し合うためには多少なりとも自分中心の罪からきよめられる必要があります。そうして互いに愛し合うために少しでもきよめられるなら、その分だけ少しイエス様が見えるようになります。マタイ5:8でイエス様はおっしゃいました。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 イエス様の戒めを守ろうと思って自分中心を少し改めて少し隣人の方を見るようになるなら、それはイエス様を愛しているということです。イエス様を愛している人はイエス様の戒めを守って互いに愛し合えるように、きよめられることを願います。そのような人にイエス様はその人に現れて下さいます。そして、そのことで、もっとイエス様をはっきりと見たいと願うようになり、もっと隣人を愛したいと願って、きよめられていくという好循環が生まれます。

 いま日本ではオリンピック賛成の人と反対の人とが互いに愛し合うことなく、互いにののしり合っています。互いにののしり合うだけでは事態はなかなか改善しません。異なる意見同士でも互いに愛し合って困難を乗り越えなければなりません。その意味でも、イエス様の「互いに愛し合いなさい」という戒めを私たちはお伝えして行かなければならないと思います。そのために、まず私たちが互いに愛し合う者たちでありたいと思います。イエス様はすべての人を愛しておられますから、イエス様に似た者へと変えられたいと思います。

②父・子・聖霊が内に住む二倍・三倍の平安
 22節をお読みします。

22 イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」

 弟子たちのことばを読む時には注意が必要です。なぜなら弟子たちは正しいことを言っていない場合が多いからです。このユダのことばも正確ではありません。ユダはイエス様が世にご自分を現わそうとしないと言っていますが、イエス様はいろいろな機会に世にご自分を現わしています。しかし、世の人々の多くはイエス様を信じませんでしたから、イエス様が神の子キリストであるとは分かっていませんでした。イエス様はそのことを再三再四世の人々に語っていましたが、人々はそれをまともには聞いていませんでしたから、世に現れていないのと同じことでした。

 芸術家や科学者でも、生前はほとんど評価されずにいて、死んだ後になってから評価が上がった人々がいますね。そのような芸術家の作品や科学者の論文は、生前からちゃんと世に出ていたのですが、評価されないで無視同然になっていたなら、世に現れていなかったのと同じことになります。

 例えば、画家のゴッホの作品は生前にはほとんど評価されなかったそうですね。週報p.3にゴッホのひまわりの絵を貼り付けておきました。或いはまた、『雨ニモマケズ』で有名な宮沢賢治の作品も、生前にはほとんど評価されなかったそうです。『よだかの星』や『セロ弾きのゴーシュ』、『銀河鉄道の夜』のような素晴らしい作品を書いた宮沢賢治がどうして生前に評価されなかったのか、とても不思議な気がしますが、それまでに無い独特の世界観を持つ人の作品というのは、理解されるのに時間が掛かるのでしょう。賢治の作品が埋もれたままにならなくて、本当に良かったと思います。

 ゴッホや宮沢賢治の作品に素朴な味があって人の心を捉えるのは、評価されなかったからなのかもしれませんね。名声を得てチヤホヤされることがなかったから浮足立つことなく、真摯に作品作りに取り組むことができたということなのかもしれませんね。

 いま私たちがワクチン接種でお世話になっているファイザーとモデルナのワクチンにはメッセンジャーRNAという遺伝物質が使われています。このメッセンジャーRNAは壊れやすいのでワクチンに用いるのは難しいと研究者の間では考えられていたそうですが、それを克服する技術を開発したのがハンガリー出身の科学者のカタリン・カリコ博士です。彼女は今、ものすごく脚光を浴びていてノーベル賞候補に挙がっているそうですが、彼女の研究は何十年もの間、評価されずにいたそうです。教授などのポストも得られず長い間不安定な身分のままで、研究資金の獲得にも、とても苦労していたそうです。もし新型コロナウイルスの世界的流行が無ければ、もしかしたら彼女の研究も埋もれたままで世に現れないままになっていたかもしれません。長い間評価されなくても、くさらず諦めずに研究を続けられたのは、この研究が必ず人々を救うという強い思いがあったからだろうと思います。すごいことだなと思います。

 イエス様も、実際は世の人々に語りかけてご自身を世に現していましたが、人々はイエス様のことばを信じませんでしたから、世に現れていないのと同じことになってしまっていました。そうして人々はイエス様を十字架に付けて殺しました。普通ならそれで終わりですが、イエス様は三日目によみがえって弟子たちの前に現われ、その後に天に昇って、ペンテコステの日に弟子たちに天から聖霊を遣わされました。この聖霊の働きによって、弟子たちの中にはイエス様と父とが住むようになります。23節です。

23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

 この23節が、きょうの中心聖句です。特に後ろの方の「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」に目を留めたいと思います。「わたしたち」とは父と子のことです。

 聖霊が内に入って住んで下さるようになると、その人はイエス様が内にいることを感じるようになります。でもイエス様だけではないのですね。イエス様は「わたしは」ではなくて、「わたしたちは」とおっしゃいました。父と子は一つですから、イエス様がともに住んで下さるということは、天の父もまた、住んで下さるということなんですね。

 父と子が一つであることは、これまで何度も話して来ました。同じ14章の11節でもイエス様はおっしゃっています。

11 「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」

 イエス様が父のうちにいて、父がイエス様のうちにおられるということは、父とイエス様は一つであるということです。それが信じられないのなら、「わざのゆえに信じなさい」とイエス様はおっしゃいました。このヨハネの福音書に限っても、イエス様はいくつもの奇跡を行っています。水をぶどう酒に変えたり、遠くにいる病人を癒したり、五つのパンと二匹の魚を増やして五千人のお腹を満腹にしたりしました。このようなことは、天地万物を支配する天の父と一つであるからこそ、できることです。

 ですから、聖霊によってイエス様が内に住んで下さるということは、天の父もまた住んで下さるということでもあるんですね。これはすごいことですね。イエス様を信じると大きな平安が得られるのは、天の父もまた共にいて下さるから、ということなのでしょうね。

 私たちと共にいて下さるのは、イエス様だけではなく、父・子・聖霊の三位一体の神様です。この三位一体の神様が二倍・三倍の圧倒的な平安を私たちにもたらします。

③父と子との交わりの中に全身全霊を委ねる
 23節で見たように、イエス様は「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」とおっしゃいました。聖霊を受けるなら、イエス様だけでなく父もまた私たちのうちに住んで下さいます。つまり私たちは聖霊によって父と子との交わりの中に入れられます。ヨハネの手紙第一1章3節でヨハネは書きました(週報p.2)。

Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 きょうの残りの時間は、私がこの御父と御子との交わりをどんな風に体感しているかを、ご紹介したいと思います。体感とは、体で感じるということです。これはあくまで私の場合ですから、皆さんには皆さんのやり方があると思います。でも参考にしていただける点もあると思いますから、話させていただきます。神様は心の内だけでなく、体によっても感じることができます。私の場合は脱力して全身の力を抜くなら、神様を体で感じることができます。

 一日の中で最もそれを感じるのは、朝起きたばかりの布団の上においてです。仰向けに寝たまま全身の力を抜いて神様に心を向けると、全身が神様の霊に包まれているような感覚がして、体が浮いたような感じがします。

 この布団の中では、スーパー銭湯の「寝湯」で仰向けに寝ている感覚を思いながら仰向けになっています。寝湯というのはお湯の深さが20cmぐらいしかない浅い浴槽のことです。寝湯には枕がありますから、枕の上に頭を置けば顔はお湯の上に出ていて、体は寝た状態でお湯の中にあります。そうしてお湯の中で全身の力を抜いて脱力すると浮き上がります。足の先まで浮かせるのは難しいですが、ほぼ浮き上がります。人間の体の8割は水分だと言いますから、体の内も、そして体の外もお湯ですから水分です。そうして、このお湯を神様であるとするなら、ヨハネの手紙第一4章13節のみことばを体感することができます。第一ヨハネ4章13節を第三版でお読みします(週報p.2)。

Ⅰヨハネ4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。(第三版)

 この「寝湯」の感覚を、私は布団の中でも力を抜くことで感じることができます。その時、神様が私の中にいて下さるのを感じ、それと同時に神様の霊が私を包んで下さっていることも感じますから、神様の霊の中で体が浮いているような感覚になります。そうして、御父と御子との交わりの中に入れられている幸福感を覚えて、大きな平安をいただいています。

 皆さんも、もし第一ヨハネ4章13節の「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられる」とはどういうことか分からない時には、お風呂の中で力を抜いて浮き上がる感覚を思い出していただくと良いかもしれません。私たちの体の8割は水でできていますから、お湯の中に入るなら、私たちの内にも外にも水分があって体の重さから解放されます。同じように神様は私たちの内にも外にもいて下さり、私たちが背負っている心の重荷を取り除いて平安を与えて下さいます。

 このようにして神様の霊の中に自分が浮いている感覚を味わえるなら、神様に委ねるとはどういうことかも感覚的に分かるようになるのではないかと思います。自分で力んで何かを頑張るのではなくて、力を抜いてすべてを神様にお委ねするとはどういうことかの感覚も養えるのではないかと思います。

 いまコロナの感染者数が急速に拡大していることで、東京都と沖縄県に加えて神奈川県・千葉県・埼玉県と大阪府でも緊急事態宣言が発令されることになりました。静岡県でもこの5日間は感染者数が急速に増えています。当分の間はコロナ前のような伝道ができる状況にはならないだろうと思います。

 このような今の時期は、主にお委ねする感覚を養うにはとても良い時だと思います。頑張って伝道するのではなくて、力を抜いて主にすべてをお委ねする感覚を養うには良い時だと思います。そうして主の導きの御声をさやかに聴くことができるように整えられたいと思います。そうしてコロナ後の伝道に備えたいと思います。
 
おわりに
 しめくくるに当たり、まだ見ていなかった24節をお読みします。

24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。

 イエス様は「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです」とおっしゃいました。イエス様はここでもまた、父と子が一つであることを説いておられます。このように、イエス様は少しずつ表現を変えながら繰り返し繰り返し、父と子が一つであることを弟子たちに説いています。

 この父と子が一つであることを心に留めながら、もう一度、きょうの中心聖句の23節をお読みします。

23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

 父と子は一つですからイエス様は「わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」とおっしゃいました。父と子が私たちとともに住んで下さるとは、何と素晴らしいことでしょうか。このように私たちは圧倒的な恵みをいただいていますから、父と子に心を向けるなら、心の平安をいただけます。天地万物を支配する父と子が私たちの外では御翼を広げて守って下さり、それと同時に内にもいて下さり、私たちの外側と内側の両方から平安を与えて下さっています。
 この父と子にすべてをお委ねして、父と子の導きの御声を聞きながら日々を歩んで行く私たちでありたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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あなたがたを捨てて孤児にはしません(2021.7.25 礼拝)

2021-07-26 08:03:32 | 礼拝メッセージ
2021年7月25日礼拝メッセージ
『あなたがたを捨てて孤児にはしません』
【ヨハネ14:18~20】

はじめに
 礼拝ではヨハネの福音書の「最後の晩餐」でのイエス様の弟子たちへの教えのことばにじっくりと耳を傾けています。

 この後でイエス様は十字架へと向かって行きましたから、「最後の晩餐」の教えはイエス様の弟子たちへの地上での「最後の教え」です。最後ですから、大切なことが凝縮された濃厚なメッセージになっています。この濃厚な教えを聴きもらすことなく、じっくりと耳を傾けたいと思います。

 先週開いた箇所では、イエス様は「最後の晩餐」の教えの中で初めて「御霊」について話しました。イエス様は、御霊は「もう一人の助け主」であると弟子たちに話しました。「霊」は目に見えませんから、「霊」は難しいと考える方もいるかもしれません。でも日本人にとって霊は昔から身近な存在でした。

 例えば、今月の7月は新暦のお盆の月で、中旬にはこの田町でも迎え火と送り火を玄関先で焚いていたお宅を見掛けました。昔は多くのお宅が静岡の町では迎え火と送り火を焚いていたことを私はよく覚えています。私の母も焚いていました。今では少なくなりましたが、それでも今年もこの田町で見掛けました。月遅れの8月のお盆では全国的に休暇を取り、京都や各地の山では大文字や鳥居の形の送り火が焚かれます。

 この迎え火と送り火は先祖の霊を迎え入れてお盆を共に過ごし、また送り出すためのものですね。このように霊は日本人にとって、とても身近な存在です。実際に先祖の霊が存在するか否かは別にして、日本人は先祖の霊をとても大事にして来ました。

 一方、聖書の神様の霊は、宇宙を創造し、天と地を創った神様の霊ですから、スケールがぜんぜん違いますが、でも先祖の霊を大切にする日本人にとっては決して分かりにくい存在ではないと思います。

 さて先ほども言いましたが、先週開いた箇所でイエス様は、御霊(或いは聖霊)は、「もう一人の助け主」であるとおっしゃいました。もともとの助け主はイエス様であり、御霊はもう一人の助け主です。ですから御霊はイエス様が地上でされたことと同じことをします。すなわち御霊はイエス様を信じた人の中に入ってその人を聖めて、イエス様に似た者へと造り変えます。そうして、その人はイエス様と同じことを人々に対して行います。もちろん、イエス様に似た者になるには、かなり聖められる必要があります。人はそんなにすぐには聖められません。でも、御霊は少しずつ私たちを聖めて下さり、恵みの世界へと導いて下さいます。それは、少し聖められるなら、その分だけ前よりも少し神様の愛が分かるようになるからです。神様の愛は圧倒的な愛ですから、前よりも少し分かるようになるだけでも、大きな恵みをいただけます。そうして、そのことが励みになります。神様の圧倒的な愛にどっぷりと浸かることができるよう、聖めの信仰に立って、聖めの恵みをいただきたいと思います。

 きょうの箇所ではイエス様は、また別の表現で、神様の愛を伝えて下さっています。きょうは「孤児」ということばを使っておられます。これまでと表現は違いますが、基本的には同じことの繰り返しと言っても良いかもしれません。イエス様は少しずつ表現を変えながら大切なことを私たちに説いて下さっています。ですから、大切なことを聞き漏らすことなく、しっかりと耳を傾けたいと思います。

 きょうは次の三つのポイントで、話を進めます。

 ①大きな不安の中に置かれる孤児
 ②御霊により霊的な目が開かれる恵み
 ③神様の臨在を感じることが霊的開眼

①大きな不安の中に置かれる孤児

14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

 この「最後の晩餐」の後でイエス様は十字架に付けられて死にましたから、イエス様と弟子たちは離れ離れになりました。でも、イエス様は弟子たちに「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」とおっしゃいました。

 ここで「孤児」ということばが使われています。とても強い印象を与えることばです。両親を失った孤児の心の中は不安で一杯になります。かつて夏の終戦の日の頃になると、テレビでよく『火垂るの墓』というアニメ映画が放送されていましたね。戦争で両親を失って孤児になった幼い兄と妹の物語です。孤児となった兄と妹は栄養状態が悪くて結局死んでしまいます。見るに耐えないぐらい悲しい物語なので私は2回ほどは見ましたが、見ると苦しくなるので、あとの放送は見ていません。戦災で孤児になった子供たちの多くは、この『火垂るの墓』の兄妹のような悲惨な境遇の中に置かれました。

 2年前のNHKの朝ドラでは、静岡市清水区出身の広瀬すずさんが主演の『なつぞら』というドラマが放送されていました。この『なつぞら』も戦災孤児の物語でした。広瀬すずさんは三人兄妹の真ん中の「なつ」という名前の女性の役で、なつには兄と妹がいました。この三人の戦災孤児は幼い時に離れ離れになって違う場所で育ちました。幸いにしてヒロインのなつは北海道で牧場を経営する家庭に引き取られて愛情に包まれて育ちますが、兄と妹は必ずしも愛情が豊かな家庭に引き取られたわけではありませんでした。

 世の中には愛情が豊かにある場所と、そうでない場所とがあります。愛情が豊かにある場所の中でも特に教会は、神様の愛がたっぷりと注がれている場所です。教会で信仰を育むことは、神様の愛の中で育つということです。もし神様と離れ離れになって孤児になってしまうと、とても不安な中を過ごさなければなりません。でもイエス様は、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さっていますから、とても感謝なことです。

 親から離れた子供がどんなに不安か、保育園に預けられたばかりの子供は、とても不安そうに過ごすそうですね。人の子ではありませんが、私は何度か親から離れたスズメの子を見たことがあります。まだ飛べないうちに巣から落ちてしまった子供ですが、とても不安そうにしています。巣から落ちた子でも親はちゃんとエサを与えるそうですから、そっとしておくのが鉄則ですが、道の真ん中だと危ないので、私は巣から落ちたスズメの子を道の端に移してあげたことがあります。スズメの子は手に持っても重さをぜんぜん感じないぐらいに軽いことがよく分かりました。鳥は軽いから空を飛べるわけですが、それにしてもスズメの子はなんて軽いんだろうと、その時思いました。ちょっと力を入れるとすぐに壊れてしまうような、とても儚い存在だと思いました。その小さくて軽いスズメの子が親から離れて不安そうにしている様子を見て、早く親鳥が近くに来て欲しいと思いました。でも、たいていの場合、親鳥はちゃんと子供を見ているので、大丈夫なのだそうです。

 天の神様も、教会という巣から離れている人々のことを、ちゃんと見守って下さっています。私は、教会に辿り着いたのは41歳と遅かったですが、辿り着く前から、いつも誰かに守られていることを感じていました。それが誰なのか、先祖の霊なのか、神社の神様なのか、仏教のお釈迦様や阿弥陀様なのか、分からずにいました。聖書の神様のことは、全くの想定外で考えもしませんでしたから、長い間、誰が自分を守ってくれているのかが、分からないでいました。

 でも、教会に辿り着いた時に大きな平安を感じましたから、その時初めて、自分を見守って下さっていたのは聖書の神様だったと知りました。それまでの私はいつも漠然とした不安に包まれていて、いろいろな本を読んだり、趣味に打ち込んだりしましたが、少しも不安は解消されませんでした。それが、高津教会に辿り着いて、しばらく通っている間に漠然とした不安が消えて無くなっていることに気付きました。それで、それまでずっと、教会に辿り着く前から聖書の神様は私を見守って下さってことが分かりました。

 イエス様は私たちの一人一人が教会とつながるずっと前から、私たちが孤児にならないように、見守っていて下さるのですね。本当に感謝なことだと思います。

②御霊により霊的な目が開かれる恵み
 
19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

 イエス様が十字架で死んだ後、世の人々はイエス様の姿を見ることができなくなりました。しかし、弟子たちはイエス様を見ました。イエス様は復活して、弟子たちの前に姿を現しました。ただ、ここでイエス様がおっしゃっている、「あなたがたはわたしを見ます」は、復活の日の出来事ではなくて、ペンテコステの日に弟子たちが御霊を受けた時のことを話しているようです。イエス様は20節でおっしゃいました。

20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

 このようなことは、御霊を受けなければ分からないことです。ですから、19節の「あなたがたはわたしを見ます」というのは、御霊を受けて霊的にイエス様が見えるようになることを示します。そうして御霊を受けるなら永遠の命が得られますから、その者は永遠に生きることになります。それが19節の最後にある、「あなたがたも生きることになるからです」ということでしょう。イエス様は十字架で死にましたが、復活して永遠の中を生きておられます。私たちもイエス様を信じて御霊を受けるなら、永遠の中を生きます。

 イエス様を信じて御霊を受けるなら霊的な目が開かれて、永遠への目も開かれるようになります。このように霊的な目が開かれるなら、素晴らしい恵みをいただくことができます。

 でも、霊的な目が開かれるとは、どういう感じのことを言うのか、いま一つ分かりにくいと感じている方もおられるかもしれません。次の三つめのポイントに進んで、イエス様がおっしゃったことに、いま一度耳を傾けたいと思います。

③神様の臨在を感じることが霊的開眼
 19節と20節のイエス様のことばを、もう一度お読みします。

19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。
20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

 20節を別のことばに言い換えてみたいと思います。天の父は翼を大きく広げて、私たちを守って下さっています。イエス様はその天の父と一つのお方ですから、私たちはイエス様の広げた翼の内にいて、守られています。御霊を受けるとそのことを感じると共に、イエス様が自分の内にもいて下さることも感じるようになります。つまり、御霊を受けるとイエス様の臨在を感じることができるようになります。ですから、19節の「あなたがたはわたしを見ます」とは、イエス様の臨在を感じることができるようになるということでしょう。霊的な目が開かれるとは、神様の姿が目に見えるようになることではなく、神様であるイエス様の臨在を感じることができるようになるということでしょう。臨在を感じるというと難しいですが、神様が共にいて下さることを感じるということです。

 私自身の経験に照らしても、霊的な目が開かれるとは、神様の臨在を感じるようになることであると言えます。

 1番目のポイントで、私は教会に辿り着くずっと前から誰かに守られていることを感じていたことを話しました。どうして、守られていることを感じていたかをもう少し具体的に話します。教会に辿り着く前の私は、特に霊的なことを感じていたわけではありません。ただ、危険な目に遭っても不思議と大事に至ることがなかったので、その事実から、守られていることを感じていました。

 大学1年の時には死んでいてもおかしくないような交通事故に私は遭いました。深夜のことでしたが、その日、私は友達と二人で夜の札幌の通りを自転車で走っていました。そこまでは覚えていますが、その後の記憶はしばらく途絶えています。次に気付いた時には私は頭から血を流しながら道路の上に寝ていて、救急車で搬送されるところでした。一緒にいた友達の話では、私は後ろから車に追突されて頭を道路に強く打ち付けたということでした。自転車は車輪が大きく変形していましたから、かなりのスピードで追突されたようです。その車は逃げ去ったそうで、友達は私が死んだと思ったそうです。でも私は頭を数針縫っただけで、脳に特に異常も無くて、次の日にはもうピンピンしていました。

 同じく大学1年生の時に、また危険な目に遭いました。住んでいたアパートの向かいの部屋でガス自殺をはかった人がいて、ガス爆発が起きました。その部屋にいた人は全身やけどで搬送されましたが、向かいの部屋にいた私は何ともありませんでした。その後、すぐに引っ越したので、その全身やけどの人がどうなったのかは分かりません。もしかしたら、亡くなられたかもしれません。

 また私は若者特有の悩みで学業を続ける気力を無くした時が何度かありました。しかし、不思議なことに、その都度、学業に復帰することができました。その後、大学の工学部の助手として働くようになりましたが、教授に付いて行くことができなくなって、大学を辞めました。この時は本当に人生の危機だったと思いますが、不思議と守られて、今度はぜんぜん分野が違う日本語教育の教員として、首都圏の大学の留学生センターという部署で働くことができるようになりました。これは本当に奇跡的なことでしたから、それ以来、私は誰かに守られていると強く感じるようになりました。そうして不思議な導きで高津教会の近くに住むようになり、高津に住み始めてから6年後に父がすい臓ガンで急に亡くなったことをきっかけにして高津教会を訪れました。

 その頃の私は誰かに守られていることは感じているものの、いつも漠然とした不安に付きまとわれていました。でも、高津教会にしばらく通っているうちに、その漠然とした不安がいつの間にか消えていました。そのことに気付くことで、それまで自分を守ってくれていたのは聖書の神様だったと確信しました。そうして神様がいつも共にいて下さったのだと分かり、臨在を感じることができるようになりました。

おわりに
 このように、神様は私がイエス様と出会うずっと前から、私を守って下さっていました。大学1年生の時のひき逃げの交通事故では死んでいてもおかしくなかったと思いますが、神様は守って下さっていました。同じように、神様はすべての人を守って下さっています。でも、若くして亡くなる方も少なくありません。そのような方は一粒の麦となって、人々に命の大切さを教えて、神様について考えるように導く役割が与えられているのではないかなあと思います。私の場合は生かされて、様々な分野の経験を積まされた上で、みことばを宣べ伝える役割が与えられたのだろうと思っています。

 いろいろ話しましたが、きょう、皆さんと共有したいみことばは、18節の、「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」です。最初のほうで、巣から落ちたスズメの子供の話をしました。そのように巣から離れた子供のことも、親鳥はちゃんと見守っています。同じように天のイエス様は信仰が育っていなくて教会とつながっていない人々のことも、ちゃんと見守っています。

 この天からの見守りの前にイエス様は十字架に付けられて、イエス様ご自身が天の神様と引き離されて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)という絶望の中で苦しみを受けて死にました。ですから、イエス様は見捨てられることの恐ろしさをご自身でよくご存知のお方です。そのイエス様が「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さっています。

 十字架で孤児の苦しみを知ったイエス様が「あなたがたを捨てて孤児にはしません」とおっしゃって下さるのですから、私たちは十字架のイエス様から目を離さないでいなければなりません。そして、この十字架のイエス様のことをまだ知らない多くの方々に、イエス様をお伝えして、イエス様はまだ教会につながっていない方々もすべて守って下さっていることを知っていただきたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。
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助け主イエスと“もう一人の”助け主の聖霊(2021.7.18 礼拝)

2021-07-19 13:56:59 | 礼拝メッセージ
2021年7月18日礼拝メッセージ
『助け主イエスと“もう一人の”助け主の聖霊』
【ヨハネ14:15~17】

はじめに
 ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の学びのシリーズでは、いくつかの大切なことを学んで来ました。その中で一番重要なことの一つは、イエス様と天の父とが一つであるということでしょう。しかし、この父と子が一つであるということ以外にも重要なことを学びましたから、それらを復習しつつ、学びを前に進めて行きたいと思います。

 きょうの聖書箇所では、イエス様が「最後の晩餐」の場で初めて「御霊」に言及しています。これによって初めて父・御子・御霊の三位一体の神の全体像が浮かび上がって来ます。御霊に言及されることで、この「最後の晩餐」のイエス様のメッセージもいよいよ「本番」に入ったと言えるでしょう。今までのイエス様の話は、父・御子・御霊の話をするための予備的なものであったと言っても、言い過ぎではないように思います。

 この「本番」ということばは、映画やテレビドラマなどの撮影現場でよく使われている用語です。最近私は映画のエキストラの話をぜんぜんしていませんが、きょうは久し振りでしたいと思います。撮影現場では、本番の撮影を行う前に何度もテストを行います。私がエキストラとして参加した撮影では、通行人の役が多かったですが、たかが通行人の役でもテストでけっこう何度も歩きます。それは、何人もいる通行人が偏り過ぎないように上手くばらけて、ちょうど良いタイミングで俳優さんの近くを通るようにするためです。

 エキストラが歩き出すタイミングを指示するのは助監督さんの役割です。監督は俳優の演技を見ていて、助監督がエキストラを見ながら指示を出します。撮影用のカメラのフレームの中には俳優さんがいて、通行人はフレームの外からフレームの中に入って俳優さんの近くを通って、またフレームの外に出て行きます。そのタイミングを計るために、けっこう何度もテストを本番の前にします。

 イエス様の「最後の晩餐」の話も、これまではテストのような予備的なものであったと言っても決して言い過ぎではないと思います。きょうの箇所で「御霊」について言及されることで、いよいよ本番に入ると言えるでしょう。きょうは週報p.3に記した3つのポイントで話を進めて行きます。

 ①「互いに愛し合う」と「御霊」との強い関係(15節)
 ②助け主イエスと“もう一人の”助け主の聖霊(16節)
 ③私たちの内で「聖化」を助ける「真理の御霊」(17節)

 今週も、先週同様に三つの節だけにしました。この三つの節には、とても大切なことが書かれていますから、腰を落としてじっくりと学ぶようにしたいと思います。

①「互いに愛し合う」と「御霊」との強い関係(15節)

14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

 わたしの戒めとは、13章34節の「互いに愛し合いなさい」のことですね。ヨハネ13章34節、

13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 しかし、それにしても次の16節でイエス様は助け主の御霊・聖霊の話をします。その直前で、どうして戒めの話が必要なんでしょうか?ここでもヨハネの手紙第一を参考にすることにしたいと思います。ヨハネの福音書で分からないことがある時には、ヨハネの手紙第一に助けを求めると、多くの場合、分かるようになります。ヨハネの手紙第一3章23節と24節には、次のように書かれています(週報p.2)。

Ⅰヨハネ3:23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。
24 神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。

 この第一ヨハネのみことばから、互いに愛し合うことと御霊とは切っても切れない強い関係があることが分かります。もう少し、第一ヨハネを引用します。

Ⅰヨハネ4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

 ここに何が書かれているのか、一言で言うなら「聖化」が書かれているのだと思います。「聖化」とは段々と聖められて行くことです。イエス様を信じる前の私たちは罪で汚れていますから、互いに愛し合うことができません。それが、イエス様を信じて御霊を受けると、罪が聖められますから、互いに愛し合うことができるようになります。とはいえ、完全に聖められるわけではありませんから、最初の間は少ししか互いに愛し合えません。でも、少し愛し合えるようになることで、その分だけ神様の愛が少し分かるようになります。

 そうして神様の愛が段々分かるようになると、少ししか人を愛すことができないでいる自分の姿も見えて来ます。「互いに愛し合いなさい」とは、「自分と敵対する人をも愛しなさい」ということですから、そんなに簡単なことではありません。でもイエス様は十字架に付いてその愛を示して下さいました。そのイエス様の愛が分かることで、今の自分にはできなくても聖められて人を愛せるようにして下さいと祈れるようになります。すると、少しずつ御霊の実が結ばれて、段々と人を愛することができるようになり、その分だけ神様の愛がまた少し分かるようになります。そういう良い循環ができることが聖化のプロセス・過程です。

 このようにして、私たちは少しずつ聖められて、少しずつ神様の愛が分かるようになります。この「聖化」のプロセス・過程については、3つめのポイントの最後のほうでまた、話すことにします。

②助け主イエスと“もう一人の”助け主の聖霊(16節)
 
14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

 この16節の注目ポイントは、何と言っても「もう一人の助け主」ということばでしょう。「もう一人の助け主」とは「御霊」のことであるとイエス様は次の17節でおっしゃっています。では、「もう一人のほうではない助け主」とは誰のことでしょうか?それは「イエス様」のことなんですね。イエス様は助け主です。そもそもの助け主はイエス様で、御霊はもう一人の助け主です。これはとても重要なポイントだと思います。

 よく父・御子・御霊(或いは父・子・聖霊)の三位一体の神は、聖霊が分かりにくいということが言われます。父と子は分かるけれど、聖霊が分かりにくいということがよく言われます。しかし、きょうのこの14章16節を学んで、そもそもの助け主はイエス様であり、聖霊はもう一人の助け主なのだということが分かるなら、聖霊のことが俄然よく分かるようになるだろうと思います。

 イエス様はもともとは天の父と共に天にいました。それが、二千年前にヨセフとマリアの子として地上に遣わされました。それは地上の人々を助けるためです。つまり、イエス様は助け主として地上に遣わされました。そうして、イエス様は十字架に掛かり、復活して、地上での助け主としての役目を終えて天に帰りました。このイエス様と交代する形で地上に遣わされるのが、もう一人の助け主である聖霊です。ですから、聖霊はイエス様と同じことをします。聖霊はイエス様を信じた人の内に入って、イエス様と同じことをします。

 私たちは聖霊を受けたばかりの時はまだまだ罪に縛られていますが、だんだんと聖められて御霊の実を結ぶなら、次第にイエス様に似た者へと変えられて行きます。御霊の実とは、週報p.2に載せたガラテヤ5章の愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のことです。この御霊の実を結ぶなら、聖化されてイエス様と似た者とされて、人を愛することができるようになり、その人はイエス様と同じ働きをすることができます。もう一人の助け主である聖霊は、このことを助けて下さいます。
 
③私たちの内で「聖化」を助ける「真理の御霊」(17節)

14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

 イエス様は、もう一人の助け主は「真理の御霊」であると弟子たちに話しました。「真理」については、14章6節を学んだ時に話しました。14章6節でイエス様はおっしゃいました。

14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 この真理は、「嘘」や「偽り」の反対語としての「真実」や「本当」と考えると理解しやすいという話をしました。13章から始まる「最後の晩餐」の記事では、13章の2節という早い段階で「悪魔」への言及があります。13章2節、

13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。

 この早い段階からの「悪魔」への言及から、ヨハネの福音書の「最後の晩餐」から十字架に至る記事の背後には、「神vs悪魔」の対決の構図があることを話しました。悪魔は人に「嘘」・「偽り」のことばをささやいて、人を神から引き離そうとします。この悪魔の策略によって人は暗闇の中に閉じ込められていて、心は闇に支配されています。この闇の中にいる人々をイエス様は光の中へと救い出そうとして下さっていますが、悪魔の支配は強力ですから、人はなかなかイエス様を信じようとしません。イエス様を信じない人は、その人の内に真理の御霊が入りませんから、御霊を知ることはありません。ヨハネ14章17節で、イエス様はそのことを言っておられます。イエス様はおっしゃいました。「この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。」イエス様を信じない人には、もう一人の助け主の御霊は与えられません。その人はいつまでも暗闇の中をさまよい続けることになります。

 しかし、イエス様を信じるなら、その人の内には真理の御霊が入って下さり、真実のことば、本当のことばによって私たちを暗闇から光の中へ救い出して下さり、聖めて下さいます。但し、いきなり全面的に聖められるわけではありません。人は少しずつ聖められて、互いに愛し合うことができるようになります。それが聖化です。この聖化のスピードは、自分もイエス様のように聖められたいと願って祈ること、すなわち聖めの信仰に立つことで、加速されます。ただ、加速すると言っても、ものすごいスピードで聖められることは稀で、聖化のスピードは本当にゆっくりです。でも、聖められたいと願わないなら、すなわち聖めの信仰に立たないのなら、聖化のスピードはもっとゆっくりになりますから、聖められたいと願って聖めの信仰に立つことは大切なことだと思います。

 この聖めのスピードに関して、聖めは瞬時に起きると言われていた時代もあったようですが、瞬時に起きるのは聖めの信仰に立つことでしょう。聖めの信仰に立つことは、確かにあることをきっかけにして瞬時におきます。でも御霊の実を結んで聖められることは、本当にゆっくりだというのが、実際ではないでしょうか。

 この「聖化」について、私は最近、面白い発見をしましたので、最後にその話をしたいと思います。既に多くの方々が知っていることかもしれませんが、私にとっては新しくて面白い発見だったので、その箇所を分かち合うことにしたいと思います。

 7月の第一聖日の教会学校でマタイ5章の「山上の説教」の最初の部分が開かれました。(新約p.6)。マタイ5章3節から10節までですが、時間の関係でそれぞれの節の前半の部分だけをお読みします。

マタイ5:3 心の貧しい者は幸いです。
4 悲しむ者は幸いです。
5 柔和な者は幸いです。
6 義に飢え渇く者は幸いです。
7 あわれみ深い者は幸いです。
8 心のきよい者は幸いです。
9 平和をつくる者は幸いです。
10 義のために迫害されている者は幸いです。

 7月の第一聖日の教会学校に参加していて、ここでイエス様は「聖化」のプロセス・過程について話されていることに気付きました。

 3節の心の貧しい者はこれから「聖化」が始まる人で、10節の義のために迫害されている者はかなり「聖化」が進んだ人だということです。3節の「心の貧しい者」とは、下の脚注にもありますが、もともとのギリシャ語の直訳では「霊において貧しい者」です。まだ神様の霊が入っていない人のことです。その人は、これから神様の霊が入ることで天の御国に入るという素晴らしい未来が待っています。この3節の人はまだ義のために働くとか、ぜんぜんそんな段階ではありません。一方10節の義のために迫害されている者は、義のために働いているほど聖化が進んでいるということでしょう。

 そういう読み方で4節の「悲しむ者は幸いです」を見るなら、その人たちの中には神様の霊が入り始めて慰めが始まっています。ただし、この段階ではまだまだ受け身です。しかし、さらに聖化が進むなら柔和な人になります。柔和な人は単なる受け身を脱して、人に良い影響を与えるようになります。そして義に飢え渇くようになります。義のない所で人が苦しんでいる様子を見て、あわれみ深くなります。こうして受け身を脱して世の光として働くようになります。ここまできよめられると神様が見えるようになります。そして、平和をつくる働きをするようになり、義のために働くようになります。

 このように、マタイ5章の3節から10節まででイエス様は「聖化」のプロセス・過程を話しておられます。そうして、私たちの教会が目指すべきは、この「聖化」であることを示されています。

 改めて言うまでもありませんが、私たちのインマヌエル教団は「聖と宣」を旗印に掲げています。聖と宣の「聖」は「聖書と聖化」の聖であり、聖と宣の「宣」は「宣教」の宣です。ですから私たちは「聖化」を目指します。そんな当たり前のことを、今さら何を言っているのだと怒られるかもしれません。本当にその通りです。申し訳ありません。

 ちょうど一年前、藤本満先生が来て下さいました。コロナの第二波が始まりそうな時期でしたから、内輪だけの集会としました。その時、先生から、内輪だけの集会なら「聖会」にしませんか、という提案がありました。そうして、藤本先生は「聖化」されることの必要性を説いて下さいました。私もこれからは「聖化」を説いて行きたいと思います。

 当分の間はヨハネの福音書の「最後の晩餐」の学びを続けながら、教会は初めてという方にも分かりやすいような、「聖化の恵み」を説いていくことができたらと思っています。「聖化」は教会は初めてという初心者の方から、信仰歴の長い方に至るまで、あらゆる段階において必要なことですから、そのことをお伝えできたらと思います。

おわりに
 きょうのメッセージの最初に、イエス様の「最後の晩餐」の話は、「御霊」が語られるきょうの箇所からがいよいよ本番だと言っても過言ではないと話しました。その本番の始まりである今日の話を、今一度簡単に振り返っておきたいと思います。

 まずイエス様は弟子たちに戒めを守るように言いました。戒めとは「互いに愛し合いなさい」という戒めです。互いに愛し合うことで、神様の愛が段々と分かるようになります。人を愛そうと思ってもなかなか愛せない自分を知る中で、神様の愛の大きさが分かるようになります。

 悪魔の暗闇に支配されていた私たちは、そう簡単に人を愛せるようにはなれません。それゆえ私たちは祈ります。人を愛せるように私をつくり変えて下さいと祈ります。そうして、祈ることで、御霊の実が少しずつ結ばれるようになり、少しずつ人を愛せるようになります。この、私をつくり変えて下さいと願い祈るようになることが、聖めの信仰に立つということです。そうして聖めの信仰に立つなら、助け主である真理の御霊の導きによって、少しずつ御霊の実を結んで、人を愛せるようになります。

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。この御霊の実を結んで人を愛せるようになる聖化の道を、私たちは御霊に導かれながら、歩みたいと思います。

 御霊はもう一人の助け主です。そもそもの助け主であられるイエス様と入れ替わる形で、私たちのために天から遣わされました。

 このことに心一杯感謝したいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。

14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
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わたしがそれをしてあげます(2021.7.11 礼拝)

2021-07-12 11:14:34 | 礼拝メッセージ
2021年7月11日礼拝メッセージ
『わたしがそれをしてあげます』
【ヨハネ14:12~14】

はじめに
 ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の学びを続けます。きょうは14章の12節、13節、14節の3ヵ節を学ぶことにします。先々週は14章の1節から6節までの6ヵ節を、先週は7節から11節までの5ヵ節を学びました。きょうはペースを落として12節から14節までの3ヵ節だけにします。そうしてヨハネ14章をじっくりと学ぶことにしたいと思います。ヨハネ14章をじっくりと学ぶことで、父・子・聖霊の三位一体の神様の恵みの奥深さをご一緒に分かち合いたいと思います。

 何に例えたら三位一体の神様の深い味わいを皆さんと分かち合えるのか、悩むところですが、私たちが感動する物事はいくつかのものが重なり合っている場合が多いと思います。例えば歌は独唱ももちろん良いですが、二重唱や四重唱の歌声を聴く時、そこに豊かさと深さを感じます。活け花も、一輪挿しももちろん良いですが、何種類かの花が組み合わさることで奥行きと豊かさが出ます。教会員の構成も小学生、中高生、大学生、社会人、そしてご高齢の方々というように、いろいろな年齢層の方々がいることで、交わりに豊かさと深さを感じることができると思います。

 神様の恵みが素晴らしいのも、父・子・聖霊の三位一体の神様の豊かさの恵みがあるからです。旧約聖書を読む時には父の恵みを一番強く感じますが、背後には子と聖霊の恵みが存在します。福音書を読む時には子の恵みを一番強く感じますが、背後には父と聖霊の恵みが存在します。使徒の働きを読む時には聖霊の恵みを一番強く感じますが、背後には父と子の恵みが存在します。多重の恵みが背後にあることで、より一層豊かな恵みを感じることができます。ヨハネの福音書の「最後の晩餐」を学ぶことで、この三位一体の神様の豊かな恵みを皆で分かち合いたいと思います。

 きょうは次の三つのポイントで話を進めて行きます。

 ①世界に福音が伝えられる大きなわざ(12節)
 ②子によって近づけられた恵みの御座(13節)
 ③「わたし」が、それをしてあげます(14節)

①世界に福音が伝えられる大きなわざ(12節)
 きょうは最初のポイントで12節に注目し、2番目のポイントでは13節、3番目のポイントでは14節に注目する、という形で進めて行きます。まず12節を見ましょう。

ヨハネ14:12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

 イエス様は弟子たちに先ず、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行う」とおっしゃいました。この「わざ」がどんな「わざ」であるのか、イエス様は具体的なことはおっしゃっていませんから、正確なことは分かりませんが、使徒の働きを読めば概ねのことは分かります。例えば福音書のイエス様は中風を患って歩けなかった人を立たせて歩けるようにしましたが(マルコ2:1-12、他)、ペンテコステの日以降の弟子たちも同じように歩けない人を立たせて歩けるようにしました。

 この場面は重要ですから、ご一緒に見ておきましょう。使徒の働き3章です(新約p.236)。この3章でペテロとヨハネは足の不自由な人を歩けるようにしますが、この前の章の2章にはペンテコステの日の出来事が書かれていて、ペテロとヨハネは聖霊を受けていました。つまりペテロとヨハネの中にはイエス様がいました。それゆえ、この使徒の働き3章で足の不自由な人を立たせたのはペテロとヨハネの中にいるイエス様であるとも言えます。そのことを思い浮かべながら、この箇所を読んで下さい。

使徒3:1 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
2 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
4 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
5 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
7 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。

 この足の不自由な人に「立ち上がり、歩きなさい」と言ったのはペテロですが、そうなるようにしたのはイエス様です。これがイエス様がおっしゃった、「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行う」ということでしょう。ペテロの中のイエス様はかつて中風で歩けなかった人を歩かせました。中風の人は屋根に穴を開けた人々によって運ばれて来ました。そして、この使徒3章の足の不自由な人も、他の人々によって宮の「美しの門」に運ばれて来ました。そしてペテロは、この人を歩けるようにしました。それは、ペテロの中のイエス様がこの人を歩けるようにしたということです。

 ヨハネ14章12節に戻ります。では12節の後半の、「さらに大きなわざ」とは何のことでしょうか。この大きなわざは、イエス様が父のみもとに行くことで実現するということですから、キリスト教会が世界中に立てられて福音が全世界に宣べ伝えられることを言うのでしょう。イエス様が地上にいる間は、イエス様がいる場所でしか福音は伝わりませんが、イエス様が天に昇って父のみもとに行けば、イエス様は天の父のみもとから聖霊を遣わすことができます。そうして、ペテロやヨハネのように聖霊を受けた者が全世界にイエス様の福音を宣べ伝えることができるようになります。実際に使徒の働きでは聖霊を受けたパウロがヨーロッパ方面へイエス様の福音を広げて行きました。

 イエス様を信じて聖霊を受けた私たちも、その役割を担っています。日本人の多くはイエス・キリストのことを聞いたことはありますが、イエス様がどういうお方であるかを聖書に基づいて知っている人は少ししかいません。また、聖書に書かれていることを知っていても、聖書を信じている人はさらに少ししかいません。そのような方々に私たちはイエス様を証して行くことが期待されています。聖書の内容を教えるということでなくても、イエス様に似た者にされることで、私たちはイエス様を証しすることができます。

②子によって近づけられた恵みの御座(13節)

13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

 まず13節の前半の、「あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」を見ましょう。先ほどご一緒に見た使徒の働き3章でペテロは「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いましたね。ペテロは単に「立ち上がり、歩きなさい」ではなくて、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。私たちもお祈りする時は最後に「イエス・キリストの名によってお祈りします」、或いは「イエス・キリストの名を通してお祈りします」と言います。それはイエス様がこのヨハネ14章13節で、「わたしの名によって求められたことは何でもしてあげます」とおっしゃっているからなんですね。

 そして13節の後半でイエス様は、それは「父が子によって栄光をお受けになるためです」とおっしゃっています。これは少し分かりづらいことばだと感じます。父が子によって栄光を受けるから、私たちがイエス様の名によって求めることは何でもして下さるとは、どういうことでしょうか。この分かりづらいことばは、イエス様が十字架で死んだ時に神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことを重ねると分かりやすくなると思います。マタイ・マルコ・ルカの福音書には、神殿の垂れ幕が裂けたことが書かれていますね。例えばマルコの福音書15章37節と38節、

マルコ15:37 イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 この時、子の栄光と父の栄光が一つになりました。そうして私たちはこの栄光を仰き見ることが可能になりました。

 神様は最高に聖いお方です。旧約の時代は神様を直接見た者は打たれて死ぬほどでした。ですから旧約の時代の人々にとって、神様は近づきがたいお方でした。それゆえ、神様に何かを求めたい時も、神様に直接訴えずにモーセやサムエルなどの預言者にお願いして神様に祈ってもらったりしていました。神様に直接祈ることも多々あったと思いますが、神様が聞いて下さっているのか、確信を持ちづらかっただろうと思います。それゆえ預言者に頼んで祈ってもらったほうが確実でした。預言者は聖霊を受けていましたから、神様と直接のやり取りができました。

 それが、イエス様が十字架で死んだことによって神殿の幕が真っ二つに裂けて子の栄光と父の栄光が一つになりましたから、預言者ではない一般の私たちでも大胆に神様に近づいて直接お祈りすることができるようになりました。ヘブル人への手紙の記者は書いていますね、ヘブル14章16節です(週報p.2)。

ヘブル4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 旧約の時代には、人が神様に大胆に近づくことなど許されていませんでした。近づけば打たれて死んでしまいました。それが、イエス様の十字架によって、父が子の栄光を受けたことで、父と子の栄光が一つになり、私たちは父と子の栄光を仰ぎ見ることができるようになりました。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づきたいと思います。

③「わたし」が、それをしてあげます(14節)

14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。

 ここでイエス様は、「わたしがそれをしてあげます」とおっしゃいました。三つめのポイントでは、この「わたしがそれをしてあげます」に注目したいと思います。イエス様は、「天の父がそれをして下さいます」ではなくて、「わたしがそれをしてあげます」とおっしゃいました。

 私たちはお祈りする時、まず天の父に呼び掛けます。主の祈りでは、「天にまします我らの父よ」と先ず呼び掛けます。私が祈る時は、「恵み深い天の父なる神様」と呼び掛けます。人によって呼び掛け方は様々ですが、まず天の父に呼び掛けることからお祈りを始めます。そうして、お祈りの最後には「イエス様のお名前によってお祈りします」、或いは「イエス様のお名前を通してお祈りします」と言ってお祈りを締めくくります。つまりイエス様のお名前を通して天の父に祈りを聞いていただく形を取ります。ですから、私たちの祈りに応えて下さるのは天の父であると思っています。それは別に間違っていません。その通りです。

 ではなぜイエス様は「わたしがそれをしてあげます」とおっしゃったのでしょうか。それは、イエス様が父と一つのお方だからですね。ここからは、先週話したことの繰り返しになりますが、もう一度話させていただきたいと思います。イエス様と天の父とが一つのお方であることは、とても大切なことだからです。ヨハネの福音書13章から17章までの最後の晩餐の場面でイエス様は、同じことを微妙に表現を変えながら何度も言っておられます。そのように繰り返しイエス様が話していることは、とても大切なことですから、この礼拝のメッセージでも、同じことの繰り返しになることを厭わずに、何度も話すことにしたいと思います。そうして、イエス様の大切なメッセージを魂にしっかりと刻み込みたいと思います。

 その大切なことの一つが、「イエス様は天の父と一つである」ということです。イエス様はヨハネ10:30でおっしゃいました(週報p.2)。

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

 そうして、イエス様は何度も、ご自身が「わたしはある」という者であることを明らかにしています。例えば、最後の晩餐の13章では、こう言っておられます。ヨハネ13章19節(週報p.2)、

ヨハネ13:19 「事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。」

 この「わたしはある」は、出エジプト記で天の父がモーセに話したことばの中に出て来ますね。出エジプト記3章14節(週報p.2)、

出エジプト記3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である」

 天の父はご自身が「わたしはある」という者であることをモーセに明らかにし、これと同じことをイエス様が弟子たちに言ったということは、イエス様は天の父と一つである、ということです。ですから天の父がしていることはイエス様がしていることであり、イエス様がしていることは天の父がしていることです。それゆえヨハネ14章14節でイエス様は弟子たちに言いました。

ヨハネ14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。

 ですから、お祈りする時には、イエス様と天の父とが一つであることを意識しながら、お祈りすると良いでしょう。

 これは3日前の祈り会のメッセージでも話したことですが、最近私は、「最後の晩餐」をじっくり学び始めてから、以前よりも祈りが深まっているように感じています。祈る時に御父と御子との交わりを以前よりももっと強く感じながら祈れるようになったからです。イエス様は天の御父と一つのお方であること、またイエス様が御父の内にいて、御父がイエス様の内にいることを以前よりも意識するようになったことで、お祈りの最初の天の父への呼び掛けの時にもイエス様を意識できるようになりました。

 以前は祈りの最初に天の父に呼び掛けて、最後に「イエス様のお名前を通してお祈りします」と言うまでに時間が掛かると、父と子がバラバラであるような感じが何となくしていました。しかし、今は天の父とイエス様が一つであることを感じながら祈っていますから、天の父とイエス様とのバラバラ感がなくなりました。祈る時に御父と御子との交わりを感じながら祈れるようになったことで、神様を一層近くに感じることができるようになった気がします。つまり、恵みの御座に大胆に近づくことができるようになっていると感じています。

 ですから、皆さんにも、イエス様と天の父が一つであることを意識しながら祈ることをお勧めしたいと思います。既にそうされているなら感謝ですが、もしまだ、それほど意識していないのなら、イエス様と天の父が一つであることを意識して祈ることをお勧めしたいと思います。そうして私たちは御父と御子との交わりの中で、御父と御子と一つになって、お祈りしたいと思います。

おわりに
 イエス様と天の父とは一つです。そのイエス様を信じるなら、イエス様は天から聖霊を私たちに遣わして下さいます。そうして私たちは父・子・聖霊の三位一体の神様の恵みの中に入れられます。

 初めに話したように、歌は独唱ももちろん良いですが、二重唱、四重唱を聴く時、そこに豊かさと深さを感じます。父・子・聖霊の三位一体の神様と私たちとの交わりとは四重唱のようなものと言えるでしょう。父・子・聖霊と私の四つのパートから成る四重唱です。

 この四重唱の豊かさと深さを皆さんと共に分かち合うことができるように、これからもヨハネの福音書の「最後の晩餐」の学びを続けて行きたいと思います。

 しばらく、ご一緒に、お祈りしましょう。

14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。
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聖餐式で御父と御子と一つになる(2021.7.4 礼拝)

2021-07-05 14:33:23 | 礼拝メッセージ
2021年7月4日聖餐式礼拝メッセージ
『聖餐式で御父と御子と一つになる』
【ヨハネ14:7~11】

はじめに
 きょうは、このメッセージの後で聖餐式を行います。聖餐式はイエス様と弟子たちとの最後の晩餐の時を覚えて行う聖礼典ですから、最後の晩餐の学びをきょうも続けることにします。

 まず前回学んだヨハネ14章6節を、簡単に振り返っておきたいと思います。6節でイエス様は弟子のトマスにおっしゃいました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 道とは、天の父のみもとへの道です。イエス様ご自身が天の父のみもとへの道ですから、イエス様を通してでなければ、天の父のみもとへ行くことはできません。そのためには、イエス様の真実のことば、本当のことば、すなわち真理に耳を傾けて、それに従う必要があります。この世を支配しているサタンは偽りのことば、嘘によって巧みに私たちが天の父のみもとに行くことを邪魔しようとしますから、そのサタンの策略に惑わされないように、真理であるイエス様に付き従いたいと思います。そうして永遠の命を得て、天の父のみもとへ導いて行っていただきたいと思います。

 きょうはその続きの7節からで、次の三つのポイントで話を進めて行きます。

 ①「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)
 ②皆が一つになるようにというイエス様の祈り
 ③聖餐式で御父と御子と一つになる

①「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)
 6節に続いてイエス様は7節で言いました。

ヨハネ14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」

 イエス様が、「すでにあなたがたは父を見たのです」とおっしゃったのは、イエス様は天の御父と一つのお方だからですね。ヨハネ10:30でイエス様はおっしゃいました。

ヨハネ10:30 「わたしと父とは一つです。」

 また、イエス様は何度も、ご自身が「わたしはある」という者であることを明らかにしています。今の14章に一番近い箇所で言えば、13章19節です(週報p.2)。

ヨハネ13:19 事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。

 この「わたしはある」は、出エジプト記3:14で主がモーセに仰せられたことです。(週報p.2)

出エジプト記3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」

 ですから、イエス様が「わたしはある」であるということは、イエス様と天の父とは一つであるということです。それゆえ、イエス様を見た者はすでに父を見たのと同じことです。しかし、弟子たちはまだ、そのことが分かっていませんでした。それでピリポはイエス様に言いました。8節、

8 「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 するとイエス様はピリポに言いました。

9 「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。

 繰り返しますが、イエス様は天の父と一つであり、イエス様ご自身が「わたしはある」という者ですから、イエス様を見た人は天の父も見たことになります。そして、それはイエス様の姿だけではありません。イエス様の声も同様です。イエス様の声を聴いた者は、天の父の声を聴いたことになります。なぜならイエス様の話すことばは父のことばだからです。10節、

10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

 前半の「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」はまた後で見ることにして、イエス様が話すことばは、父のことばであることを先に見ておきたいと思います。イエス様は、このことを他の箇所でも言っています。例えばヨハネ8:28でイエス様は言われました。

ヨハネ 8:28 「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。

 ここでもイエス様はご自身が「わたしはある」であるとおっしゃっていますね。そしてさらに、イエス様はご自分からは何もせずに父が教えられたとおりのことを話しているのだと言っておられます。つまり、イエス様の声を聴いた者は天の父のことばを聴いたことになります。

 続いて14章11節、

11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。

 イエス様は「信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい」とおっしゃいました。イエス様は様々な奇跡を行いました。これらはイエス様が父と一つであるからこそ、可能なことです。例えば、マタイ・マルコ・ルカも含めた四つの福音書のすべてに書かれている「五千人の給食」の奇跡では、イエス様は五つのパンと二匹の魚を増やして五千人のお腹を一杯にしました。食べ物を増やすようなことは、万物を支配している天の父でなければできないことです。イエス様が湖の上を歩いた奇跡もまた天の父の助けがなければできないことですね。湖の上を歩こうとしても、普通は沈んでしまいます。しかし、天の父はすべての物理法則を支配していますから、重力を局所的に変えることもできますし、或いは水の表面張力を局所的に変えてイエス様の足が水の中に入って行かないようにもできます。

 イエス様は話す時だけでなく、何をする時にでも、いつでも父と一つのお方です。

②皆が一つになるようにというイエス様の祈り
 10節と11節の「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」は、少し表現は違いますが、ヨハネ17章のイエス様のお祈りの中でも使われています。17章21節です(週報p.2)。

17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。

 天の父はイエス様の内におられ、イエス様は天の父の内におられます。そしてイエス様は、私たちのことも、御父と御子の内にいるようにして、すべての人を一つにして下さいと父に祈っています。そうして、私たちもまた神の内にいて、神もまた私たちの内にいるようになります。

 この最後の晩餐の学びを始めてから、ヨハネの手紙第一も引用して、学びの助けにしています。ヨハネの手紙第一はヨハネの福音者の記者のヨハネと同じヨハネが書きましたから、とても参考になります。第一ヨハネ4章16節(週報p.2)、

Ⅰヨハネ4:16 神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

 私たちが御父と御子の内にいるようになるということは、神様の愛の内にとどまるということなのですね。その神様の愛は十字架の愛によって、明白に示されています。そのことを、次の3番目のポイントで改めて確認したいと思います。

③聖餐式で御父と御子と一つになる
 今ご一緒に見たように、神は愛です。この神様の愛は十字架の愛によって、明白に示されました。このこともまた第一ヨハネ4章に書かれています。第一ヨハネ4章の9節と10節です(週報p.2)。

Ⅰヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 イエス様が宥めのささげ物として十字架に付いたことで、私たちの罪は赦されました。そうしてイエス様を信じる者の中に聖霊が入って下さり、心の内の罪がきよめられます。イエス様は最後の晩餐の始まりの13章で身を低くして、弟子たちの足を洗いました。足はとても汚れていますが、水で洗い流すことができます。一方、私たちの心は足よりももっとずっと汚れています。とても頑固な汚れです。この心の内の頑固な汚れである罪は、水によってでは洗い流すことができません。私たちの罪をきよめるためには、イエス様の血が必要でした。

 最後の晩餐を覚えて行う聖餐式でいただくパンとぶどう液は、イエス様のからだとイエス様の血です。イエス様の血によって私たちの罪が赦されてきよめられることを覚えながら、私たちはこのパンとぶどう液をいただきます。そして同時に、この食事によって私たちはイエス様と一つにされるのだということも覚えたいと思います。イエス様と一つにされるということは御父とも一つにされるということです。

 こうして私たちは聖餐式で御父と御子との交わりの中に入れられて一つになり、心がきよめられて、だんだんとイエス様に似た者にされて、イエス様の証し人として、世に遣わされて行きます。

 これから持たれる聖餐式で私たちは、御父と御子の大きな愛の中にどっぷりと浸からせていただきたいと思います。この十字架の愛のゆえに私たちの心の内がきよめられ、平安をいただけていることを覚えて、感謝したいと思います。
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