平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

歩きはじめる言葉たち(2021.12.12 アドベント第3礼拝)

2021-12-13 05:30:00 | 礼拝メッセージ
2021年12月12日アドベント第3礼拝メッセージ
『歩きはじめる言葉たち』
【ルカの福音書4章16~22節】

はじめに
 一昨日の12月10日(金)から静岡東宝会館でドキュメンタリー映画の『歩きはじめる言葉たち』の公開が始まりました。東京では10月に公開されて、いま全国の映画館で順次上映されています。私は10月に東京の渋谷でこの映画を観ましたが、静岡の初日の一昨日も東宝会館に行って観て来ました。そうして礼拝メッセージのタイトルは、映画と同じ『歩き始める言葉たち』にすべきという強い促しを心の中に受けました。そこで、当初予定していたメッセージを変更します。



 このドキュメンタリー映画では、去年の3月31日に心臓病で突然この世を去った佐々部清監督への関係者の想いが語られ、また手紙で言葉が綴られます。サブタイトルも含めた映画のタイトルは『歩きはじめる言葉たち 漂流ポスト3.11をたずねて』です。漂流ポスト3.11というのは岩手県にある郵便ポストで、3.11の大震災で亡くなった方々に宛ててご遺族などが書いた手紙が投函されることで有名になったポストです。今では大震災以外で亡くなった方への手紙も投函されるようになっているそうです。映画では、佐々部監督と関係が深かった方々の手紙を俳優の升毅さんが預かり、最後に漂流ポストに投函しました。10通近くの手紙がありましたから、ポストの底に落ちた時にやや大きな音がしました。その音が耳に残り、私も佐々部監督に手紙を書かなければという思いが強くなりました。そこで、きょうの礼拝メッセージは、私から佐々部監督への手紙、という形で語らせていただきたいと思います。

 いまキリスト教会と映画の業界とは、似たような状況にあるように思います。映画は派手なアクション映画や刺激の強い暴力シーンがある映画、激しい戦闘のシーンがある戦争映画、或いはSF映画などには観客が大勢入りますが、愛が中心のジワーっと心が温まるような映画にはお客さんがあまり入らないという状況があるように思います。教会も神様の愛を感じて心が温まる場所ですが、教会には以前ほど人が集まらなくなっています。そんなことを佐々部監督への手紙に書きました。特に今のクリスマスの時期には、御子イエス・キリストを私たちのために遣わして下さった神様の愛を多くの方々に知っていただきたいと願っていますから、そのことを思いながら手紙を書きました。きょうの聖書箇所は、手紙の中で読みます。

佐々部清様
 佐々部監督と最後に会ったのが2020年の1月でしたから、もうすぐ2年になりますね。僕は今年の10月で62歳になりました。いま62歳と2ヶ月弱です。佐々部監督が亡くなったのが62歳と3ヶ月弱の時でしたから、あと1ヶ月で僕は佐々部監督が亡くなった歳になり、なお生き続けるなら、監督が生きた歳月を越えて行くことになります。佐々部監督が突然亡くなって以来、人間はいつ死ぬか分からない存在であり、自分もいつ死ぬか分からないということを、いつも考えさせられています。

 さて最近、プロデューサーの野村さんたちが作ったドキュメンタリー映画の『歩きはじめる言葉たち』を観ました。その映画の中で、佐々部監督が亡くなる20日前の2020年3月11日に書いたブログの記事が紹介されていました。東日本大震災を題材にした映画を監督は何本も企画して脚本を書いたけれども、いずれも資金が得られずに製作を断念したとのことでした。当時、僕もこのブログ記事を読んでいましたが、映画で改めて思い出しました。そして、映画の業界が抱えている問題とキリスト教会が抱えている問題が似ているように思いました。きょうはそのことを手紙に書きたいと思います。映画の業界については僕の推測が混じっていますから、間違っている部分もあるかもしれませんが、ご容赦下さい。

 佐々部監督の映画はどのような題材であれ、家族愛や隣人愛が中心にありましたね。僕たち佐々部映画ファンは、監督が描くしみじみと心にしみる愛にとても温かいものを感じて胸が一杯になり、熱烈に応援して来ました。でも、映画製作に必要な資金を出資する側から見ると、家族愛や隣人愛が中心の映画では観客数があまり期待できず、資金を回収する目途が立たないから出資できないということになるのでしょうか。家族愛・隣人愛にニーズが無いわけではなく、テレビでは多くのドラマが作られています。でもわざわざ映画館まで足を運んで、お金を払ってまで家族愛・隣人愛の映画を観ようという人は少ないだろうと出資者は考えるのでしょうか?

 でも映画館という日常生活とは異なる空間で鑑賞する家族愛・隣人愛は自宅で観るのと違って、もっと心の奥深くに浸み込むものであり、時には突き刺さるものです。自宅では、それほど集中して観ることはできませんし、画面も劇場より小さいですから、劇場ほどには心に響いて来ないでしょう。僕は佐々部監督作品の第2作『チルソクの夏』を最初に観た時に心を刺し貫かれました。そうして、もう一度観たくなって行った劇場で、監督と出会うことができました。もし最初に観たのが映画館でなく自宅でのDVDであったなら、『チルソクの夏』が僕の心を刺し貫くことはなかったのではないかと思います。

 この映画ではヒロインの郁子が、韓国人を差別する家族や周囲に反発していましたね。僕はこのことに心を刺し貫かれました。なぜなら、子供時代の僕は周囲に何ら反発を感じることなく、差別意識をそのまま受け入れてしまっていたからです。大人になってからは、差別意識はほとんどなくなりましたが、それでも微かに残っていることを自分でも感じていました。そうして職場の留学生センターで韓国人留学生のお世話をすることが決まった時、この問題をどうしても克服する必要を感じました。それで韓国の田舎で鳥を観察する韓国バード・ウォッチングツアーに参加しました。約1週間、韓国南部の田舎で韓国人の人情の温かさに触れる中で、薄っすらと残っていた差別意識は完全になくなり、僕は韓国が大好きになりました。

 しかし、かつて周囲の差別意識をそのまま受け入れて自分も差別意識を持っていた事実は消せません。どうして自分は『チルソクの夏』のヒロインの郁子のように、差別をおかしなことと思わなかったのか。この映画を観て僕は心を刺し貫かれて、心が痛みました。でも痛んだけれども、不思議な平安もまた、この映画で感じました。郁子が、自分の家族もまた別の痛みを抱えていることに気付き、家族を赦して父親にギターをプレゼントした場面は本当に感動的でした。これは劇場という日常とは異なる空間で鑑賞したからこそ、強く感じることができた痛みと平安だったのだと思います。

 出資する側は、家族愛・隣人愛では日常の延長であり、それでは観客が見込めないと考えているのでしょうか?ホラーやアクション、SFのように日常では有り得ない刺激が強い映画でないと観客が映画館に足を運ばず、資金の回収は難しいと考えているのでしょうか?そういう面もあるのでしょうね。でもそれは、佐々部監督も言っていたように、出資する側が作り出した状況なのだと思います。刺激の強い映画への出資が偏るようになった結果、観客側もそれに慣らされてしまって、家族愛や隣人愛はテレビドラマで十分と考えるようになってしまっているように思います。そうして監督が作りたかったような、しみじみ温かい映画にはますます資金が集まらないという悪循環に陥っているのでしょうか。

 おととし公開された韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』が話題になった時、僕も観ておかなければと思って劇場で観ました。途中までは面白く観ていましたが、終盤に凄絶な場面がありましたから、とても暗い気分になりました。家族の物語に、どうしてこんな殺人の場面が必要なんでしょうか?刺激が強くなければ観客が満足しないのでしょうか?こういう場面に観客が慣らされていくことは、とても恐ろしいことだと思います。

 去年公開された「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が大ヒットして日本の興行収入の歴代1位を記録しました。今の人々が何を求めているのかが知りたくて僕も観に行きましたが、またまた暗い気持ちになりました。刺激が強い凄絶な場面の中にちょっとだけ家族愛・隣人愛の要素が含まれている、こういう映画でないと多くの人々が劇場に足を運ばない時代になっているとしたら、かなりマズイ気がします。

 映画業界が抱えるこのような問題を、キリスト教会も似た形で抱えているように思います。教会の中の空間もまた、日常とは異なる場です。そうして、聖書の言葉を通して神様からの語り掛けを受け、神様の愛を感じる場です。「互いに愛し合いなさい」と神様に語り掛けられ、僕たちもそのような者になりたいと思わされる場です。神様の愛は心の奥底にじんわりと浸み込んで来るタイプのものです。また時には自分の罪深さを神様に指摘されて、心を刺し貫かれることもあります。これらは日常生活とは異なる空間の教会の中だからこそ敏感に感じることができるものでしょう。でも、今は教会に足を運ぶ人が少なくなってしまいました。人々が強い刺激を目と耳から受けることに慣れてしまった結果、心の目で見て、心の耳で聴くことが下手になってしまったのでしょうか?心の目で見て、心の耳で聴かなければ、神様の語り掛けはなかなか聴こえてきません。

 きょうの聖書箇所のルカの福音書4章16節から22節は、イエスが僕たちのために遣わされたことを豊かに物語っている場面ですが、現代人には伝わりにくくなっているのかもしれません。

ルカ4:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」
20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。

 この場面は、イエス・キリストがおよそ30歳で人々への宣教を始めたばかりの頃の記事です。クリスマスにヨセフとマリアの子として生まれたイエスが大人になり、いよいよ人々へ教えを説き始めました。その時、故郷のナザレでユダヤ教の会堂に入ったところ、旧約聖書のイザヤ書の巻物が渡されました。イザヤ書はイエスが生まれる数百年前に書かれた書です。この巻物を開いたイエスは18節と19節に書かれていることばに目を留めて、朗読しました。

18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
19 主の恵みの年を告げるために。」

 この言葉はイザヤ書61章に書かれています。そしてイエスは言いました。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」つまり、この神に遣わされた者とは自分のことであるとイエスは言いました。イエスが生まれる何百年も前に書かれたイザヤの言葉がこうして成就しました。そうしてイエスは貧しい人々に良い知らせを伝えました。この良い知らせは時間と空間を超えて現代の僕たちにも届けられています。

 イエスは神の子どもであり、天から遣わされてヨセフとマリアの子となり、クリスマスの日に生まれました。神様は私たちを愛して下さっていますから、私たちのために御子のイエスを地上に遣わして下さいました。イエスは家畜小屋という出産にはふさわしくない場所で生まれ、ナザレという貧しい田舎町で育ちました。22節にイエスを見た人々が「この人はヨセフの子ではないか」と言ったことから、父のヨセフはナザレの人々から低く見られていたことが分かります。しかし、それだからこそ、イエスは弱い立場の人々に寄り添うことができました。そんなイエスを弱くない立場の人々が十字架に付けて殺してしまいました。

 人は、こういう恐ろしい罪を心の中に抱えています。でも、イエスは人々の罪を赦しました。十字架に付けられたイエスは天の神様にこう言いました。

ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 僕たち人間は、本当に自分が何をしているのかが分かっていない罪深い存在だと思います。子供時代の僕は韓国人を差別していながら、それを罪とは思っていませんでした。大人になった今もきっと自分では気付いていない罪を多く抱えているのでしょう。

 人が「自分が何をしているのかが分かっていない」ことは、特に戦争でそれを感じます。僕が佐々部監督の映画に初めてエキストラで参加したのが、人間魚雷「回天」の搭乗員を描いた『出口のない海』でした。人間を魚雷に乗せて船に体当たりさせる特攻作戦は狂気の沙汰としか思えず、この人間魚雷「回天」を考案した人や搭乗員を募って攻撃を命じた人は、本当に「自分が何をしているのかが分かっていない」人々だと思います。

 それは、原爆という恐ろしい核兵器を落とした側にも言えます。原子爆弾を製造して落とした側の人々は、「自分が何をしているのかが分かっていない」人々です。こうの史代さんが原作の、原爆症で亡くなった女性とその家族を描いた『夕凪の街 桜の国』で佐々部監督は家族の愛をとても温かく表現していて、僕はこの映画にエキストラに参加することができて本当に良かったです。この映画では、原爆ドームの前に架かる相生橋をヒロインと反対方向に歩く通行人の役をさせてもらいました。佐々部監督もご存知のように、僕はこの映画の広島ロケに参加したことがきっかけの一つになって、キリスト教会の牧師になりました。監督は、自分の映画がきっかけで僕がそれまでの仕事を辞めてしまったことを、とても気にしていたと人づてに聞いていますが、牧師になった僕はイエス・キリストが弟子たちに説いた「互いに愛し合いなさい」という教えを人々に伝える働きができていることに喜びを感じていますから、どうぞ気になさらないで下さい。

 同じくエキストラで参加させてもらった佐々部監督のWOWOWドラマの『本日は、お日柄もよく』では、冒頭でヨハネの福音書1章1節の「初めにことばがあった」を引用していましたね。このヨハネ1章1節の「ことば」とは、イエス・キリストのことです。ですから、聖書の言葉を人々に伝えることは、そのままイエス・キリストを伝えることです。イエスが十字架に掛かる前の晩の最後の晩餐で弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と説いたこと、また十字架に掛けられた時に、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言ったことなどを、僕は聖書を通して人々にしっかりと伝えていくつもりです。

 いま静岡で上映されている『歩きはじめる言葉たち』のタイトルにも、「言葉」が使われています。遺された人々は亡くなった人への思いを言葉にして手紙に綴ります。そうして、少しずつ心が癒されて再び歩き始めることができる、という意味が込められているのでしょうか。言葉には、本当に不思議な力があると思います。特に聖書の言葉には力があります。聖書の言葉は人の心を癒し、励まし、新しい一歩を踏み出す力を与えてくれます。それは、聖書の言葉が神の言葉だからです。神の御子イエス・キリストはこの神の言葉を伝えるために、天から遣わされてクリスマスの日に生まれました。このクリスマスの時期に静岡で『歩きはじめる言葉たち』が上映されている偶然を、僕はうれしく思っています。

 いま佐々部監督がどこでどうしているのか、それは神様の領域のことですから、僕はすべてを神様にお委ねしています。ですから僕は、遺されたご家族のために祈ります。佐々部監督のご家族が天からの慰めと励ましを豊かに受けながら、健康も守られて、日々を歩んでいくことができますように、お祈りしています。
イルマーレ 窒素之助 

おわりに
 佐々部監督への手紙は以上です。イルマーレというのは私のネット上でのニックネームで、窒素之助というのはエキストラで映画・ドラマに参加する時の芸名です。

 皆さん、もしよろしければ、静岡東宝会館へ『歩きはじめる言葉たち』を観に行って下さい。この映画もまた、家庭でDVDで観るよりも、日常とは異なる空間の映画館で観るべき映画だと思います。そうして、悲しみの中にある人々が言葉によって癒され、励まされて行く過程について、思いを巡らしてみていただけたらと思います。



 そしてまた私たちは、教会という日常とは異なる空間にも、地域の方々が足を運んで下さるように願い、祈って行きたいと思います。次の聖日のクリスマス礼拝には、そのような方々がこの教会を訪れて下さるように、お祈りしていたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

ルカ4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、19 主の恵みの年を告げるために。」
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