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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

4:39-42(ヨハネの福音書注解)ヨハネの法則第一および第二

2017-11-21 10:18:20 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:39-42 ヨハネの法則第一および第二

39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。42 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 ここに書かれている二つの重要なことを「ヨハネの法則第一」および「ヨハネの法則第二」と呼ぶことにしたい。

【ヨハネの法則第一】イエスについての他人の証言を聞いて信じると、霊的イエスに出会える。

【ヨハネの法則第二】霊的イエスと出会った者は今度は自分が証人になり、他人に向けてイエスについての証言をする。

 十字架で死んだイエスは復活して弟子たちの前に現れた後に天に昇った。このイエスの昇天以降は、私たちは人としてのイエスに会うことはできなくなった。しかし、イエスに出会ったことがある者の証言を聞いて信じると、信じた者は聖霊を受けて霊的イエスに出会えるようになる。これが「ヨハネの法則第一」だ。サマリヤ人たちは女の証言を信じたので、霊的イエスに出会うことができた。このヨハネ4:39-42に書かれているのは使徒8章に描かれている「使徒の時代」の状況だ。
 そして霊的イエスに出会ったサマリヤ人たちは「自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」と証言した。今度はサマリヤ人たちが新たな証人になった。このように聖霊を受けて霊的イエスと出会った者は、今度は自分が証人になって他人に向けて自分が出会ったイエスについての証言をする。これが「ヨハネの法則第二」だ。
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4:35-38(ヨハネの福音書注解)ピリポのサマリヤ伝道(使徒8章)と重ねたヨハネ

2017-11-20 11:09:44 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:35-38 ピリポのサマリヤ伝道(使徒8章)と重ねたヨハネ

35 「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(ヨハネ4:35)

 ヨハネの福音書の重層構造に気付いていなかった時の私にとって、ここは不思議で不可解な箇所だった。何のために『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』や『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取り』が挿入されているのか、さっぱりわからなかった。しかし、ここにはピリポのサマリヤ伝道(使徒8章4~17節)が重ねられていることに気付いた時、すべてが氷解した。
 先にサマリヤに来て人々に伝道したピリポが種を蒔き、後から来たペテロとヨハネが刈り取ったのだ。ペテロとヨハネがサマリヤに到着した時、サマリヤ人たちはピリポの伝道によって聖霊を受けるばかりになっていた。それが「色づいて、刈り入れるばかりになっています」ということだ。ペテロとヨハネがしたことはサマリヤ人たちの上に手を置くことだけだったから何の労苦もなかったのだ。
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4:31-34(ヨハネの福音書注解)イエスの証人に供給される霊的な食物エネルギー

2017-11-18 10:28:59 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:31-34 イエスの証人に供給される霊的な食物エネルギー

31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:31-34)

 降誕する前のイエスは天の神殿にいた。そして地上生涯を終えて昇天したイエスは天の神殿に帰った。イエスが言っている弟子たちの知らない食物とは、この天の神殿におけるイエスの食物のことだ。人々がイエスを信じて永遠の命を得ると、それが天の神殿にいるイエスの食物となる。
 そして、この霊的な食物エネルギーは弟子たちに聖霊を通して供給される。イエスについての証言をするには多くのエネルギーが必要だ。耳を傾けない人も大勢いるし、迫害を受けることもある。イエスの証人になるには聖霊からエネルギーを受けることが不可欠なのだ。ヨハネの福音書が書かれた紀元1世紀にはまだ物理学の「エネルギー」は知られていなかったので、エネルギーの源である「食物」という言葉が用いられたのだろう。
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4:28-30(ヨハネの福音書注解)信仰の第一歩

2017-11-17 10:41:39 | ヨハネの福音書注解
●ヨハネ4:28-30 信仰の第一歩

28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。29 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

 サマリヤの女は自分がキリストに出会ったことを町の人々に証言した。この証言を信じた町の人々はイエスのほうへ向かって行った。ここには「信仰の第一歩」が描かれている。信仰は、まずは他者の証言を信じるところから始まる。すると聖霊を受けて霊的な目が開かれ、神と出会うことができる。
 信仰は信じなければ始まらない。ここに難しさがあるとも言えるし、追究のし甲斐がある奥深いテーマだとも言えるだろう。どうすれば人を信仰の第一歩に導くことができるか、現代の教会に携わる人々は皆、悩んでいる。1世紀のヨハネもまた悩んでいたのだと思う。ヨハネの福音書を読んでいると、そのことがヒシヒシと伝わって来る。
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4:25-27(ヨハネの福音書注解)キリストとの出会いは魂の領域の個人的なこと

2017-11-16 08:27:08 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:25-27 キリストとの出会いは魂の領域の個人的なこと

25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか」とも言わなかった。(ヨハネ4:25-27)

 女はキリスト(メシヤ・救い主)に出会った。はじめはイエスをキリストと認識していなかったが、イエス自身が自らをキリストと明かしたことで目が開かれたのだった。
 そこへ弟子たちが帰って来た。弟子たちがイエスと女の会話に割り込まなかったのは、人とキリストとの出会いは魂の領域における極めて個人的なことだからだ。また、イエスと女は永遠の中にいるが弟子たちは「使徒の時代」にいるからということもあるだろう。或いはまた、弟子たちは後の節に出て来る「種蒔き」(ヨハネ4:37)の現場にいなかったということもあるだろう。
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4:19-24(ヨハネの福音書注解)読者に向けられた「今がその時です」

2017-11-14 11:43:12 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:19-24 読者に向けられた「今がその時です」

19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。20 私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:19-24)


 ヨハネの福音書が書かれたのは紀元1世紀の末頃であると考えられるので、21節でイエスが「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます」と言ったことの背景には、紀元70年にローマ軍の攻撃によってエルサレムの神殿が焼失した史実があるだろう。神殿があった時には、ペテロやパウロ、ヨハネたちユダヤ人のクリスチャンも神殿での礼拝を続けていたが、神殿が失われた後はそれができなくなった。
 しかし神は霊であるので、建物の有無は関係ない。建物が有っても無くても礼拝とは霊とまことによってするものであるとイエスは教えている。
 「今がその時」とは、形式上は女に言っているが、これは読者に向けたメッセージであると言えよう。今、「イエスは神の子キリスト」と信じるなら聖霊を受けて、霊とまことによる礼拝が可能になる。一方、イエスを信じない者は聖霊を受けないので霊とまことによる礼拝を行うことはできない。この読者にはもちろん、21世紀の現代の私たちも含まれる。
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4:16-18(ヨハネの福音書注解)魂に自由と平安を与える「永遠」の時間構造

2017-11-08 08:56:38 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:16-18 魂に自由と平安を与える「永遠」の時間構造

16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」(ヨハネ4:16-18)

 本注解は単にヨハネの福音書の独特の時間構造を読者に知っていただくために連載しているのではない。真の目的はその先にあり、この独特の時間構造の中で魂の自由を獲得していただきたいと願っている。魂が自由を獲得するなら平安も得られて心に余裕が生まれる。すると、人を赦す寛容な心を持つこともまたできるだろう。そのような人が増えるなら、世界は平和に向かうだろう。
 イエスがサマリヤの女に「あなたには夫が五人あった」と言ったこの箇所は、ヨハネの独特の時間構造を示す典型のような場所だ。ヨハネ4:7でイエスが女に水を所望した箇所の注解にも書いたように、この時のイエスは北王国の預言者エリヤの中にいて、やもめに「水を持って来て、私に飲ませてください」(Ⅰ列王17:10)と頼んだ。やもめは北王国6代目のアハブ王の時代の女だから、5人の夫がいた女とは北王国の歴代の不信仰な王たちの治世下で生きてきた不幸な国民たちのことだ。女はやもめなので今のアハブ王は夫ではない。アハブはそれ以前のヤロブアム、ナダブ、バシャ、エラ、オムリの5人の王たちよりもさらに不信仰な王であったから、国民は不幸であった。なお、ジムリは北王国の民が彼を王として認めなかったので(Ⅰ列王16:16)、含まれていない。
 ヤロブアムの在位は紀元前933~911年で、オムリ王の在位は紀元前886~875年ということであるから、ヤロブアム王からオムリ王までの58年間が、サマリヤの女が5人の夫と過ごした期間だ。58年はたまたま人の一生分の範囲に納まる期間だが、これが200年や300年であったとしても「永遠」の中にいるイエスを描くヨハネの福音書にとってはあまり関係ない。私たちがこの自由な時間感覚を共有する時、私たちは魂の自由を得ることができるであろう。
 イエスがサマリヤの女に「あなたには夫が五人あった」と言った時、貧しくて小さな家庭の乱れた様子を思い浮かべるのでなく、ソロモンの王国が南北に分裂してからアハブ王に至るまでのイスラエルの王国の壮大な歴史に思いを馳せることができるなら、魂は自由を獲得して心の平安を得ることができるだろう。
 ルカの福音書に登場するマルタとマリヤの姉妹(ルカ10:38~42)に例えるなら、姉のマルタは現実に縛られながら生きているので「サマリヤの女の五人の夫」を実際の夫として思い浮かべるだろう。一方、妹のマリヤは現実を離れてイエスのみもとで思いを巡らしていたので、「サマリヤの女の五人の夫」を北王国の歴代の王たちとして思い浮かべることができるだろう。イエスは現実の時間に縛られている姉のマルタに、魂の自由を獲得して心の平安を得てほしいと願っていたのだろうと強く感じる。
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4:9-15(ヨハネの福音書注解)時間に縛られないヨハネの福音書

2017-11-06 22:37:05 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:9-15 時間に縛られないヨハネの福音書

9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである── 10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。12 あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(ヨハネ4:9-15)

 この箇所でイエスは「旧約の時代」の預言者エリヤの内にいて、やもめと話をしている(前節の説明参照)。しかし話している内容は「使徒の時代」のことで、イエスを信じる者には聖霊が注がれることについてである。「わたしが与える水」(14節)とは聖霊のことだ。永遠の中にいるイエスは「過去→現在→未来」の時間には全く縛られてはいないため、複数の時代にも同時に存在できるのだ。
 読者はこの永遠の自由な時間感覚に当初はなかなか慣れないかもしれないが、いったん慣れてしまえば、時間の束縛から解放された極めて自由な感覚を味わうことができるであろう。
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4:7-8(ヨハネの福音書注解)芸が細かいヨハネ

2017-10-31 13:41:23 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:7-8 芸が細かいヨハネ
 
7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。


 ここから、背後の時代は「旧約の時代」の北王国の預言者エリヤの時代に入る。北王国の首都はサマリヤであった。ここで弟子たちが町へ出かけて舞台から退場したのは、彼らは4章後半の「使徒の時代」のピリポのサマリヤ伝道(使徒8章)での重要な登場人物であり、「旧約の時代」では不要だからだろう。この辺り、ヨハネは本当に「芸が細かい」と思う。このヨハネの福音書の抜群の面白さを、ぜひ多くの方々と分かち合いたいと願っている。
 さて、イエスがサマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください」と言った記事は、エリヤがやもめに「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください」(Ⅰ列王17:10)と言ったことと重ねてある。預言者のエリヤには聖霊が注がれているので、エリヤの内には「霊的イエス」がいるのだ。
 エリヤの時代の北王国の王はアハブであった。アハブの前にはヤロブアム、ナダブ、バシャ、エラ、オムリの五人の王たちがいた。ジムリは北王国の民が彼を王として認めていないので(Ⅰ列王16:16)、ヨハネはジムリを王としてカウントしていないようだ。この五人の王たちとアハブのことを、ヨハネはサマリヤの女の夫に例えて「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」(ヨハネ4:18)というイエスの言葉で表した。エリヤが話した相手の女はやもめなので夫はいないのだ。この箇所でのヨハネの芸の細かさにも、ただただ感嘆するばかりだ。
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4:6(ヨハネの福音書注解)疲れていた第六時ごろのイエス

2017-10-30 19:47:59 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:6 疲れていた第六時ごろのイエス

6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。(ヨハネ4:6)

 イエスは疲れていた。このことでヨハネは背後の「旧約の時代」ではソロモン王の不信仰によってイスラエルの王国が北王国と南王国の二つの国に分裂してしまったこと、また「使徒の時代」ではステパノの殉教を機にイエスを信じる者たちへの激しい迫害が起きて、イエスの弟子たちがエルサレムから散らされて行ったことをイエスが憂えていることを伺わせる。
 一方でヨハネは「時は第六時ごろであった」と、妙に細かく時刻を表示している。この時刻表示があることで読者は「人間イエスの時代」に釘付けにされて背後に「旧約の時代」と「使徒の時代」があることに気付くにくくなっている。
 ヨハネは背後に別の時代があることを匂わせつつも、簡単にはわからないようにしている。それはどうしてであろうか?
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4:3-5(ヨハネの福音書注解)舞台は「旧約の時代」の北王国と「使徒の時代」のサマリヤ

2017-10-29 17:44:33 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:3-5 舞台は「旧約の時代」の北王国と「使徒の時代」のサマリヤ

3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。

 「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかった」(9節)のに、イエスがわざわざサマリヤを通ったのは奇妙だ。前項の2節の「イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが」も奇妙な表現であった。このような奇妙に感じる表現がある時は、舞台が「人間イエスの時代」にはないことを記者のヨハネが教えてくれている時だ。
 サマリヤが舞台のヨハネ4章は、「旧約の時代」と「使徒の時代」のどの出来事と重ねてあるのかもわかりやすい。後ろの節で、「旧約の時代」はサマリヤが首都の北王国の預言者エリヤとアハブ王の時代であること、「使徒の時代」はピリポがサマリヤでサマリヤ人たちに伝道した時代であることが明らかになる。
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4:1-2(ヨハネの福音書注解)「使徒の時代」の弟子たちによるバプテスマ

2017-10-28 20:48:29 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ4:1-2 「使徒の時代」の弟子たちによるバプテスマ

1 イエスがヨハネよりも弟子を多くつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳に入った。それを主が知られたとき、2 ──イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが──

 ここで記者のヨハネは、この書が描いている時代は「人間イエスの時代」ではないということを、かなりはっきりと示している。「人間イエス」がバプテスマを授けていたのではなく、「使徒の時代」に聖霊を受けたイエスの弟子たちの内にいる「霊的イエス」がバプテスマを授けていたのだ。
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3:31-36(ヨハネの福音書注解)誰も証しを受け入れない

2017-10-27 22:28:58 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ3:31-36 誰も証しを受け入れない

31 上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。32 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。33 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。34 神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。35 父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

 32節に「だれもそのあかしを受け入れない」とある。これは背後の「旧約の時代」と「使徒の時代」において不信仰な出来事が起きていることを示しているのであろう。前後の時代を考えるなら、「旧約の時代」においてはダビデ王の息子のソロモン王の不信仰(Ⅰ列王11章)、「使徒の時代」においては、ステパノの殉教(使徒7章)により激化したイエスの弟子たちへの迫害などが相当すると考えられる。そうして次のヨハネ4章の、「旧約の時代」においてイスラエルの王国が南北の二つに分裂したこと(Ⅰ列王12章)、「使徒の時代」においてピリポがサマリヤ伝道を行ったこと(使徒8章)へと移っていく。
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3:25-30(ヨハネの福音書注解)次世代へ継承されるクリスチャンのバトンリレー

2017-10-26 14:32:48 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ3:25-30 次世代へ継承されるクリスチャンのバトンリレー

25 それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。28 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:25-30)


 前項で見たように、この区間におけるヨハネとは、「使徒の時代」の「使徒ヨハネ」のことであると考えられる。では、ヨハネが言う「あの方」とは誰のことだろうか?普通に考えれば「人間イエス」であるが、「使徒の時代」には「人間イエス」は生きていない。それゆえ、これはクリスチャンの中にいる「霊的イエス」のことであろう。そうして使徒ヨハネの次世代のクリスチャンがバプテスマを授けているのだ。こうして、イエスを信じるクリスチャンが次世代へと次々に継承され、現代に至ったのである。
 また、この「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」は「旧約の時代」における「預言者サムエルの時代」から「ダビデ王の時代」への移行も重ねられているであろう。なぜなら次のヨハネ4章では既に列王記のソロモン王以降の時代になっているからだ。
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3:23-24(ヨハネの福音書注解)「ヨハネはまだ投獄されていなかった」とは?

2017-10-25 09:05:51 | ヨハネの福音書注解
ヨハネ3:23-24 「ヨハネはまだ投獄されていなかった」とは?

23 一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。24 ──ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである──

 「ヨハネは、まだ投獄されていなかった」(24節)の「ヨハネ」は、表面上は「バプテスマのヨハネ」のことだ。しかし本注解で繰り返し述べているように、この福音書が注目している時代は人間イエスの時代ではなく、「旧約の時代」または「使徒の時代」である。では、そのどちらであろうか。前節までは「旧約の時代」のモーセの時代とヨシュアの時代が続いたが、本節では「使徒の時代」が舞台であると考えられる。そして、ここでは時間をかなり自由にとらえる必要がある。
 24節の「ヨハネ」は「使徒ヨハネ」であろう。使徒ヨハネはパトモス島に流刑になっていた(黙示録1:9)。24節の「投獄」は、このことを指すのではないだろうか。それまでの間は、使徒ヨハネは多くの人々にバプテスマを授けていたのだ。
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