今日は歩いて藤崎八旛宮へ朔日の参拝に行った。歩いて行くのは何年ぶりだろう。というわけで、久しぶりに「文豪の道」を辿って行くことにした。「文豪の道」と言っても僕が勝手にそう名付けているだけで、地区では「八雲通り」とネーミングされて標柱も立っている。かつて小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の熊本二番目の家「坪井堀端の家」があり、八雲は毎日そこから人力車で五高へ通勤していたのでそう名付けたらしい。
しかし、僕はそれに異論がある。この道沿いには夏目漱石の熊本二番目の家「合羽町の家」もあり、また五番目の「内坪井の家」の時もこの道を人力車で通勤した可能性がある。さらに道沿いには種田山頭火が得度した報恩禅寺もあり、山頭火もまたこの道を歩いたに違いない。だから「八雲通り」というより「文豪の道」の方がよりふさわしいと思うのである。
▼坪井堀端
八雲が熊本にいた頃、ここはまだ坪井川ではなく、堀だった。写真の撮影地点あたりから堀が鉤形に曲がり、さらに30mほど先でまた鉤形に曲がっていたが、その堀の向こう側あたりに八雲の家があった。(前方の橋は空壺橋)

▼八雲旧居跡
旧居があったところには現在、某生命保険会社の社宅が建っており、八雲旧居跡の記念碑だけが立てられている。
数年前までこの記念碑と対面するように佇んでいた八雲ゆかりの地蔵堂も撤去された。

▼八雲通り
坪井堀端からまっすぐ東(手前側)に進む。左の八雲通りの標柱が立てられている公園の東側が漱石の「合羽町の家」跡。しかし、今は駐車場となり、その痕跡も残っていない。

▼報恩禅寺
八雲通りをさらに東に進むと、左側に報恩禅寺が見える。ここが山頭火が得度した寺。現在、熊本地震で損壊した部分の改修が行われているようだ。

▼漱石「北千反畑町の家」
子飼商店街(松雲院通り)に繋がる地点で八雲通りと別れ、藤崎宮を目指していくと、漱石の熊本最後の「北千反畑町の家」が見えてくる。ここは個人所有だったが熊本市が買い取り、史跡として管理していくようだ。

▼碩台小学校
藤崎宮のすぐ隣りが碩台小学校。山頭火が下通で額縁店を経営していた頃、売り込みに来たものの、商売ベタの山頭火は入るのをためらったという話が残っている。

▼藤崎八旛宮
早くも七五三祝いの家族連れがチラホラ。八雲はこの藤崎八旛宮や錦山(加藤)神社で、全国から結集した若い兵士たちが日清戦争の必勝祈願に沸き立つ様子を目撃している。
しかし、僕はそれに異論がある。この道沿いには夏目漱石の熊本二番目の家「合羽町の家」もあり、また五番目の「内坪井の家」の時もこの道を人力車で通勤した可能性がある。さらに道沿いには種田山頭火が得度した報恩禅寺もあり、山頭火もまたこの道を歩いたに違いない。だから「八雲通り」というより「文豪の道」の方がよりふさわしいと思うのである。
▼坪井堀端
八雲が熊本にいた頃、ここはまだ坪井川ではなく、堀だった。写真の撮影地点あたりから堀が鉤形に曲がり、さらに30mほど先でまた鉤形に曲がっていたが、その堀の向こう側あたりに八雲の家があった。(前方の橋は空壺橋)

▼八雲旧居跡
旧居があったところには現在、某生命保険会社の社宅が建っており、八雲旧居跡の記念碑だけが立てられている。
数年前までこの記念碑と対面するように佇んでいた八雲ゆかりの地蔵堂も撤去された。

▼八雲通り
坪井堀端からまっすぐ東(手前側)に進む。左の八雲通りの標柱が立てられている公園の東側が漱石の「合羽町の家」跡。しかし、今は駐車場となり、その痕跡も残っていない。

▼報恩禅寺
八雲通りをさらに東に進むと、左側に報恩禅寺が見える。ここが山頭火が得度した寺。現在、熊本地震で損壊した部分の改修が行われているようだ。

▼漱石「北千反畑町の家」
子飼商店街(松雲院通り)に繋がる地点で八雲通りと別れ、藤崎宮を目指していくと、漱石の熊本最後の「北千反畑町の家」が見えてくる。ここは個人所有だったが熊本市が買い取り、史跡として管理していくようだ。

▼碩台小学校
藤崎宮のすぐ隣りが碩台小学校。山頭火が下通で額縁店を経営していた頃、売り込みに来たものの、商売ベタの山頭火は入るのをためらったという話が残っている。

▼藤崎八旛宮
早くも七五三祝いの家族連れがチラホラ。八雲はこの藤崎八旛宮や錦山(加藤)神社で、全国から結集した若い兵士たちが日清戦争の必勝祈願に沸き立つ様子を目撃している。
