江戸時代から明治初期まで港町として栄えた高瀬町(現在の玉名市中心部)。旧藩時代、菊池川流域で獲れた米は年貢として平田舟で高瀬に集められた。いったん高瀬御蔵に収められた後、再び船着場から積み出され、菊池川河口で大きな五百石船に積み替えられ大坂へ運ばれた。「高瀬米」とよばれた上質な肥後米は、全国の基準米としてその年の米相場を左右したといわれる。高瀬港は、熊本藩で最大の蔵米積出し港で、取り扱われた米は25万俵にも達した年もあったという。しかし、江戸中期以降、河川の堆積などのため、高瀬は港としての機能を徐々に失い、3キロ下流の大浜がその役割を担うようになった。
明治22年に町村制が施行された時、玉名郡の20町村の中で、町は高瀬町と大浜町のみだったという。僕らの子どもの頃、現在のJR玉名駅は高瀬駅と呼んでいた。
高瀬船着場の俵ころがし
▼この「俵積出し唄」は高瀬の船着場から米俵を積み出す情景を歌った民謡。
明治22年に町村制が施行された時、玉名郡の20町村の中で、町は高瀬町と大浜町のみだったという。僕らの子どもの頃、現在のJR玉名駅は高瀬駅と呼んでいた。
高瀬船着場の俵ころがし
▼この「俵積出し唄」は高瀬の船着場から米俵を積み出す情景を歌った民謡。
♪ 肥後の高瀬のなぁ~ 御倉の米を
黒船帆まえで 沖で積む
サイジョドン サイジョドン サイジョドーンドン
ア サテ サイジョドンドーン
♪ 肥後の高瀬のなぁ~ 氏神さんは
積み出す お米の守り神
サイジョドン サイジョドン サイジョドーンドン
ア サテ サイジョドンドーン
♪ 肥後の高瀬のなぁ~ 娘がほしや
俵積み出す 若い衆が
サイジョドン サイジョドン サイジョドーンドン
ア サテ サイジョドンドーン
黒船帆まえで 沖で積む
サイジョドン サイジョドン サイジョドーンドン
ア サテ サイジョドンドーン
♪ 肥後の高瀬のなぁ~ 氏神さんは
積み出す お米の守り神
サイジョドン サイジョドン サイジョドーンドン
ア サテ サイジョドンドーン
♪ 肥後の高瀬のなぁ~ 娘がほしや
俵積み出す 若い衆が
サイジョドン サイジョドン サイジョドーンドン
ア サテ サイジョドンドーン