わが家の発祥の地は飽託郡黒髪村下立田(現在の黒髪4丁目)。明治22年に下立田村、宇留毛村、坪井村が合併して黒髪村が誕生した。この黒髪村という村名は、立田山の旧名黒髪山の麓であることに由来する。その昔、濃い緑の広葉樹林に覆われていたため黒髪山と呼ばれていたが、平安時代中期、肥後国司として赴任した清原元輔(清少納言の父)が、この山の姿に大和国(奈良)の立田山を偲んで名前を改めたといわれている。
しかし、人々の間では黒髪山とも呼ばれ続けていたようだ。夏目漱石が英語教師として五高に在職していた頃、五高に在学し漱石を師と仰いだ寺田寅彦が五高時代の思い出を綴った「栗の花」という随筆の書き出しに「三年の間下宿していた吉住の家は黒髪山のふもともやや奥まった所である。」という一節がある。この頃も黒髪山と呼ばれていたことがわかる。
また、平安時代の閨秀歌人・檜垣媼が詠んだ歌
「年ふればわが黒髪は白河の みづはくむまでなりにけるかな」(後撰和歌集)
が広く知られていたことから、黒髪山という名はこの歌もしくはこの歌をモチーフとした世阿弥の謡曲「檜垣」に由来するのではないかという説もあるらしい。しかし、檜垣媼と清原元輔は交流があったという伝説があるくらい近い時代の人だし、世阿弥の謡曲はずっと後の室町時代に作られているのでいずれにしても信じがたい。
立田山と下立田地区
白川と立田山
立田山の広葉樹林
清原元輔を祀った清原神社(熊本市西区春日)
清原元輔と交流があったという檜垣媼(後世の創作か?)
しかし、人々の間では黒髪山とも呼ばれ続けていたようだ。夏目漱石が英語教師として五高に在職していた頃、五高に在学し漱石を師と仰いだ寺田寅彦が五高時代の思い出を綴った「栗の花」という随筆の書き出しに「三年の間下宿していた吉住の家は黒髪山のふもともやや奥まった所である。」という一節がある。この頃も黒髪山と呼ばれていたことがわかる。
また、平安時代の閨秀歌人・檜垣媼が詠んだ歌
「年ふればわが黒髪は白河の みづはくむまでなりにけるかな」(後撰和歌集)
が広く知られていたことから、黒髪山という名はこの歌もしくはこの歌をモチーフとした世阿弥の謡曲「檜垣」に由来するのではないかという説もあるらしい。しかし、檜垣媼と清原元輔は交流があったという伝説があるくらい近い時代の人だし、世阿弥の謡曲はずっと後の室町時代に作られているのでいずれにしても信じがたい。
立田山と下立田地区
白川と立田山
立田山の広葉樹林
清原元輔を祀った清原神社(熊本市西区春日)
清原元輔と交流があったという檜垣媼(後世の創作か?)
こんばんは!
私の本籍地は「黒髪5丁目」です。
父が熊本大学を卒業して研修医の時に母と結婚しました。
それで大学のすぐそばです。
黒髪の地名のことを掲載してくださって、ありがとうございました。
父と週1回面会出来るので、黒髪の話をしたいです。
コロナが増えているから、また面会中止になりそうですけど。
お父様にとって思い出多い街ですね。
今、家族が入院するとなかなか逢えないのがつらいですよね。一日も早く自由に面会出来る日が戻ることをお祈りいたします。