徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

柳川のはなし。

2022-04-29 23:19:31 | 音楽芸能
 わが家の辺りは明治24年に九州鉄道が熊本まで開通した時、池田停車場(上熊本駅)から熊本市内への馬車道として開削された「新坂」ができたことによって開かれた宅地である。新坂は柳川丁を横切るように通されたのでわが家の辺りも当初は柳川丁といったらしい。柳川丁は、関ヶ原の後、加藤清正が柳河立花藩の家臣団を引き取って住まわせた「柳川小路」が、明治時代になってから柳川丁となったものである。柳川丁はやがて町名変更で京町本丁や京町2丁目へと変わったが、わが祖母はずっと柳川丁と言っていた。
 そんなわけで筑後の柳川についても幼い頃から親しみを感じていた。柳川には今まで何度も訪れているが、コロナ騒動後、足が遠のいている。安心して行ける日が早く来てほしいものだ。

 柳川と聞けばまず思い出すのは、多くの人がそうであるように北原白秋のこと。白秋の生家にも三度ほど訪れた。白秋の童謡はもちろんだが、彼が少年時代を過ごしたふるさとを描いた「水郷柳河」などの随筆が大好きである。
 水郷柳河を、廃市(廃れた町)と言い、街を掘り巡らした水路やたった一つ残った遊女屋懐月楼や古い白壁など、故郷の水郷の町の廃れゆく姿とそこで暮らす人々の哀感を、愛を込めた眼差しで描き出している。
 しかし、今日では柳川は白秋の時代とは全く様相を異にする観光都市として賑わっている。


公園橋から


沖の端


柳河の風情を唄った長唄舞踊「水の上」