徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

渋川玄耳の家

2020-02-27 21:55:38 | 歴史
 わが家の裏から見える瀬戸坂沿いの家が解け更地になった。新しい家が建つのだろうか。ここは実は明治時代のジャーナリストで俳人でもあった渋川玄耳が熊本時代に住んでいた家があったところ。そのことを示す石柱も立っている。



 渋川玄耳は佐賀県の出身で、陸軍法務官として熊本の第六師団に勤務していた頃、夏目漱石を主宰とする俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加していた。漱石が英国留学中は紫溟吟社を支え、機関紙「銀杏」を創刊、熊本の俳句文化の基礎づくりに貢献した。後に、朝日新聞の礎を築いた熊本出身の池辺三山に招かれ社会部長となると、夏目漱石を社員として東京朝日新聞へ招いたり、朝日歌壇の選者に石川啄木を起用したことでも知られる。
玄耳が住んでいた頃の瀬戸坂界隈の雰囲気は遠い昔の話になってしまった。
 玄耳が詠んだ俳句を一句
 「探梅や右は椿の日かげ路」