徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

高砂の松

2018-02-24 21:37:05 | 文芸
 2月も終りに近づいたというのに、床の間の掛軸が正月用の「高砂の松」のままになっていることに気付いた。まぁおめでたい掛軸だから、とかズボラさの言い訳をする。
 この掛軸は能「高砂」の一場面を描いている。

 肥後の国、阿蘇の宮の神主友成は、都へ上る途中、播州高砂に立ち寄り、浦の景色を眺めていると、そこへ竹杷と杉箒を持った老人夫婦が現れ、松の木陰を掃き清める。

 所は高砂の。所は高砂の。尾上の松も年ふりて。
 老いの波も寄り来るや。木の下蔭の落ち葉かくなるまで、
 命ながらえて。なほ何時までか生の松。
 それも久しき名所かな、それも久しき名所かな。

 この場面からさらに連想するのが、「おい」と声を掛けたが返事がない。という漱石「草枕」の一節。

 その上出て来た婆さんの顔が気に入った。二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが橋懸を五六歩来て、そろりと後向になって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。

 これはおなじみ峠の茶屋の婆さんとの出逢いのくだり。そこまで連想するのがいつものおきまりなのである。

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これならわかる!夏目漱石の「草枕」