ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

歌え若者〜ラジオから生まれた音楽たち〜1

2016-10-27 10:09:00 | メディア
熱烈な甲斐さんファンの家族ブログとして(笑)
今までにも岸川さんについては度々ご紹介して参りましたが

岸川さんがお亡くなりになって10年…
岸川さんの母校である西南学院提供のこの番組
やはり触れない訳にはいきません(笑)

1962年にKBC九州朝日放送に入社された岸川さんが
「ラジオ制作にまわされたので
アマチュア登場の企画書を書いては出し、書いては出して
ずっとボツばかりでしたが、5年目にやっとスタート出来た

最初は30分番組の[みんなで一緒に]でしたが
これを踏み台にして、昭和44年に[歌え若者]が1時間番組で登場したのです

[歌え若者]は、上手下手関係なく受付順で、どしどし登場させました
自分たちの歌の演奏が電波に流れるので若い連中に大変ウケました」

…と、西日本シティ銀行発行の「博多に強くなろうシリーズ」No.62
「フォークの旗手と[照和]物語」で話されていた通り

この番組でも、60年代のフォーク・ムーブメントの中
グループでなくてもギターの弾き語りで、気軽に音楽がやれるようになり
自分で作った歌を歌いたい、誰かに聴いて欲しいという若者たちが

オーディションなしで誰もが参加できる
「九州の民放のどこも作ってなかった」番組に
「応募ハガキが殺到」したと紹介されてました

もっとも、岸川さんによると…
「当時、長髪の若い連中がジャンジャンうるさくギターを弾いて歌う番組に
酔狂なスポンサーはつかなかった(笑)

だから、どうしても番組の廃止論が出る
4月と10月の番組編成の時期は、いつも孤軍奮闘でした」と…(汗)

奥さんが、セイヤングにCMが入らなくなった際に
番組継続を心配し、投稿数を気にするのは
この話が頭にあるからじゃないかと…(苦笑)

ともあれ、奥さんが新潟駅のホームで、この番組を聴き始めた時
いきなり「唯一無比…他の誰とも比べようがないという存在ですから」

…と話される甲斐さんの声が聴こえて来て
「この声が唯一無比だよねぇ♪」と思ったんだとか…(笑)

もちろん、奥さんにとっては
小学生の頃から慣れ親しんだ声なんだけど(笑)
そういうことを差し引いても

普段、甲斐さんの歌を聴いておられない方がお聴きになっても
他の出演者の方の声とは間違えようがない独特な声だと再認識したらしい

まあ、ラジオから流れて来た【バス通り】にハマったのも
ひとえにその声のせいなんですが…(笑)

それはさておき…「歌え若者」のことは
甲斐さんも今までよくお話しになっていますけど
「歌いながら来た人は一緒に手拍子連れて来た
ギターを弾いて来た人は一緒に微笑み連れて来た…」という
この番組のテーマソングは初耳でした(笑)

財津和夫さん、姫野達也さん、上田雅利さんや
さだまさしさん、根本要さんも皆さん、初対面の時の岸川さんについて
「怖そう」とか「厳しい人に見えた」とおっしゃってるんだけど

甲斐さんは、岸川さんから照和に電話があった際に
「西南大学グリークラブの出身だからか、やわらかくてメリハリのある
それでいて丁寧な口調で[会わないか]と切り出された」ことを
「面白いなあ、この人って思った」そうで(笑)

「数日後、時間通りに行くと、1階の喫茶店にすでにその姿があり
座るや否や[なぜ私の番組に出ないんだ]とたたみ込まれた」と甲斐さん

この番組では「お化け番組になっていた」とおっしゃいつつも
「その頃は[イッパシ]な感じだった(笑)から出る必然性がないかな」とか

「チューリップが東京に出て行った後
その亜流みたいなバンドばっかり出てたから」とか…(笑)

でも、その「マンネリっぽいヤワな空気に満ち満ちていて
聴く度にウンザリしていた」番組の「伝説のディレクター」に
「[じゃあ、お前がそれを変えろ]と言われた」ことと

「電話で…とか、他の人から言われて…だったら出なかった
直接、会いに来た」岸川さんの言葉だから納得なさったんでしょうね(笑)

甲斐さんご自身も照和のオーディション係として
妙安寺ファミリーバンドに出演依頼をされる際に
「[チーフ自ら口説かないと無理だ]と
シャイな店長を説き伏せた」みたいですし…(笑)

「岸川さんと根底では分かり合ってると思ってる」というのは
そういう波長の合い方のことをおっしゃってるんじゃないかと…?

甲斐さんに「僕の歌、いつ聴いたんですか?」と訊ねられた岸川さんが
「バカ野郎!俺は(照和に)聴きに来たことがあるんだ」とお答えになったことも

「何でも自分の目で見て聴いて
触って確かめないと信用しない」という甲斐さんと
よく似ていらっしゃるような気が…(笑)

その「歌え若者」に出演なさった時に甲斐さんが歌われたのが
【スウィート・キャンディ】【あの頃】【さよなら】だったと
ノートに記されていたという岸川さん

「成功すると直感した若者には
コンテストに出るように勧め、積極的に支援した」そうですが

一方で「お前、無理だな、諦めろ
人生考えた方がいい」とか(汗)
「一番好きなことは取っといた方がいいよ」とか

特に「ビッグ4」の出現で、博多が「日本のリバプール」と呼ばれた頃には
「のぼせ頭に水をかけることばかりしていましたね(笑)」と話されてます

「東京で成功するのは何百人にひとりでしょう
地方の民放局の1ディレクターが
[お前、東京へ行け、成功する]なんてとても言えない。そりゃ悩みましたよ

それに東京は遠かったんですよ
距離的にも、メンタルでも遠かった
そして、レコードを売り込むのにどうしたらいいのか
プロダクションのことやら、なんやら
そのノウハウを私達も知らなかった(笑)」ともおっしゃってます

でも、ご自身も高校、大学とグリークラブで鍛えられた歌声で
プロとして世に出られるチャンスがおありだったのにも関わらず
その道を断念なさっただけに

「プロとして通用するか?趣味の範囲の才能か?」を見極める
確かな目をお持ちだったのかなあと…?
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