北朝鮮軍は7日、韓米合同空中演習「ビジラントストーム」に対抗した軍事作戦(2~5日)の内容を日付別に公開し、今月2日、蔚山(ウルサン)沖に巡航ミサイル2発を発射したと主張した。

2022-11-09 10:16:52 | 朝鮮を知ろう。
 

北朝鮮「2日、蔚山沖に巡航ミサイル2発発射」…

韓国合同参謀本部「事実と異なる」

登録:2022-11-08 05:17 修正:2022-11-08 07:51
 
 
北朝鮮の国防科学院が「9月11日と12日に新たに開発した新型長距離巡航ミサイルの発射実験を成功裏に進めた」と、労働新聞が昨年9月13日付の2面トップ記事で報じた/朝鮮中央通信・聯合ニュース

 北朝鮮軍は7日、韓米合同空中演習「ビジラントストーム」(10月31~11月5日)に対抗した軍事作戦(2~5日)の内容を日付別に公開し、今月2日、蔚山(ウルサン)沖に巡航ミサイル2発を発射したと主張した。一方、合同参謀本部(合参)は「北朝鮮の主張は事実と異なる」と反論した。

 北朝鮮の「朝鮮中央通信」は同日、「北朝鮮軍総参謀部報道」を通じて、ビジラントストームを「過去最大規模」で、「侵略的性格が非常に強い危険な戦争演習」だとし、「共和国の武力の軍事的能力に対する明確な自信を示し、断固たる報復の意志に必勝の確信を加えるため、対応軍事作戦を断行した」と報じた。

 北朝鮮軍は2日、作戦状況について「敵が南朝鮮の『領海』近くにわが軍のミサイルが落弾したと主張し、空対地誘導弾と滑空誘導爆弾で我々側の公海上に対応射撃する妄動を犯した」とし、「咸鏡北道地域から590.5キロメートルの射程距離で、南朝鮮地域の蔚山の80キロ付近の水域の公海上に2発の戦略巡航ミサイルで報復攻撃を加えた」と主張した。

 北朝鮮軍のこのような主張は、今月2日の合同参謀本部の説明とは食い違っている。当時の合同参謀本部の発表には、今月2日午前、北朝鮮の弾道ミサイル1発が東海(トンヘ)の北方限界線(NLL)を26キロメートル超え、江原道束草(ソクチョ)から東に57キロメートルの公海上に落ちたという内容が含まれていたが、北朝鮮が「蔚山沖に戦略巡航ミサイルを発射」したという内容は含まれていなかった。合同参謀本部のキム・ジュンラク公報室長はこれに対して「韓米の監視・偵察資産の探知および分析結果によると、北朝鮮の主張は事実と異なる」とし、「現在まで韓国軍に捕捉・探知されたことはない」と述べた。

 韓米情報当局の弾道ミサイル探知レーダーが北朝鮮の巡航ミサイルを逃した可能性もあり、また、北朝鮮が実際に巡航ミサイルを発射していないのに発射したと主張し撹乱作戦を展開した可能性もある。

 合同参謀が北朝鮮ミサイルを探知・追尾する手段は、忠清圏と釜山(プサン)に配備されたグリーンファイン・レーダーと海に配備された海軍イージス艦のレーダーだ。これらのレーダーは数十キロメートル以上高度まで上昇した後、落下する放物線を描く弾道ミサイルの探知に焦点を置いており、数キロメートル以下の低い高度に飛行する巡航ミサイル探知には限界がある。地球は丸いため、北朝鮮が発射したミサイルが一定高度以下であれば韓米情報当局の探知が難しいという。昨年9月13日、北朝鮮が最大射程距離1500キロメートルの長距離巡航ミサイルの発射実験に成功したと発表したが、当時韓米情報当局はこのミサイルの探知・追尾に失敗したという。

 一方、軍当局は、北朝鮮が今月3日に大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験を行い、正常飛行に失敗したと分析したが、北朝鮮は同日の報道文にはこれについて言及しなかった。

クォン・ヒョクチョル記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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軍倉地は、百済時代から朝鮮時代まで守備軍が食べる軍糧米を備蓄した倉庫の場所だ。泗沘都城の北側の扶蘇山を覆い王城を守る要衝地の役割を果たした扶蘇山白の核心的な領域であり、

2022-11-09 09:52:16 | 韓国を知ろう
 

百済王宮の跡地の手がかり?…

扶余の軍倉庫跡から瓦が積み重なっている所を発見

登録:2022-11-09 06:43 修正:2022-11-09 08:50
 
百済の瓦積基壇の建物跡2カ所を確認
 
 
軍倉地から最近発見された瓦積基壇の詳細断面。他の材料を混ぜず瓦を10段以上整然と積み重ね基壇を作ったことがわかる=国立扶余文化財研究所提供//ハンギョレ新聞社

 1300年ほど前に燃えた米粒が今でもたびたび出土し、百済滅亡の非運を教えてくれる場所。白馬江沿いの落花岩(ナクファアム)に隣接する古代の軍糧米貯蔵庫「軍倉」が、百済時代の宮廷の実体を表す手がかりとして浮上した。

 6~7世紀、百済最後の都である泗沘城(シビソン)だった忠清南道扶余邑(プヨウプ)の扶蘇(プソ)山城内部の軍倉地から、当時の王宮級の大型の建物跡が発見された。国立扶余文化財研究所は、山城内部の平地の中心的な建物群を把握するため、最近、軍倉地を発掘調査したところ、瓦を10段以上積みあげ基壇を築いた大型の建物跡を2カ所確認したと7日発表した。

 
 
軍倉地から発見された百済の瓦積基壇2カ所の現場の様子。左の白点線内は「北側軍倉地」、右の白点線内は「南側軍倉地」=国立扶余文化財研究所提供//ハンギョレ新聞社

 発見された2カ所の建物跡は、横の長さがそれぞれ16メートルと14メートル以上あり、軍倉地の東南側に南北軸で配置されている。瓦を重ね基壇を築く百済特有の瓦積基壇の形式を示している。瓦積基壇は、扶余の定林寺址・王興寺址・官北里遺跡や、全羅北道益山(イクサン)の王宮里遺跡など、百済王朝の中心的な建物跡で確認される特徴的な要素だ。これまで確認された百済の瓦積基壇では、平均で5~6段程度の瓦が残されていたことに比べ、今回発見された瓦積基壇は最大で20段近く残されており、保存状態も最良といえる。研究所側は「瓦積基壇の建物跡のなかでは規模が大きく、一定の南北軸の配置構図を有しており、精選された瓦で基壇を築いた事実などから、百済王宮の跡地の実体を明らかにする手がかりになるものとみられる」と明らかにした。

 
 
軍倉地と瓦積基壇の建物跡を空中から撮影した図解用写真。扶余邑の北にある扶蘇山を覆った扶蘇山城内部の東南区域に位置する。左上から時計回りに「落花岩」「軍倉地」「三忠祠」、左下端は「官北里遺跡」=国立扶余文化財研究所提供//ハンギョレ新聞社

 軍倉地は、百済時代から朝鮮時代まで守備軍が食べる軍糧米を備蓄した倉庫の場所だ。泗沘都城の北側の扶蘇山を覆い王城を守る要衝地の役割を果たした扶蘇山白の核心的な領域であり、1915年に土中から燃えた穀物が発見され、後代に伝えられた。1981~1982年の発掘調査で倉庫跡の構造が明らかになり、1993年の調査時には、「大唐」の文字が刻まれた旗や中国製の磁器などが出土した。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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