[インタビュー]
「ハンギョレは時代が作り、国民の努力が成し遂げた結実」(前編)
インタビュー:アン・ジェスン論説委員室長
ハンギョレは時代が作り
独裁の暴圧の中で苦しんだ
国民の努力が成しとげた結果物
朝中東をみれば、長く続いていることが自慢にはならない
本来の役割を果たすことが重要
差別される人びとに希望を与え
朝鮮半島の平和に貢献したハンギョレ
自負心を持つに足る
ハンギョレが18日で第1万号の新聞を発行した。1988年5月15日に創刊されたため、ちょうど32年と3日だ。ハンギョレ創刊の主役であるイム・ジェギョン初代編集人兼副社長は「ハンギョレは時代が作り、軍事独裁政権の暴圧の中で共に苦しんだ韓国国民全体の努力が成しとげた結実だ」と振り返った。イム元編集人は、1980年に全斗煥(チョン・ドゥファン)新軍部によって韓国日報から強制解雇された後、民主言論運動に邁進し、1988年のハンギョレ創刊に参加した。
イム元編集人は1991年8月10日、ハンギョレの第1千号の新聞1面コラム「発行1千号を迎えて」で、「ハンギョレがこの時代最高の公共財として残ることを願う」という望みを明らかにした。イム元編集人は「ハンギョレはさまざまな面で差別を受ける人びとや抑圧された人びとに希望を与え、朝鮮半島が紛争の種になることを防ぎ、平和を模索するのに貢献した」とし、「もちろんここに安住してはならないが、自負心を持つに足る」と述べた。
イム元編集人とのインタビューは先月29日、ハンギョレ新聞社で行われた。
-ハンギョレが5月18日で第1万号を発行します。ハンギョレ創刊の主役の一人として、感想はいかがですか。
「発行号数というのは人間でいえば寿命で生命体から見れば生存期間ですが、これは必ずしも長く続いているからといって価値があるとは思いません。したがって、発行号数だけで自慢できるものではないと思います。朝鮮日報と東亜日報をごらんなさい、100年を迎えたでしょう。中央日報も50年を越えました。しかし、これらのメディアが本来の役割を果たしているのかを考えると、発行号数が、すなわちその新聞の存続期間が長いということがそのまま新聞の価値を意味するわけではないということです。
私は韓国のメディアとして三紙を選ぶなら、独立新聞、日帝強制占領期に呂運亨(ヨ・ウンヒョン)先生が作った朝鮮中央日報、4・19の直後に出た民族日報を挙げます。しかし、独立新聞は3年ももたず、朝鮮中央日報も3年続かなかった。民族日報はわずか4カ月、発行号数では92号、100号に至らなかったのです。ハンギョレはこの3紙よりずっと長く維持しており、ハンギョレの創刊に参加した者として誇らしい気持ちを隠し切れないですが、だからといって発行号数1万号に浮かれて興奮することではないと思います」
-発行号数1万号という数字ではなく、ハンギョレがこれまで韓国社会でメディアの役割をきちんと果たしてきたかが重要だということですね。
「ハンギョレが、100人のうち100人全員に満足感を与えたとは思いません。しかし、多くの国民に何らかの期待を与え、希望を失わないようにしたとは思います。ここ数年間だけ見ても、もしハンギョレがなかったら『ろうそく革命』が可能だっただろうか、文在寅(ムン・ジェイン)政府が誕生しただろうか、4・15総選挙の結果がこのように出ただろうか、そんな風に考えます。また、政治的変化だけでなく、ハンギョレはいろいろな面で差別を受ける人びとや抑圧された人びとに希望を与え、朝鮮半島が紛争の種になることを防ぎ、平和を模索できるよう貢献しました。もちろんここに安住してはならないが、自負心を持つに足ると思います」
-1988年のハンギョレ創刊が韓国社会で、また韓国の言論史で持つ意味は何でしたか。
「狭く見れば、1970年代中盤の東亜日報と朝鮮日報の自由言論闘争、そして1980年の全斗煥軍事政権の記者の大量解雇と関係があります。しかし、長い目で見れば、李承晩(イ・スンマン)、朴正煕(パク・チョンヒ)、全斗煥につながる暴圧的勢力から解放された全国民的な欲求が、ハンギョレという実を結んだのではないか、私はそう思います。ハンギョレは一つの時代が作ったものだと言いたいです。そのような意味で、ハンギョレを創刊した解雇記者たちも少し謙虚になる必要があると思います。私たちが全てを掲げて作ったという誇りを持つのはいいが、ハンギョレは時代が作り、軍事独裁政権の暴圧の中で共に苦しんだ韓国国民全体の努力が成し遂げたものだ、こう見るべきだということです」
-時代が作ったということですが、当時の時代精神を一言でまとめると?
「政治的暴圧に抵抗するのは『天賦の権利』だ、最近よく使われる言葉で言えば『主権在民』の原理です。大統領が主人ではなく、この地の平凡な国民が主人だということです。ろうそく革命の核心でもあります。朴槿恵(パク・クネ)は大統領だがあなたが主人ではない、あなたの思い通りにしてはならない、あなたは退くべきだ、これが成功したのが主権在民の原理です。もちろん主権在民の原理は過去にもありましたが、韓国社会ではハンギョレが創刊された頃から芽生え始めたと思います」
-ハンギョレの創刊当時、国内外のメディアが関心を示したと聞いていますが。
「そうです。外国の新聞・放送が、はたしてこのメディアがまともに維持できるのか疑問を呈しました。当時、ル・モンドのソウル駐在記者と数回会いましたが、非常に悲観的に見ていたんです。フランスのように市民意識の高い国でもル・モンドのような新聞が絶えず財政的危険にさらされているのに、はたして韓国で可能なのか?軍部、財閥、官僚、また朝中東(朝鮮日報・中央日報・東亜日報)のような勢力がハンギョレのような新聞を許すのかと、冷静に見ていたのです。ところが32年間維持され、1万号まで発行されたのだから、本当にすごいことです」
-当時、国内メディアの反応はどうでしたか。
「1988年9月、韓国言論会館で第100号を記念して祝宴を開きました。名前は言いませんが、朝中東の発行人の一人が来ました。私と握手しながら言う挨拶が『そろそろ落ち着いてきましたか』と。そう言いながら私の肩を叩くんです。励まそうというのではなく、『やい、どれだけ続くか見ようじゃないか』という表情がありありと見えたのです。それで何も言いかえしませんでしたけどね」
-ハンギョレは世界の言論史で初めて権力と資本からの独立を掲げた「国民株新聞」です。そのぶん、創刊初期から新聞製作と新聞社の運営に困難が多かったのでは。
「サムスンは最近は広告を出していますか?どうですか?」
-イ・ジェヨン副会長に対する批判的な報道を出しているので…
「創刊から数年間はサムスンとは全く対話がなかった。企業はどのメディアとも敵対的関係を持とうとはしませんが、ハンギョレには敵対的な態度を見せたのです。広告を出さない程度ではなく、最初から会ってくれませんでした。私が面会を何度も申し込んだが、会ってくれない。『どうせあんた方は長続きしない。だからあんた方と敵対関係を結んでも構わない』といったところです。ところが彼らが見誤った。ハンギョレの未来を見誤っただけでなく、韓国国民を見くびっていたのです」
(続)
[インタビュー]
「ハンギョレは時代が作り、国民の努力が成し遂げた結実」(後編)
インタビュー:アン・ジェスン論説委員室長
大株主のいない新聞
「衆口塞ぎがたし」になるしかないが
「一糸乱れず」よりは良い
第1千号に書いた「公共財」の願い
ハンギョレの役員・社員も謙虚になるべき
この時代の価値を具現化すること
-当時、盧泰愚(ノ・テウ)政権の弾圧もひどかったでしょう。
「代表的なのが『リ・ヨンヒ先生訪朝取材計画』事件と『ソ・ギョンウォン議員訪朝取材手帳』事件です。リ・ヨンヒ先生が1989年1月、金日成(キム・イルソン)主席のインタビューをするために、日本の岩波書店を通じて北朝鮮に手紙を送ろうとしました。しかし同年3月、文益煥(ムン・イクファン)牧師の電撃的な平壌(ピョンヤン)訪問で公安政局が造成され、訪朝計画を断念しました。実際に手紙も渡すことはできませんでした。にもかかわらず、安企部(国家安全企画部。現在の国家情報院)が4月、国家保安法上の鼓舞称揚罪に問われたリ・ヨンヒ先生をまず連行し、次に私を連行しました。安企部で調査を受けている間を考えると、ハンギョレ新聞社の登録取り消しが彼らの目標だったのです。後で聞いた話ですが、当時、盧泰愚政権も南北基本合意書の締結のためにパク・チョルオンが密使として北朝鮮に出入りしていたんです。南北基本合意書を推進する側が、ハンギョレを叩くのもいいが、南北関係の助けにならないのでこの程度にしておこうと言ったそうです。それでリ・ヨンヒ先生を拘束し、私は立件状態で曖昧に縛っておいたんです」
-ソ・ギョンウォン議員事件の時は、安企部が強制捜索までしましたよね。
「ソ・ギョンウォン平和民主党議員が党指導部にも知らせず、1988年8月に平壌を訪問して金日成主席に会ったんですが、ユン・ジェゴル記者がこの事実を知って取材をしました。ただ、平和民主党がソ議員の訪朝の事実を公開するまでは報道を控えていました。しかしソ議員が1989年6月、当局に訪朝の事実を自ら知らせて拘束されました。すると安企部が、ソ議員の訪朝の事実を知っていながらなぜ申告しなかったのかと言って、国家保安法上の不告知罪を適用し、ユン記者の取材手帳を提出するよう要求しました。私たちが取材源保護の原則を守らなければならないと拒否すると、安企部が7月12日未明、警察1中隊を動員して編集局の強制捜索を強行したんです。ハンギョレの役員や社員たちが会社の入り口で体を張って防いだんですが、警察が鉄の扉を壊して入り込み、取材手帳を奪っていきました。盧泰愚政権がハンギョレをこれ以上放っておいてはだめだと考え、強硬手段に出たんだと思います」
-盧泰愚政権がどうにかして言いがかりをつけてハンギョレの発行を取り消そうと、虎視眈々と狙っていたんですね。国民株新聞は世界初の実験でしたが、新聞社の内部の状況はどうでしたか。
「自画自賛ばかりしてはいけないし、率直に話しましょう。ハンギョレには大株主がいないので、よく言われるのが『オーナーのいない新聞』です。『衆口塞ぎがたし』(衆口難防=大勢の人がやかましく騒ぎたてること)という言葉があります。あちこちで騒いだらどうにもできないんです。新聞作りというのは本当に複雑でしょう?毎日作らなければならないし、誤字一つ出ても問題になる。社員の給料も出さなきゃならない。こんなに複雑なうえに、衆口難防だったんです。3年に一度ずつ社長を選出して、編集局長を選出して。その度にわいわいがやがや。この人たちが新聞を作りに来たんだか、選挙のために来たんだか。今はどうでしょうね? ところで衆口難防の反対は何かわかりますか。『一糸乱れず』です。でも一糸乱れぬことははたして新聞が目指す価値でしょうか。衆口難防が大変なのは事実だが、それはハンギョレの持ち前の条件なんです。最初から衆口難防だったんですよ。それで私たちが一糸乱れぬ新聞を目指すのでないなら、衆口難防を甘んじて受け入れよう、そうしたのです」
-第1千号(1991年8月10日)発行のとき、1面に書かれた記念コラムで「ハンギョレがこの時代最高の公共財として残るように」と望んでいましたが、今ハンギョレがその役割をちゃんと果たしていると思いますか。
「公共財というのは、英語ではパブリックグッズ(Public Goods)ですが、商品ではない。新聞を1部当たり1千ウォン(約87円)、1カ月で1万8千ウォン(約1560円)する商品だと考えてはならないということです。そのため、通常の商品の持つ条件に縛られては困ります。『ハンギョレは“ブランドパワー”がある』という人もいますが、私はそれにも反対です。商品として持つ威力は拒否しなければならないと思います。では何なのか?この時代が持つ価値、新聞はその価値を具現化しなければなりません。ただ、公共財だとしても、飽きられたらは困るので、読者に親近感を与えなければなりません」
-最後に、後輩たちにお願いしたいことはありますか。
「私が冒頭で、解雇記者たちがもっと謙虚になるべきだ、ハンギョレを自分たちが作ったと自慢してはならないと言ったように、今のハンギョレの役員や社員たちも謙虚になるべきだと思います。言い換えれば、ハンギョレはこの社会の民主化を熱望した国民の真心と努力の結果だということを、一時も忘れないでほしい。この話を必ずしたいです」(了)