8703の部屋

「ハナマルサンの部屋」です。音楽、スポーツ 世相 等々 気ままに綴ります

わが合唱歴⑧~今&これから~3.

2011-10-24 06:23:31 | 合唱
私の呼びかけに賛同する人たち数名が集まって相談の結果、混声合唱団にすること、団名は「樹」にすること、練習は、当面は月2回、江別市大麻公民館で第二・第四水曜日の18時~21時に行うことなどが決まった。団員も10名ほどまでは順調に集まり団長も決まった(森本えみ子代表)。そして、5月から練習を始めたのだが、予想通りの困難に遭遇した。それは、男性団員の不足である。これは当初よりある程度想定していたことではあるが、あえて混声にこだわり、これからも混声合唱団「樹」として活動を続けようと思っている。“焦らず、急がず、楽しく歌う”をモットーに練習をしているが、なかなか団員は増えないし、仕事の都合で練習に毎回は参加できない人もいるので、何とか団員数を20名に近づけること、そして、一日も早く各パートが程よく揃った状態で混声四部合唱曲に取り組めるようになることを願っている。


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わが合唱歴⑧~今&これから~2.

2011-10-23 07:49:08 | 合唱
わが合唱歴を概観しながらここまで記述して来たが、あらためて読み返してみると、説明が不十分な箇所とか、抜けている項目に気づく。それらについては、「まとめ」の項で補足しようと思っているが、今を語る時に欠かすことの出来ないことがある。それは、2010(平成22)年4月に発足した混声合唱団「樹」のことである。この団は、私が自らの古稀を機に構想し提唱して発足した団である。なぜ、今、新合唱団を立ち上げるのか?疑問に思う人もいたようであるが、ある時、私には「天の声」が聞こえたように感じ、思い立ったのである。これまで、高校生、大学生を対象にした合唱活動が中心であり、一般合唱団に関しては短期間であったり、単発的であったり、いわゆる、常任として長期の指揮活動が無かった。そして、教員を辞してからは大学合唱団の客演指揮や、新設の吹奏楽団の指揮などをやっていて、常設合唱団の活動には関わっていなかった。そのような時に古稀を迎えて思ったのが「わが合唱人生の集大成として(少々大げさに)、一般の合唱団を作る」であった。そして、それが私には「天の声」と感じ、思い立ってから約一月で混声合唱団「樹」が誕生したのである。
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わが合唱歴⑧~今&これから~1.

2011-10-22 07:41:48 | インポート
2004(平成16)年3月をもって札幌国際大学を定年退官し今に至っているが、在任中からやっていた対外的な役職は継続している。札幌合唱連盟理事、札幌市民芸術祭実行委員、NHK全国学校音楽コンクール審査員(北海道)、Tokyo Cantatサテライトセミナー実行委員長(まなみーる合唱セミナー実行委員長)などであるが、引き続き合唱を愛する人のために微力を注ぎたいと思っている。なお、新たな試みとして本年2月、小樽市において開催した「交流演奏会」(実行委員長 中村浩)は、言いだしっぺの一人としてぜひ継続して行きたい行事と考えている。第2回目は2012年2月11日(土)に1回目と同じ小樽マリンホールで開催する予定である。

2003年4月に千歳市民会館を会場にして初めて開催した「Tokyo Cantatサテライトセミナー」は、2回目(2005年)からは岩見沢市民会館「まなみーる」を会場にして行っている。招聘講師はサボー、ホグセット、オルトナー、プトニンシュという世界的に活躍する合唱指導者であった。そして、サテライトセミナーが行われない年には、「まなみーる合唱セミナー」を開催している。これまでに来ていただいた講師は、当間修一、木下牧子、信長貴富の各氏である。2012年4月28日(土)には、6回目のサテライト・セミナーをカール・ホグセット氏を講師に開催の予定である。

そして2013年は、われわれセミナー実行委員会が行う10回目のイヴェントとなる。そこで、10回一区切りと考えて記念のセミナーにしようと考えている。2013年4月28日(日)に「まなみーる合唱セミナー」を松下耕氏を講師に開催予定である。そして、松下氏には記念曲を2曲(女声、混声各1)委嘱し、初演指揮をお願いしている。
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わが合唱歴⑦~出会いと転進~2.

2011-10-21 12:14:06 | 合唱
新任の短大では「静修短期大学合唱団」の顧問・指揮者として18年間在任した(途中、静修女子大学合唱団、札幌国際大学合唱団と団名が変わった)。着任して2回目の定期演奏会で青島広志氏の作品をメインステージとして演奏した。以来連続10年、定演の最終ステージは青島作品を、青島さんの演出、ピアノで上演し、「静修の青島ステージ」として一定のフアンを獲得していた(はずである)。「女の平和」、「11匹のネコ」等々、本格的な演出つきステージは、合唱の新たな楽しみ方を経験することが出来て有意義であった。女声合唱団という限定はあったが、青島氏の自在な演出により、とてもユニークなステージが繰り広げられたものである。そのような関係から、青島広志氏は何度も学園を訪れていたので、1997(平成9)年に法人名が札幌国際大学に変わる際、新学歌の作詩、作曲を青島氏に依頼し完成している。

青島広志氏との出会いが、後々、私の合唱歴に新たな展開をもたらすことになった。わが息子(琢哉)が東京に出て青島氏の紹介でコーロカロスに入団した。それがきっかけで、私も栗山文昭氏と親しくさせていただくようになり、栗友会のメンバーとの交流も生まれた。そして、著名な作曲家、指揮者、演奏家のみなさんとの出会いをももたらしてくれた。更に、1998(平成10)年には、21世紀の合唱を考える会 合唱人集団「音楽樹」(栗山文昭代表幹事)に入会し、「Tokyo Cantat」、「Coro Festa」等への参加を続けて行く中から、「Tokyo Cantatサテライト・セミナーin岩見沢」や「まなみーる合唱セミナー」が生まれたのである。

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わが合唱歴⑦~出会いと転進~1.

2011-10-20 04:54:43 | 合唱
結局、私は1986(昭和61)年3月をもって岩見沢東高校を去ることになった。在任15年目、最後の部長が横山琢哉君というのは奇遇であった。奇遇といえば、1985(昭和60)年8月13日に作曲家青島広志氏が岩見沢東高校へやって来ました。前夜に日航機墜落という大事故があった翌日でした。目的は「教育音楽」(音楽之友社)の特集記事取材でしたが、随行記者として同行して来たのが松下耕氏でした。青島氏は新進の作曲家として売り出し中、松下氏はメジャーデビュー前、音友でアルバイトをしていた時代です。その後、お二人は現在に至るまでそれぞれの道で大活躍されています。

1986(昭和61)年4月から、私は静修短期大学(現札幌国際大学)へ転進することになった。前年の12月20日頃、我が家に某氏(ご本人から名前を明かすなといわれている)から電話があり、「静修短大で仕事をしませんか?ついては、出来れば一週間以内に返事が欲しい」という内容でした。あまりにも突然であり、大げさに言えば一家挙げての大騒動とも言える数日間でした。静修短大は、わが師である荒又綾子先生、そして上元芳男先生が以前勤務されていました。迷いに迷う最中、上元芳男先生にご相談申し上げたところ「貴方にとって、マイナスになることは無いと思います。重大なる支障が無ければ決断されてはいかがか」というお言葉をいただき転進を決意した。
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