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井氷鹿姫とは?「古事記神話」から「ふるさとのロマンチックな伝説」へ

2010年12月13日 | 日記
奈良の人々は「古事記」の物語をどう伝えてきたのでしょうか?

今日はその事例として「井氷鹿姫」を取り上げましょう!

記紀神話に、神武天皇が熊野から吉野に入り、井氷鹿/井光(いひか)という人物に出会っている。

「古事記」ではこう伝えている。

 尾のある人、井より出て来たりき。その井に光ありき。
 ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、
 「あは国つ神、名は井氷鹿(いひか)と謂ふ」と答へ曰しき。
 こは吉野首(よしののおびと)等の祖なり。

また、「日本書紀」ではこう伝えている。

 人有りて、井の中より出でたり。光りて尾有り。
 天皇問ひて曰く「汝は何人ぞ」。応えて曰く
 「臣は是れ国神なり。名を井光(いひか)と為す」。
 此れ即ち吉野首部(よしののおびと)が始祖なり。

記紀神話はよく似た話で、井光は穴の中から現われ、しっぽが生えていたと伝えています。
古事記では「井戸」が光っていたとするのに対して、日本書紀では、光っていたのは「井光の体」です。

なぜ、井戸が光っていたのでしょう?
その井戸は掘ったら、水銀が出てきたので、上から見ると、光っていたのでしょう。

さて、記紀神話、いわゆる文献では以上のように記載されているのですが、
土地の人々は、どのように語っているのでしょうか?

比較民話研究会の私どもが吉野山で1994年春に調査した話では
次のように語られていました。

井光の井戸

むかし、神武天皇が九州から東に向かって進んできて、吉野山を越えて行かはってんて。
そのとちゅう、山の中腹に大きな杉の木があって、根もとのとこに井戸があってん。
神武天皇がその井戸のとこを通りかかると、井戸の中からものすごい光がさして来てんて。
みながびっくりしてるとな、光の中からしっぽのある人が出てきて、神武天皇の前にひれふしたんやて。
神武天皇が、「お前は何ものか」て聞かはったら、その人は、
「私は、この吉野山に住む吉野首(おびと)というものです。
天皇の道案内をしてさしあげようと思って、お待ち申し上げておりました」いうねんて。
神武天皇は喜んで、吉野首に道案内してもろて、また東に向かって行ったいうことや。
その井戸は今もあって、近くに井光山(いびかりざん)いうお寺と、井光神社いうてちいちゃい祠があるねん。

原話:『奈良県吉野町民間説話報告書』
再話:村上郁

私どもの聞いた別の話ではこう語っています。

この井戸には井氷鹿姫が住んでいたのです。

その証拠に井光神社が奈良県吉野郡川上村井光にあり
祭神は「井氷鹿姫」だそうです。

庶民の伝える話はロマンチックですよね。


(挿絵:マスダ ケイコ)

杉の根元に井戸があり、そこを天皇が通りかかり、
井氷鹿姫が井戸の中から現れ、天皇に水を差し出し、言葉をかわしたというのですから。

万葉集以来、日本文学の恋の舞台の伝統的なシーンのひとつは
「木の生えた泉のほとりで男女が愛の言葉を交わす」
なんですからね!



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
古事記は面白いですねえ(゜~゜) ()
2010-12-14 21:07:31
授業でお世話になってますm(._.)m通し番号35番です。初めてコメントを書きましたが、なんか変な感じがします。それは、さておき、自分は古事記をすべて読んだことはないのですが、部分部分に話を知っています。知っている話は、どれも面白いので、好きですvvほかにも面白い話があれば、教えてほしいです。
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マルテンサイト千年グローバル (サムライ鉄の道リスペクト)
2024-09-17 04:19:06
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、トレードオフ関係の全体最適化に関わる様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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