奈良国立博物館で開催中の「大遣唐使展」のことを
先日ブログに書きましたが、
一番の目玉の展示はボストン美術館蔵の「吉備大臣入唐絵巻」でした。
そこで、今日は吉備真備のことを話題にしましょう。
吉備真備は霊亀2年(717年)に23歳の時、遣唐留学生として唐に渡り、
当時の最先端の学問を学びました。
「経書」「史書」さらに「律令」「軍事」等を習得し、
17年後に帰国しました。
天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、再び入唐し、
2年後には鑑真を伴って帰朝しています。
阿倍内親王(のちの孝謙天皇)の養育係を務め、
その後右大臣にまで昇りつめ、時の政治の中枢で活躍しました。
学者出身で右大臣まで出世したのは菅原道真と
この吉備真備の二人だけだそうです。
なんと、そんな偉大な人物のお墓が奈良教育大の構内にあるのです。
大学の裏門を入り、坂を昇って行くと、左手に大きなクヌギの大木のある
こんもりとした丘があります。
近づいてみると、「吉備塚」と表示した石碑があります。
4代前の学長赤井達郎先生の時、吉備塚を整備して、石碑を建てたそうです。
橋川紀夫氏による「奈良歴史漫歩 No.054」には次のように記されている:
2年前(2004年2月)、発掘調査が行われ、
直葬された木棺2基、6世紀前半の太刀や銅鏡、馬具の部品が出土した。
太刀には人物像が象眼されていたが、
これは全国で始めてのケースで話題になった。
直径約25mの丘で円墳か前方後円墳かは不詳である。
この古墳は、奈良時代の貴族で右大臣の吉備真備の墓であるという伝承が江戸時代からある。
伝説では、吉備塚は強い祟りがある。
明治の末に周囲の田んぼを埋めて53連隊の駐屯地が造られたが、
吉備塚を崩そうとした人夫が病気になったので作業中止になり残った。
草を刈っただけでも死んだ人がいる、等々。
また、ここには吉備真備の邸宅があり、
夜ごと近くの晴明塚に通ったという時代の合わぬ言い伝えもある。
ちなみに、奈良教育大には「新薬師寺旧境内遺跡」もあります。
今、大学の教育資料館にて遺跡の展示もありますので
下記サイトをご覧の上、是非、見に来てください。
新薬師寺旧境内遺跡展
教育資料館は大学の裏門を入り、吉備塚を左に見て、さらに少し道を登ると
左手に赤レンガの建物が見えます。それが資料館です。
先日ブログに書きましたが、
一番の目玉の展示はボストン美術館蔵の「吉備大臣入唐絵巻」でした。
そこで、今日は吉備真備のことを話題にしましょう。
吉備真備は霊亀2年(717年)に23歳の時、遣唐留学生として唐に渡り、
当時の最先端の学問を学びました。
「経書」「史書」さらに「律令」「軍事」等を習得し、
17年後に帰国しました。
天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、再び入唐し、
2年後には鑑真を伴って帰朝しています。
阿倍内親王(のちの孝謙天皇)の養育係を務め、
その後右大臣にまで昇りつめ、時の政治の中枢で活躍しました。
学者出身で右大臣まで出世したのは菅原道真と
この吉備真備の二人だけだそうです。
なんと、そんな偉大な人物のお墓が奈良教育大の構内にあるのです。
大学の裏門を入り、坂を昇って行くと、左手に大きなクヌギの大木のある
こんもりとした丘があります。
近づいてみると、「吉備塚」と表示した石碑があります。
4代前の学長赤井達郎先生の時、吉備塚を整備して、石碑を建てたそうです。
橋川紀夫氏による「奈良歴史漫歩 No.054」には次のように記されている:
2年前(2004年2月)、発掘調査が行われ、
直葬された木棺2基、6世紀前半の太刀や銅鏡、馬具の部品が出土した。
太刀には人物像が象眼されていたが、
これは全国で始めてのケースで話題になった。
直径約25mの丘で円墳か前方後円墳かは不詳である。
この古墳は、奈良時代の貴族で右大臣の吉備真備の墓であるという伝承が江戸時代からある。
伝説では、吉備塚は強い祟りがある。
明治の末に周囲の田んぼを埋めて53連隊の駐屯地が造られたが、
吉備塚を崩そうとした人夫が病気になったので作業中止になり残った。
草を刈っただけでも死んだ人がいる、等々。
また、ここには吉備真備の邸宅があり、
夜ごと近くの晴明塚に通ったという時代の合わぬ言い伝えもある。
ちなみに、奈良教育大には「新薬師寺旧境内遺跡」もあります。
今、大学の教育資料館にて遺跡の展示もありますので
下記サイトをご覧の上、是非、見に来てください。
新薬師寺旧境内遺跡展
教育資料館は大学の裏門を入り、吉備塚を左に見て、さらに少し道を登ると
左手に赤レンガの建物が見えます。それが資料館です。