竹原BLOG:奈良民話祭り ― グリム童話・メルヘン・語りの文化 とっておきの話。 

夏の奈良民話祭り:8月5日(金)午後3時より奈良町物語館で4回公演!
奈良燈花会に行きがてら、ぜひ来てくださいね!

奈良教育大学に吉備真備の墓がある!

2010年05月31日 | 日記
奈良国立博物館で開催中の「大遣唐使展」のことを
先日ブログに書きましたが、
一番の目玉の展示はボストン美術館蔵の「吉備大臣入唐絵巻」でした。
そこで、今日は吉備真備のことを話題にしましょう。

吉備真備は霊亀2年(717年)に23歳の時、遣唐留学生として唐に渡り、
当時の最先端の学問を学びました。
「経書」「史書」さらに「律令」「軍事」等を習得し、
17年後に帰国しました。
天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、再び入唐し、
2年後には鑑真を伴って帰朝しています。

阿倍内親王(のちの孝謙天皇)の養育係を務め、
その後右大臣にまで昇りつめ、時の政治の中枢で活躍しました。

学者出身で右大臣まで出世したのは菅原道真と
この吉備真備の二人だけだそうです。

なんと、そんな偉大な人物のお墓が奈良教育大の構内にあるのです。

大学の裏門を入り、坂を昇って行くと、左手に大きなクヌギの大木のある
こんもりとした丘があります。



近づいてみると、「吉備塚」と表示した石碑があります。



4代前の学長赤井達郎先生の時、吉備塚を整備して、石碑を建てたそうです。

橋川紀夫氏による「奈良歴史漫歩 No.054」には次のように記されている:
 2年前(2004年2月)、発掘調査が行われ、
 直葬された木棺2基、6世紀前半の太刀や銅鏡、馬具の部品が出土した。
 太刀には人物像が象眼されていたが、
 これは全国で始めてのケースで話題になった。
 直径約25mの丘で円墳か前方後円墳かは不詳である。
 この古墳は、奈良時代の貴族で右大臣の吉備真備の墓であるという伝承が江戸時代からある。
 伝説では、吉備塚は強い祟りがある。
 明治の末に周囲の田んぼを埋めて53連隊の駐屯地が造られたが、
 吉備塚を崩そうとした人夫が病気になったので作業中止になり残った。
 草を刈っただけでも死んだ人がいる、等々。
 また、ここには吉備真備の邸宅があり、
 夜ごと近くの晴明塚に通ったという時代の合わぬ言い伝えもある。

ちなみに、奈良教育大には「新薬師寺旧境内遺跡」もあります。
今、大学の教育資料館にて遺跡の展示もありますので
下記サイトをご覧の上、是非、見に来てください。
新薬師寺旧境内遺跡展
教育資料館は大学の裏門を入り、吉備塚を左に見て、さらに少し道を登ると
左手に赤レンガの建物が見えます。それが資料館です。


吉野の民話「蛙になった人間」

2010年05月28日 | 日記
前回はおはなし交流会の報告をしましたが、
今日はその時話された民話をひとつ紹介しましょう!

奈良県というのは、この奈良市は北のはしで、南半分は吉野の山です。
大台ケ原など高い山々が連なっていて、その中の一つ大峰山は、
役の行者が開かれた山伏の修験道の山です。
今でも女人禁制を守っていて、男の人しか登られません。
ですから、男たる者、
いっぺんは大峰山に登るのがならわしになってるところもあるそうです。
その大峰山にまつわるおはなしです。

蛙になった人間

大峰山の山道は奥へ行くほど、どんどん険しくなる。
その上、修行の場がいくつもあって、
その一つに「西ののぞき」というこわい場所があるねん。
体にひもをかけられて、崖の上に腹ばいになる。
山伏がひもを持って、崖から体を半分以上も外に出して下をのぞかせ、
体をゆすぶりながら「親孝行すっか」とか聞かはるねん。
みんなこわくてこわくてふるえながら、
「はい、します。します。」と、すなおに答えるそうや。

昔、ある時ひとりの男が
「こんなけわしい所で話を聞いてもしょうがない。
ご利益なんかないぞ。しんどいだけや。」とか、
いろいろいやがらせをいうて、他のお参りの人たちのじゃまをしてたんやて。
ほしたら、のぞきの崖で足をすべらせて断崖絶壁の崖下に落ちてしもうたんや。
男は運のええことに命は助かったんやけど、
今のようにヘリコプターも何もない頃やから、
だれも助けに行くことができへん。男は声を限りに泣きさけんだ。
お寺のお坊さんたちは相談しはってなぁ。
「おまえ、これから真人間になるか。」と男に聞かはってん。
「はい、真人間になります、なります。どうぞお助け下さい。」
「だがなぁ、人間のままではどうにもならん。蛙の姿にして助けてやろう。」
お坊さんたちは、数珠をさらさらと押しもんで、男を蛙に変えはったんや。
蛙になった男は、崖をぴょんぴょんはねてのぼっていき助かったんや。
せやけど、もとの人間の姿にもどすのには、かなりの修行をせねばならん。
それで、蛙を吉野の蔵王堂へ連れて行って、
吉野全山のお坊さんを呼び集め、みんなでとうとうとお経をあげ、



やっとのことで、もとの人間にかえすことができた。
男はそれから真人間に生まれ変わったということや。

この伝説によって、
毎年七月七日に蔵王堂で「蛙とび」の行事が行われるようになったんやて。

奈良の民話を語りつぐ会
なら・語りの講座 II (講師:村上郁) 
再話:舩津 喜美子 不許転載



おはなし交流会報告

2010年05月25日 | 日記
5月23日(日)の午後1時より
名勝大乗院庭園文化館において
「奈良の民話を語りつぐ会」と「おはなしおはなし通信」の
おはなし交流会が開催されました。

そのプログラムは以下の通りでした。

ごあいさつ       竹原 威滋
わらべうた「ならの大仏さん」 大西 祥子
語り「奈良の大仏と京の大仏」 稲実 美恵
紙芝居「帯解の龍」 大西 嘉昭
わらべうた「うちのねえさん」 大西 祥子
語り「北林のたぬき」 井上 幸子
語り「蛙になった人間」 舩津喜美子

以上が「奈良の民話を語りつぐ会」の会員によるものです。

私どもとしては、はじめての他流試合でしたが
みんな楽しく語ってくれました。

下の写真は熱心に聞き入る会員たちの様子です。



後半は、「おはなしおはなし通信」の川瀬夫妻によるプログラムでした。
以下の通りです。

読み聞かせ「すずめ報恩の事」(宇治拾遺) 川瀬建雄
語り「金の鳥」(グリムの昔話)      川瀬 紀子
語り「ふしぎなお客」(イギリスとアイルランドの昔話)川瀬 紀子

さすが、川瀬 紀子さんの語るグリム童話「金の鳥」は見事でした。
かなり早いテンポで、歯切れよく、長い語りをこなされ、
その話の面白さに思わず引き込まれました。

次の写真は、物語る川瀬紀子さんです。



私どもの語りに対して川瀬紀子さんより次のような趣旨の、
お褒めの言葉を頂きました。
「奈良の土地になじんだお話を自分のものにして語られ、
実感のこもった語りになっている。」

初めてのお話交流会でしたが、有意義な会になりました。
今後も語りの機会を大いにもちたい!!









采女の悲恋の物語

2010年05月22日 | 日記
采女神社の話

奈良興福寺の五十二段の階段を降りたら、猿沢の池があるやろ。
猿沢の池の東の岸には、衣掛柳の木があって、西の岸には采女神社があるねん。
この采女神社のお社は、池に背中向けて立ってて、後ろの池側に鳥居があるんや。
お社の後ろに鳥居のある神社は、日本中でここだけやねんて。



お社がなんで池に背中向けてるのか、それには、こんな言い伝えがあるんや。

昔、奈良に都があったときのことや。帝(みかど)にお仕えする女の人たちを
采女(うねめ)というんやけど、
その中にひとり、ものすごいきれいな采女がいてたんや。
ある日、帝のお目にとまって、お側に召され愛されはった。
ところが、どういうわけか、
一度だけで、そのあと二度と召されることはなかったんやて。
采女は、毎日毎日帝に召されるのを待ち続けてたんやけど、願いは叶うことなく、
とうとう世をはかなんで、猿沢の池に身を投げて死んでしまわはった。
その時脱いだ衣を掛けた柳が、衣掛柳や。
その後、この采女をまつって、池の西の岸に采女神社を建てはった。
はじめ、お社は池に向かって建てられたんやけど、
自ら命を絶ってしもた猿沢の池をみるのがよっぽど辛かったんやろか……
一晩のうちにクルリと池に背中向けてしもたんやて。

奈良の民話を語りつぐ会 
なら・語りの講座 II (講師:村上郁) 
再話:吉房 啓子   不許転載

そこで、私の蛇足をひとつ:

采女神社の祠が池に背中を向けているということは
西を向いているということや。
つまり、帝の住む平城宮の方を向いているということや。
采女は今も帝に恋焦がれているということや。
女性の愛は、こんなにも切なく深いとゆうことや。


猿沢池の衣掛け柳は消えたままです!

2010年05月22日 | 日記
昨日は、鵜野祐介先生といっしょに、
梅花女子大と奈良女子大の学生さんを引率して、
「ならまち民話地図」を携えて、奈良公園を散歩しました。
久しぶりに猿沢池に行ったのですが
やはり、衣掛柳は消えたままでした。

下の写真でわかるように、昨年の燈花会には確かにありました。



ところが、現在は哀れにも衣掛柳は切り倒されて、下の写真のようにありません。



昨日、撮った写真では、猿沢池に采女祭りの管絃船が浮かんでいました。



でも、大切な衣掛け柳がなくなっているとは悲しいことです。

4月10日のブログでも訴えましたが、もう一度おねがいします。
その衣掛け柳の後継の木を植えてください!
平城遷都1300年の年、観光客に申し訳ない!
公園の管理者の方、よろしくお願いします!

では、次のブログでは
「采女の恋の物語」を語りましょう!

(追記)
6月26日のブログ参照してください。
衣掛け柳は元の場所から少し離れたところに植え替えてありました。

比留間良介作品展と大遣唐使展

2010年05月21日 | 日記
昨日、今日と私としては珍しく
ふたつの展覧会を見てきました。

昨日は「比留間良介奈良教育大学退職記念作品展」を見に
イトーヨーカ堂奈良店5階の奈良市美術館へ行きました。
比留間先生は同僚として親しくしていただきました。
先生の長年にわたる画業を展覧できたことは幸せなひとときでした。



春を呼ぶ二月堂お水取り行事の「椿の造花」を素材にした絵や
アッシジの聖フランチェスコの「僧衣」をテーマにした絵は
とても印象的でした。
23日(日)までありますので、
皆さんも是非、見に行ってください。

先生には奈良の民話の挿絵を描いていただくよう
お願いしておりますので、楽しみにしておいてください。


今日は、奈良国立博物館で「大遣唐使展」を
見ました。
なんといっても、圧巻は
ボストン美術館蔵の「吉備大臣入唐絵巻」でした。
カタログの表紙に載っていました。
下記の写真です。



吉備真備の葬られた「吉備塚」が奈良教育大学構内にあります。
命をとして中国の優れた文化に接しようとした先人の意気込みに
心打たれます。

2010.5.20.        竹原威滋
 

再びベストショット:桜と鹿と浮見堂のシルエット

2010年05月19日 | 日記
5月8日の「ベストショット:桜と鹿のシルエット」が
みなさんに一番多く見ていただいているようなので、
アンコールに応えて
「再びベストショット:桜と鹿と浮見堂のシルエット」を
お届けします。

やはり、夕方の空の光に映えて、鹿がみごとにシルエットで浮かび上がっています。



次に、浮見堂と桜です。これも同じ日の夕方撮ったものです。
ごゆっくり、みてくださいね。


伯母ケ峰の一本足

2010年05月19日 | 日記
今日は吉野に伝わる伝説をひとつ、語りましょう。

吉野では山仕事に出て、
お腹がすくと、「ひだる神」にとり憑かれるといいましたが、

「はてのはつか」(12月20日)に伯母ケ峰の峠を越えると
一本足の鬼に襲われるそうです。

上の写真を見て下さい。
これは伯母ケ峰とそれに連なる大台ケ原の連峰を撮ったものです。
ご覧のようにとても山深くて、日本でもっとも多く雨が降るところです。
伯母ケ峰には大和から熊野に抜ける熊野街道が通っています。
そこにはこんな話が伝えられています。


ある猟師が猟犬をつれて、伯母ケ峰に猟に出かけてんて。
そしたら、大きなケモノを見つけたんで、猟師は、銃でしとめようとしてん。
ところが、逆に、ケモノに襲われそうになったんで、
猟師は、命からがら「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏玉を打ち込んで、なんとか助かってんて。

一方、殺されたケモノは亡霊となり、数日後、野武士の姿をして、
和歌山県本宮町にある湯の峰温泉に湯治に行ったそうや。
そして、宿の主人に、
「わたしが風呂に入っている間、ぜったいにのぞいてはいけない。」
と言って、見んように約束させてんて。

ところが、宿の主人は約束を破ってのぞいてしまったので、
亡霊は、宿の主人を殺してしまってん。

それから、その亡霊は一本足の鬼となり、伯母ヶ峰を通る旅人を喰うようになってんと。
そんなわけで熊野街道は、誰も通らなくなってしまってん。

その話を聞いたお坊さんが、地蔵さんを祀って、お経を埋め、
この鬼を封じ込めてしまったということや。
そやけど、お坊さんは「はてのはつか」だけは人を自由に食ってもよいと、
鬼に約束してんて。
そんなわけで、大台ケ原では「12月20日は、伯母ヶ峰をぜったい通ってはいけない」
と言われているねん。

みなさんも「はてのはつか]だけは、熊野街道を通るとき、
伯母ケ峰の一本足に襲われんように気いつけや。


  原典:丸山顕徳編『語りつぐ吉野の民話』金壽堂出版
  再話:竹原威滋

この原典にはほかにも面白い話が載っているので
是非読んでみてください。

朝ドラ「ゲゲゲの女房」も取りつかれた「ひだる神」

2010年05月17日 | 日記
前回はNHK朝ドラにも登場する「小判は木の葉」の話:
「狐にだまされた魚屋さん」の話を語ったが、
今回は同じく「ゲゲゲの女房」にも登場する「ひだる神」に
ついて語ろう。

まず、上の写真を見て下さい。
これは「メンパ」といって曲げ物の弁当箱で、山仕事に行くとき、
携行されたものである。一般には木地のままのものが多いが、
漆塗りのものもある。

吉野の山村では、メンパに弁当を詰めて、山仕事に出る。
山仕事はけっこう重労働なので、弁当を食べて仕事をしてて、
急に空腹に襲われる時がある。
そんな時、「ひだる神」に襲われるというそうだ。
そのための対策として、昼ごはんの弁当は
ひと口だけご飯を残しておくという。

それでは 「ひだる神」の話をひとつ、語ろう。


メンパって言うのを、山へ弁当ね、入れて行きますのや。
ほして、昼飯を食べますでしょ。
ほいたら、メンパの底にひと口くらいのご飯を残して帰りますねん。
それはなぜかと言うたらね、ひだるいってことありますでしょ。
ここらはね、おなかすいたことを「ひだるい」といいますね。
山仕事をしていた人がね、夕方にひだる神が憑きましてね。

ほいてね、そねしとったら、ひだる神て狼みたいなものですねと。
それを、石に蹴つまづいて、こけたりするとね、ひだる神に噛みつかれますねて。
だから、ひだるい思いせんように、残ったひと口のご飯を、
「ひだる神が憑いたな」と思ったら食べますのや。

語り手:桶谷静江
原典:竹原威滋・丸山顕徳編『東吉野の民話』


朝ドラ「ゲゲゲの女房」と狐にだまされた話

2010年05月15日 | 日記
NHKの朝のドラマ「ゲゲゲの女房」は面白くなってきた。
いろんな妖怪が話題にでてくる。
河童、天井舐め、海坊主、ベトベトさん、狸.....
夫の漫画が売れず、お金がなくて困っている女房は
木の葉がお金になればいいのにと嘆いている。

(上の写真は昨日の朝ドラのいちシーンです。
よく見てください。狐と木の葉と小判が描かれてます。)

そこで、私が吉野で聴いた「木の葉がお金になった話」というか
狐にだまされた話を語ろう!


キツネにだまされた魚屋さん

今から70年ぐらい前の話や。
行商の魚屋さんが、魚を荷車につんで、なだらかな坂を登っててんて。
途中、不動坂というたいへん急な坂にさしかかったんで、
そこに荷車をとめてひと休みしてんて。
そしたら、そこへ、見知らぬ人があらわれて、
「おっちゃん。もし、よかったら、その魚売ってもらえまへんか。」
と言うてんて。
魚屋さんは喜んで、
「どこで商売しても同じですさかい、どうぞ買うとくんなはれ。」
と言って、いろいろと魚を取り出したんや。
そしたら、見知らぬ人は、
「それもこれも。」
と言ってんけど、
魚が残り少ないのを見て、
「全部もろとくわな。」
と言って、荷車の魚を丸ごと買って行ってんて。
魚屋さんは、よく買ってもらったと、ありがたがってお金の勘定を始めてん。

そうしてたところ、しばらくして、魚屋さんの知り合いが、
不動坂を登ってきて、こう言うてん。
「おっちゃん、何しとんの。」
「いや、今しがた魚がたくさん売れたさかい、お金を勘定しとんね。」
と魚屋さんが答えると、知り合いは笑って言ってんて。
「キツネにだまされてんねんわ。そんなんしとったらあかんで。」
「いや、キツネなんかにだまされとらへん。これお金や。見てみいさ。」
と、魚屋さんが言い張ると、
知り合いは、魚屋さんの肩をポンッとたたいてん。
そしたら、魚屋さんはハッと気がついて、正気に戻ってんと。
魚屋さんが、お金だと思って勘定していたものは、
たくさんの木の葉っぱやってん。
魚はぜんぶキツネに取られてしまったということや。

    原典: 櫻井龍彦代表編著『奈良県吉野町民間説話報告書』
    再話: 竹原威滋


久保華誉:和製グリムの世界ーブレーメンの音楽隊を中心に

2010年05月13日 | 日記
今日は、私の主宰している研究会の案内メールを
そのまま転載します。
上の写真に載っている本の著者が
お話してくださいます。

グリム童話「ブレーメンの音楽隊」が
日本ではどんな形で伝承されているかを
わかりやすく事例を挙げて話してくださいます。

慶應義塾大学、日吉キャンパスで 
2010年5月30日(日)午後1時30分からです。

よろしかたら、いらしてください。


2010.5.13.        竹原威滋



★グリムと民間伝承研究会(グリミン)★第51回例会案内★

                  2010年5月12日

大型連休のGWも終わり、新緑の季節となりました。
 グリミンの皆さま、お元気でいらしゃいますか。
 さて今回は、日本独文学会の春季大会に合わせて、
大会2日目午後にグリミンの例会を開催します。
 平素参加しにくい方々も是非奮ってご参加下さい。

★今回は、このほど、下記のご著書を刊行された久保華誉さんに
 ご発表いただくことになりました。
『日本における外国昔話の受容と変容 和製グリムの世界』(三弥井書店)

            記

●日時: 2010年5月30日(日)午後1時30分から(時間厳守)
       午後1時30分~3時30分 研究会(時間厳守)
       午後3時30分~5時 懇親会(大学近辺の喫茶店・自由参加)

●会場:
 慶應義塾大学、日吉キャンパス 
     独立館(研究発表会と同じ建物)D401
 (東急東横線・東急目黒線・横浜市営地下鉄: 日吉駅下車、徒歩1分)
 (〒223-8521 神奈川県横浜市港北区日吉4-1-1)
   日吉キャンパスアクセスマップ :
   http://www.keio.ac.jp/ja/access/hiyoshi.html
●内容: 

★  和製グリムの世界ーブレーメンの音楽隊を中心に

【発表の概要】
博士論文の簡単な紹介とともに、グリムの日本の昔話への受容
例として「ブレーメンの音楽隊」を取り上げる。
ブレーメンの音楽隊の影響があると思われる日本の昔話は、
30話報告されている。グリムとの大きな違いは結末で、
日本では主人を助けるため泥棒を追い出し、その後残った金を
家に持ち帰るなど、動物報恩譚の傾向が強くなる。
明治期の翻訳と口承資料のテキスト分析のみならず民俗背景を
見据え考察する。

【久保華誉プロフィール】
國學院大學大学院文学研究科日本文学(伝承文学)専攻博士課程後期修了。
博士(文学)。 国立国会図書館国際子ども図書館調査員(非常勤)を歴任。
國學院大學大学院において野村純一教授に師事。
日欧民間説話の比較研究を通して異文化の受容と変容を探る。

興味深い発表を楽しみにご参集ください。

●参加費 500円

以上。


中将姫の話

2010年05月10日 | 日記
今日はならまちに伝わる典型的な継子話
「中将姫」を語ろう。


 なら町の南の鳴川に、誕生寺ていうお寺があるねん。
 中将姫は、そこで生まれはったんや。
 中将姫のお父さんは、藤原鎌足のひ孫で、藤原豊成いう人やねん。
 お母さんは、紫の前ていう、きれいな人やってんて。
 二人には、子どもが出来へんかった。
 二人は、子どもが欲しいと思うて、長谷寺の観音様に願を掛けはってん。
 そしたら、満願の日に、夢に、観音様が現れて、
 「お前たちの願いは聞き入れた。けど、お前たちのうち、どちらか一人が欠ける事になるぞ。
 それでもええか」てお告げがあってん。
 「はい、結構でございます」て返事したとたん、二人は目が覚めてん。
 それからしばらくして、中将姫が生まれはったんや。
 中将姫は、二人に可愛がられて、蝶よ花よと育てられはってん。

 ところが、中将姫が三つになった時、観音様の約束通り、お母さんが亡くなってしもうてん。
 お父さんは、中将姫をかわいそうに思うて、新しいお母さんを迎えはってんて。
 新しいお母さんは、照日の前いう人やった。
 照日の前は、お父さんの前では、
 「可愛い可愛い。このお菓子をお上がり」なんて言うて、
 中将姫を可愛がるふりをするねんけど、
 お父さんのおらんとこでは、
 「お前なんか、どこかへ行ってしまい。寒うても、着物なんかいらんね」
 て意地悪言わはるねんて。
 そのうち、自分の息子が生まれると、ますます中将姫をいじめるようになってん。
 冬、雪の降る寒い日に、中将姫を松の木にしばって、折檻したりしはってんて。
 その松は、今でも豊成の屋敷跡といわれてる徳融寺に残ってるねんで。

 あるとき、中将姫は、とうとう、葛城山の地獄谷に捨てられてしもうてん。
 けど、運良く、時の帝に救われて、中将姫は、帝に仕える内侍になってんて。
 ところが、照日の前は、また、武士に命じて、中将姫を殺させようとしたんや。
 そのときは、武士の夫婦に助けられて、山に隠れ住むことになってん。
 そしたら、偶然、狩に来たお父さんに見つけられて、
 中将姫はお父さんに連れられて、帝のところに戻ることができたんや。
 中将姫は、その後、弟が亡くなったのをきっかけに、当麻寺で出家して、
 尼さんにならはってんて。
 そうして、当麻曼荼羅を見ながら極楽往生しはったということや。

    原話資料:進藤秀樹・竹原威滋・丸山顕徳編 『奈良市民間説話調査報告書』 
    再話 : 村上 郁


上の写真は、ならまちにある中将姫の誕生寺です。
この寺には、中将姫の産湯の井戸もありますよ。

それから徳融寺には中将姫のお墓が、父の豊成公のお墓と並んでありますよ。
ぜひ、尋ねてみてね。




鹿をめぐるお話「十三鐘の石子詰め」

2010年05月08日 | 日記
前回予告したとおり
鹿をめぐるお話をひとつ語ります。

「十三鐘の石子詰め」という話です。

 昔から、奈良の鹿は、神様のお使いやいうて、大切にされてきてんで。
 ずっと昔に、春日神社の神さんが奈良に来るとき、鹿に乗ってきたんやて。
 そんな尊い鹿を、もし殺しでもしたら、「石子詰めの刑」というて、
 死んだ鹿と一緒に生きたまま穴に埋められたそうや。

 さて、興福寺の南側の石垣に沿うて三条通をずっと上がっていくと、
 右側へだらだらと下ったところに、菩提院大御堂というお堂があるねん。
 俗に十三鐘と呼ばれてるねん。



 むかし、このお堂の横に寺子屋があってん。
 あるときのことや。
 三作という子どもが、この寺小屋で、「いーろは、いーろは」て声あげながら習字をしてるとな、
 そこへ鹿が上がってきて、廊下に置いたあった大事なお手本を食べ始めてん。
 三作はびっくりして、「こらっ」いうて、思わず、手元にあった文鎮を鹿に投げつけたんや。
 そうしたら、当たり所が悪かったんか、鹿はその場に倒れて死んでしもうてんて。

 鹿を殺した科で、三作は石子詰めにされることになってん。
 大御堂の前の庭の東の方に穴が掘られ、三作は、鹿と一緒に生き埋めにされてしもうたんや。
 三作の母親は、三作が埋められたところにモミジの木を植えて供養してん。



 その時から、「鹿にモミジ」という取り合わせが始まったそうや。
 そうして、三作が石子詰めになった時刻が、夕方の六つと七つの間やったので、
 六つと七つを足して、ここを十三鐘というようになったんやて。

    原話資料:進藤秀樹・竹原威滋・丸山顕徳編 『奈良市民間説話調査報告書』 
    再話 : 村上 郁

このお話には、その証拠になる「三作のお墓」が
上の写真にあるように今日まで伝えられている!

母親は三作が秋に亡くなったので、
モミジを植えて、葉が色づくと、三作を思い出したそうだ。
また、三作が今度生まれてきたときは
亀のように長生きして欲しいと、母親はお墓に亀石と供養塔を建てた。
写真をよく見て、確認してくださいね。
紅葉したモミジも亀石も見えますでしょ。

このように三作の墓が今日まで伝えられている。
それって、すごいことですね!

奈良の先祖の人たちがこの話を未来に向けて伝えて欲しいとの
強烈なメッセージなんですよ。

鹿を大切にする心と子を想う母の深い愛!!

ベストショット:桜と鹿のシルエット

2010年05月08日 | 日記
仕事場の奈良教育大学に通う道筋
健康のため、時々奈良公園を歩いています、デジカメを持って。
この写真は、とっておきのベストショットです。
浮き見堂のある鷺池を背景にして桜と鹿を撮りました。
夕方の空の光に映えて、鹿がみごとにシルエットで浮かび上がっています。
私のお気に入りの写真です。
どうか、じっくり見てください。

こんな光景を見ていると、「奈良に住んで幸せだな」と実感します。
鹿は春日の神さんを運んできた神のお使いです。

次のブログでは、鹿をめぐる民話を紹介します。
お楽しみに!

小澤俊夫著『こんにちは、昔話です』を読みました。

2010年05月06日 | 日記
「昔話」とは何か、こんなにわかりやすく書いた本に初めてめぐり合いました。
連休中に何か読もうと、何気なく手にとって読んだところ、
一気に読んでしまいました。
長年、昔話研究をしてこられた小澤先生だからこそ、
書けるのだなあ、と実感しました。

昔話はどこにあるの?
絵本のなかに? 民話集の中に?
いいえ、
「昔話は、語られている時間のあいだにだけ存在する。
ということは、語り終わったら消えるということです。」

こんな問いから始まって、昔話の語り口の特徴の分析、
昔話のメッセージ、子どもの視点からの昔話の魅力、
昔話の再話のノウハウ、
そして、あなたも語り手になれると勇気づけてくれます。

奈良の民話を語りつぐ会のみなさま、
孫たちに昔話を語りたいみなさま、
是非読んでくださいね。

以下、小澤昔ばなし研究所のホームページより書誌情報を転載します。
http://www.ozawa-folktale.com/


『こんにちは、昔話です』  小澤俊夫 著

昔話って誰が作ったの? 昔話はどうして大切なの?
そんな素朴な疑問も、本書を読めば解決!

みんなが知っている「桃太郎」や「花咲か爺」。
でも昔話のこと、どこまで知っていますか?
昔話の大切さを訴えつづけている著者による、昔話の入門書。
人から人へ口伝えされてきた昔話の魅力や秘密を、わかりやすく解説します。
レイアウトも見やすく、Q&Aコーナーや付録ページも充実。


2009年10月16日発行 192頁 四六版(カバー無し) 小澤昔ばなし研究所
定価 1050円 (本体1000円+税)
ISBN 978-4-902875-31-7
昔ばなし研究所取り扱い
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