竹原BLOG:奈良民話祭り ― グリム童話・メルヘン・語りの文化 とっておきの話。 

夏の奈良民話祭り:8月5日(金)午後3時より奈良町物語館で4回公演!
奈良燈花会に行きがてら、ぜひ来てくださいね!

『おはなしおはなし通信』発行される!

2010年06月29日 | 日記
5月25日のブログで「奈良の民話を語りつぐ会」と「おはなしおはなし通信」の
おはなし交流会のことを報告しましたが、
本日、『おはなしおはなし通信』の72号(2010年6月)が
川瀬夫妻から送られてきました。

私はこの冊子を初めて拝読しましたが、
おはなしの好きな人にとっては、素敵な記事が満載です。

もちろん、この号はご夫妻の奈良訪問の際の「おはなし交流会」を特集しています。
そのページの一部を下記に掲げます。




この記事を読みまして、改めて「おはなし交流会」の楽しいひと時を思い出しました。

この通信にはほかにも、素敵な記事が載っています。

金子さんは妹さんのお孫さんとの絵本遊びのドキュメントを綴っておられます。
絵本を通して小さな子どもが物語の世界をいかに演じているか、
絵本の力のすごさをあらためて実感しました。

ほかにも、ピーターパンの作者の隠れたエピソード、
川瀬さんの民話の再話「観音様に助けられた鷹匠」、
藁しべ長者の原典:宇治拾遺物語「長谷寺参籠男預かりしように」の紹介など
全12ページの冊子ながら、おはなし愛好家にとっては魅力的な記事満載です。

是非講読をお勧めします:
下記のサイト「アメジスト・アート出版」ホームページをごらんください。

http://www1.ocn.ne.jp/~amejist/

猿沢池の衣掛け柳は植え替えてありました!

2010年06月26日 | 日記
5月22日のブログで「猿沢池の衣掛け柳は消えたままです!」と
書きましたが、
ちょうど1ケ月の6月22日に現場に行ってみましたところ、
実は別の場所に植え替えてありました。
下の写真を見てください。



手前右の切り株が昨年秋ごろ切り取られた跡です。
左の石碑には「衣掛け柳」と書かれてあります。
そしてその背後右手に新しく衣掛け柳が
池に垂れかけるように植えられていました。
そして支えの柱が4本ありました。
その支えは木が根を張れば、やがてはずされることでしょう。
次の写真を見てください。



反対側から撮りました。
その前には「衣掛け柳」の説明の新しい碑がありました。

これでお分かりいただけたでしょう。

私は早合点して、切られた株だけ見て
植え替えた柳を見落としていました。

それにしても、元の位置から離れすぎているのが気になりました。
以上が、「衣掛け柳」の顛末記です。

日本昔話学会・武庫女大で開催・7月3~4日

2010年06月24日 | 日記
今日は学会の話をしましよう。
私の関わっている学会は、
日本口承文芸学会、説話伝承学会、日本独文学会など
いろいろありますが、
なんと、昔話だけを対象にした学会もあるのですよ!
「日本昔話学会」といいいます。
もともとは、柳田國男のお弟子さんたちを中心に
つくられた学会です。
民俗学、国文学、児童文学、それに外国の民話を研究している方々、
ならびにストーリーテリングをしておられる語り手の方々も
参加している学際的な学会です。

毎年、年に1回、七夕の頃に大会が開かれます。
学会事務局の梅花女子大の加藤、鵜野両先生のお世話で
武庫川女子大学の野口先生のところで開催されます。

一般の方にも公開されていますので、
昔話に興味のある方は是非、いらしてください。

以下プログラムを載せます。


日本昔話学会2010年度研究大会
 
日程 2010年7月3日(土)~4日(日)
場所 武庫川女子大学
最寄駅 阪神電車 鳴尾駅から大阪方面に徒歩7分
場所:武庫川女子大学
 
プログラム (一般公開・無料)
7月3日(土)
12:00- 受付開始 場所:文学2号館23号教室(LⅡ23)前
12:45-12:50 開会の辞 武庫川女子大学 野口 芳子
12:50-13:00 学長挨拶 武庫川女子大学学長 糸魚川 直祐
13:00-16:30 講演会  
13:00-14:00 講演1 昔話と子守唄のポリフォニー 梅花女子大学 鵜野 祐介
14:15-15:15 講演2 累積昔話とはなにか 齋藤 君子
15:30-16:30 講演3 桃太郎からみる昔話研究の動向 國學院大學 花部 英雄
 
7月4日(日)
9:30- 受付 場所:マルチメディアホール(MMホール)前
10:00-12:10 研究発表  
10:00-10:30 在地伝承としての「濡れ衣」説話の展開 九州大学大学院 森 誠子
10:30-11:00 「ドイツの記憶の場」としてのニーベルンゲン
―メディアにおけるニーベルンゲン受容をとおして― 関西大学 齊藤 公輔
11:10-11:40 日本の山姥と中国の変婆の比較研究 立教女学院短期大学 立石 展大
11:40-12:10 「野獣の主」伝承とヨーロッパの狩猟文化 関西大学 溝井 裕一
 
14:00-17:00 シンポジウム(MMホール)
《テーマ:昔話のなかの女と男》 コーディネーター:武庫川女子大学 野口 芳子
14:10-14:40 基調報告1 ドイツ語圏の現代伝説における男と女 ドイツ語圏口承文芸研究家 金城 ハウプトマン 朱美
14:40-15:10 基調報告2 イラン民話のなかの恋人たち 大阪大学・世界言語研究センター 竹原 新
15:10-15:40 基調報告3 日本昔話における女性像の特質
―男女逆転型からの照射― 神戸女子大学 川森 博司
15:40-16:00 休憩
16:00-17:00 討議
17:00-17:10 閉会の辞 静岡文花芸術大学 二本松 康宏

詳しくは以下のサイトをクリックしてください:

http://www.mukogawa-u.ac.jp/~noguchiy/folktale.



吉野の河童はなんと薬をお礼にくれたのだ!

2010年06月22日 | 日記
NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」も漫画家の妻として苦労も多いが、
その一方で、漫画のキャラクターとして、狐、河童、悪魔くんたちが登場し、
ドラマもにぎやかに展開中である。


NHKの朝ドラより

そこで、思い出したのが、吉野の河童である。

前回のブログで述べた吉野の民話の調査では、愛すべき河童(ガタロウ)の話を聴いた。
そのひとつを紹介しよう!

ガタロウと錦草

辻堂のな、蒲生の裏に、どえらい、あの、大きな淵があったんや。
今はダムにして無いけどな。
その淵にはガタロウがおった。昔の話やで。

お便所に行ったらね、ガタロウが下から手を出してきたと。
それを切ったんと、鎌で。
その代わりにね、ガタロウが「その手を返してくれ」と。
「手を返してくれたら、ええ薬教えるさかい。」
ほんでね、蒲生屋さんですわ。
その薬な、今でも売ってると思うわ。


河童のくれた薬

語り手:福本清明(大塔村 宇井)
原典:昔話研究懇話会編『昔話―研究と資料』 14号 (昭和60年)

上の写真の薬は民話調査の際、入手したものです。
薬効に、「打身、くじき、筋違、神経痛、感冒によし」とあります。
河童に教えられた薬だから、よく効くのでしょうね。







入鹿の首塚は高見山にもある!?明日香村を歩く。その4

2010年06月19日 | 旅行
明日香村を歩いてからちょうど1週間が経ちました。
あれから気になっていたことがあります。

飛鳥寺で飛鳥大仏を見たあとで、
お寺の西に少し歩いたところに
甘樫丘を背景に入鹿の首塚がぽつんと立っていました。



蘇我入鹿が飛鳥板蓋宮で討たれたとき、
入鹿の首が飛んで、中臣鎌足を追いかけまわしたのです。
そして板蓋宮の北方600mのところに首が落ちてきてました。
その入鹿の怨念を封じ込めるため、その首を供養したのが
この五輪塔だそうです。

ところで、今から25年前、比較民話研究会の方々と
東吉野の民話調査をしたとき、
入鹿の首塚の話を既に聞いていたのです。
入鹿の怨念は強く、その首はなんと高見山まで飛んできていたのです!?

その時聞いた話を紹介しよう!


高見山の入鹿の首塚

昔、大昔の話やけども、藤原鎌足と蘇我入鹿の話でございますが、
蘇我入鹿が横暴を極めたということで、藤原鎌足が怒って、
そのう、蘇我入鹿の横暴を鎮めるために、
色々と意見を申し上げたりしてましたが、
いっこうに、横暴な行いが直らんと、いうことでありましたから、
藤原鎌足は思いあまって、蘇我入鹿の諜殺をするという決心を決めて。

そして、蘇我入鹿を誘い出して、蘇我入鹿の首を切ったと、
その首が、血を流しながら、桜井の多.武峰あたりですから、
多武峰からずっと東へ飛んで行ったと、高見山の頂上に、
その、落ちて、そのまんま消えてしまったという話を聞いたことがあります。


高見山にある入鹿の首塚

語り手: 桝本静勇(東吉野村 小栗栖)
原典:竹原威滋 丸山顕徳編『東吉野の民話』(平成4年)



甘樫丘に登り1300年前を偲ぶ!明日香村を歩く。その3

2010年06月16日 | 旅行
先週の土曜日は、飛鳥資料館でキトラ古墳の壁画「四神」を
見てきましたが、その帰りに明日香村を歩き、
そして最後に甘樫丘に登り、1300年前のいにしえを
偲びました。

甘樫丘の上から東を展望しました。



正面には飛鳥寺が見え、その右手には伝板蓋宮跡があります。
その宮跡で中大兄皇子と中臣鎌足は、みごと蘇我入鹿を討ち果たしたのでした。
それをきっかけとして大化改新(645年)が断行されたのでした。

次に甘樫丘の上から西を展望しました。



太陽が西に傾いていました。
正面に畝傍山が見え、その手前に和田池が太陽に光を反射していました。

まさに1300年前の歴史と文化に触れる有意義な1日でした。

なんとも不思議な酒船石と亀形石造物!明日香村を歩く。その2

2010年06月15日 | 日記
明日香村を歩いて、気づくのは、誠にふしぎなことに、
謎の石造物が至るところにあることです。

猿石、亀石、マラ石、弥勒石、須弥山石、 酒船石、石人像、 二面石。
枚挙に暇がありません。

なかでも酒船石は、実に不思議です。



酒造りに使用したとのいい伝えからこの名がつきましたが、
本当のところは何に使われたかわかりません。
たぶん、水に関わる施設と考えられています。

さらに、この酒船石から下に少し降りたところには1999年に発見された謎の石造物群があります。



写真の右手に見える湧水施設から樋を伝わって
水が小判形に彫り込まれた水槽に流れ込み、
さらに左手の亀形石槽に流れる仕掛けになっています。

これはいったい、何に使ったのだろうか?
斉明天皇(女帝)が、ここで身を清めて宗教儀礼をおこなったとも言われています。
出土した土器などから、いづれにしても、
7世紀中頃~10世紀の間にかけて利用されていたことが確認されています。

次回の明日香村を歩くその3も、お楽しみに!


キトラ古墳壁画「朱雀」と感動の対面!明日香村を歩く。その1

2010年06月13日 | 旅行
昨日、土曜日にはキトラ古墳壁画の「四神」、特に新たに公開された「朱雀」に会うため、
明日香村に行ってきました。
飛鳥資料館で感激の対面!



もちろん、撮影禁止。上の写真はカタログからとりました。
朱雀は、南の方角を守る神さまです。
長く美しい羽をたなびかせ、今にも地面を蹴って力強く飛び立とうとしています。

盗掘穴が開けられていた南壁に描かれているため、壁ごと絵も破壊されていると
思われていましたが、無事発見され、まさに不死鳥ですね。

朱雀はもともと想像上の鳥ですが、図像的には現実の鳥でいうと、
ヤマドリ(山鳥)系とクジャク(孔雀)系があるそうです。
キトラの朱雀は、見ての通り、尾っぽの羽からみてヤマドリ系です。

さて、そのあと、飛鳥寺の「飛鳥大仏」も拝観してきました。



日本最古の仏像といえます。止利仏師の作です。
飛鳥時代の様式の典型的な仏像です。
推古天皇の14年(606年)から同じ場所に鎮座しておられるとは
おどろきです。1404年の歳月ですものね。

「明日香村を歩く」、この続きは次のブログをお楽しみに!





なんと奈教大の近くにピラミットがある!?-玄の頭塔

2010年06月09日 | 日記
奈良教育大学の学生さんはいつもバスで通学している人が多いですね。
破石町のバス停前に「ウェルネス・イン飛鳥路」がありますね。
その左手の通路から、下の写真のように、なにやら石積みのものが見えますね。



それが、「奈良のピラミッド」なんです。

もっと近寄ってみてください。



間違いなく、ピラミット状ですよね。

それには、こんな話が伝えられています。

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玄の頭塔

むかし奈良時代に玄(げんぼう)という偉いお坊さんがいたんや。
遣唐使で17年間も中国に滞在し、当時の仏教・文化を学び、
帰国後は聖武天皇のもとで政治をつかさどっていたんや。
しばらくして、玄は、藤原仲麻呂との政争に破れ、
天平17年(745年)に九州の太宰府に左遷されたんや。

ところが、九州では、かつて玄と対立して処刑された藤原広嗣の怨霊が待ち構えており、
玄はその祟りで翌年に死んでしまったんや。

しかし無念のあまり、玄の頭が奈良まで飛んできて落ちてきたんや。
その頭を葬ったのがここであり、そのため頭塔と呼ばれるようになったそうや。

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頭塔は、奈良文化財研究所により、昭和61年から12年間にわたり発掘調査が行われました。
その結果、頭塔は、東大寺の僧、実忠というお坊さんが奈良時代後期に築いたものであることが確認されました。

これは本来、五重塔と同じく仏舎利を収める仏塔であり、玄とは無関係です。
しかし、玄に対する庶民の思いが今も伝説として息づいているのです。

それにしても、規模ははるかに小さいが、
同時代に築かれたインドネシアのボロブドール遺跡とそっくりですね。



もうひとつ東大寺のお話「鬼子母神とザクロ」

2010年06月08日 | 日記
続いてもうひとつ東大寺にまつわるお話をしましょう!
二月堂の前に「良弁杉」があるのは前回のお話でよくわかりましたよね。
その二月堂の西側の廻廊の階段を降りて、右手に祠(ほこら)があります。
下の写真見てください。



鬼子母神を祭った祠です。
それにはこんな話があります。


鬼子母神とザクロ

奈良の二月堂の下にある良弁杉の横に、鬼子母神という祠があります。
鬼子母神というのは、女の神様で、たくさんの子どもがおりました。
この神様は、恐ろしい事に、人の肉を食べるのが好きで、
人間の子どもをさらって来ては、その肉を食べていました。

ある時、お釈迦様が、それを諭すために、
鬼子母神の大勢の子どもの中の一人を隠してしまわれました。
鬼子母神は、無我夢中でわが子を探しまわりました。
すると、お釈迦様は、 
 「お前は、子どもがそんなに大勢いるのに、
 たった一人いなくなっただけで、それほど悲しむだろう。
 ましてや人間はわが子の数が少ないのに、なくした親は、
 どれ程悲しい思いをしていることか・・・。
 よいか!二度と、子どもをさらって食べたりなどするのではない。」
と言われました。
鬼子母神は、
 「ああ、確かにそうです」
と言って、自分の過ちを認め、それからは、子どもをさらわなくなりました。
お釈迦様は、
 「人間の肉が食べたくなったら、人間の肉とよく似た、
 このザクロを食べるがよい」
と言って、
鬼子母神にザクロを渡されました。

それで、今でも、ザクロのできる時期になると、
鬼子母神の祠の前に、たくさんのザクロをお供えするのです。

奈良の民話を語りつぐ会
なら・語りの講座 II (講師:村上郁) 
再話:吉本 京 不許転載

みなさん、もう一度上の写真を見てください。
確かにザクロの実がなっているでしょ。
ちょうどザクロのできる秋に私が撮った写真です。

良弁僧正親子対面之図が2月堂に奉納されている!

2010年06月04日 | 日記
前回のブログ、奈良の民話の定番「良弁杉」について
奈良の民話を語りつぐ会のメンバーの小西雅子さんが下記の写真をメールで
送ってくださいました。



「良弁僧正親子対面之図」です。
二月堂の観世音菩薩に奉納されたものです。
良弁さんが母と涙の対面をする場面です。
かなり古い絵ですね。

一番古い記録は平安時代の大江親通著『七大寺巡礼私記』や『東大寺要録』にあります。
いづれの記録にも鷲にさらわれたこと、東大寺での親子の涙の再会が語られています。
また、明治にできた浄瑠璃義太夫節に『二月堂良弁杉の由来』があり、
今日でも歌舞伎でよく上演されています。

「良弁杉」のお話はかなり古くから語られていたことがよくわかりますね。
皆さまも二月堂に行かれたら、この絵を是非みてきてくださいね。




奈良の民話の定番:良弁杉←ブログ開設2ヶ月記念掲載

2010年06月02日 | 日記
このブログを開設してから、ちょうど2ヶ月経ちました。
多い日には、1日で300人近くの人が見てくださっています。
せめて、奈良県民をはじめ千人の民話を愛する方々に閲覧いただきたく思っています。
今後も奈良の民話や伝説、とっておきの話を載せますので
口コミでこのブログを広めてくださいね。
よろしくお願いします。

そこで今日は奈良の民話の定番のお話を語りましょう。
東大寺の二月堂の前に大きな杉に木があります。
それを「良弁杉」(ろうべんすぎ)といいます。
それではその木にまつわるお話です。


良弁杉


昔、近江の国、滋賀の里に、信心深いお百姓の夫婦が住んでいました。
ふたりには、子どもがなかったので、観音さまに
「どうか、子どもをお授けください」と、毎日、朝に晩にお祈りしてましたんや。
すると、ありがたいことに、玉のような男の子が生まれました。
母親は、
「この子は、観音さまからいただいた子だ」と言って、
かたときも離さず、大切に育ててました。
その子が、ふたつになった時、母親は、子どもをくわ畑へ連れて行き、
ふごの中に入れておいて、一生懸命くわの葉を摘んでいましたのや。
そこへ、不意に大きな鷲が飛んで来て、
子どもをつかんで飛び去ってしまいました。
母親は夢中で後を追いかけましたが、
もう、どうする事も出来ませんでした。
鷲は子どもをつかんだまま、近江の国から、
南へ南へと飛んで行ってしもうたんです。
ところで、鷲が、奈良の春日山のふもとの杉の木にとまって、翼を休めていた時のことや。



そこへ、義淵というえらいお坊さんが通りかかると、
子どもの泣き声が聞こえる。
「どこで泣いているのだろう」と、あたりを見渡された。
すると、杉の木の上に男の子がいたので、
驚いた義淵和尚は、子どもを木からおろして助けてやったのです。
その男の子は、義淵和尚に育てられ、教えも受けて、
良弁という名前をもらいました。
後に、東大寺の大仏開眼供養の折には、良弁僧正となったのです。
僧正となってからも、二月堂の下の杉の木を父母と思って、
毎日拝んでおられたそうです。
さて、良弁僧正の母親は、幼な子を鷲にさらわれ、
何としても我が子にめぐり会いたいと、三〇年もの間、
ひたすら諸国をめぐり歩いていましたんや。
ある時、母親は、淀川を下る舟の中で、乗り合いの旅の人が、
「あの東大寺の良弁さまは、幼い時、
春日山のふもとの杉の木のてっぺんから、
助けられたお方なんやてなぁ。」と、話しているのを聞いた。
母親はすぐに奈良に行きましたんや。
そこで、東大寺の杉の木の下で、拝んでいる僧侶の我が子に、
やっと会えたということです。
そこで、誰言うともなく、この杉のことを、
良弁杉と呼ぶようになりましたんや。


奈良の民話を語りつぐ会
なら・語りの講座 II (講師:村上郁) 
再話:藤井 幸子  不許転載