えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

カルミナ・ブラーナ(デヴィッド・ビントレー振付)

2010年05月12日 | コラム
:カルミナ・ブラーナ 5月5日公演

―聴きこまれた振り付け

 音楽の区切りがそのままに肘の角度となって止まった。デヴィッド・ビントレーはたしかに拍を腕のひとふり、足のひとふりで捉えている。「カルミナ・ブラーナ」の冒頭、運命の女神は黒い布で目と胴体を覆ったきりの、裸の足で舞台を踏む。銅鑼が鳴る。静をこめた激しくしなやかな手首と肘のくびれが鋭く空を切り出した。音楽が徐々に運命の女神のやりくちを熱っぽく語りだすリズムに合わせてからだのあらゆる点線が五線譜の上を流れ続けていた。
 中世ヨーロッパの詩人達が書き記した詩を、1937年にカール・オルフが声楽とオーケストラを使い仕上げた物語が「カルミナ・ブラーナ」だ。聞きなれないラテン語の同じフレーズを繰り返すコーラスの合間にソリストの歌詞が埋め込まれ、気を緩めると冒頭と結末の絶唱に頭をがんがん揺らされただけで終ってしまう。その、埋め込まれた歌詞をもからだで丁寧に拾い上げることが、デヴィッド・ビントレーが振り付けに与えた役割のひとつなのかもしれない。歌詞を解し発音を噛み締めて、音をからだに合わせた精読の過程がまじめすぎるほど振り付けに落とし込まれているのだ。
夜の街を舞台に、だんだんと堕落してゆく神学生と彼を魅惑する女性のきわどい衣装、時に使われるギミックまでが、「カルミナ・ブラーナ」にしっかりとはめ込まれているので、与えられる驚きは実はすべて音楽の移り変わりの瞬間なのである。その分、踊り手のわずかな隙が極端な不協和音と違和感になって現れる。一列になって退場して行く女性たちの間隔のずれや、走り出した男性の背に現れる素が、いちいちに目だつのだ。踊りが指揮者のタクトと一体となっているいっぽうで、踊り手から拍がこぼれてゆくのは寂しい。
 それでも、ただ一人で舞台に立つ冒頭と最後の運命の女神が全てをもとの鞘に戻してくれる。人らしい曲線の動きを削ぎつつ、無機質にならない硬質な腕のくねりと、芯となる腰の固め方は完璧。

(798文字)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする