木枯し紋次郎が凶状持ち(指名手配犯)だったかは、彼が笹沢佐保創出の架空の人物である以上どっちでもいいが、渡世人で一所不住(無宿博徒)、いずれ脛に傷持つやくざものであることに変わりはない。60年代、70年代、東映ヤクザ映画全盛期、「仁義なき戦い」シリーズやら県警対組織暴力、あるいは任侠物、暴走族、などアウトロー的なビジュアルはそっちこっちに出没し、折からマカロニウエスタンや残酷な西部劇なども相俟って世は、所謂ドロップアウトした若者の風情をふんだんに醸し出し、カオスめいた価値観の洗い直しがあったのだろうと思い込んでいた。全共闘、学生運動、ウーマンリブ、主体性喪失、ヒッピー、フーテン、....しかし今にしてあれは一時の運動会、レクリエーションだったのだと痛感させられる。かつて転向した中野重治が故郷に帰り、老いた父に「遊びじゃあないじゃろいがして」と言われる、あれだ。中身など何もない。あったのはつまりは一億総中流という温室効果が齎した仇花、もやしのような陰性植物、たちまち枯れ果てるハイブリッドな掛け合わせ(今やハイブリッド全盛だが)が実態である。
中野重治に見る、生身の人間の実相などというものは今更どうでもよい。我々は既に戦後のこの国の在り様から、「何でもあり」の実相をいやというほど見せつけられてきた。今、この安倍晋三政権がさらけだしている「post truth」そのものの居直り強盗ぶりを眺めれば、底まできたなと思わざるを得ない。先ず右翼系保守主義の「非論理性」は我々の脳髄をしびれさせる。この「でたらめ」が通用する以上何を言っても始まらない、つまり言論は死に絶えた。経綸は埒外に葬り去られ、恣意に満ちたごり押しだけが有効になった。安倍晋三の言動に容易に見つかる根本的な「非倫理性」は、彼の「信仰」が彼を導く先に反価値を生み出しても開き直って止まない彼の「不倫」を証明するが、残念ながらそれは同時に国民を玉砕させる事実の出来を招く。「反知性」というが実際は単に「頭が悪い」のである。
安倍晋三政権を生き永らえさせるのは国民にとって自殺行為である。それはナチスヒトラー政権が歴史的に証明したあの暴虐政治のなれの果てを再現することだが、国民はこれに気づかない。自公政権の世論操作性がそのように誘導しているからで、そこにあるのは狂熱よりも質(たち)の悪い国民の「無関心」乃至「やってみなきゃわからない」という無責任な楽観主義以外ではなく、地獄に落ちて初めて目の当たりにする自身の行く末だ。
普天間返還、辺野古移設を巡る沖縄の闘いは、現状メデアマスコミが無情に喧伝する程無力で悲壮な窮地に追い込まれているわけではない。実際、権力側がおのれらの優位性を誇張的に論えば論うほどに彼ら自身の窮状をさらけ出すのである。彼らは未だ、何一つ正当には事を進捗させていない。事実、安倍晋三が仲井真籠絡に条件づけた「5年内運用停止」は決定的に不可能となった。というより最初からこれは「空手形」だったわけで、仲井真県政の失政ぶりを証明する情けないほどに明確な証拠なのだ。こうしたでたらめな国政実態を県民は嘉手納爆音訴訟公判で3度目の確認に当たらねばならない。司法が自国の民を守らない、守れないような国策を正当化する任に就いている。ヤマトゥからの移住者からみると明らかに本末転倒な日米安保体制であり、沖縄県民を理不尽に引きずり回す悪政、悪制というしかない。(つづく)