沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩506 文民の怒り 20 現状 5

2014年03月02日 09時12分49秒 | 政治論

 天皇氏族が半島帰化人を出自とする説はどこから来たか知らないが、説としてはあり、現今、日韓関係のギクシャクが逆説的にさえ思われるのはそういう意味になる。安倍晋三などはそういうことには関心もなかろうが、ことほどさように、日本人にはその冠にいただく神輿の役割を絶えず部外者(天皇と米国)にかこつける傾向にあったことも否定できない事実なのだ。この全体主義者にしてファシストの安倍晋三のやっていることは実に噴飯ものでその形容矛盾は勿論本質的非論理性は児戯に等しい。これを神輿に担いだ自民党の思惑がどこにあるかは一目瞭然ではある。どこか、ドイツ財界他が、ヒトラーの言説を馬鹿にしながらも結局取り込まれるに至った歴史的光景が二重写しになる。

 馬鹿とはさみ、という使い分けが微妙に手元を狂わせたときこの国は危険な破滅への片道切符を手にすることになる。その兆候はそこかしこに如実に現れている。悪法も法、といって毒杯をあおいだソクラテスは、そのままで有力な民衆先導者たりえたのではあるが、国法の前では一個人に過ぎない。「殴るより殴られるほうがまし」という個人の態度は、転向を余儀なくされたかつての共産主義者たちに同義なのだろうか。そうではあるまい。かといって小林多喜二がそうだともいえない。多喜二は死ぬ迄「殴られた」がこれを何にましてベターだというのか。斬り死には大向こうの喝采ぐらいは浴びそうで所詮芝居じみている。死んで花実が咲くものか、も浪花節にしかなるまい。「右の頬打たれれば左も差し出せ」「上着を奪うのなら下着もくれてやれ」という、イエスのやけのやんぱちは成心ある大人に?マークを起こさせる。ユダヤ人のホロコーストに対しガンジーは彼らは殺される前に自殺すべきだった、といった。

 定例県議会では「裏切り者」の県知事が自分の行為は徐々に理解されつつあるんじゃないか、と述べている。彼は百条委員会で堂々と弁明し乗り切ったと勘違いしている。彼に決定的に欠けている道徳性がここでも露呈されている。やめる気もない。じかに県民に信を問うこともしない。彼の中の堂々巡りを県民はどう見ているか。地方教育行政に国が関与しようとしている。徐々に進んでいるのは、米国さえ懸念する安倍晋三の、軍国主義復活のための全体主義でありファシズムだ。この政権が繰出すあらゆる法制化行為がこの国をがんじがらめにし身動き取れない翼賛化現象を見せるだろう。互いに密告者となり隣人を告発し村八分にする。既にイジメは子供らの世界だけではない。ハラスメントは国家単位で琉球沖縄を攻撃している。なんのために?(つづく)